Web版 有鄰

494平成21年1月1日発行

[座談会]—横浜開港150年— 横浜を描いた作家たち

作家・評論家・神奈川近代文学館館長/紀田順一郎
文芸評論家/清原康正

紀田順一郎氏(右)と清原康正氏

紀田順一郎氏(右)と清原康正氏

はじめに

横浜を描いた作品

横浜を描いた作品
神奈川近代文学館蔵

編集部2009年、横浜は開港150年の記念の年を迎えました。開港以前、戸数100戸余りの半農半漁の村であった横浜は、安政6年(1859年)の開港を機に江戸幕府による街づくりが行われ、さまざまな地域から人々が集まってきました。横浜は、新たに移り住んだ多くの人々が中心になり、伝統の重みを持たない土地であるとともに、西洋文化の受け入れの窓口となったことにより、港町特有の気風も生まれたと言われています。

横浜は、文学の面でも独特の存在感を持つこととなります。生まれ育った作家や横浜ゆかりの作家たちが多くの作品を生み出し、あるいは横浜を舞台にした作品も数多く書かれました。

本日は、横浜の歴史と風土を、文学という視点からとらえ、作家や作品についてご紹介をいただき、そこから浮かび上がることなどについて、お話をお聞かせいただきたいと思います。

ご出席いただきました紀田順一郎様は、横浜のお生まれで、作家・評論家として、文学、文化史、書誌学をはじめとして多くのご著書がございます。神奈川近代文学館館長もお務めで、2008年には神奈川文化賞を受賞されました。

清原康正様は、文芸評論家として近現代文学や大衆文学をはじめとして、幅広いジャンルを対象にお仕事をされています。神奈川近代文化館理事もお務めで、横浜についても深い造詣をお持ちです。

開明的で大衆的――二面性をもつ街と文学

清原横浜は、開港以前は戸数約100戸ほどの寒村でした。それが開港によって急激に国際都市になってしまった。

これは江戸幕府の封建社会の町のあり方とは大きく違っている。農村共同体としての歴史はあったのでしょうが、例えば城下町や門前町といった歴史や伝統がないところに、19世紀的、欧米的な街づくりがいきなり始まるわけですから、日本の旧来の町とは違う気風が出てくるのは当たり前です。それが、西洋文明という形で入ってくるものを受け入れる非常に開明的な部分になる。

それから、今度は町の発展を支える労働力として各地から人々が流入してきて、大衆的な、庶民的な町並みができる。この二面性みたいなものの中に、横浜というものが成り立っていくわけです。

すると、そこから生まれてくる文学も当然、開明的な部分と、大衆的、庶民的な部分がおのずからあるのではないかと、私は思っています。

紀田おっしゃるとおりだと思います。群馬県や埼玉県などからの絹や生糸商品のルートが生まれ、港湾労働も必要ということで、チャンスを求めてたくさんの人が入ってきて、人力車夫とか洗濯屋という職業などについていく。

それから、町人の中でも原善三郎のような力のある商人たちが、むしろ外国人との対立の上で自分の個性を強く主張し始め、居留地の風俗や独特な横浜の気風をつくり上げていく。そういう動きがまずあり、文学はどうしても一拍おくれますね。

清原横浜では、文学の前に新聞などのジャーナリズムが出てきますね。

紀田最初に玉蘭斎貞秀[ぎょくらんさいさだひで]の『横浜開港見聞誌』が文久2年(1862年)に出ている。格段に早いという感じです。それから明治6年(1873年)に仮名垣魯文[かながきろぶん]が神奈川県庁に雇員として入り、明治7年には横浜毎日新聞の記者を兼ねることになります。『西洋道中膝栗毛』は、横浜の開化風俗も参考にしています。こうして開化文学というものの一部が生まれる。ただ、表層的な文明開化は横浜のほうが上だったと思うんですが、文士たちとか出版社が既に東京にかなり集中していましたから、本家はやはり東京であったわけです。

江戸時代から続く積み重ねが横浜にはない

海岸通りから見た大桟橋 明治後期

海岸通りから見た大桟橋 明治後期

紀田例えば江戸文化を背景とした東京の永井荷風や森鷗外という人たちの作家活動に比べると、横浜というところは、強烈な個性がないように思うんです。言い過ぎかもしれませんが、「横浜文学」という言い方はないですね。これが物足りないところで、私も横浜の生まれ育ちですから、横浜を背景とする作品、あるいは横浜生まれの作家の小説をたくさん読みました。それなりの感銘はあるんですが、外側の人に向かって「これが横浜文学だ。そして近代文学をリードしたんだ」という感じにならないんです。これはどこから来るのか。150年前に入ってきて横浜をつくった人たちは、横浜の生粋の人たちではないわけです。

清原しかし東京も明治以来、全国各地から横浜以上に人が集まるわけですね。それで、例えば新宿を舞台にした作品が幾つかあります。新宿文学というのがあるのかどうかわかりませんが、それと横浜を舞台にしたものとは違うとお考えですか。

紀田ええ、違うでしょうね。やはり江戸という積み重ねがあったんでしょう。永井荷風が『日和下駄』の中で、江戸という場所はそんなに画然とすばらしい風景や名勝があるわけでもない。でも自分はほかの場所に比べると、とにかく懐かしいということを書いています。横浜にはそれがないんです。

横浜と他の地方を比べるときに、横浜は大都市だけれどもお城がない、という極端な言い方をいつもするんです。余りにも簡単過ぎるんですが「ああ、そうか」とわかってもらえる。そのかわり国際的に開かれた港がある。

これは文学にとっても非常に大きな違いだと思います。現在の新宿を書いているようでも、もっとさかのぼったところに何か突き動かす力みたいなものが、近世にあるような気がするんです。

清原文明開化期の東京には、銀座の煉瓦づくりの建物とか近代化された町並みがある一方で、浅草浅草寺や大川端の情緒は残っていて、そこには江戸情緒が綿々とある。ところが横浜の場合は港を中心に近代的な建物があり、大衆的な町もあるが、歴史がない。19世紀半ばから近代化されていく都市の、光と影という部分を初めから持っていたということはありますね。

幼いときの体験が文学になるのは20年、30年後

紀田横浜ゆかりの文人で一番出生が早いのは明治11年(1878年)生まれの有島武郎ですが、『一房の葡萄』が回想的に書かれるのはそれから30数年後です。この一例だけで言うことはできませんが、文学として開花するには大分時間がかかる。

編集部山手の英和学校に通っていた頃の体験をもとにした作品ですね。東京で生まれ、4歳のころ横浜税関の官舎に移ってきています。

清原幼少年時代の体験が文学になるには、長谷川伸も吉川英治や大佛次郎、有島三兄弟も、20年、30年かかりますね。ただ、そのときの横浜で何を感じたかということは、ほかの地域の作家たちとは明らかに違う。

有島武郎の『一房の葡萄』を読みますと、すごくハイカラな生活ですね。長谷川伸や吉川英治のように、下町で育った人たちとの違いみたいなものはありますね。それが後の文学にかかわってくる。

紀田横浜のイメージとして、異国情緒とか港とか、開放性というものは、有島武郎以降に生まれた文士たちが、横浜のエキゾチックな少年時代の体験を、ノスタルジックに文学作品の中で背景として取り入れて、外の世界の人たちに、横浜ってこういうところなんだという感じで受け入れられていくんだろうと思うんです。

実際は道は泥んこで、ほこりっぽくて、そこを外国人が威張って歩いているんだけれど、開港地特有のそういう部分がシンボリックなものとして育っていくのが、大体明治の中葉から末期にかけてで、小説の中の横浜というのは、それらをノスタルジックな、あるいはエキゾチックな背景として、視覚として利用していく。したがって、横浜生まれの作家たちの何か独特な気質とか、雰囲気というものとちょっと分けて考えたほうがいいかなと思います。

モダンな獅子文六、在野性の長谷川伸

獅子文六 横浜外国人墓地にて 昭和35年頃

獅子文六 横浜外国人墓地にて 昭和35年頃
岩田敦夫氏提供

紀田獅子文六は明治26年(1893年)生まれですが、横浜のモダンな雰囲気、開明性とか、そういうものを感じさせますね。あの人は貿易商の岩田商店の長男でしょう。

いかにもいいうちの息子さんという感じの楽しい作品を書いた。もちろんそこだけにとどまらなかったから、作家的な地位は高いのですけれど、横浜に沈潜するのではなく、もっと普遍化して一般的な作家になった。

清原自伝的なもので、僕が面白かったと思うのは、明治22年生まれの荒畑寒村の『寒村自伝』です。

台屋という、遊廓の仕出し弁当屋さんみたいな実家の店のことや、明治20年から30年ごろの今の中区や南区が生き生きと描かれている。

編集部永楽町の遊廓ですね。

清原横浜の庶民的な町で生まれ育った少年が、日清・日露戦争の時代に『萬朝報』を読み社会主義に目覚めていく。これも光と影の影の部分をつぶさに見てきたからだろうと思います。

長谷川伸 海岸通りにて 明治43年

長谷川伸 海岸通りにて 明治43年
新鷹会提供

そういう体験が、それぞれの作家のベースになって、その後で開花するということですね。吉川英治も、長谷川伸も、それが皆、源泉になっていると思います。

紀田長谷川伸は特に横浜人の持っている一種の在野性や、反抗精神というものがあって、正史からはみ出たような人たちに光を当てる。生涯一貫していますね。これはやはり横浜だからでしょう。

清原長谷川伸は明治17年(1884年)日ノ出町の生まれです。横浜を舞台にした作品は少なくて、『舶来巾着切』など幾つかしかないんですが、彼は土木業の実家が没落して苦労する。横浜ドックで働き、その後、都新聞の記者から作家になる。労働者階級のほうに身を置いていた人で、そこから世の中や人間を見るという視点をずっと貫き通しました。

編集部『ある市井の徒』に書かれていますね。

清原明治25年(1892年)生まれの吉川英治にもそういうところがありますが、もう少し説教くさくなる。

編集部南区中村あたりの生まれですね。

紀田吉川英治も『かんかん虫は唄ふ』を書きながら、何で横浜にもう少しこだわらなかったのかと思いますね。

編集部横浜ドックで「かんかん虫」と呼ばれた船具工をしていた少年時代のことをもとにした作品ですね。

どこにでもいる人を横浜を舞台に描く『季節のない街』

編集部山本周五郎はいかがですか。

清原山本周五郎は小学生のときに横浜に来て、学校を卒業して、銀座の山本周五郎商店という質屋に勤める。昭和21年に戻ってきてからは、ずっと本牧に住みます。

『季節のない街』も、モデルになったといわれるのは横浜の街ですが、必ずしも横浜そのものではなくて、日本のどこにでもある町の、どこにでもいるような日本人たちが凝縮されている。戦後の横浜らしき大都会の片隅にへばりついて、閉ざされた共同体の中でかろうじて存在している住民たちの生態と、意識の差みたいなものが『季節のない街』には明確に出ていますね。

紀田山本周五郎は明治36年(1903年)生まれで、作家活動に入ったときに、それなりに独自の横浜文学を書いています。このような人がもう少したくさん出れば一つの力になったでしょうね。しかし、そこに起きた関東大震災の打撃は壊滅的だった。そしてようやく立ち直ったら今度は戦災、そして接収です。せっかくモダニズムの芽が開きかけたところに、震災と戦争で、根こそぎ持って行かれちゃったのではないか。

大佛次郎――西洋文明の背景まで見通す

大佛次郎 ホテルニューグランドの屋上にて 昭和初期

大佛次郎 ホテルニューグランドの屋上にて 昭和初期
大佛次郎記念館蔵

紀田横浜的な作家というと大佛次郎でしょうね。明治30年(1897年)生まれです。

清原大佛次郎の教養というのは、もちろん開明的なところもありますし、初めは『鞍馬天狗』のような伝奇ものを書いていた人が、最終的には『天皇の世紀』に行き着く。あのインテリジェンスはすごいです。

紀田改めて『霧笛』を読み直してみたんですが、開化のざんぎりものといいますか、クウパーというイギリス人の屋敷に雇われたスリの男が、中華街のボスと大げんかしたり女性を奪い合ったりする。横浜の文学としてはちょっと物足りないですね。昭和22年に出た『幻燈』は横浜の開化期の人心をなかなかよくとらえている。これは横浜の小説と言えるものになっていると思います。

清原一般的には『霧笛』のほうが読まれているようです。主人公の明治の青年が感じていた外国人に対するコンプレックスを、女性を介してとらえている。あの辺の描写は、すごいと思いますね。日本人のそういう感覚は、いまだに変わっていないのかなという感じがします。

紀田ただ『幻燈』のほうがよく調べています。一つだけ挙げると、麦湯という看板を出した店がある。これは曖昧宿的なもので、横浜にしかなかったものらしいんです。

明治10年に『横浜新誌』という横浜のガイドみたいなものが出ているんですが、港とか、外人館とか、いろいろ並ぶ中にいきなり麦湯と出てくるんです。これは遊廓の小さいものです。岡場所です。

大佛次郎はそれを調べて書いているんです。そこを舞台に、流れ者たちが集まっていろいろなことをする。これが横浜だよということを主人公に言わせている。つまり、ノスタルジーだけじゃないんです。今読むと非常にノスタルジックなんだけど、それにとどまらないのが大佛次郎のいいところです。

戦時中にも一貫していた批判精神

紀田『霧笛』が昭和8年ですが、大佛次郎は戦争をはさんで変わったんですね。戦争の影響は大きいんです。単に横浜で生まれたというだけじゃなく、戦争を通過したことが、作家として大きな意味があった。

横浜というところは、国民精神総動員とか、戦時中の国策を早くから反映しているんです。東京よりも一歩早いようなところがある。大佛次郎のような人には、それは困ったことだったんじゃないですかね。『大佛次郎敗戦日記』などを見ると、批判精神がはっきりしています。

清原『ドレフュス事件』は昭和5年の作ですが、批判精神が伝わってきますね。

紀田『ブウランジェ将軍の悲劇』も当時の軍部の批判になっているわけでしょう。昭和11年ですね。外国の軍人を批判して日本と対比させるのは、当時としては最高の抵抗の仕方ですね。やはり教養がないとできない。横浜生まれの作家の中では際立っていると思います。

編集部現在の中区の英町の生まれで、父親は日本郵船に勤めていた。

清原最後の『天皇の世紀』が未完だったのが惜しまれますが、作家としての成長は著しいし、体系的な全集が出てもいいですね。時代小説とかノンフィクションとかに分かれてしまって、印象として損をしているんじゃないかという気がしますね。

エキゾチシズムの背景にあるものが見えていた

清原大佛次郎は、西洋の文明が見通せた人だと思うんです。舶来文化として横浜にいろんな文物や人々が来るわけだけど、それらを見て、普通の人は、珍しいとかエキゾチックだと当然感じるんだけれど、大佛さんは、どうもその背後にあるものが見えていたんじゃないか。

だって『パリ燃ゆ』の資料の集め方はすごいでしょう。劇場のチケットまで全部集める。ああいう目のつけどころは、港が開かれ、そこに西洋人がいる、煉瓦造りの西洋館の前に着飾った女性とフロックコートの男性がいて外国語も飛び交っている。それにただ驚いているという次元ではないですね。彼らがなぜそのときそこにいるのかとか、西洋列強の背景も彼は全部わかっているんでしょうね。

『霧笛』にも『幻燈』にもエキゾチシズムはあります。『霧笛』では、山手の谷戸坂をクウパーと二人で上って行くと、遠く船の霧笛が聞こえてくる。いかにも横浜という感じですが、だけど、クウパーは余り上等な人間じゃないんですね。そういう人間が何で横浜にいるのかということがきちんとわかっている。そこを見通していた人じゃないかなと思います。

紀田そうだと思います。

横浜の作家たちは意外に書斎派が多い

吉川英治と文子夫人 地蔵坂にて 昭和13年ごろ

吉川英治と文子夫人 地蔵坂にて 昭和13年ごろ
吉川英治記念館提供

紀田大佛次郎はフランス文学の蔵書がすごいですね。吉川英治も、長谷川伸も書斎派の作家です。背後にたくさん本を持って書く。割合と勉強型の作家が多いんですね。私は、勉強型の作家は長続きすると思うんですよ。江戸川乱歩がそうでしょう。彼は東京の作家ですが、当時あれだけ本を買って読んだ人はいないですよ。あの蔵書量の幅に匹敵するのは吉川英治ですかね。

横浜の作家は、本はあまり持っていないというイメージがあるでしょうが、かえって何にもないから積み上げるんでしょうかね。一からスタートするという感じがありますね。

外国との対比からアイデンティティを探る

紀田横浜の文学ですぐれたものを残した人は、日本人とは何かとか、外国人とは何かとか、また時代とは何かとか、外国の文化と自分の位置づけを必ず対比させていますね。

私は有島武郎にもそれはあると思うんです。お父さんは大蔵官僚で、横浜税関長になりますが、すごく儒教的な教育を施したそうです。それなのに武郎少年をミッションスクールの英和学院に上げますね。

英語を学んで少しでも実用になるようにというのか、要するに外国人と太刀打ちできるように英語を学べということだった。ところが、少年はその気になれず非常に悩む。

単に感傷的な少年時代の思い出ではないんだろうと思うんです。ほかにもそういう例を、横浜の作家で私は随分読んだ記憶があります。

横浜は国際的に急速に発展しますから、外国人の生活とか、商売のやり方とかを見て非常に違和感がある。それから、あこがれもあります。自らのアイデンティティはどこにあるんだろうということを考えますね。単に外国人は図体が大きくて、いい暮らしをしているからコンプレックスを感じるというわけじゃなくて何かを感じる。その感じる度合いによって文学としての深い、浅いが出てくるんだろうという感じがします。

汐汲坂の場面が印象的な『かめれおん日記』

中島敦画「山手風景」

中島敦画「山手風景」
神奈川近代文学館蔵

紀田中島敦の『かめれおん日記』にも、結構そういうような感じがありますね。

清原女学校の教師のときの、自伝的な短編ですね。

編集部昭和8年から16年まで、山手の横浜高等女学校(現・横浜学園)で教えていますね。

紀田汐汲坂だと思いますが、生徒が落とした蜜柑がコロコロ転がっていく。

清原非常に印象的な場面ですね。

紀田それを国語の先生が追いかけて拾うんですね。その行動力は、中島敦のように本を読んで悩んでしまうような人にはない。その対比で、自分はこういうふうにはなかなかなれないみたいなことを言って、外国人墓地に座ってポケットからルクレティウスの本を取り出す。

ある程度、認識に達するというところで終わっているんですが、これは明らかに外国文化と日本文化、あるいは外国人と日本人の気質の対照になっていると思う。こういうものが横浜で書かれたということに意味があるんですね。ほかの地方に持って行ったらピンとこない。ほかの地方の文学との対比はそういうところにあるんじゃないかという感じがします。

清原中島敦は、横浜の出身ではないですね。葉山嘉樹もそうで、『淫売婦』を大正末期に書いて、プロレタリア文学のはしりになります。彼は船員になるために横浜に来た。そして中華街のあたりの淫売屋のことをもとにして作品を書く。

違う土地から来て、横浜を見て書いた作品もずいぶんあって、そういう人たちのほうが横浜を生き生きと描いているという場合も多いですね。よそからの目というか第三者の目で横浜を見ていくと、地元に住んでいる人にはわからない部分がわかるような感じもありますね。

文学を愛するサロンができなかった

紀田横浜は、そういう人たちの目線に立って見ると、パッとおりたったときに、非常に異質なものを感じたんじゃないかと思うんです。それはその時代が中心になるんですかね。港町から発展してきたというところに、悪い意味ではなく閉ざされた情緒的な空間を愛するという感じもあるんです。現代の作家は、明らかにそういうことを意識して、わざわざ横浜を舞台に選んでいるんです。しかし、港が整備されてからは、港の見える丘公園からの眺めもすっかり情緒が薄れてしまった。小説の背景にだけ取り入れられている感じですね。

編集部接収や経済成長が影響しているのでしょうか。

紀田そうですね。戦後、横浜は駐留軍による接収が長く続いて東京に何歩も遅れてしまったから、本牧の海をつぶし、三溪園の景観を台無しにしてまでも石油コンビナートをつくらなければならなかった。とにかく経済、経済、経済ですよ。そのために何年も失われてしまったんです。

だから文学を愛するサロンができなかった。今はサロンの時代じゃないですが、あの時代はそういうものが必要だったんです。歌人や俳人は出ているんですが、文学の同人雑誌の大きなものがあまりできなかった。文学を形成するコアができなかった。これこそ本当の横浜の影の部分なんですよ。

リアリズムでは書かれなかった占領期の横浜

山手から見た長者町一帯とカマボコ兵舎 昭和21年

山手から見た長者町一帯とカマボコ兵舎 昭和21年
浪江康夫氏蔵

紀田戦後、伊勢佐木町には飛行場があったんですよ。あとは焼け野原で、焼け残ったビルには「オフリミット」と書いてあって、歩いているのは8割ぐらいが駐留軍だったんじゃないかな。

パンケーキの帽子をかぶって昼間から夜の女と歩いているんですよ。映画館では、足を前のイスの背に乗せて、おもしろいセリフがあると彼らのほうが一拍早く笑うんです(笑)。戦後のあの時代の横浜は本当に租界ですよ。

伊勢佐木町の有隣堂も接収されていて、野毛に店がありました。野毛は日本人の町だから外国人は入るなと言ったりして、威勢のいいところだった。闇屋がいっぱいでね。私も中学から高校時代で、一番おもしろい時期だったと思います。

そういうことがうまく開化的に描けていれば、「横浜文学でございます」と言うことができるわけです。

編集部それを書いた人はいないんですか。

紀田文学作品にはないんです。同時代に書く気になれなかったんですね。進駐軍が歩いてくると、日本人の大人がたばこをねだる。卑屈な情景ばかり見せられている。そこをリアリズムで描こうとしてもうまく書けないんじゃないかな。東京でもあまりないですね。後から思い出として書こうとすると残念ながら、もうみんな年取っちゃっているわけですよ。

私は成長期に実際にそれを見て育ってきたわけです。通学路、通勤路が焼け跡なんです。この中から文学ができるのは大変なことです。理屈ではできるはずですが、それを昇華して文学に持っていくには、何かちょっと欠けていたんじゃないですかね。ですから、三島由紀夫の『午後の曳航』のように背景として、シンボリックなものとして港を取り入れるということになってしまうんです。

清原田中英光の『曙町』、石川淳の『黄金伝説』、北林透馬の『レスビアンの娼婦』や『街の国際娘』のような、戦後の横浜の混乱というか、光と影の影の部分を書いた作品はありますね。

60~70年代以降、横浜は以前とは違うものになった

清原60年代には、三島由紀夫の『午後の曳航』や吉行淳之介の『砂の上の植物群』にまた横浜が出てくるんですね。その後が五木寛之です。『海を見ていたジョニー』はベトナム戦争を見据えた形の反戦文学風なものを、横浜の風俗や景観と絡めながら書いていく。いかにも五木文学らしい展開のさせ方です。しかしそれ以降はやはり、港町、情異国緒という線で書かれている作品のほうが圧倒的に多いのかもしれません。

紀田エネルギーの方向がその辺で変わってきたんでしょうね。60年代、70年代以降の横浜は、それ以前の横浜とは、相当違うものになってきたんです。地方都市で横浜ほど完全に経済の基盤が沈下したところはないと思います。私の就職のとき、企業がみんな東京へ逃げちゃって、横浜には職がなかった。

現在の横浜は書き割り的な舞台として

紀田接収が解除されて横浜の経済が復興に向かい、またいろんな人や才能が入ってくる動きが出てくるのは70年代以降です。大いなる空白期があったんですね。「失われた10年」どころじゃない。30年ぐらいになる。

今「私は横浜の作家です。横浜について書きたい」という人は、さほど多くないですよ。私も横浜を舞台にした推理小説を書こうと思ったことがあるんだけど、どうもうまくいかないですね。文化的な多様性というのか、つまり、過去のことを書けばいいんでしょうけど、現代に何か厚みがないと、いくら昔に戻っても限度がありますから。

清原三好徹の『海の沈黙』とか生島治郎の『傷痕の街』とか、あることはあるんです。最近でも、横浜が舞台にならないことはないんだけど、いわゆる書き割り的な舞台であって、きょうの話のような横浜の本質と関わるようなところで出てくるわけではない。

紀田70年代以降の横浜は、一口で言うとテレビドラマの背景という感じですね。

ノスタルジーを感じさせる『ヨコハマのサギ山』

平塚武二 昭和23年ごろ

平塚武二 昭和23年ごろ
撮影:山本静夫
長崎源之助氏蔵

編集部個人的に好きな作品というのはございますか。

清原横浜で生まれ育った平塚武二の『ヨコハマのサギ山』が、僕は大好きなんです。昭和23年の作品ですが、ノスタルジーをすごく感じるんです。

紀田平塚武二は明治37年(1904年)生まれで、その後輩の長崎源之助が大正13年(1924年)生まれです。

彼らが書いた児童文学の中の横浜は、実に鮮やかなイメージです。港と港で働く人たちとか、本来そういうものとは無縁だった庶民が外国人のハウスにお手伝いさんに行ったり、牛乳をもらいに行ったりする。書かねばならない情景が書かれていますね。これが大人向けの作家にはないんです。

清原トコちゃんとか、かわいらしい少年少女がいろいろ出てきます。それが最後のところでは、誰それが戦死したり、クンちゃんと誰かが結婚したり、戦争の空襲で異人館もなくなる。

「横浜は大地震で焼け、ビヤダケの煙突はたおれ、それから、また、こんどの戦争の空襲ですっかりやられて、サギ山の異人やしきも、ふもとの家も、なにもかも、なくなってしまいました。
トンガリヤソの牧師さんも、スコット先生も、もう、おなくなりになったかもしれません。たった30年そこそこのあいだに、なんというかわりようでしょう。横浜は、わたしのふるさとですから、わたしは、かなしくてなりません。かなしくてかなしくてなりません。
だが、しかし、かなしんでもしかたがない。クンちゃんはいなくても、リイちゃんはいなくても、ツウタンもサアボウも、トコもいなくても、元気な、あたらしい横浜の子といっしょに、力をあわせて横浜をりっぱにしましょう。」

そして最後に、「そして、これから、また30年たったら、こんなかなしいおしまいにならないサギ山の話を、もう一度、わたしは書きたいと思います。」という。

30年後というと、昭和53年ですが、書けないですね。今になってもまだ悲しい話になってしまう。読んでいてつらいなぁという気がしますね。

青空しかなかったけれど希望があった

清原彼がこのとき本当に希望を持っていたかどうかは別にしても、希望を持とう、立派な横浜にしようよと訴えかけをしている。60年前です。今、立派になったよと、僕たちが自信を持って言えるかどうか。ちょっと悲観的になっちゃいますね。

紀田『二十四の瞳』の終わりを連想させるところがありますね。『二十四の瞳』も今は書かれないですね。戦後は何もなかった。青空しかなかったと言うけれども、そのときはちょっと右肩上がりだったんですね。それは経済的な成長ばかりじゃなく、社会全体のあり方も考えないといけないんだけど、では、文学がその間、何をしてきたかという問題もあるんでしょうね。

清原ありますね。戦争が終わって日本は負けてGHQに占領されていた。右肩上がりというのは、「これからよくなるぞ」という気持ちでしょう。そのとどのつまりが今はどうなっているのか。それは横浜だけではなくて、日本全体の問題でもあります。

『一房の葡萄』は、横浜だから生まれたシンボリックな作品

有島武郎

有島武郎
神奈川近代文学館提供

編集部紀田先生の心に残る作品はどんなものですか。

紀田有島武郎の『一房の葡萄』は、子供時代から何遍も読んだんですが、非常にすぐれた作品ですね。12色の舶来の絵の具のことが書いてある。その横長の箱も実感がすごくあるんですよ。外国の絵の具のシアン系とか、洋紅、マゼンタ。

清原赤ですね。それから海を描くのには外国のブルーの絵の具のほうがいい色が出るなんて言わせている。

紀田小道具まで当時の子供の感じを計算してつくっていると思う。そういう意味では心に残った作品です。感銘も受けました。横浜でしか生まれないシンボリックな作品だという感じがします。

清原さんも好きだと言われた『ヨコハマのサギ山』の、ビールを運ぶ荷馬車のシャンシャンという鈴の音と、ビンのカチカチという音が、凍った冬に通り過ぎて行く。そういう情景はその場にいなければわからなかったという感じがしますね。

編集部山手にあったビール工場、つまり「ビヤダケ」に行く荷馬車ですね。

紀田臨場感のあるものが好きなんです。それから中島敦の『かめれおん日記』も、先ほども言いましたが、外国人墓地の上に座って、暮れなずむ横浜の港や町を見つめながらポケットから本を取り出すという最後の感じは、とても胸迫るものがありますね。その後彼が胸を病んで、若くして亡くなる運命を知っているからなんでしょうけれど、中島敦を読むと、実際問題として本当に体感的なものがわかるような気がしますね。

ほかにもいろいろありますね。大佛次郎の『幻燈』も、開化の情緒や、居留地と一般の日本人の町を分ける川の、その画然と違う様子が本当にうまく過不足なく書かれているんです。あれは何度も書き直しているんじゃないかなと思いますけど、横浜の人だなという感じがします。獅子文六の『やっさもっさ』も非常におもしろかったですね。

清原獅子文六は、その後に『父の乳』がありますね。あれも横浜が舞台で、『やっさもっさ』は戦後ですね。獅子文六には明治20年、30年のノスタルジーがある。吉川英治の『かんかん虫は唄ふ』や『忘れ残りの記』、郷静子の『れくいえむ』も、自分の子供のころを書いたノスタルジックな作品だと思います。

開港150周年企画は「横浜市歌」を作詞した森鷗外

神奈川近代文学館の「神奈川の風光と文学」展示コーナー

神奈川近代文学館の「神奈川の風光と文学」展示コーナー

編集部神奈川近代文学館は、今年、開館25周年を迎えますね。

紀田横浜開港150周年と近代文学館開館25周年の二つの企画があります。記念企画展の懸案の一つは森鷗外です。

清原鷗外は「横浜市歌」を作詞したんですね。

紀田そうなんです。私たち横浜の小学生は、朝礼のときに必ず歌っていたからよく知っていますけれども、鷗外の研究家とか愛好家は、意外に横浜市歌のことは知らないんですよ。

森鷗外は、市歌と同時にY校(横浜商業高校)の校歌を委嘱されていて、その校歌には「商人我等」というフレーズがある。非常に時代色があっておもしろいと思うんですよ。森鷗外の「横浜市歌」を大きく引き伸ばすといいますか、それが開港150年の企画です。

館の25周年の企画は、江戸川乱歩をやります。ちょうど岩波文庫で江戸川乱歩の短編集が出て、おもしろい評価がいろいろあります。私も前々から言っていたんだけれど、乱歩は純文学を書こうとしていた。

初期の作品は、夏目漱石や芥川龍之介の本を出版していた春陽堂の文学全集に入っていますし、書き方がそうなんです。宇野浩二をまねてね。ですから『黄金仮面』の煽情的なものを書くことにすごく抵抗があったんですよ。蔵書を全部引き継いでいる立教大学の協力も得て、そういう新しい見方で展覧会をやってみようと思っています。新資料も出ます。

江戸川乱歩は神奈川県にも横浜にも直接はあまり関係ないんです。ただ、きょうの話にちょっと格好をつけることになりますけれど、結局、文学は越境するものですから、それを地区的に限ることは無理なことが多いんですよ。それを無理にぎゅうぎゅう押し込めても、つまらないものになっちゃうということだと思うんですね。

独特の高揚感やエネルギーがあった明治の横浜

紀田今回の座談会を機会に、いろいろ考えてみたんですが、本当にすぐれた作品は「横浜」という字がつかなくても、どこでも読まれないといけない。開港したのは横浜ばかりじゃないし、箱館だって新潟だって開港している。ただ、自分が横浜生まれだから言うわけじゃないけれど、やっぱり愛着というか、独特のものを感じます。

開化期の横浜は、外国人に頭を抑えられていたかもしれませんけれども、何か希望があったわけですよ。それが独特の高揚感といいますか、ギラギラしたエネルギーを生み出して、それで明治3、40年に花開いていくという感じがありますね。

編集部それは、不平等条約改正の動きとも合ってくるのでしょうか。

紀田その時代にぴったり合いますね。私もそれは気がつきました。「横浜市歌」も、ちょうどその後を受け継いで市が森鷗外に依頼しているんです。居留地制度の廃止と、その後の関税自主権の回復ですね。不平等条約の改正は本当に大きかったですね。それで日本中が横浜に期待していたんでしょうね。

清原先ほどうかがった、戦後の長い空白があった上で、僕たちがもう一度横浜を見たときに、そこを通り越して開明期の横浜のおもしろさみたいなものに、やはりどうしても引きつけられる。

そこには近代日本の生成のプロセス、明治以降から今までに至る日本の、非常に大げさに言えば、矛盾の原点みたいなものが全部詰まっているわけでしょう。そこのところを書くのがおもしろいだろうと思うんです。

編集部どうもありがとうございました。

紀田順一郎 (きだ じゅんいちろう)

1935年横浜生れ。
著書『昭和シネマ館』 小学館 1,800円+税、『飛ぶ読書室』 みくに出版 1,600円+税、ほか。

清原康正 (きよはら やすまさ)

1945年旧満州生れ。
著書『山本周五郎のことば』 新潮新書 680円+税、『歴史小説の人生ノート』 青蛙房 1,900円+税、他。

※「有鄰」494号本紙では1~3ページに掲載されています。

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