Web版 有鄰

493平成20年12月10日発行

相模原から宇宙に挑む – 特集2

的川泰宣

日本のロケット

宇宙科学研究所相模原キャンパス内に展示されているM-3SIIロケット(左)とM-Vロケット(右)の実物大模型

宇宙科学研究所相模原キャンパス内に展示されている
M-3SIIロケット(左)とM-Vロケット(右)の実物大模型

東京の目黒区にあった宇宙科学研究所(宇宙研)が「狸の出そうな」相模原市に移転してきたのは1989年のことでした。ところがそのキャンパスに本当に狸が出たのです。後でそれはジャコウネコ科の白鼻心[ハクビシン]と判明しました。ここは広大な米軍「キャンプ淵野辺」の通信基地があったところで、緑にあふれた素晴らしい環境です。

移転に先立って1980年代の初めあたりから、敷地内にテスト設備が建ち始めていました。数年後に迫ったハレー彗星探査のためのロケットや探査機のテストも開始されました。1985年1月、新世代M-3SIIロケットの1号機が、固体燃料ロケットとしては世界で初めて地球の重力の外へ探査機を運びました。ハレー探査試験機「さきがけ」です。つづいて、同年8月、本格的なハレー探査機「すいせい」も後を追って地球重力を脱出しました。ハレー彗星は、76年おきに太陽や地球の近くに回帰してきます。このたびの探査は、1910年以来の回帰に合わせて、ヨーロッパ、旧ソ連、アメリカと並んで日本の宇宙が国際舞台に登場した記念すべき取組みになりました。

太平洋戦争に負けた日本がサンフランシスコ体制で再び独立した後、東京大学の糸川英夫は、1953年にロケット開発を日本中に呼びかけました。東京大学生産技術研究所の若い研究者たちとメーカーがその呼びかけに応じました。そして1955年、ペンシルロケットという長さ23センチの小さなロケットが東京都下の国分寺で水平に試射されて、日本の宇宙への挑戦の幕が切って落とされたのです。

日本のロケットは、ペンシル以降、ベビー、カッパ、ラムダと大型化していき、1970年には日本で最初の人工衛星「おおすみ」が、L-4S-5ロケットによって鹿児島県内之浦の発射場から打ち上げられて地球周回軌道に乗り、日本はソ連・アメリカ・フランスに次ぐ世界で4番目の衛星自力打上げ国になったのでした。

以来、宇宙の謎に挑む科学衛星のほとんどが、内之浦からミュー(M)ロケットによって宇宙へ運ばれました。その数は30機にのぼっています。打上げロケットのミュー・シリーズも進化していき、1997年からは、世界最大の固体燃料ロケットM-Vの登場となりました。そのM-Vの開発はすべて相模原の宇宙研が司令塔になって進められたものです。

この緑あふれる敷地で、宇宙を豪快に目指すロケットが開発されたことは、考えてみると懐かしい思い出です。そのM-Vも時代の波には勝てず、2006年に赤外線天文衛星「あかり」を打ち上げた7号機を最後に引退しました。現在、相模原のキャンパスは一般の人たちも見学することができます。正門を入って少し歩くと、大活躍したM-3SIIロケット(全長28メートル)とM-Vロケット(31メートル)の巨大な実物大模型が、道行く人を圧倒するように展示してあります。「兵[つわもの]どもが夢のあと」と呼びかけながら。

宇宙の謎への挑戦

ロケットや衛星を設計し作る人々は、「匠の心」の権化のような人たちです。これに対して衛星を使って宇宙の謎に挑戦する人々は、旺盛な「好奇心」を信条にする人々です。私たちが日頃耳にする宇宙の話題には、実にさまざまなものがあります。

地球を包む大気、壮大で華麗なオーロラ、地球を包み守っている磁場、母なる太陽、月・火星・金星などの太陽系の仲間たち、星の誕生から死までのストーリー、星の集まりである銀河の生成と進化—ブラックホール、超新星、クウェーサー、ダークマターなど、宇宙の仕事をしていない人たちの好奇心をそそるような話題が無数にあります。

かつて日本の得意技はX線天文学だけでしたが、30個もの衛星を軌道に送った今では、赤外線、電波、プラズマなどを含むあらゆる手段を使った観測が進展し、上記のようなさまざまな分野で、日本は世界のトップグループを走り続けているのです。

みなさん、相模原のキャンパスを一度訪ねてください。横浜線の淵野辺駅から歩いて15分、しゃれた正門から入ると、キャンパスは緑したたる雰囲気で、7ヘクタールに及びます。宇宙を仕事とすることを選んだ老若男女が歩いており、彼らの頭の中は、ロケットや観測機器やデータ解析や月や金星や水星のことなどが渦巻いているでしょう。そんな顔を見物するのも一興ですよ。

衛星1機を開発するには、約10年の歳月が必要です。大抵の人がいくつかの衛星に同時に並行して関わっています。しかしあるプロジェクトの中心メンバーとして関係するとなると、兼務をすることが難しくなりますから、一人の人が本格的に取り組むことのできる衛星は、一生のうちで多くても3機ほどということになります。

現在、世界の衛星打上げ用ロケットは、優秀なものでも20機に1機は打上げに失敗します。10年もかけて準備した衛星が、何も働かないうちに打上げ段階で海の藻屑と消えたときの衛星関係者のショックは、はかり知れないものがありますね。だからロケットの打上げに従事する人たちは、1回1回懸命の作業をつづけます。そうした必死の協働の中から、大勢の人々の和が出来上がっていき、「宇宙への同志」の友情が育まれていくわけです。

宇宙という視座からのメッセージ

スペースシャトルの飛行士が地表約400㎞上空から見た地球

スペースシャトルの飛行士が地表約400㎞上空から見た地球

私の自宅の机の前の壁に、3枚の写真が貼ってあります。一番上は、地表約400キロの上空からスペースシャトルの飛行士が見た地球。青く美しく輝いています。真ん中の写真は、はるか38万キロの彼方からアポロ8号の飛行士が撮った、月面の上に浮かぶ地球。2000年に実施された「20世紀の天体写真ベストショット」のインターネット投票でトップになった写真です。一番下の写真は、はるか海王星の向こうからボイジャーが捉えた地球。孤独に、しかしわずかに青い光芒を放っています。

月の地平線から昇る地球

月の地平線から昇る地球
©JAXA/NHK

いのち――もう10年以上もこの3枚の写真を並べて眺め続けてきた私の心をコツコツと叩く言葉です。どの写真を見ても、私の胸に、この故郷の星に生きるさまざまな「いのち」へのいとおしさがこみ上げてきます。私は30年近く、宇宙活動の現場を起点にして日本各地を巡り、多くの子どもたちと出会ってきました。しみじみ実感するのは、子どもたちが生身の自然や生き物が大好きだということです。中でも、「宇宙についての話題が子どもたちの心を生き生きとさせること」にはいつも驚かされます。多くの事柄が謎に満ちている宇宙についての話は、彼らの好奇心や想像力をかきたて、宇宙への人類の果敢な挑戦の歴史が彼らの冒険心を刺激します。

一方、新聞を開けば青少年に関係した悲惨な事件が頻繁に報じられています。それは日本だけでなく、世界のあらゆる国にまたがって「いのちの尊厳」が重大な脅威にさらされていることが毎日の報道で明らかにされています。日本でも外国でも、子どもたちの「理科離れ」「知識離れ」「社会離れ」という声が聞こえてきます。そんな子どもたちの状況に、一石を投じるカギが、彼らの心に潜む自然や生命や宇宙への素朴な好奇心であることに、私は「三つの地球」を眺めながら確信を持つに至りました。

20世紀、人類は、宇宙が100億年以上前に誕生したことをつきとめ、やがて銀河や星が誕生し、地球上の原始的な生命、そして気の遠くなるような過程を経て、私たちの「いのち」までたどり着いた進化の道筋を、一応筋の通ったシナリオにまとめあげることに成功しました。子どもたちが素朴な愛情を持つ一つ一つの身のまわりの「いのち」が生まれるまでに綿々と連なる「いのち」のリレーがあったという事実、そしてその「いのち」がもともとは宇宙の銀河や星のかけらだったのだという事実を聞かされるとき、子どもたちの心には実にさまざまな感慨が去来します。

宇宙という新しい視点で大好きな自然や生命を見ることから、自然の不思議さを感じ、さらに科学の謎解きの素晴らしさの一部に触れた子どもたちは、自ら周辺の事物や事柄に一層生き生きと接しようとします。そして自らの体験の中から、「いのちの尊さ」と「生きる意味」を学ぶようになっていきます。この最初のきっかけ作りのチャンスを私たち大人が大規模に整えてあげなければいけないと考えます。

日本の人々はその昔から、豊かな森と川と海とともに生きながら、自然のあらゆるものに「いのち」を感じるという感性を育んできました。地球の環境がかつてない危機にある今こそ、このような日本の人々の感性を世界に発信するときです。日本の子どもたちが「故郷の星」と「いのち」への限りない愛情を育み、世界の人々のために惜しみない力を発揮するための準備を開始することが、彼らの人生を輝かせ、日本の豊かな未来を築く最大の保証であることを宇宙教育(宇宙を軸にした教育)の実践を通して証明していきたいと考えています。

今では相模原の宇宙研は独立行政法人宇宙航空研究開発機構(JAXA)に属しています。そのJAXAに2005年5月、社会貢献を果たす人づくりの仕事をする「宇宙教育センター」が設立され、相模原キャンパスに拠点を置いています。その宇宙教育センターと緊密な連携をとりながら子どもの未来のために献身するためのNPO「子ども・宇宙・未来の会」(KU-MA愛称クーマ)も6月に設立しました。以下のホームページ(http://www.ku-ma.or.jp)をご参照の上、皆さんも宇宙教育の担い手の一人として、この国の歴史に素晴らしい一歩を残しませんか。これが私の心からのメッセージです。

的川泰宣氏
的川泰宣 (まとがわ やすのり)

1942年広島県生れ。宇宙航空研究開発機構(JAXA)技術参与・名誉教授、子ども・宇宙・未来の会(KU-MA)会長。
著書『人類の星の時間を見つめて』 共立出版 2,300円+税、ほか。

※「有鄰」493号本紙では4ページに掲載されています。

 

横浜開港150年・有隣堂創業100年
横浜を築いた建築家たち(6)

遠藤於菟[えんどうおと](1866-1943)
――横浜から世界の建築の先端にかかわる

吉田鋼市

建築当初の三井物産横浜支店

建築当初の三井物産横浜支店
『神奈川県建築史図説』から
日本建築学会蔵

遠藤於菟は、日本で最初期に民間の建築設計事務所を開いて活動した建築家の一人であり、横浜に建築事務所を開いた最初期の日本人建築家の一人でもある。帝国大学の出身には珍しく、生涯フリーの立場を貫いた。もっとも、短い期間ではあるが神奈川県技師などを務めたこともあり、横浜との最初の関わりも神奈川県監獄署(明治32年)である。前回とりあげた妻木頼黄[つまきよりなか]設計の横浜正金銀行本店の施工監督にも腕をふるった。しかし、彼の最も大きな功績は横浜を舞台に世界と並ぶ新しい建築の試みを活発に展開したことにある。それが、彼が横浜に事務所を開いていた明治38年から大正2年までのわずか8年間のことなのである。

そもそも、次代の新しい建築をつくろうとする動きは西洋ではすでに1900年ころに現れるが、日本ではようやく1920年ごろ(大正半ば)とされる。明治期の日本の建築家たちは、おおむね過去の西洋を学ぶのに一生懸命で、同時代の新しい動きを知る余裕がなかったということであろう。しかし、その中にも世界の動きに応ずる鋭い試みがいくつかあった。その希少な役割を果たしたのが遠藤であり、彼は鉄筋コンクリート造という新しい材料をいち早く試みるとともに、ゼツェッションやアール・ヌーボーといった最新の造形的傾向を大胆に取り込んだ。

鉄筋コンクリート造の記念碑である三井物産横浜支店・倉庫(倉庫が明治43年、支店は翌年完成で、昭和2年に同じ形で増築)、先鋭的造形の横浜銀行集会所(明治38年)と高島屋飯田横浜貿易店(明治40年)など、日本の建築史上に欠かせない重要な作品があげられる。この間に、彼は20ほどの仕事をしているが、遠藤と横浜のこの8年間の蜜月は奇跡の坩堝[るつぼ]だったともいえる。

大正2年東京に移った後も横浜との関わりは続き、横浜生糸検査所(大正15年)の大建築群などを生み出すことになる。これは、彼の生涯の大作のみならず震災復興期の横浜を代表する作品でもある。もちろん、彼は東京日日新聞(いまの毎日新聞)など横浜以外にも仕事をしているが、結局、横浜にしか現存の建物はない。三井物産横浜支店・倉庫と、いま再開発が進みつつある北仲地区に残された旧横浜生糸検査所の倉庫一棟と倉庫事務所である。なお、横浜都市発展記念館には、遠藤家から寄贈された建築資料がある。

吉田鋼市 (よしだ こういち)

横浜国立大学大学院教授。

※「有鄰」493号本紙では4ページに掲載されています。

『書名』や表紙画像は、日本出版販売 ( 株 ) の運営する「Honya Club.com」にリンクしております。
「Honya Club 有隣堂」での会員登録等につきましては、当社ではなく日本出版販売 ( 株 ) が管理しております。
ご利用の際は、Honya Club.com の【利用規約】や【ご利用ガイド】( ともに外部リンク・新しいウインドウで表示 ) を必ずご一読ください。
  • ※ 無断転用を禁じます。
  • ※ 画像の無断転用を禁じます。 画像の著作権は所蔵者・提供者あるいは撮影者にあります。
ページの先頭に戻る

Copyright © Yurindo All rights reserved.