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492平成20年11月10日発行

[座談会]戦国大名 北条氏 —領国の支配と外交—

横浜国立大学名誉教授/有光友學
小田原市教育委員会・尊徳記念館担当主査/山口 博
神奈川県立歴史博物館専門学芸員/鳥居和郎

左から、山口 博・有光友學・鳥居和郎の各氏

左から、山口 博・有光友學・鳥居和郎の各氏

はじめに

北条早雲

北条早雲
神奈川県立歴史博物館蔵

編集部戦国大名北条氏は、北条早雲(伊勢宗瑞[そうずい])を祖として、五代100年にわたって小田原を拠点に関東を支配しました。二代氏綱との代替わりのときに、初めて「虎の印判」が用いられ、三代氏康は、武蔵北部まで領国を拡大し、北条家を関東最大の戦国大名に成長させました。

しかし、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の大軍の前に破れ、関東における北条氏の支配に終止符が打たれました。

本日は、東国の政治情勢や、北条氏が領国を拡大していく過程で取り入れた先進的な制度、また、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康との関係、あるいは小田原落城後の家臣たちの動向などについてお話しいただきたいと存じます。

ご出席いただきました有光友學様は、横浜国立大学名誉教授で、日本封建制史を研究され、戦国大名今川氏について詳しくていらっしゃいます。

山口博様は、小田原市史編さん事務局を務められ、『小田原市史』通史編の戦国時代の項を分担して執筆されました。現在は、小田原市尊徳記念館に勤務されております。

鳥居和郎様は神奈川県立歴史博物館専門学芸員で、日本中世史がご専門です。同館で開催中の特別展「戦国大名北条氏とその文書」を担当されております。

今川氏との関わりで早雲が伊豆・相模へ進出

編集部初代北条早雲(伊勢宗瑞)の出自については、近年さまざまな研究が進み、明らかになってきましたね。

有光北条早雲については、かなり以前から多くの人たちが素性や年齢を研究されて、現在では備中国(岡山県)の伊勢盛定の次男の新九郎盛時[もりとき]という人物であっただろうというのが、大体定説になっています。

亡くなったのは永正16年(1519年)で、従来は88歳と言われていましたが、最近では64歳ではないかと北条氏を研究している黒田基樹氏が言われて、私もその辺が妥当だと思います。

伊勢盛定というのは、室町幕府の政所執事の伊勢氏、将軍足利義正に重用された伊勢貞親の一族で、盛定・盛時父子もやはり幕府と非常に密接な関係があっただろうと考えられています。盛時が東国に進出していく中で大きく関係したのが今川氏で、今川竜王丸(氏親)の父親である義忠は駿河の守護大名でした。義忠の正室であった北川殿は盛時の姉であると考えられていて、そういう関係で駿河に盛時が下向してきたり、あるいは幕府と今川氏の中を取り持ったりという形で東国で活動するようになったわけです。

伊豆国を平定し、韮山城を拠点に勢力を広げる

有光最初は今川氏のもとで、駿河の国の石脇城(焼津市)で今川氏の一武将として活動していた。義忠が急死した時、後継ぎの竜王丸はまだ元服以前で、今川氏一族の小鹿氏との間で家督相続争いが起こります。そのとき、盛時(早雲)が竜王丸を支えて家督を継ぐことに成功するんです。その結果、盛時はさらに今川氏から駿河国の東部、沼津の近郊にあった興国寺城、あるいは富士郡の善得寺城のいずれかに城を与えられ、富士郡の南部の下方庄(現富士市)に所領をもらい、徐々に活動の基盤ができます。その後、明応2年(1493年)には、駿河の東部を足がかりに今川氏の家臣などの助けをかりて伊豆国に攻め入る。

当時、伊豆国には鎌倉公方の流れである堀越[ほりごえ]公方・足利氏がいて、現在の韮山の北条という近くに御所を持っていた。そこを襲って伊豆国を平定することで、戦国大名として一人立ちをしていく。そういう形で早雲は登場します。

鳥居その後、韮山城を拠点として、相模へ勢力を広げていきます。

二代氏綱は「北条」に改姓し、虎の印判状を発給

鳥居二代氏綱の時代になると、鶴岡八幡宮をはじめ、箱根権現、早雲寺など、相模各地の寺社の造営、また伊勢から北条に改姓するとともに、早雲から氏綱への代がわりにともないつくり出された印判状制度を確立していきます。

印判状というのは、文書の署名に自筆や花押[かおう]を用いずに、印判を押して、発給されるものです。

一昨年、有光先生が『戦国期印章・印判状の研究』を編集・出版されて、諸国の戦国期の印判の状況がかなりわかってきましたが、早雲が氏綱との代替わりの段階で使用を始めた虎の印判と、武家による印判使用の初例とされる今川竜王丸(氏親)の印判では、性格がかなり違うと思うのですが、2つの印判の間に何か関連はあるのでしょうか。

有光氏親が使っていた印章・印判、氏親の子の義元が使っていた義元印などは私印だと思うんです。氏親の正室の寿桂尼もそうですね。

それに対して北条氏綱が使い始めた虎の印判は家印、あるいは公印ということで、その違いは明らかだと思うんです。

今川氏も、義元の代になって天文14年(1545年)に「如律令[にょりつりょう]」印を使いますが、これは義元だけでなく、その後を継いだ氏真も同じ印文の「如律令」を使っており、今川氏の家印と考えています。

それから武田氏では、今川氏より少し早く「竜朱印」を使う。これは信玄から子の勝頼に引き継いで、刻み直してはいるかもしれませんが、同じ形のものを使っています。これは武田氏の家印です。

まず私印と家印という違いがあり、氏親が使い始めたのは長享元年(1487年)、虎の印判が出るのは永正15年(1518年)で、30年ぐらいたっていますから、今川竜王丸が使い始めたものを引き継いだのが北条の虎の印判であるというように、直接的につなげるのは難しい。逆に北条がどういうことから虎の印判を使うようになったのかという背景は、考える必要があると思うんです。

竜王丸の印判は元服前の花押の代わりか

有光今川氏がなぜ印章を使った印判状を発給するようになったのか、はっきりこうであるからとはなかなか言いがたいですが、まず、中世では禅宗の僧侶が掛け軸などに落款という形で印を使っています。それから守護や武将なども、蔵書印などを使っていた例がごくわずかですがあるわけです。

もう一つはっきりしてきたのは、伝馬の印は幕府関係でかなり早くから使われていたようです。そういう流れのなかで、竜王丸も文書を発給する段階で、元服以前でまだ花押を書く立場ではないので、かわりに印を使ったのではないか。いろいろな背景があったと思うんですが、決め手はないですね。

編集部氏親の印判は数は少ないのですね。

鳥居少ないですね。現在残っているのは3点です。

行政的な文書に印判を使用

北条早雲の花押

北条早雲の花押

鳥居東国の主な戦国大名には今川・武田・北条、北には上杉がいますが、戦国大名と言っても、下克上の時代を反映しているような戦国大名は実はいなくて、守護大名が戦国大名化しているケースが非常に多いんです。北条早雲も武家貴族の出ですね。

そういう中で北条は、文化的なことでも今川からかなり影響を受けているようで、今川経由で北条に入ってきているものが非常に多い。北条を研究するときには今川との関係をかなり考えなければいけないと思います。印判状制度も、北条がいきなり考えついたのではなく、何らかのヒントがあったのではないかと思います。早雲が使用した印判として箱根領注文に押してある「纓」の判がありますよね。

有光早雲の使用印はあれ1点ですね。

山口永正16年(1519年)のものです。早雲の印判使用を示す唯一の事例で、裏継目印として使われていますが、恐らく用途的には私印として押されていたと考えて間違いないと思います。有光先生が言われたように、氏親の印判状に近い形で早雲も印判を使っていたということでしょう。

有光早雲の没年ですね。

山口日下には花押を据えています。ここだけ花押を使ったのはどういう事情かわかりません。記載の内容が譲状[ゆずりじょう]なので、印判というわけにはいかなかったんだろうと思います。

編集部花押と印判で、文書の性質が違うのですか。

有光花押で書かれた文書は判物[はんもつ]といって、当主の人格を直接あらわし、主従制を維持、強化する宛行状[あてがいじょう]とか安堵状、寄進状、そういう文書により多く使われている。印判状は、一般の郷村[ごうそん]とか、あるいは法令に使われている度合いが高いんです。

鳥居ごく大ざっぱに言うと、行政的な文書には印判を使っている。花押を据えるのは、自分の個性というか、人格的な部分を相手に伝える意図が強いものです。

当主だけでなく一族・家臣も印判を使用

編集部戦国大名の中で、北条氏の印判使用にはどんな特徴があったのでしょうか。

山口一族・家臣の中で使っている人が極めて多い。これらを並べれば非常に多彩で、それを平面的に見ると種類が多いということになります。ただ、当主が使った印判は意外に少なくて、虎の印と伝馬の印、それに、「調」「通過」くらいですね。

鳥居「通過」は1点しか残っていないので、本当に公印として使用されたていものか判断はしがたい面もあるかと思います。

有光当主では、三代氏康は「武榮」、四代氏政は「有效」を使っています。隠居したときに虎の印判の代用として、隠居した当主が使うという性格ですね。あと、比較的数多く残っている、氏康の三男で八王子城の氏照、鉢形城の氏邦、韮山城の氏規らや、氏光、氏房など一族は、それぞれ支城と領を預けられた存在ですね。その範囲内で使うということですか。

山口基本的にはそうだと思います。最近、北条氏の領域研究が随分進みまして、北条領国と言っても、地域によって多様な支配が行われていたことがわかってきました。そういう状況の中で、城代とか支城主、あるいは支城領主といったクラスの人たちが、預けられた領域の支配、また自分の直属の配下の統制等に使った印判がかなり多く残っている。

一族に限らず、津久井城主の内藤氏とか、河越城代の大道寺氏など主要な家臣たちも印判を使っています。

今川氏は1人の当主が数種類の印を使う

有光その点、今川氏の場合はちょっと違います。氏親も最初黒印で、これは印文がはっきりしない。恐らく文字を刻んだのではないだろうと考えられます。その後それを朱印として使い、さらにその後「氏親」という自分の名前を刻んだものを使い、晩年には自分の法号である「紹貴」を使っているんです。それぞれ残っている数は少ないですが、4種類ですね。

それから寿桂尼は「帰」という字の1種類しか使っておりません。その後の義元は、最初は、出家時代の僧名「承芳」という文字を刻んだ黒印、その後「義元」という方形の印、それから「如律令」印、さらにその後、矩形の「義元」印、最後は八角形の「調」という印を使う。合わせて5種類を使っているんです。

その後の氏真は、最初「氏真」と刻んだ印を使い、その後、「如律令」の印で、義元が使ったのは丸い形ですが、氏真は正方形で、かなり大振りの印を使う。氏真の印判状は「如律令」印が圧倒的に多く、最初に使った「氏真」は数点しか残っていないんです。それから今川氏が滅んだ後、北条氏のもとでだと思いますが、印文不詳の長方形の印を使っています。1人の当主が幾種類もの印を使っている点が、北条氏とは違いますね。

山口印判の使い分けについては、何かわかりますか。

有光印判状を見比べながら調べたんですが、明確には出てこないです。この印章は何に使ったかは、はっきりはわからないですね。

獣の姿を印に刻むのは今川にはない手法

虎の印判状

虎の印判状
関山文書

有光北条氏の印の大きな特徴は、虎を刻んでいることです。武田氏の場合は竜や獅子、上杉氏の場合も獅子や鳥を使っていますが、いわゆる獣類を一緒に刻むのは今川氏にはない手法です。これは相手に対する畏怖の念を起こさせる意味があったのですか。

鳥居北条の虎は、武を誇るという意味ではなくて、禅僧の画家、黙庵の「四睡図[しすいず]」に豊干[ぶかん]禅師と寒山・拾得が虎に寄り添って眠っている場面が描かれていますが、これは禅の境地を示すものとされています。「禄寿応穏」という印文は、豊かな平穏な世の中であるようにとの意を込めていると思います。つまりこの印判は虎の持つ獰猛なイメージとは離れたもので、他の戦国大名の印判と比較する際、虎の部分だけに注目してしまい、それに対抗して竜を使ったなどと違った方向で解釈されるきらいがありますが、修正の必要があると思います。

印判状制度を確立した北条氏でしたが、書状や感状には花押を据えている。印判状制度を確立しながら、自ら枠をつくっているんですね。印判で感状を出しても問題はないと思うんですが、そうしないんです。

有光これは古く中世史家の佐藤進一さんが言われたのですが、中世権力は主従制的支配と、統治権的支配で進められてきた。主従制的支配というのはいわゆる領主制とも言われ、家中支配、家臣団支配という私的な関係、それに対して統治権的支配は、一般民衆をも包み込んだ社会的、あるいは行政的な支配です。

中世を通じて、領主制的なものから、次第に統治的な支配が強められてきて、その行き着く先がいわゆる「国」と「家」の「国家」という言葉だろうと思うんです。その辺で印と花押の使い分けも結びつくんじゃないかという気がします。

山口山室京子さんが、北条氏も早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直と、代が進むにつれて官僚化が進み、権力が成熟していく、その過程で、今まで花押を据えていた文書にも印判が押される事例がだんだん増えてくる、と言われています。しかし、感状はさすがにないだろうと思っていました。ところがたまたま、非常に珍しいと思うんですが、感状に虎の印判が押された例が1点あったんです。たしか天正9年(1581年)、武田と北条が駿河方面で抗争している時期のものでした。

その9年後に北条氏は滅んでしまうので、以後の展開については、見極めにくい面があるんですけど、総体的には印判がどんどん使用範囲を拡大させていくという方向性はあったという気がしますね。

信長の登場で中央との外交が本格化

編集部北条氏と中央の外交はどういったものだったのですか。

山口もともと北条早雲は、将軍足利義尚の申次衆[もうしつぎしゅう]だったということが、ほぼ明らかになって、中央政府の意向との兼ね合いのなかで駿河に下り、伊豆に入ったと言われています。早雲は将軍義尚のほか管領細川政元、あるいは義尚の父親である前将軍の義政といった人物たちと、恐らく緊密な関係があっただろうと思います。

早雲の供養のための無遮会[むしゃえ]に際し、芳琳乾幢が読んだ祭文に「出入相府、東山優游」という記載があります。「出入相府」というのは早雲が幕府に仕えたということを述べたものです。「東山優游」は、東山建仁寺で禅の修行をしたことを指していると言われていますが、恐らくこれは義政の東山山荘、今の銀閣寺に出入りしていたという意味ではないかという気がするんです。

そういう密着した関係を持ったまま関東に来る。早雲が今川を助ける、あるいは伊豆に入るという状況の中で、幕府とのつながりはかなり保持していたと見てよいし、連絡もあったと思いますが、残念ながらその辺の史料は断片的にしかない状況で、具体的なことはなかなかはっきりしない。

北条氏康

北条氏康
早雲寺蔵

その後の氏綱、氏康の初めころになると、幕府はかなり衰えているわけで、もはや軍事的な動きを伴うような外交は見られない。文化的な面で近衛ら公家とのつき合いはあるんでしょうが。

ところが中央に、非常に大きな力を持った織田信長が入って来て、最終的に幕府を滅ぼしてしまうわけですから、このころから北条氏は、改めて中央の権力を重視せざるを得ない状況になってくる。

早雲以降、本格的な中央との外交が再開されるのがこの時期だと思うんです。当時、武田がかなり強い力を持っていて、信長と激しく対立しているという状況だった。

特に天正6~8年ごろは、武田信玄の子の勝頼が北条領の上野(群馬県)や伊豆方面にかなり激しく侵入してくるという状況でした。北条としては、まず徳川家康と同盟を結び、家康と同盟を結んでいた信長とさらに手を結ぶ。対武田戦略の中で信長との直接的なつながりができてくるんだと思います。

その結果、天正10年(1582年)、最終的には武田は信長によって結構あっさりと負けてしまうわけです。ただ信長も、武田を滅ぼした直後、本能寺の変で急死してしまう。すると、北条氏は家康と一時対立しますけれども、ひとまず家康と国分けをして盟約を結ぶ段階で、一つの区切りがつきます。その後は、家康と、中央で力をつけてくる豊臣秀吉との交渉が、北条氏の主な外交になると思います。それが最終的には小田原合戦につながってゆくわけです。

氏康の時代、朝廷との外交を怠る

鳥居朝廷との外交も重要だと思います。初期の段階では、早雲が幕府出身ということもあって、細川政元とか、自分の本家の伊勢家との関係もあり、それらを介して行うことができたと思うんです。氏綱の場合も近衛家を介して朝廷との外交が行われ、北条への改姓や左京大夫への任官が行われ、また、鶴岡八幡宮の造営では、京や奈良からの職人の派遣については近衛がかなり援助しています。しかし氏康の時代になると、武田とか、上杉との軍事的関係が忙しくなって、朝廷との外交を少し怠ったようなところがあると思うんです。

近衛家の史料を保存する陽明文庫に、氏康宛の近衛稙家[たねいえ]の書状案がありまして、氏康の書状の返事なのですが、北条側からの連絡が長い期間途絶えていたことが感じられます。多分、関東での合戦が忙しくなっていたんでしょう。その結果、氏綱の時代には緊密な関係にあった近衛家は氏康の時代になると、稙家の子の前久[さきひさ]は上杉謙信を支援、さらに北条は朝敵の扱いを受けることになってしまう。それは朝廷外交を怠ってきたからではないかなと思います。

氏政の時代は甲冑師が使者をつとめる

鳥居外交には使者が必要ですね。例えば上杉氏などは、京都に家臣が常駐する体制があるんですが、北条にはそういう人物が見えないんです。

氏綱の時代には宇野藤五郎、京都の外郎[ういろう]被官ですが、このような人が北条と近衛の間を往復していますが、きちんとした体制を確保していないという印象があるんです。

織田・豊臣の時代になると、左近士[さこんじ]という人物、氏政は商人といっていますが、実は、甲冑師が使者をつとめています。

有光小田原の「所領役帳」に職人として出てきますね。

鳥居御馬廻衆に出てきます。御馬廻衆は親衛隊として認識されますが、実は、いろんな職能を持った人間が入っているんです。当主の食事をつくる人、衣服や、左近士のように甲冑の面倒を見る人などですね。そのほか、別の系譜だと思うんですが、御具足方にも左近士姓の人物がいます。

左近士は、奈良を本拠とする甲冑づくりの家として有名で、一族の者は各地の大名家に仕えています。

そういったことで、北条氏の西国外交の使者となったと思います。氏政は、使者と書くといろいろ当たり障りがあるので、商人という書き方をしたのかもしれませんが、いずれにしても、きちんとした外交体制をとっていたとはいえないと思います。

有光今川氏は、足利氏の一族ということで、幕府とか将軍家とのつながりもかなり強いし、朝廷、公家との関係もそれなりにある。その上にさらにお坊さんですね。雪斎[せっさい]に代表される京都の禅僧とのつながりがある。さらに、連歌師宗長[そうちょう]のつながりで、連歌師の往復が結構ある。そういう意味では中央と今川氏との関係は非常に密度が濃いんです。それに対して北条氏を外から見ると、たしかに薄いかなという気がします。

外交の手段として文化的なものへの関心も

有光むしろ北条は鎌倉公方、あるいは関東管領をどう料理していくか、さらにその周辺にいる伝統的豪族層に対して、力を注いでいて、むしろ、北条氏は関東、あるいは東国で、中央と必ずしも結びつかずに、とにかく自立しようという意志がものすごく強かったんじゃないかなという気がしますね。

鳥居それは感じますね。長期にわたって北条の領国に下ってくる公家や職能人の数はかなり多いんですが、一方、北条方の人間がどの程度中央に行っているのかといえば、かなり少ないのではないかと思います。

もちろん、信長のもとに氏政・氏照の使者が行ったり、氏規[うじのり]自身も行ったりすることはあるんですが、継続的な外交を行うという意識はあまり感じられませんね。

政治的な事柄はともかくとして、文化的なことには、かなり関心をもっていたようです。先ほど早雲と東山の話がありましたが、永正8年(1511年)ころ、早雲が相阿弥と接触をはかるんです。氏綱が長尾為景に牧谿[もっけい]画を贈ったように、戦国大名は外交などで贈答品が必要となり、用意しなくてはいけない。そのときに東山御物というのはブランド品になるんです。

隠居した先代と当主が並び立つ政治体制が続く

有光北条氏では、家督争いはもちろん、権力内部における対立、対抗というのはほとんど出てこないですね。今川氏の場合は、氏親のときも義元のときも家督争い、武田の場合も多少いざこざはあります。北条は磐石という感じがするんです。

山口内部対立のにおいのようなものが感じられる部分はあるんです。

北条氏政

北条氏政
早雲寺蔵

例えば、越相同盟交渉は、永禄11年(1568年)12月ころから元亀2年(1571年)まで続きますが、その経過を見ていると、氏康は隠居、当主は氏政という当時の状況にあって、この同盟交渉のほうは、氏康が主に担っている。隠居の氏康は出馬をすでに停止していて、小田原城に在城していますが、氏政は、武田信玄の猛攻をうけていた今川を支援するという形で駿河方面に出ているわけです。

父親の氏康が主導して行う越相同盟交渉の史料を読み込んでいくと、氏政と氏康の考え方の違いが見えるんです。

例えば、謙信へ養子を入れる問題では、当初は氏政の子の国増丸、後の源五郎が予定されていたのを、氏政がかなり強固に拒否する形で氏康の子の三郎に切りかえられていますし、その他にも2人の考え方には一枚岩ではない部分が随分感じられます。氏康は元亀2年(1571年)に亡くなるので、それが大きな破綻につながることは現実にはなかったわけですけれども。

その後、天正8年(1580年)、あるいは9年に氏直が家督を継承して氏政が隠居になると、かつて氏康が隠居して氏政の後見に立ったのと同じような状況が生まれます。秀吉との交渉も、こうして隠居と当主とが2人並び立つような政治体制のもとで展開されるんです。

北条の子は武将に、今川では当主の子は出家

山口これは北条氏の領国支配のあり方とも深くかかわっているような気がするんですが、当主という存在と、それを支える一族衆との関係という問題ですね。当時、氏政は江戸地域周辺、氏康の三男の氏照は八王子を支配しています。そのほか、鉢形領を氏康の四男の氏邦が、氏政の三男氏房が岩付領を支配している。当主の氏直はもちろん力はあるわけですが、このころになると、当主と、氏政以下の支城主、支城領主との力関係が徐々に逆転してきていたのではないか。

有光巨大化すればするほど、ほころびが出てくるということですか。

山口そうですね。

有光今川氏の場合、2度にわたる家督争いだけではなく、内部における対立というようなものはずっと存在していたんだと思います。

もう一つの違いは、今川氏では当主の子供は大体出家させます。戦国以前からそうなのです。ただ、なるほどと思うのは、室町幕府の伝承なのではっきりは確かめられないのですが、「今川」の姓を名乗るのは宗家だけなんです。あとは全部、在地の所領の名前、瀬名氏とか、堀越氏というように姓を変える。

ところが北条氏は、子供はみんな武将として支城主になったり、あるいは他家へ養子に入って、半ば乗っ取るような形で勢力を広げていく。この違いが際立っているなという気がしますね。

鳥居北条の場合、もともと今川のように守護大名から戦国大名化したわけではありませんから、基盤がないため大名として存続をはかるためには、拡大せざるをえず、そのためには子供を有効に使うことが必要だったのではないでしょうか。

それから、寺院には教育機関としての機能がありますから、今川氏は、幼年のころに教養を身につけるために寺に入れるという伝統があったと思いますね。

外交と内政を使い分けた二頭政治

有光当時の隠居は、いわゆる隠遁じゃなくて、隠居してもそれなりに力を持っている。二頭政治と言ってもいい体制ですね。

今川氏では、義元が隠居して氏真に家督を譲りますが、その後も、三河、尾張に対しては義元が指示しているんです。本来の今川領の駿河、遠江については義元も文書を出していますが、氏真の支配下にある。氏真は三河や尾張には1通も出してない。

こういうはっきりした区別があったために、桶狭間で義元が倒れても、まだ生き延びられた。外交と内政との使い分けがあったのではないだろうかと思います。

山口氏康の時代、外交的な部分は、越相同盟に象徴されるように、氏康が主導している側面が大きいかなという気がしますね。幕府などの公式の交渉となれば、もちろん氏政が当主として前面に出なくてはいけない部分もあるわけですが、実質的に外交を展開するという点では、隠居のほうが主体になっている。

印判状の発給状況から見ての話ですけれど、氏政は当主ですから、政務全般に関与しています。ただ、その中で、氏康が、領国の一番大事な部分、つまり小田原に近い、相模国の東郡[ごおり]、西郡、中郡、それから伊豆方面の領域支配をかなり主導的に行っている。ことに御料所の支配、役銭収納などは、氏康がほぼ独占している。

今川の場合のように当主と隠居とで支配地域が違うとまでは言えませんが、当主・隠居間にある程度の分業はあったのではないかと思います。

有光氏政は、やはり江戸周辺と言えるのですね。

山口氏直時代ではそうですね。江戸地域の周辺、関宿とか、あの辺の支配を主たる任務としていました。それに対して氏直のほうは伝統的な伊豆、相模、武蔵南部(現在の川崎・横浜)、そういう地域の支配を主体にしている。むろん、単純ではないのですが。

有光もちろんきれいには割り切れないですがね。

山口隠居後に氏康が使用した「武榮」印判の機能を見ると、虎印判の代用機能を主体としている。「武榮」印判を私印だと言う人がいますが、私はあれは公印だと思っています。当主の氏政を補佐すべく、虎の印判のかわりとして使うんです。

ところが氏政は、同様に隠居後に用いた「有效」印判を虎の印判のかわりとしては、ほとんど使わない。「有效」印は、主として自らの治める江戸地域周辺の領域の支配のために使われていた。そういう状況から、北条領国の中で非常に重要な位置にある江戸周辺を支配している氏政の自立性の強さがあぶり出されてくるような印象を持っています。

氏照らの支城領主も、氏直時代になると、同様な傾向を強めているように思います。

天正18年、小田原城が秀吉によって開城

編集部小田原城の落城によって、北条氏は滅亡するわけですね。

鳥居天正18年(1590年)の7月5日に、北条氏は開城します。そして、氏照、氏政という小田原合戦の主戦派と目された人は切腹を命ぜられ、和平派というのでしょうか、氏直、氏規らは高野山に流されます。

豊臣秀吉

豊臣秀吉
大阪市立美術館蔵

その後、徳川家康が北条氏の存続について豊臣秀吉にはたらきかけたと思います。その結果、氏直は許されて豊臣系の大名として復活するわけですが、小田原合戦の前後の徳川家康と豊臣秀吉と北条、この三者の関係は非常におもしろいと思います。

例えば、北条にとっては、豊臣秀吉の脅威が高まってくる。そのころは徳川家康と連合して対抗しようという思惑があったのですが、それは外れて、家康は豊臣秀吉に臣従してしまう。北条は、今度は北のほうの伊達と連合して対抗しようとしますが、氏直にとっては、家康は自分の夫人の父親ということもあって、頼みにしていたと思うんです。

一方、秀吉は家康を臣従させながらも、家康に対して油断がならない人物だと思っていたと思います。というのは、小牧・長久手の合戦は、政治的には勝ったんですが、軍事的にはかなわなかった。小田原合戦の前には家康を関東の取次にして「関東惣無事令」、「関東・奥惣無事令」を伝えさせます。これは、家康の動きを探ろうという気持ちもあっただろうと思うんです。

合戦のあいだも秀吉は家康の動きを見ていた

『小田原陣仕寄陣取図』(部分)天正18年(1590年)

『小田原陣仕寄陣取図』(部分)天正18年(1590年)
山口県文書館蔵

鳥居毛利文書の中に、小田原合戦のときの、小田原城を包囲する秀吉軍の布陣図があります。秀吉の本陣は早雲寺で、落城の1週間ぐらい前に、石垣山一夜城に移るんです。

それに対して、家康の小田原攻めの陣屋はどこかというと、早雲寺や石垣山一夜城から小田原城を隔てた反対側の今井というところなんです。後ろは酒匂川で、陣屋の場所として、あまりいい場所ではないんです。

有光平地ですか。

鳥居平地です。それで、秀吉系の大名の陣屋は、大部分は本陣寄りの丘陵地帯で、家康は秀吉自身から一番離したところに置いている。しかも、小牧・長久手の合戦で家康の同盟者であった織田信雄も、その側に配置しているんですね。

秀吉は家康の行動をいつも注視していたという感じがします。このような伏線があって、秀吉と戦った大名でも、長宗我部とか島津は許されても、北条は許されなかったのではないでしょうか。

氏直への文書を家康に宛てた秀吉

鳥居そうは言っても、秀吉は、家康の意向もある程度汲む必要もあると、大名として復活させたと思うのです。それで、所領をどこに与えるかというと、下野(栃木県)なんです。下野は、北条が最後まで完全には掌握し切れなかった地域ですから、そういうところに所領を与えるというのも意図的なものを感じます。

小田原合戦の後、家康を関東に所領がえをします。そして、家康の周りには豊臣系の大名を配置するわけです。そのとき、織田信雄は、父祖からの尾張を、家康の旧領である駿河や遠江に替えられることに反対したら、改易されています。

それから、秀吉が氏直を許し、所領を与えるという文書を家康に宛てているんです。このような内容の文書を家康に与えることは、当時の三者の関係をよく示していると思います。

落城後の遺臣の史料なども展示

北条五代の墓

北条五代の墓
早雲寺

鳥居神奈川県立歴史博物館に、桜井文書という資料があります。北条氏直が高野山に送られる前に、桜井武兵衛へ籠城をねぎらう内容の文書を発給します。この文書は戦国大名北条氏の滅亡を象徴するものとして知られています。

武兵衛は小田原落城後は結城秀康(家康の次男)に仕え、秀康が関ケ原の合戦後、越前に所領をもらうと、それについて移動します。そして秀康が亡くなった後、松平忠直に仕え、忠直が改易になった後は、越後の高田に移ります。武兵衛は、恐らくそこで亡くなったと思います。

10月18日から11月24日まで開催しております特別展「戦国大名北条氏とその文書−文書が教えてくれるさまざまなこと」では、これら、小田原合戦前後の状況を伝える文書も展示します。

また『結城秀康給帳』という秀康の家臣の書上げがありますが、その中に、生国が相模とある者が20名いるんです。武蔵が27名でした。武蔵のほうはすべて後北条の遺臣ではないとしても、決して少ない数ではないと思います。名前が知られている武士としては、大藤与七、御宿勘兵衛などですが、ほかにも名の知られていない武士がたくさんいることがわかります。もう少し史料を丹念に見ると、そういった武士の動向などもわかると思うんです。

氏綱夫人追善の経典と埋納した経筒を同時に公開

氏綱が夫人の追善供養のために埋納した経筒

氏綱が夫人の追善供養のために埋納した経筒
島根県 南八幡宮蔵

編集部ほかにはどんなものが展示されているのでしょうか。

鳥居二代氏綱が夫人の一周忌に金沢称名寺に寄進した「阿毘達磨大毘婆沙論[あびだるまだいびばさろん]」という中国宋時代の経典があります。この史料は、これまで知られていたものですが、氏綱の夫人に対する供養は大がかりなもので、夫人が志していた六十六部信仰を行い、そのとき、埋納させ、出雲と越後で発見された経筒を展示します。これらは480年前、小田原から各地に散ったもので、それらが、今回、一同に会するので、奇跡的ともいえる光景に接すると、歴史の面白さを実感されることと思います。

編集部どうもありがとうございました。

有光友學 (ありみつ ゆうがく)

1941年大阪市生れ。
著書『今川義元』吉川弘文館 2,100円+税、『戦国期印章・印判状の研究』(編著) 岩田書院 8,900円+税、他。

山口 博 (やまぐち ひろし)

1959年神奈川県生れ。
著書『北条氏康と東国の戦国世界』 夢工房 1,200円+税、『戦国大名北条氏文書の研究』 岩田書院 6,900円+税、他。

鳥居和郎 (とりい かずお)

1952年神奈川県生れ。

※「有鄰」492号本紙では1~3ページに掲載されています。

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