Web版 有鄰

492平成20年11月10日発行

常民へのまなざし
――神奈川大学日本常民文化研究所 – 特集2

佐野賢治

屋根裏博物館からの出発

日本常民文化研究所の前身は、1921年、渋沢敬三により設立された“アチック・ミューゼアム”(屋根裏博物館)ソサエティに遡る。戦中の1942年、敵性言語の使用禁止で日本常民文化研究所と改称し、戦後は、財団法人として再出発した。その後、1982年に神奈川大学が招致しその事業を受け継ぎ、今日に至っている。このように創設以来88年にわたる長い伝統を持ち、多くの調査研究実績をあげ、人文系の研究機関として学界ではその名は広く知られるようになった。今日世界でも著名な民族人類博物館の一つとなった大阪の国立民族学博物館は渋沢の収集した民具を基礎に設立され、東京の国文学研究資料館のコレクションは渋沢の構想した実業史博物館のために準備した資料が大きな位置を占めている。規模や人員は比べようがないが、国立法人のこれらの館は系譜的には本研究所の分家筋にあたる。また、文部科学省の21世紀COEプログラムとして世界に冠たる21世紀を担う日本の学術研究拠点形成事業として、2003年から5年間にわたり「人類文化研究のための非文字資料の体系化」プロジェクトが神奈川大学を拠点に採択されたのも日本常民文化研究所の研究活動が評価された表れの一つといえる。その後継機関として2008年度から、研究所に非文字資料研究センターが付置された。屋根裏から出発し、日本を代表する学術機関の一つと数えられるまでに成長したのである。

本研究所は、アチック・ミューゼアム以来の常民研究の伝統、特に漁業史・民具研究の継続を設置理念にうたい、日本の常民の残した史・資料や生活記録を発掘・収集・整理・公開・保存し、目録・資料集を刊行、公開し、社会の発展に寄与することを目的としている。

ところで、この“常民”とはどのような意味ですかとの質問をよく受ける。常民とは、日本民俗学の用語で、民間伝承を保持している人々を一般的に指す。この語を最初に用いた柳田國男は、マタギやサンカなど山棲みの山人に対して稲作農耕に従事する里人、農民の意味で当初は用いた。漁民資料、民具の調査研究に尽力した渋沢敬三は、庶民に語感が近い common people の訳語として使った。その一方、このように実在し、普通の暮らしを営む人々を指す実体概念ではなく、また、人を階層や階級で対象化するのではなく、天皇も含む人々の日常性、“民の常”を表す文化概念として常民を定義する議論も行われてきた。現代の常民は、都市のサラリーマンだとして、都市民俗学成立の根拠とする意見など、現在まで常民概念の統一的な見解は示されていない。

一次産業に従事する農山漁村の人々の暮らしを主な調査、研究の対象にしてきた本研究所も、今一度現代における常民の語の再考が必要である。

渋沢敬三――日本常民文化研究所を設立

塩田調査をする渋沢敬三

塩田調査をする渋沢敬三(中央)
新潟県西頸城郡糸魚川町(現糸魚川市) 昭和10年(1935年)
神奈川大学日本常民文化研究所蔵

日本常民文化研究所の設立者・渋沢敬三は、日本近代資本主義の父、渋沢栄一の嫡孫であり、若くして、祖父の期待を負い渋沢宗家を継いだ。祖父のモットー「論語と算盤」、学問と実践の両立を生涯貫き、自らは、日銀総裁、大蔵大臣まで務めた経済人でありながら、学問の裏方、一級の資料を学界に提供することに力を注いだ。学問的には、漁業制度史、魚類学、民具学に大きな業績を残した。

敬三の考えは“ハーモニアス・デベロップメント”(人間関係の和)、という言葉によく示されている。1+1=2ではなく3以上になるような共同研究の在り方を説いた。九学会連合を組織して対馬調査に臨むなど、日本の人文科学ではなかなか実効性の上がらない共同研究を推進した。また、「論文を書くのではない。資料を学界に提供するのである」(『豆州内浦漁民史料』)とあくまで、学問の黒子に徹し、民族学会の設立に尽力するなど斯学の振興を多方面にわたって支援した。また、学際的であるのはむろん、正確な資料を残すために時代の最先端の技術を導入したことは、普通の草鞋の半分で、これを履くと蝮に襲われないなどと俗信のある足半[あしなか]の調査に、レントゲン撮影を試みたことでもうかがわれる。研究所には、渋沢コレクションとされる貴重な映像資料が残されている。

これは、第一次世界大戦後に平和を希求し、私財を投じてカメラマンを派遣し、世界の民衆の映像を静止・動画で残したユダヤ人銀行家、アルベール・カーン(Albert Kahn)の姿勢に重なる。カーンもまた人前に出ることの少ない人物だったとされる。栄一の日誌には、横浜正金銀行ロンドン支店にいる敬三にカーンに会うよう紹介状を書いたとある。敬三の事績は著作集5巻からうかがえるが、まだまだ掘り起こされる伝記的事実がありそうである。

この場で宣伝させて頂くと、来年3月、神奈川大学公開講座「民俗学三大人 柳田國男・折口信夫・渋沢敬三—新たな日本文化論に向けて—」で、渋沢の学問と思想を取り上げる。関心のある方の聴講をお勧めしたい。

宮本常一――経世済民の思想を実践

宮本常一は1939年、アチック・ミューゼアムに入所、渋沢敬三が日本一の食客と称すように渋沢家に居候し、渋沢の意を体して、戦中戦後を通し、その足跡を日本地図に落としたら真っ赤になるというほど全国の農山漁村を精力的に歩いた。戦後、1949年日本常民文化研究所に復帰する。宮本は、自身の経験を、ムラの新生面を切り開こうとするムラの有志に具体的に提供するなど、柳田國男・渋沢敬三が説く経世済民の思想を文字通り実践した。宮本の故郷、周防大島では明治から大正、昭和の前半の頃まで、世間を広く見聞し経験豊かな者を世間師と呼んでいたというが、宮本はまさに営農指導などができた最後の世間師といえた。

現在、日本常民文化研究所には宮本と河岡武春が使用した木製の机が残る。日本常民文化研究所主催の第1回民具研究講座が1974年10月、日本青年館で開かれた折り、宮本は日本民具学会の設立を提案し、満場一致で承認され、翌1975年11月、日本民具学会が成立した。その後、宮本は、1965年武蔵野美術大学教授に就任、1966年には日本観光文化研究所長となり後進の育成に務めた。

河岡武春――『民具マンスリー』を創刊

戦後1949年10月、研究所は水産庁から漁業制度資料調査保存事業の委託を受け、宇野脩平を中心に研究活動を再開。東海区水産研究所の一室におかれた通称、月島分室で、漁業資料の調査・蒐集・目録作成・筆写などが10人前後の研究員によって1955年の閉室まで行われた。その結果30万枚に及ぶ漁業資料の筆写稿本が3部作成され、地元と水産研究所、常民研にそれぞれ所蔵された。

1950年には、研究所は財団法人となり、初代理事長に桜田勝徳が就任する。1952年4月、渋沢に師事し、宮本に兄事していた25歳の河岡武春は広島文理大卒業後直ちに研究所に入所。先に入所していた網野善彦と机を並べる。

1955年、月島分室が閉鎖。この年から、渋沢邸にて渋沢、村田泥牛、宮本常一、河岡武春が中心となって月1回の「絵巻の会」が開かれ、「絵引」の編纂が進められる。後に、『絵巻物による日本常民生活絵引』5巻として刊行される。

河岡は、全国の民具研究者のネットワーク作りを推し進め戦前の「アチックマンスリー」を継いだ形で、1968年、『民具マンスリー』を創刊、また民具研究の啓蒙のため『民具論集』を発刊、民具研究の基盤作りにあたった。渋沢の死後、研究所の維持が切迫する中、夜は研究所の机をベッド代わりにするなどして河岡はいわゆる麻布二の橋にあった「三田の常民」時代を支え、神奈川大学への移管に精魂を傾け、その行く行方を見届けて没した。死後、1987年、網野善彦によって河岡唯一の単著『海の民—漁村の歴史と民俗』が纏められる。常民研にその人生の大半を捧げた河岡であった。

網野善彦――研究所招致に尽力

1950年、東京大学国史学科を卒業した網野善彦は月島分室に入所。江田豊・二野瓶徳夫・速水融らと同室となるが、左翼運動の活動に忙しく筆写作業には十分力が入らなかったという。ここで同僚の中沢真知子を伴侶とする。1954年8月、西瀬戸内海の二神島に河岡武春と訪れ、二神家文書を借り出す。後に文書が返却されていないことに愕然とした網野は島を再訪し、新たに調査をおこない、「百姓は農民ではない」との着想に至る史資料を得る。

1956年、研究所を辞し、都立北園高校教諭となり、部落解放研究会顧問を務める傍ら、東京大学史料編纂所に通い古文書の筆写に努める。1967年、名古屋大学文学部助教授に就任、1980年、神奈川大学短期大学部教授となり、日本常民文化研究所の誘致に尽力。招致後、所員として復帰後は、月島時代の未返却史料の返還作業を進める一方、大学院歴史民俗資料学研究科設立に邁進する。1994年、筑波大学から宮田登を招くなど新たな学風の樹立をともに目指す。

昨2007年12月、第11回常民文化研究講座「網野善彦の資料学」が開催され、その折りの報告も含め2009年秋には『海と非農業民—網野善彦の学問的軌跡をたどる』が岩波書店と研究所の合同企画として刊行予定である。

世界常民学に向けて

研究所の『民具マンスリー』の刊行は2008年、今年度で創刊41年目41巻目に入る。日常庶民が生活の必要から製作し、また使用してきた民具、そのほとんどが取り上げられ、日本人が自然と密接し暮らしてきた時代の物質文化を明らかにしてきた。ひるがえって、物に溢れかえる現代社会における民具とは何だろうか。長年にわたる研究の蓄積からそのような問いかけをし、現代社会を省みるのも常民文化研究の役割であろう。

今日、限界集落の言葉が聞かれるように、十全な生存の機能さえ維持できない農山漁村が増えている。平成の大合併の中、市町村レベルの博物館では、類似資料の廃棄や館自体が閉館に追い込まれ、その対策を求める相談がわが研究所に持ち込まれる。その一方、近代化の渦中にある中国の民俗研究者からは、民具研究・整理の方法を求める声があり、国際的に海洋資源に関心がもたれる中、漁業史・漁業技術に関する資料の扱いの教示、共同研究の推進の依頼が韓国・中国の水産海洋関係の研究所からは舞い込む。

ローカルな生活文化が現代社会では、ナショナル、リージョナル、グローバルな意味を持つことにもなる。グローバル時代の今日、等身大のお互いの生活文化を知りあうことこそ、遠回りのようでも真の意味での異文化理解、国際理解につながる。インターネットはじめIT技術の進歩がその可能性をバックアップしてくれる。柳田國男の言葉にならって、世界民俗学ならぬ世界常民学を目指したいと思う。

佐野賢治氏
佐野賢治 (さの けんじ)

1950年静岡県生まれ。神奈川大学日本常民文化研究所長。
著書『虚空蔵菩薩信仰の研究』 吉川弘文館(品切)、『現代民俗学入門』(共編著) 吉川弘文館 2,500円+税、ほか。

※「有鄰」492号本紙では4ページに掲載されています。

 

横浜開港150年・有隣堂創業100年
横浜を築いた建築家たち(5)

妻木頼黄[つまきよりなか](1859-1916)
――横浜に大きな足跡を残した明治建築界の巨頭

吉田鋼市

横浜正金銀行本店

横浜正金銀行本店
(現神奈川県立歴史博物館)
神奈川県立歴史博物館蔵

日本近代の最初期の建築家たちは、コンドルが教えた工部大学校造家学科から育っていったが、その最初期に、目立った働きをした3人の建築家がいる。しばしば明治建築界の三巨頭とも称される辰野金吾、片山東熊、そしてこの妻木頼黄である。辰野と片山はまさしく工部大学校の第1期生だが、妻木は6期生に相当するから、彼らより5歳ほど年下である。しかも工部大学校を中退してアメリカのコーネル大学を卒業している。にもかかわらず三巨頭の1人に数えられるのは、彼が明治期の官庁営繕を牛耳ったからである。つまり、明治期の国の施設の多くを設計して建て、そのために必要な後継者と中堅技術者を育て、当初は未熟だった施工業者をも鍛えたということである。明治最初期の人材にはいわゆる西南雄藩の出身者が多い。建築界も例外ではないようだが、妻木は旗本の子息であった。このことも、工部大学校中退や、日清戦争時に広島に置かれた仮議院をわずか2週間で建てたという彼の血気盛んな行動力の遠因になっているかもしれない。

辰野は横浜地方裁判所(明治23年)を、片山は神奈川県警察部庁舎(明治45年)と神奈川県庁舎(大正2年)を設計している。いずれも横浜の近代建築史上に重要な建物ではあるが、どれも現存しないし、2人の横浜との関わりもこれだけである。それに対して、妻木と横浜の関わりは深い。まず横浜税関監視部(明治27年)から始まり、個人的な仕事もいくつかあるが、彼が率いた組織の仕事を加えると多数にのぼる。

現存のものをあげると、新港埠頭の2棟の赤レンガ倉庫(明治44年と大正2年)と横浜正金銀行本店(現神奈川県立歴史博物館、明治37年)という横浜に欠かせないモニュメントがある。しかも、この2つは現存する彼の代表作でもある。

それから、いまは山手のカトリック横浜司教館となっている建物は、もともと明治43年に妻木の設計で建てられた相馬永胤(横浜正金銀行頭取)の東京の屋敷の一部を昭和12年に移築したものである。

また、建築ではないが掃部山公園にある井伊直弼像の台座も彼の設計になるものである。同じく建築ではないが、上を通る高速道路の撤去案で注目されだした東京の日本橋の親柱も彼の設計になるものである。

吉田鋼市 (よしだ こういち)

横浜国立大学大学院教授。

※「有鄰」492号本紙では4ページに掲載されています。

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