Web版 有鄰

490平成20年9月10日発行

[座談会]これからの老後

作家・詩人/ねじめ正一
作家/藤原智美
ライター・本紙編集委員/青木千恵

右から、藤原智美・ねじめ正一・青木千恵の各氏

右から、藤原智美・ねじめ正一・青木千恵の各氏

はじめに

青木安心して老後を迎えたいのはいつの時代も同じだと思いますが、藤原智美さんが昨年刊行されました『暴走老人!』によると、現代は高齢者が生きにくい世の中になって、外出先で怒鳴りちらしたりする“お騒がせ老人”が増えているということです。分別があってしかるべきとされる老人たちが、ときに不可解な行動で周囲と摩擦を起こす、あるいは暴力的な行動に走る。藤原さんは、こうした高齢者を「新老人」と呼び、“暴走”の底に隠されたものをルポされています。

実際、私も“お騒がせ老人”をたびたび目にします。最近では、電車のシルバーシートで若い女性に席を譲られて、「どいつもこいつも私のことを年寄りだと馬鹿にしやがって!」と怒鳴った年配の女性がいました。

日本は高齢化が進み、2018年には75歳以上の後期高齢者の割合が、65〜74歳の前期高齢者を上回るそうです。内閣府「高齢社会白書」によると、05年度の65歳以上の世帯のうち22%が単独世帯で、孤独死の増加が懸念されています。おじいちゃん、おばあちゃんの死を家族で看取った昔と違い、「これからの老後」はどうなっていくのでしょうか。

そこで今回は、藤原智美さんと、昨年、長編小説『荒地の恋』を上梓された作家のねじめ正一さんにご出席いただきました。53歳で親友の妻と恋に落ちた詩人、北村太郎ら荒地派の詩人たちを描いた『荒地の恋』には、波乱含みでも人生を生ききっていく人々の姿が描かれていると思いました。おふたりが考える現代の老人像、そして理想の老後について、お話を伺いたく思います。

1日のうちに2人の激昂する老人を見て『暴走老人!』を執筆

藤原智美『暴走老人!』・表紙

藤原智美『暴走老人!』
文藝春秋:刊

藤原『暴走老人!』執筆のきっかけは、税務署とスーパーで1日のうちに立て続けに二人の暴走する老人を目撃したことなんです。

老人が、非常に激昂してクレームをつけている。僕らの持っていたお年寄りのイメージは、穏やかで、のんびりしていてというのがありましたが、どうも最近違うぞという気が、その時にしました。

例えば犯罪はすごく増えています。65歳以上で検挙される人の半分が初犯です。僕は52歳ですが、捕まった人が52歳のときに、自分が65歳過ぎて犯罪を犯すという想像力があったか。自分はそんなことはないと思っていた人たちが、検挙者の中で半分いる。そういう意味では人ごとじゃない。僕も暴走するかもしれない。そういうこともあり、調べて、考えてみたということなんです。

ねじめ藤原さんは「暴走老人」に対して割と好意的にとらえているわけですね。

藤原『暴走老人!』について、いろいろな取材が来ました。若者の雑誌は、何を勘違いしたのか「私たちのためによくぞ書いてくれた」と言うんです。インタビューのタイトルが「ここまで来た暴走老人!若者ももう黙っていられない」って(笑)。老人の暴走の現実を追いかけていくことで、現在進行している人と人のかかわり方の根源的な変化を見たくて書いたのですが、若者は上の世代に虐げられているという思いがあったらしい。誤読なんですが、老人世代を批判してくれたということになっちゃう。

ねじめそれは藤原さんの責任じゃなくて、読むほうの勝手な問題です。ただ、「暴走老人」に対しての哀しさみたいなものは、全体のトーンとして感じましたね。

でも老人の犯罪って結構あったんですね。老いることはそんなにきれいごとじゃないというところを藤原さんは書いた。『暴走老人!』を読んで、違う老人がいるということは、ショックでしたね。

扇子の紙を全部はがして「ナンセンス」

青木ねじめさんの周囲ではいかがでしょうか。

ねじめ私が日常的に時間を過ごしているのは、自分でやっている民芸品店の上の仕事場です。ざわざわした商店街の中です。「きょう変なお客さんが来た」というのは、ほとんど60過ぎの方たちです。商店街を自転車で走って注意されて「何で走っちゃいけないんだ」とキレている。本当は止める側ですよね。それから、商売をやっていて一番腹が立つのはお金を投げることです。これまた65過ぎの特に男の方ですね。

この前も、「ナンセンスはあるか」って言われた。65、6の方で、「ナンセンスって僕が考え出したんだけどな」とか、わけのわからないことを言っている。(笑)「一体どういうことなんですか」とたずねると「えっ、ナンセンス知らないんですか」と言う。「私も勉強不足なもので、ナンセンスは知らないんです」と言いました。

そしたら「そこにバケツと水を用意してくれ」と言うので用意すると、うちで売っている扇子をとって、水に入れて、紙をはがし始めるんですよ。紙を全部とっちゃって、骨だけの扇子をナンセンスだと一生懸命言う(笑)。それで「どうだ、わかったか」みたいな感じです。ちゃんとお金はいただきました(笑)。本人はすっきりしたような顔で帰って行くんです。これは一体何なのかなと思う。しょっちゅうキレているわけじゃなくて、そのときにたまたまそうだったんでしょう。何かのはずみでそういうふうになっちゃったんでしょうね。

どこのお店に行っても「ナンセンス」をやっているわけじゃないと思うんです。

個人商店での買い物のやりとりで感情が緩和できた

ねじめ私はずっと商店街で暮らしているのですが、ナンセンスのおじさんのような人が、子供のときにはいっぱいいたような気もする。変な人がいっぱい町にいて、店を開けるとまず変な人が来る。その人が帰ったと思うと、今度は1時ぐらいにまた来る。そういう人が出入りして1日が終わっちゃうわけです。変な人のパワーで1日が過ぎていく。でも、それは昔をなつかしむだけで、そういう時代はもうやってこない。

藤原個人商店には、そういう感情を緩和するというイメージがあります。40年以上前に僕は博多に住んでいました。祖母が別府から遊びに来て、たばこの新生が好きで近くのたばこ屋に買いに行った。なかなか帰ってこないので呼びに行かされたら、祖母は博多の人とたばこ屋さんで話しているんです。

藤原智美さん

藤原智美さん

何か愚痴を言っていたのかもしれないですが、今考えるとカウンセリング料みたいなものがたばこ代の中にコストとして入っているということじゃないか。コンビニではこれはできません。ものの売り買いのときのコミュニケーションでいろんなことをしゃべって、感情を小出しに吐き出したり、受け取ったりして、ある意味でためておかなかった。そういう場所がなくなってきた。だから、どうもねじめさんの商店街は狙い撃ちですね。他ではできないがこの商店街だと聞いてくれる。ナンセンスの人も、スーパーではやらないですよ。

ねじめ新生一箱にも、いろいろな意味合いが入っていたのかもしれない。

長く生きてきた経験知が役に立たない

ねじめ年寄りというと知恵があり人格者で、何が起ころうと任せておけるはずなんですが、実は、今、町の小商いで一番衰えているのは年寄りたちの知恵なんです。今は不景気で、本当はいろんな知恵を絞っていかなきゃいけないんですが、ほとんど降参でお手上げ状態というのは年寄りがやっている店です。店を続けることより、どちらかというと、そこをビルにして早くやめることを考えているところがある。むしろ、資金をやっと集めてお店を出した若い子のほうが、商店街の連帯を求めたりしている。

藤原昔は、落語でいうご隠居さんや大家さんが町の相談役になっていた。ところが今、70年、80年生きてきた経験知が役に立たない。

ねじめ物を知っているご隠居が格好いい時代って、やっぱりあったんですよね。

あこがれていた老人像がどんどん遠くなる

ねじめ我々団塊の世代は金子光晴にあこがれた。金子光晴に吉祥寺ですれ違ったとき、「あの目つき怖かったよね」とか、「やっぱり女好きの目してるよね」とか、勝手に想像しながら、ああいう年寄りになれたらいいなと思ったりした。井伏鱒二が歩いていると、「いいな井伏さん、あの飄々としたところがいいよね」とか思った。理想とする年寄りっていた。

自分がこの歳になってみると、やっぱり井伏や金子は無理かなとか、だんだん現実的になる。井伏さんのあの感じは、きっと暗い、陰鬱な気持ちで飄々さを鍛え上げているんだろうとか、金子光晴も人格的には問題があったんじゃないかとか考える。

理想としていた老人がどんどん遠くに離れていく。自分がどういうふうに年を取ればいいのかを考えたとき、わからなくなることがあります。その場限りでやっていくしかないのかとか。

藤原今は風景が変わってしまって、金子光晴も井伏鱒二も、そこにマッチしないんだろうという気がします。

『荒地の恋』の北村太郎の生き方はその場限りでも一生懸命

ねじめ正一『荒地の恋』・表紙

ねじめ正一『荒地の恋』
文藝春秋:刊

ねじめ私は『荒地の恋』という小説で「荒地」の詩人・北村太郎の少年時代からの友人でもある田村隆一の夫人との恋、さらに、若い恋人との関係などを書きました。

北村は本当にその場限りの生き方でした。田村夫人とのことで家を出て、金がなくなり、それでも家に仕送りもしなくてはいけないみたいなことになる。知り合いに仕事を回してもらったりしながら、なんとか食いつないでいく。その後、若い恋人ができて、そこでも、その場限りで一生懸命やっている。最初から自分の思想があって、そういうことをやったという人じゃない。その場限りでやっていくしかないだろうみたいな生き方なんです。

『荒地の恋』を書いたときにすごいと思ったのは、北村のもとへ若い人たちが次から次にやってくることです。そういう人たちに「帰れ」って言わないんです。つき合うんだよね。私に言わせればむだな時間で、若い連中とどんな話をしているんだか知らないが、北村を書いていて、そこが1番偉いなと思った。

その当時の若い人たちが、「北村太郎はすごい。自分たちとむだな時間を過ごしてくれた」と言う。そういうむだな時間を一緒に過ごしてくれた喜びというのは、今も残っている。北村さんは69歳で亡くなりますが、その人たちも今、55とか、60ぐらいになるけれど、自分たちはそんなふうに若い人たちとはつき合えないと言っていました。それは北村太郎の1番のすごさです。

北村太郎はいい意味で本当にばかだったんだなと思う。いい意味のむだな時間の過ごし方ができた人なんだな。

自由を手に入れるには犠牲が必要

青木北村太郎は詩誌「荒地」の同人でしたが、新聞社に勤めていて生活は安定していた。ところが、53歳にして親友の田村隆一の妻に恋をする。彼は、いわゆる道を踏み外すようなことがあっても、最後まで生き切れるということを身をもって示しました。小説の中で、田村隆一さんはやりとりにすごく余裕がありますね。

ねじめ最初はいろいろあったけど、田村と北村は田村夫人をはさんで、友だち同士という、少年時代からの元の関係にだんだん戻ってきているというところは確かにあります。

北村は、実際の生活は相当大変だったと思う。ただ、自分が家を出るという生活を選んだわけだから、しっぺ返しは来るという予感はあったと思うんです。それを逃げずにちゃんと受けとめた。そこが格好いいと言えば格好いいかもしれない。でも、それは非常に辛いことで、大変な思いで受けとめたんだと思う。そこはワンセットですね。

自由を手に入れるには当然犠牲を払わなきゃならない。両方を思うというのが今は欠けている。

自由とか、解放とかって、もう死語になっちゃって、自分で使っていながら、ちょっと照れ臭いところもあるんですけれど。

若い時にすごすむだな時間で空想する力がつく

藤原老後に対してどう立ち振る舞うかというのは、ある意味で若いときに決まっちゃうような気がするんです。北村太郎が、若い人たちを相手にしてずっと話をするというのも、客観的に見るとむだに見えるけど、最終的な結論として、むだじゃなかったという可能性もある。むだをあえて選ぶのはやっぱり若いときの力だと思います。最近の学校の現場を見ていると逆ですね。むだを全部省く。

例えば、ある私立の小学校でやっている最先端の教育はモジュラー教育と言って、カリキュラムが10分単位で決まっているんです。そういう中で子供はむだな時間を失う。

僕らの小学校のときって暇でしようがなかった。暇で退屈な時間から何を教えられるか。空想力です。自分でむだをどうやって有益にしていくか。今はその力がつかない。

今、小学校では、1年生の1学期で歩き回る子供をいかに少なくし、2学期から授業をできるようにするかが問題なんです。何でそんなに歩き回るのか。恐らく、空想力がないんですね。先生の話がつまらないのは昔もそうでした。でも小学校1年生ぐらいになると、聞いているふりはできた。自分で空想を組み立てて、先生の話と別のことを考える。今、それができない。うそをつくとか、ある意味で人間的な行為ができないから、おもしろくないとすぐ歩き回る。

ねじめもう一つ、子供って物にさわらなくなりましたよね。僕ら買い物に行くと、一つ一つさわりたくてしようがなかったんだよね。洋服屋さんでさわって、魚屋さんでは魚をさわって、商店街を通過するのにえらい時間がかかった。今はさわらない子がいい子みたいで、ただひたすら真っすぐ行く。さわってみてそれがどういうものなのか、身体感覚というか、ある意味で想像力の1番根本になるものが欠けていると思う。

藤原そういう現代の子供たちの状況を考えると、老後はもっと怖いと思うんです。僕らが70ぐらいになったとき、老人は老人なりの空想をする。妄想をする。妄想で暴走してもいいんです。そういう想像力がないと、本当に行動として暴走するしかない。

ねじめ私が中学1年ぐらいのとき、庭に柿の木があって女の子がとりに来た。「とっていいよ」と言いながら、その女の子にムラムラした記憶がある。一歩間違えれば大変なことになったかもしれないんだけど、その気持ちを詩にした。性的な詩ですけど、それを書くことによって多少救われたという記憶がある。

その詩は現実よりもはるかに過激なんだよね。でも、そのことが肯定できちゃう。だからもっと書く。それで救われる。言葉ってそういう力があるんだというのは今も感じているし。行動を暴走させないためには言葉で暴走する。

藤原若いときにむだな時間で何を空想し、妄想し、暴走したか。これが結構大事だという気がするんです。

生で対面しないから表情やしぐさで気持ちが読めない

藤原今の子供の話で言うと、やっぱりメールですね。文字や記号の交換のほうが多くて、生で対面することがすごく少なくなっているから、お互いの表情を見たり、しぐさや声の調子で相手の気持ちを読んだりといったことが苦手になっているわけです。

最近、「コミュニケーション能力」ってやたら言われますが、そこでは言葉はただの道具なんです。でも、そんなに簡単な道具じゃない。例えば、大工さんはトンカチで釘を打つ。これを言葉に置き換えると、トンカチだと思っていたものがいきなりノコギリに変わって、自分の指を切り落とす。つまり言葉には自分を裏切ったり、人を傷つけたり、そう簡単にコントロールできないという前提があるはずなんです。しかしそれがなくて、単なる道具や記号として「さあ使いなさい」と言い、「コミュニケーションしなさい」と言う。それでコミュニケーションができるわけないよという気もするんですね。その中に今、老人もぶち込まれているわけです。

小さいころ、親戚のところに行くと親が挨拶していた。何かムニャムニャ言って何回か頭を下げて「いやあ、暑いね」と急になる。呪文みたいで何を言っているんだかわからないんですが、必ずやっていた。情報化社会はそういうものをむだとするわけです。その挨拶みたいなものは、言葉が刀だとすると、鞘みたいなものだと思います。そう簡単に抜くなよ。簡単に抜いたら相手を切るよ。どこかそういうものがあったような気がします。

そういう定型のようなものを近代は壊してしまった。壊していい面もあるんだけど、カタがある時代は老人って楽だったと思うんです。作法通りの挨拶をやれといったら、老人はきれいにできるんだけど、そんなもの必要ない、生で語れよと言われたときに、簡単には自分の生の言葉もないし、わからない。そういう困難さがある。

「暴走する言葉」というものにずっとあこがれている

青木言葉というものについて、どんな思いをお持ちですか。

ねじめ若いときからの一つの姿勢、いわゆる物書きというものを意識したときからそうなんですけど、暴走する言葉というものに対して、いまだにあこがれているところがありますね。「暴走老人」にはあこがれないけれど、暴走する言葉というのはどういう言葉なんだろうということは、いつも考えています。

それは過激な言葉だとか、そういうことでは随分考えたこともあります。巷に言葉が飛び出したときに、文法が壊れ、音だけで、要するに意味合いもなく、何か言葉がどんどん連なっていく。そういう言葉をどこまで自分は続けることができるだろうかということ。暴走化する言葉としてやりたい、年寄りになってもやりたいなという思いはあります。

北村太郎も、結局あれだけいろいろあったけど、最後に一番いい詩を書いた。人生は暴走したけど、最後に『八月の林』という詩を書いてしまった。死ぬ前の本当に最後の作品ですね。これが最高、私は一番いい作品だと思っているんですよ。

一つの言葉の暴走の果てにできた言葉というか、そういうことができたら、私は死んでもいいかなと思うぐらいです。私の一つの理想的な状態です。物書きとしての理想的な状態というのを北村太郎から見つけることができたという思いはありますね。

言葉は貧困化すると暴走できない

藤原暴走する言葉というのは例えば何か突き破っていく。そういうものだと思うんです。最近耳につくのが、料理を評するときにモチモチとか、プリプリとかやたら言いますね。並べるんですね。だるいというのを「ダルダル」とか。あとカワイイとムカつくで全部説明したりする。実は、不安だったり、怒っていたり、本当にムカついていたり、いろいろ含んでいるんだけど、それはわからない。

言葉というのがある種の秩序の中で非常に貧困化して、言葉が暴走できないようになっちゃうんです。そういう困難さというか、不自由さを今感じます。特にテレビを見ているとすごく感じますね。

ねじめそうですね。テロップは出てくるし、説明はよくしてくれて非常にわかりやすい。ただ、何か使いたくないですね。「ムカつく」という言葉は詩に使いたくないですよ。

はみ出す言葉には身体的な音やリズムがある

青木言葉を暴走させるには、若いころから、身体感覚などの準備が必要ですか。

ねじめ身体感覚というのはさわった感じとか、原始的なものです。石は月日がたつとだんだん丸くなる。丸くなったものは、また元の形に一生懸命戻そうとしたって、それは無理なわけですね。

言葉でも、元の形に強引に戻そうとして力わざでグーッとやるときに、はみ出ちゃったり、とんでもない変な形になっちゃったりする。その変な形が私なんかは過激であるというふうにとらえている。力わざで思い切りくっつけちゃうわけで、日本語になってなかったり、同じ言葉の繰り返しになったりもする。でもそれはそれで自分の中のリズム、身体的なリズムみたいなものがあって、これは譲れないみたいなところがあって、出てくるリズムなんです。意味じゃないんですね。やっぱり音なんですね。

チェーンソーの音でしか表現できない

藤原『暴走老人!』に書きましたが、コンビニでチェーンソーを振り回したという老人の話があったんです。彼は毎日2、3時間、そのコンビニに行って雑誌を読んでいた。しかも、座り込んで読んでいたらしい。注意されるのをわかっていてやる。恐らく彼は何か打ち破りたいことがあった。それで、最後にチェーンソーを持ち出してモーターをかけたんです。悲しいことに彼の言葉はチェーンソーの音でしかなかった。本来の言葉、人間の言葉を持っていたら、違う形で打ち破ったりするんだろう。そういう意味で言葉を持っていないと、老後は大変だなと思います。

ねじめ状況はもっときつくなってくるでしょうね。暴走する言葉もきっと形が変わってくる。ただ過激な言葉を書くんじゃなくて、もっと緻密に考えなきゃいけない。ただ突き進めばいいのじゃなく停滞させたり、思い切り前に進めさせたり、シャクトリ虫のようにシャクシャクしながら、前に進んでいるようだけど、全然進まなかったり。

1980年代後半とか、90年代のはじめは世の中がバブルで、言葉が一緒に暴走できた時代なんです。だから、活字も、字面も何となく暴走しているように見えた。今はそんな単純じゃないだろうという感じはしますね。

その老人を詩にしようとするときに、どうやって書くんだろうと。ただ、チェーンソーのガーッという音だけで、字をどんどん大きくして、というだけじゃもうだめだろうという感じはします。伝えるための努力というのはいろいろ変わってくるだろう。

人とかかわり大声を出したり言い合う場所が必要

藤原書き言葉みたいなものを使えない人がたくさんいるんです。使えないというか自信のない人が。それと大声を出す場所がない。だから本当にキレてしまうしかない。それこそリングをつくって、老人を呼んで、言いたいことを言えよ。言い合えよという場所があればね。

青木言葉が通じないから嫌われるんじゃないかと思って、最初から1人引きこもっている。そういう状況が起きている気もします。

ねじめ論理的に言わなくてもいいんですよ。

藤原論理じゃない。そこは気持ちしかないんです。

ねじめそう。でも、世の中は論理的に話さなきゃいけないとか思われている。その老人たちに論理的に言えったって無理じゃないですか。それも一つの抑圧になっているところがある。そういう場所で言いたいことを言って、相手をののしったりしながら、本当にけんかになっちゃってもいいと思う。あそこに行けばいつでもそういうことができるという場所みたいなものがあれば。そういうものがつくれたらいいなと思うときはありますね。

藤原人とかかわる、人と話すときに大切なのは、単に話す言葉の力だけじゃなくて表情とか動き、仕種とか肉体なんですね。年をとると、表情は若いころより変化がだんだん少なくなってくるし、動きも少なくなる。声の調子を変えたり、ワッと出したり、急に出したり、そういうことは、自分も20年したら相当衰えると思う。

身体を使ったコミュニケーションのある部分は、相当老化するんですね。そこで言葉そのものと想像力みたいなものがどう確保されているかということが一番問題です。

声を出さないと話すことが下手になる

ねじめ私は小説を書いたり、詩を書いたりしていますが、それは密室の作業です。すると俺自身の全体の総決算として、大きな声を出してみたり、人前で自分を思い切り演じてみたりとか、そういうことを年に1回やっていないと、不安になってくる時期があるんです。それをやっておかないと、作品にも影響してくるところがある。気分がすっきりしないんですね。自分の生身を感じる時間が今、本当に少なくなってきている。

ねじめ正一さん

ねじめ正一さん

血圧も高いし、自律神経もよくないですが、朗読会を1日やると、結構いい気持ちが1月もちますね。たった1日一生懸命そうやって、思い切り声を出す。もちろん練習もリハーサルもしなきゃいけない。時間は相当とられる。何かでかい声を張り上げて、股広げて、つばを飛ばしてやっている姿は、人から見ればどうだかわかりませんが、私なんか格好いいと思ってやっているんです。小説を書いているのとは別の身体みたいなものを感じるときはあります。

藤原そうですね。インタビューされるとか、お話や講演をするというのがない1週間があって、ただ書いていると話す言葉が出てこない。明らかにすごく下手になるんです。言葉イコール身体というのをメディアとして持っている。ただ、今の社会というのがそれとは逆行している。

なんでもコンピュータででき上がって、体で仕事をするというのがほとんどなくなっている。神経を使って仕事をする。だから、みんなピリピリしているんですね。営業マンがトークをするのでも、昔の自転車で営業をやっていたという時代とは違ってきている。メールを使い、新幹線なんかに乗ると、みんなモバイルでキーボードを打っているんですね。言葉から身体がどんどん乖離して、それで神経が苛立っていく。それをすごく感じますね。

背中を押してくれる異性の友だちが力になる

ねじめ私は、体調が悪くて、小説も進まない、ああどうしようかなと思っていたときがあった。あのころ長嶋茂雄さんも病気で倒れて、大変な思いで、長嶋さんに毎日はがきを書いていた記憶があるんです。1日多いときで4枚ぐらい書いていました。

そういうときって状態がおかしいんですよ。同じ人に1日に4枚もはがきを出すというのは、神経的にはもうおかしい。それをみかねて、女優で俳句仲間の冨士眞奈美さんが、ポンと背中を押してくれたんです。「ねじめさん、大丈夫?でも、ねじめさん偉いわよ。あなたは長嶋茂雄よりも偉いのよ。長嶋茂雄にはがきを1日4回出すというのは、長嶋茂雄よりも偉いんだから」って、わけのわからないことを言われて(笑)、すごく励まされた。はがきをくれたり、長電話ももちろんします。そういう異性の友だちは、すごく力になりますね。男同士はあんまり。(笑)

女房は女房のよさがもちろんある。女房で救われることもあるんだけど、老後を考えたとき、そういう友だちが1人でも2人でもいると、すごく救われるという感じはありますね。私はいろんな意味で救われました。病気も楽になった記憶がありますしね。

背中を押されたときに、男にたたかれても、余計前のめりになっちゃうんだけど、女の人にたたかれるとひょっと背筋がのびる。いい意味の格好づけみたいなものはありますよ。それが大事なのかな。異性というのはすごい力になるという気はしますね。

藤原男・女で区別するとよくないかもしれないけど、女性同士の話って、感情の交換が多い。これはいいんですね。男の場合は論理とか情報だけで、ぶつかったりする。

ねじめいいこと言わなきゃいけないとかね。あいつ2回言ったから、俺は3回いいこと言わなきゃみたいな。

これはあんまり強調されると困るんですけど、はっきり言って、今、女の人と話しているほうが楽しい。(笑)

藤原ぼくは少年のころからそうですが。(笑)

老人も現代人、今、老人同士を集めても話は始まらない

青木老人の状況というのも変化していますよね。

藤原今、老人は増えているんだけど、逆に老人クラブはかなり減っているんです。老人クラブは、今の老人にとって、あり方がつまらないんだと思うんです。折り紙を折って幼稚園に届けるとか、あるいはお茶を飲むとか、ゲートボールやるとか、そういう定型のイメージで老人を見て老人クラブをつくるから、衰退していくんですね。考え方を変えないといけない。

横須賀線なんかに乗ると、向かい合わせの4人席がありますね。昔はミカンが出てきたり、話かけてきた。かつて漫才で、病院が老人サロン化して、「ねじめさん、きょうは見えないね」と言ったら、「あの人病気だから」という笑い話があった。

今は、電車に乗り合わせても病院に行っても、老人同士は話をしないですね。老人同士を集めたら何か話が始まるということはないんですよ。状態が変わってきていることを、周りが意外にわかってないんです。老人だって現代人なんですよ。昔の老人とは違う。それを理解してないなという気がしますね。

青木それをどういうふうにしていったらいいのでしょうか。

藤原発散する場所を新しい形でつくる。老人だから羊かんとお茶じゃない。

老人って、意外に老人が嫌いなんです。老人だから老人を集めれば何かなるというような固定観念はだめですね。それから、老人自身も、自分が暴走するかもしれないという想像力を持たなきゃいけないですね。俺は大丈夫だと思っている人は、そこにまず問題がある。

老人は生き生きしないから老人

藤原それと、周囲がつくった今の老人の理想のイメージというのがありますよね。生き生き元気で、70歳でフルマラソンを完走しましたとか、90歳すぎてお医者さんをやっています、というようなモデルです。そうすると、おじいちゃんがこたつでミカンを食べていると、「おじいちゃん見てご覧なさい。エヴェレストに登った人よ」と言われる。ふつうのおじいちゃんはシュンとしちゃう。

老人というのは、生き生きしないから老人なんです。つまり、矛盾することを要求している。生き生き1人で勝手にやってくれれば、世話もかからないし、国としても、家族としても楽だからです。

ヨボヨボするのが老人だという前提に自分自身が立たないと、そのギャップの中で苦しむだけという気がします。だから、そういうイメージにこだわらないというのが大事だと思うんですけどね。

ねじめそうです。長嶋さんだって病気になる(笑)。長嶋さんを若いときからずっと見てきて、高度経済成長の中では、身をもって先頭を走って、テレビという1つのメディアを引っ張り上げたというすごい力もあった。

これははっきり言ってもいいんですが、あの人は自分で倒れて、やっぱり時代は変わったんだよというところを見せた。自分でわざと病気になって見せてくれたんじゃないかと思うぐらい。

あんな時代的な人はいないです。最後の最後まで僕らに見せてくれているというところがある。あの長嶋さんが、普通の人に混じってリハビリをやっている。病気になったら、無理しないでいいんだよって。

軟弱だから軟弱なりに「老人力」を持ちたい

青木ご自身の老後についてなにかお考えですか。

藤原僕はリアリティはまだないんですよ。老後って突然やってくると思うんです。ジワジワやってくるのじゃなくて、つまずいて足の骨を折って、歩けなくなったとか、そのとき初めて老人を意識するんだと思う。今まで簡単にできていたことが急にできなくなったときに初めて「俺は年取ったな。老人になった」と思うのでしょうね。

ねじめ赤瀬川原平さんの『老人力』がベストセラーになったとき、老化や「ボケ」ることを「老人力がついた」と表現したことが話題になりましたね。原平さんは脱力老人としてとらえた。

藤原鴨長明みたいに孤高の人になって、自力で考えていくような老人像はあこがれるけど、なかなか難しい。我々も軟弱だから、軟弱なりにまさに「老人力」が欲しいなと思うんです。

今は、いかに結果を早く出すかという時代で、プロセスは評価されない。そこに50年住んでいる人に道を聞いても、街並みが変わっているからわからない。むしろ中学生が、ケータイでマップを出してすぐ教えてくれる。僕はそれをショートカットと言っています。

ショートカットの方法というのは中高年になるとなかなかわからない。僕もケータイはそんなに使えない。マップもついていますが出せない。ショートカット第一主義になり、それを知らない中高年、年寄りは置いていかれる。そういうことになっているんだろうと思うんです。

老人にしかできない発想が老人力

藤原知り合いの両親が沼津に住んでいて、新宿のホテルでの親戚の結婚式によばれた。年をとっているし、夫は足が悪い。妻は東京へそんなに行ったことがない。行けるだろうかという話になった。それでどうしたかというと、試したんです。新宿まで行ってホテルを見て帰ってきた。そして1週間後に結婚式に行った。こんな発想は僕らにはできない。これが「老人力」だと思うんです。

ある意味で老人というのは結構敏感なんですね。老人だからのんびりしていて鈍感なんじゃなくて、今の空気とかを読んでいるわけですよ。今はショートカットでスピードの時代で、そういうテクニックを使えない老人はあせっているんです。

新幹線の切符もケータイで取る若者の横で、みどりの窓口に並ばなきゃいけない自分を見たときに、こんちくしょうと思ったり、イライラしたりするんだろう。だから、1週間前に行ってみる、そういう発想で老後を暮らしていくのは、すごくいいなと思うんですね。

ねじめうちのおふくろは俳句をやっていますが、吟行の前の日に下見に行っていましたね。それで俳句つくってきちゃえばいいじゃないかと思うんですが。(笑)

今までやってきたことをどこまで続けられるかも第2の人生

青木知恵さん

青木知恵さん

青木年をとっても、何かやりたいことがある人は1人でそれに没頭していたりします。何となく流れに乗ってきた人が、いざ1人になってみると、うまくいかなくてキレちゃうというケースがあるようですね。

藤原そうそう、それはあるんですよ。今、自分探しをしているのは、子供じゃなくて中高年ですから。老人が自分探しのためにカルチャーセンターに入って、デジカメを買って、みんなで鎌倉に来るんですよ。

60で会社をやめたからカメラを買ったり、楽器をやろうとかというけど、そういうのって結構辛いんだろうと思いますね。

ねじめ第2の人生って全く違うことをやってみたいという思いが皆さん強いことは確かで、それはよくわかります。でも、僕はあんまりそう思いません。今やっているものをどれだけ続けられるかと思う。最初の人生でやってきた、それを生かしてもっといろいろやればいいじゃないかと思うんだけど、みんな以外にそうじゃないんですね。

暴走する小説がなければねじめじゃない

青木ねじめさん、これからは小説も。

ねじめ小説もやりたい。暴走する言葉で小説を書きたいんですね。藤原さん、どうするの、小説は。

藤原右に同じで、暴走する小説を書きたいと思っています(笑)。年を取るとだんだん短距離走になってくるんですね。だけど、あえて陸上競技で言うと長距離、1万メートルぐらいの感じでやりたい。

ねじめ私は、暴走する言葉というのが、やっぱりすごく大事なテーマなのかなと思う。年を取れば年取るほど暴走する言葉をやりたいですよね。自分では暴走してるつもりでも「全然暴走してないじゃない」と簡単に言われてしまう可能性もあるんだけど。でもきっと、時間をかけて暴走するものを書いていかないといけないのかな。私の中には暴走した小説がないという不満はありますね。暴走しなければねじめじゃないという思いもあります。

青木ありがとうございました。

ねじめ正一 (ねじめ しょういち)

1948年東京生れ。
著書『落合博満変人の研究』新潮社 1,300円+税、『老後は夫婦の壁のぼり』清流出版 1,500円+税、『あーちゃん ねじめ正一詩集』理論社 1,400円+税、ほか多数。

藤原智美 (ふじわら ともみ)

1955年福岡市生れ。
著書『なぜ、その子供は腕のない絵を描いたか』祥伝社文庫 552円+税、『私を忘れないで』ジェイ・インターナショナル 1,200円+税、ほか多数。

※「有鄰」490号本紙では1~3ページに掲載されています。

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