Web版 有鄰

489平成20年8月10日発行

源氏物語――1000年 – 特集2

藤井貞和

心のなかで夕顔や浮舟に

今年は大長編の『源氏物語』がこの世に誕生して、一千年め。作家が紫式部という女性であることもよく知られている。改めて驚嘆する思いに浸りたいとともに、『うつほ物語』や『落窪物語』にとっても千年紀はあったのだからと、『うつほ物語』『落窪物語』のファンとしては少々残念である。大長編の『うつほ』、長編『落窪』がさきにあったから、負けず嫌いの紫式部はがんばって『源氏物語』を書いたのだと思う。

西暦1008年(寛弘5年)にはたしかに紫式部によって、営々と『源氏物語』が書き継がれていた。その13年後、つまり西暦1021年(治安元年)には確実に宇治十帖のさいごまでが書き終えられ、流布していた。そのことは『更級日記』の記事によって確かめられる。

14歳の『更級日記』作者(菅原孝標[たかすえ]の娘)は、帰京して『源氏物語』54巻(あるいは50余巻)を手に入れ、読みふけりながら、心のなかで夕顔になってみたり、浮舟になってみたりしていた。話の筋などは諳[そら]んじてしまった。

彼女の証言を根拠として、西暦1021年(治安元年)を、『源氏物語』の全巻が確かめられる年だとすると、千年紀は2021年(平成33年)だと考えることもできる。そして今年は『源氏物語』の大ファンたりし、孝標の娘の生まれた年からちょうど一千年めでもあった。

作家の心の奥の密室で

大長編物語はどのようにして生まれたのだろう。紙が貴重だったと言われるけれども、普通紙ならば大量に供給できるはずである。現代風に言えば、プリントアウトしては推敲に推敲をかさね、前後する話のつじつまを合わせたり、削除したり書き加えたりして、ちょっとした工房の感をなしていたろう。

『うつほ物語』の場合にはそれらしい記録がのこっていて、女性たちが発注したり、書写したり、物語司[ものがたりづかさ]という役所名があったことも知られている。むろん私製の役所だが、係りが分担して、大わらわでその20巻の物語を何年もかけて作り上げたという経過であるらしい。

『源氏物語』についても、一部は書きかけのほうを持ち出されたので、つまり草稿ないし第一次稿がこんにちに流布してしまったと『紫式部日記』にあるから、紫式部を中心としながら、アシストさんや編集者たちが周囲に控える、ある種の興奮状態や喧噪をともないながら、作家の心の奥の静かな密室を確保しなければならないという、なかなかスリルのある制作過程だったのではないかと想像される。

だから場合によっては不十分な推敲の箇所がいまにのこる『源氏物語』だと、その『紫式部日記』の記事からは受け取れる。「花散里」巻のあまりの短さや構想の破綻。「朝顔」巻にしても2回にわたり朝顔の姫君を訪問する不自然さ。源典侍[げんないしのすけ]という人の出没のしかたは各巻に増補部分があるように読めてしかたがない。

短編で破綻があるのならどうしようもないが、『源氏物語』の場合、そうした構想上の奥深い傷痕にこそ、長編が長編として誕生するための秘密が書き込まれているはずだ。研究のそうしたことへの関心や探求がすっかり下火になっている現状は残念である。

思いをのこさぬ出家とは

紫式部そのひとの作家としての野心というか、関心事はやはり、女性主人公たちをできるだけたくさん登場させて、彼女たちを書き分け書き分けして見せるところにあった。いろんな読み取り方があるにしても、私としてはそう確信する。

もう少し言えば、藤壺の宮という人、朧月夜尚侍[ないしのかみ]のエロス、あるいは源典侍へのからかいと共感というように、女性主人公たちの存在の底に下りてゆくしかたが、一人一人ちがっている。だから非常に極端に言ってよければ、オムニバス風に、朧月夜物語とか、六条御息所物語とか、短編をいっぱい書いてもよかったのである。

朧月夜尚侍は朱雀院[すざくいん]の後宮にはいった女性でありながら、源氏の君との密通を繰り返していた。「若菜下」巻に至っては、さすがに光源氏との関係を絶っていた。ところが出家を決意してから、積極的に源氏の君との情交を復活させる。そのあと思いをのこすことなく出家する。

そういうところが女心の分かりにくさだ、と評した研究者がいるし、私にも朧月夜という人物はなかなか謎を感じさせられる女性主人公であって、十分に解き明かせない。

六条御息所は「賢木」巻の冒頭で源氏の訪問を受けいれ、明け方の和歌唱和をへてついに別れる。野々宮という神聖な場所での逢瀬であり、二人のあいだに情交があったか、なかったと読むひとが多いにしても、紫式部という作家の探求するエロティシズムを考慮にいれると、神域というタブーに挑戦する二人ではなかったであろうか。そんな気がする。

神に仕える罪深さ

源典侍という女性には興味をそそられる。「紅葉賀」巻の増補部分で、57、8歳という年齢として出てくる。19歳の光源氏と情事を交わす関係にある。また別に通わす男性もいるらしい。宮廷に仕える女性としてまあ、複数の性的関係はあってしかたがないというのが実情だろう。

源典侍はあとの「朝顔」巻に顔を覗かせていて、そのときはさすがに70歳を越えているのではなかろうか。源氏が朝顔の君を訪ねると、尼姿で源典侍が出てきたというところが面白い。

彼女はどうして尼姿、出家者になっているのだろうか。老いびとといえる年齢に達しているのだから、出家姿になるのは自然なことだと考えてよいのだろうか。

朝顔の君がのちに出家する理由なら、だいたい分かる。彼女は斎院(賀茂神社に奉仕する女性)として、神に仕えたことのある女性で、そういう人は仏教的に罪深いといわれる。神に仕えた人には出家を勧めるというのが仏教の立場である。

六条御息所は自分の娘が伊勢神宮の斎宮になったとき、いっしょに随[つ]いて伊勢に行ったから、やはり罪深いということで、亡くなるまえに出家する。

藤壺の宮が出家する理由を考えると、夫(桐壺院)がいるにもかかわらず光源氏に通じ、子をなしたという密通の罪を持つことに最大の理由が求められる。夫の一周忌を終えて、供養の法華八講[ほけはっこう]の果ての日に藤壺の宮は落飾する。

密通する女性は全員、出家する。

藤壺の宮、女三の宮、空蝉、浮舟の女君はみな出家する。密通する朧月夜もまた当然のように出家するのである。

可憐な姿、紫上

みぎのことは逆からも言われなければならない。密通しない女性は出家をしない。紫上をはじめとして、明石の君も、花散里も出家しない。可憐な姿を見せて「若紫」巻に登場した紫上は、物語のなかでの生涯を光源氏とともにする。一度、在家信者になったことはある。でも紫上はついにほんとうの出家をしなかった。密通のない女性である以上、彼女には出家する理由がない。

源典侍が晩年に出家する理由は、そうしてみると、宮廷にあって複数の男性関係を余儀なくされたことと関係があるかもしれない。病気で出家する尼君たちが何人か物語にでてくる。そういう病弱の尼君たちとちがい、源典侍のような元気な尼姿の場合には、色好みの罪を疑ってよかろう。

長い歳月をけみして完成

女性主人公をめぐる、短編的な構想だけだと長編物語になりにくい。横糸に対する縦糸というか、罪を自覚して出家する、あるいは紫上のように添い遂げるといった縦の構想が成熟して、だんだん長編らしくなる。少なくとも十何年、あるいは20年近い歳月をけみしてついに長編完成に達したろう。『源氏物語』千年紀は10年、20年つづくと思いたいところである。

藤井貞和氏
藤井貞和(ふじい さだかず)

1942年東京生れ。詩人、文芸評論家、立正大学教授、東京大学名誉教授。
著書『源氏物語論』 岩波書店 14,000円+税、『古文の読みかた』 岩波ジュニア新書 840円+税、『言葉と戦争』 大月書店 2,500円+税、詩集『ことばのつえ、ことばのつえ』 思潮社 2,000円+税、他。

※「有鄰」489号本紙では4ページに掲載されています。

 

横浜開港150年・有隣堂創業100年
横浜を築いた建築家たち(2)

ブラントン Richard Henry Brunton (1841‐1901)
――明治初期のマルチタレント・エンジニア

吉田鋼市

yoshidabashi

吉田橋「ファー・イースト」(1871年2月)から
横浜開港資料館蔵

英国スコットランド出身のいわゆるお雇い外国人の土木技術者で、年号が明治に変わる1ヶ月前の慶応4年8月から明治9年3月までの8年に満たない在日期間に、信じられないほど多くのしかも多様な仕事をなしとげている。途中1年の休暇帰国をはさんでいるから、実働期間は7年弱。

その間に、日本各地の海岸沿いに26もの灯台をつくり、多くの浮標(ブイ)と灯竿(港の位置を示す灯火をいただく竿柱)を設けた。「日本の灯台の父」とされる所以である。

灯台設置が主たる任務だったが、そのほかにも日本のいくつかの土地の測量や、港湾の拡充計画をつくっている。現在、再開発の対象となっている横浜の北仲地区に灯明台役所(後に灯台寮)を設け、そこに官舎をつくって住んだから、横浜が根拠地であり、横浜の都市計画にも大きく関わっている。

すなわち関内地区の正確な実測から始まって、港の拡充計画、下水道の敷設、日本大通りと横浜公園の計画、電信設備の建設、「かねの橋」とも呼ばれた日本で最初のトラス鉄橋たる吉田橋の架橋(明治2年)、はては鉄道建設の進言にまでおよんでいる。まさに八面六臂の鬼神のごとき大活躍であり、「横浜のまちづくりの父」の名に恥じない。

くわえて、日本各地に灯台をつくり機能させるため、日本人の灯台の技術者や保守要員を養成するための学校もつくっている。その学校が母体になって後の工部大学校となるから、日本の近代工学教育機関のはるかな淵源をつくったことにもなる。

異郷で一旗といったタイプとは全然異なり、英国でまっとうな教育と必要な訓練を受けて、妻と娘を伴って来日している。その時、わずかに26歳であるが、日本の近代化に大きく貢献した。当時の英国技術者の底力を見るべきであろう。

下田の神子元[みこもと]島、銚子の犬吠崎など、彼がつくった灯台がほぼそのまま残る例はいくつかあるが、横浜には彼の偉業をしのべる遺構は残念ながらない。しかし昭和53年に吉田橋の欄干が、高速道路となったかつての川にかかる橋の両側に復元されている。また平成4年、彼の生誕150年を記念して、その吉田橋のたもとに2つの記念銘板が建てられ、横浜公園には胸像が設置された。同時に、彼を顕彰する展覧会が横浜開港資料館で開かれており、その図録は完璧に彼の事績を伝えている。

吉田鋼市 (よしだ こういち)

横浜国立大学大学院教授。

※「有鄰」489号本紙では4ページに掲載されています。

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