Web版 有鄰

488平成20年7月10日発行

[座談会]横浜開港と宣教師たち―聖書翻訳と女子教育―

捜真学院理事長/小玉敏子
明治学院大学講師/岡部一興
明治学院大学キリスト教研究所協力研究員/中島耕二
東京女子大学大学院教授/小檜山ルイ
有隣堂社長/松信 裕

左から、小檜山ルイ・岡部一興・小玉敏子・中島耕二の各氏と松信 裕

左から、小檜山ルイ・岡部一興・小玉敏子・中島耕二の各氏と松信 裕

はじめに

聖書翻訳委員社中メンバー

聖書翻訳委員社中メンバー
青山学院資料センター蔵

松信キリスト教は、徳川幕府によるキリシタン禁止令や200年以上も続いた鎖国によって、日本の社会から排除されてきました。しかし安政6年(1859年)に横浜が開港されると状況は大きく変化し、おもにアメリカからさまざまな教派の宣教師が来日することとなりました。

横浜では、キリスト教はまず居留地を中心に、そして次第に日本人の間に受け入れられ、浸透してきました。来年(2009年)は横浜の開港150年であると同時に、キリスト教開教150年でもあるそうです。

本日は、幕末から明治にかけて来日した外国人宣教師たちがキリスト教布教のために行った医療事業や聖書の翻訳、またミッションの教育事業、とくに女子教育について、ご紹介をいただきたいと存じます。

ご出席いただきました小玉敏子様は捜真学院理事長、関東学院女子短期大学名誉教授で、英学史をご専攻です。

岡部一興様は明治学院大学講師、明治大学講師でいらっしゃいます。日本プロテスタント・キリスト教史を研究されております。

中島耕二様は明治学院大学キリスト研究所協力研究員で、日本近代史と宣教師について研究されております。

小檜山ルイ様は東京女子大学大学院現代文化部教授、東京女子大学女性学研究所副所長で、アメリカ社会史などを研究されております。

近々、当社から、『横浜開港と宣教師たち』を出版の予定でございまして、本日ご出席いただきました先生方をはじめとする横浜プロテスタント史研究会の方々にご執筆をいただいております。

安政6年のキリスト教開教から150年

松信横浜の開港で宣教師が来日しますが、それ以前の状況はどうだったのでしょうか。

岡部来年の開教150年について少し補足しますと、安政5年(1858年)に日米修好通商条約が締結され、翌年に発効されますが、その条文の8条に、アメリカ人が礼拝堂を居留地に置いてもいいということが書かれているんです。ハリスは手紙で、この条項が伝道のため有益に働くでしょうとも言っています。

日本に一番早く来たのはカトリックで、1844年にパリ外国宣教会が、フォルカードと中国人伝道士オーギュスタン・コーを琉球の那覇に上陸させています。1846年には、プロテスタントのイギリス琉球海軍伝道会のベッテルハイムが来て、琉球語で新約聖書を訳しますが、激しい迫害の中で伝道しています。

ロシア正教のハリストス正教会は、1858年11月に函館にマァホフが函館領事館付の司祭として着任します。1861年にはニコライが日本にやってきています。

私たちの研究会が横浜の宣教師たちとしてとらえているのは、すべてプロテスタントの宣教師なんですが、その関係では1859年、アメリカ聖公会のリギンズが5月に、6月にはC・M・ウィリアムズが長崎に来ています。

J・C・ヘボン

J・C・ヘボン
(1815-1911)
横浜開港資料館蔵

横浜には、ヘボンが59年10月に、S・R・ブラウンとシモンズが11月に来ます。フルベッキも長崎に来る。60年にはJ・ゴーブル、61年にJ・H・バラが神奈川にやってくる。通商条約では、横浜ではなく神奈川が開港場でしたので、まず神奈川の本覚[ほんがく]寺に置かれていたアメリカ領事館に近い成仏[じょうぶつ]寺が宣教師の宿舎に提供されます。

日本の伝道は、東南アジアやインドなど、アジアの宣教が先にあって、それから日本にやってくるわけです。一番早いところでは、ウィリアム・ケアリーが1793年にカルカッタを中心として伝道を始めます。そういう中で超教派のロンドン宣教会がモリソンを中心に宣教活動をしまして、インドや東南アジア、中国などに伝道をするようになってきます。

なぜ外国に伝道をしていくかといいますと、例えばロンドン宣教会の創立総会などの記録を見てみますと、一つの教派が伝道するというより、むしろ自分がイエス・キリストに出会った。その証明をもって自分の体験を伝道したいというのがプロテスタントの特徴だと思います。

1810年になるとアメリカ海外伝道局ができまして、今度は、アメリカの宣教師が日本にやってくることになります。

岩倉使節団の視察で明治6年に切支丹禁制の高札が撤廃

松信横浜が開港したときには、まだ日本は切支丹禁制下であったわけですね。

岡部切支丹禁制の高札が撤廃されるのが明治6年(1873年)です。来日してすぐにキリスト教が自由に伝道できるような状態になったわけではなくて、例えば明治5年にできた日本基督公会の礼拝には、スパイ(諜者)が来ていて、きょうはどういう説教だったとかを政府に報告しているんです。それは「耶蘇教探索報告書」という形で諜者の記録が残っています。

伝道を始めるのはまだまだ非常に難しかった。初めは日本語の勉強とか辞書の編さんとか、英語を教えるとか、そういうものが中心だったと思うんです。

小檜山明治6年の高札撤廃は一つの区切りであることは確かです。当時の西洋世界はキリスト教徒でなければ文明人でないという論理なんです。クリスチャンじゃない人はヒーザン、つまり異教徒の野蛮人という概念で区切っていましたので、71年に岩倉使節団が行ったときに、要するにキリスト教を禁止しているような国は、不平等条約の撤廃なんてとんでもないと言われて、あわててキリスト教の禁令を外さなければいけないことになるわけで、それが実現して、宣教師が73年以降、一気に増えますね。

ヘボンは中国アモイで伝道後に来日

松信開港後、最初に来日するのがヘボンですね。

岡部私は横浜指路[しろ]教会の125年史を編さんした関係で、ヘボンのルーツをたどったことがあるんです。

スコットランドのエジンバラから12マイルぐらい東にボスウェル城というのがあって、ヘボンの遠い祖先が城主だった。当時はイギリス国教会ですので、迫害がありました。ヘボンの曾祖父だと思いますが、スコットランドから北アイルランドに逃げ、そこでの生活も厳しいので、結局アメリカに渡る。そしてペンシルバニアの地域を開発していく。ペリーの艦隊にサスケハナ号という船がありますが、その名前のもとになったサスケハナ川の流域のウィリアムスポートやミルトンというところです。その地域を初めて開発し、地主になる。ヘボンはそこで生まれます。

お父さんと同じプリンストン大学を出て、お父さんは伝道師、牧師になることを望んでいたらしいんですが、自分は人前で話すのが苦手だから牧師にも弁護士にもなれないということで、医者になったらしいんです。

彼の海外伝道の最初は、中国のアモイでしたが、5年ぐらいで妻クララの病のために帰国して、ニューヨークで医者を13年ぐらいやりまして、それから日本に来る。

名前はヘップバーンなのですが、日本人にはヘボンと聞こえたらしいんですね。それで「ヘボン」になったわけですが、ヘボンは自分でも「ヘボン」と言い、漢字で「平文」と書いている。

日本では医療で活躍した宣教師は少ない

松信ヘボンはまず、施療活動を行っていますね。

小檜山ヘボンがお医者さんというのは有名ですけれども、付随的なものです。日本で医療で活躍した宣教師はあまりいませんね。

医療は、日本は非常に早い段階で日本人で押さえてしまいます。外から来た外国人に医療をまかせることはしなかったので、宣教師の医療活動はごく短い期間に限られています。

中島医療は、中国の場合は成功したので、S・W・ウィリアムズが医者を派遣するようにと提案するわけです。それでヘボンとかシモンズとか、医師でもある宣教師たちが日本に来るんですが、日本国内で医療が発達したので、宣教師の医師としての役割が終わったんですね。韓国では遅くまで宣教師の病院が続きました。

小檜山病気が治るのはまさに奇跡と感じられるんですね。ですから、医療は布教の手段として非常に大きな力を持っていたわけです。日本人はそこのところに早くに目をつけて、自分たちで押さえてしまったので、日本では宣教師の医療活動は限定的なものに終わりました。

岡部ヘボンはまず施療をやり、辞書をつくり、それから聖書翻訳をする。ほかにも横浜指路教会や明治学院などの教会を建てる。彼の日本での功績は大体その3つに大きく分けられると思います。

ヘボンは新約・旧約の大部分の聖書を翻訳

岡部ヘボンの仕事の中で、聖書の翻訳はもっと高く評価されていいのではないかと思うんです。

ヘボンは自分たちの教派だけではなくて、ほかの教派と一緒にやっていきたいと共同訳の聖書を主張するわけです。新約聖書は27巻ですが、そのうち17冊の訳が1879年(明治12年)12月に完了します。そのうち12冊、約7割弱をヘボンが訳しています。

旧約聖書は、ヘボンが委員長になって、明治20年(1887年)に完成します。39巻が28分冊になっていて、そのうち半分の14分冊をヘボンが訳している。

新約・旧約の両方に、最初から最後までかかわっている宣教師はヘボン一人だけなんです。日本に来るとき、ヘボンは聖書翻訳を相当重視して考えていたと思います。聖書翻訳の前に『和英語林集成』をつくっていますけれども、辞書編さんはいわば聖書翻訳をするための一里塚だったのかなと思います。

小檜山聖書翻訳は、ヘボンがやった中で一番重要な仕事だと私も思います。

プロテスタントの宣教師にとって聖書翻訳は最も根幹にかかわる仕事で、そこがカトリックと大きく違うと思うんです。プロテスタントでは現地語で読める聖書をつくること、つまり、平信徒が直接神の言葉を読むことができるということを重視しますから、中心的な仕事になるのは当然なんです。

それは、ただ単に、聖書を翻訳して、宗教上の意味があるということにとどまらなくて、世界中にプロテスタント系の宣教師がいて、聖書を訳す過程で現地語と、多くは英語の間に橋渡しをしたことが極めて重要です。

大英帝国とか、その跡継ぎとも言うべきアメリカ帝国というような世界覇権というものを考えるときに、英語の広まりは非常に大きな意味を持っています。その基礎を築いたのは宣教師たちで、その聖書翻訳にかける宗教的な情熱がなかったら英語という言語が世界言語になることはなかったと思うんです。

S・R・ブラウンは日本の青年たちに英語を教える

S・R・ブラウン

S・R・ブラウン
(1810-1880)
横浜開港資料館蔵

松信S・R・ブラウンも聖書翻訳委員会のメンバーですね。

岡部S・R・ブラウンは改革派の宣教師です。1838年にマカオに設立されたモリソン記念学校の校長に任命され、約10年間、中国で活動します。その後ニューヨークに帰り、今度は日本に宣教師として派遣されます。ヘボンの1か月後に横浜に着き、最初は成仏寺に住みます。

ヘボンが辞書を編纂したのと同じように、『コロキィアル・ジャパニーズ』という英語の慣用句の書物を会話体の日本語に訳した本も出版しています。1869年には、メアリ・キダーを連れて新潟の英学校に赴任しますが、1年足らずで辞任し、横浜に帰ってきます。

聖書の翻訳では、新約聖書の翻訳委員会の委員長を務めます。ブラウンは山手211番に住んでいました。現在は横浜共立学園の敷地の一部になっていますが、そこに記念のタブレットがあります。

ブラウンは多くの日本の青年に英語を教えていました。このブラウンの塾がヘボン塾とならんで、今日の明治学院へと受け継がれています。

「バプチゾー」の訳をめぐって、教派で意見の違いも

バプテスマを行うベネット

バプテスマを行うベネット
捜真学院蔵

松信バプテスト派のネーサン・ブラウンも聖書翻訳をしていますね。

岡部ネーサン・ブラウンは、庶民にわかる聖書という視点で、ギリシア語をもとに訳しています。その点ヘボンもS・R・ブラウンも、ネーサン・ブラウンに一目を置いている。

まず第一に注目すべきは、ネーサン・ブラウンが訳した「志無也久世無志與[しんやくぜんしょ]」は、日本最初の新約聖書だったことです。

第二に注目したいのは、聖書を翻訳するとき、例えばギリシア語の原典の「バプチゾー」いわゆる「バプテスマ」をどう訳すかということで、ヘボンの長老教会とネーサン・ブラウン、ゴーブルのバプテスト教会では考え方が違うわけです。

水の中に全身を沈めるのがバプテスト教会の洗礼の仕方です。沈むことによって古い自分が死に、上がってきたときに新生するという考え方がバプテストにあると思うんですが、ネーサン・ブラウンは、「バプチゾー」を「浸礼」と訳したいと言うんです。それに対してヘボンたちは「滴礼」という洗礼の仕方でいいんだと。最終的に折衷案が出されて「バプチゾー」を「バプテスマ」と訳した。

今までは、その解釈が違って、ネーサン・ブラウンとヘボンが対立し、ネーサン・ブラウンが共同訳聖書委員をやめたと言われてきた。けれども2人は、そんな対立関係にはなかったのではないだろうかと、聖書和訳史の研究者川島第二郎さんは言っている。

「浸礼」という問題をめぐって対立が起こったのは1874年(明治7年)頃からです。ネーサン・ブラウンがやめるのは1876年(明治9年)ですので、その間がちょっとある。もし対立が激化していたら、すぐにやめるでしょう。

確かに、ヘボンやS・R・ブラウンの書簡集を見ると、そこまでは対立していない感じがある。ヘボンの手紙ではお互いに深い共感を持ち、最善の友情で結ばれていたと書いてあるし、S・R・ブラウンもたびたびネーサン・ブラウンに、訳をめぐっていろいろ聞いたりしています。

小玉私も川島先生から、D・C・グリーンが書き残した聖書翻訳委員会の記録を福岡の神学大学院のイェール教授によって解読、活字化されたものを今の書簡の記述と照らし合わせると、どうも対立して別れたのではないというようなお話を伺ったことがあります。

小檜山ヘボンもS・R・ブラウンも、ネーサン・ブラウンも教育のある人ですし、ネーサンはアメリカでも偉い人ですから、意見が違ったにしてもけんか別れするような子どもっぽいことはないと思うんですね。

小玉ネーサン・ブラウンを翻訳委員会に招き入れたのには、何か理由があったんですか。英語からの訳というのに反対もあったりして、ネーサン・ブラウンは言語学者としてすぐれているから、招き入れたほうが翻訳委員会の進行に役立つといったような。

岡部そう思いますね。

インドでの伝道が長かったネーサン・ブラウン

N・ブラウン

N・ブラウン
(1807-1886)
日本キリスト教文化協会蔵

小玉翻訳委員会が組織されたのは、1872年(明治5年)9月20日、居留地のヘボン宅会堂で開かれた在日伝道会合同の第1回宣教師会議で諸教派各1名の委員による新約聖書の共同訳について議決されて、その日、S・R・ブラウン、ヘボン、アメリカン・ボード(会衆派)のグリーンの3名が委員として推挙されたとなっています。だから、各教派1名ずつの3名で決をとったりしたようです。

岡部そうですね。ネーサン・ブラウンが来日したのは明治6年で、その前に、インドで20年ぐらい伝道しています。

小玉アッサム語の聖書を訳していますね。

岡部ネーサン・ブラウンは現地語で翻訳することに非常に長けていた。カルカッタでは、アッサム語で、聖書だけでなく『オルドノイ』とい雑誌を編さんして発行しています。それからカースト階層社会では孤児のための学校や婦人職業学校を建てたり、農園をつくったりする。

小玉ネーサン・ブラウンが日本に来たときは65歳です。言語学はかなりできた人ですから、日本語を理解はできたでしょうけれど、マスターするのにはちょっと遅過ぎたかもしれません。

岡部日本よりインドのほうが長かった。大体日本に来る宣教師は若くないんです。来日したときの年齢はヘボンが44歳、S・R・ブラウンは49歳です。

J・H・バラは初の無教派の協会を設立

J・H・バラ

J・H・バラ
(1832-1920)
日本キリスト教文化協会蔵

松信いろいろな教派の宣教師が来日する中で、J・H・バラが日本基督公会を設立しますね。

中島バラは、初期の宣教師たちの中ではちょっと異質な感じがします。というのは、ヘボンやS・R・ブラウンがどちらかというと学究的なのに対して、彼の経歴は非常に社会性に富んだ、庶民的な血筋なんです。

日本基督公会は、超教派とか無教派とか言われているんですが、その背景には彼の経歴がある。

彼の両親は初代のアメリカのスコッチ・アイリッシュです。改革長老派という比較的保守的な教会の教徒で、彼自身も当初、長老教会に通っていた。その後、家が貧しいということもあって、アルバイトをしたメソジストの雇い主の家庭で、メソジストにも目覚める。その後、長老教会の優秀な牧師さんと出会って、また長老教会に戻る。最終的に両親はオランダ改革派に転籍して、それに従う形で彼もオランダ改革派に移る。こうした教派をオールラウンドに回ったことから、教派にこだわらない思想に変わったんだと思うんですね。それを日本でも実践したい。

S・R・ブラウンも最初はコングリゲーショナル、会衆教会なんです。その後、長老派に移り、最終的にオランダ改革派として来日した。彼もそういう意識ですし、その後に来たタムソンは、長老教会の宣教師でオハイオの出身ですが、保守的な長老派、あるいは会衆教会と合併する長老教会、そういう経験を踏んでいるので、彼も無教派に非常に賛意を示す。

彼らが中心になって、大桟橋の入口に近い、居留地167番(現在の横浜海岸教会の場所)の「聖なる犬小屋」と言われるような小さな会堂で開かれる祈禱会に日本の青年たちが集まり、そこで、わが国最初のプロテスタント教会である「日本基督公会」が1872年(明治5年)3月10日に誕生するわけです。

ただ、日本人はどちらかというと宣教師に水先案内をされて教会をつくったというところがあるので、彼ら自身は当初は無教派とか、超教派というのは意識していなかったと思うんです。それが第1回宣教師会議が明治5年9月に開かれ、ブラウンやバラたちが、日本に単一のキリスト教会をつくろうと主唱して、その流れで日本基督公会も無教派にしようという意識が、日本人の教徒たちにも出てくるということだと思います。

教派を超えた教会をつくるのは非常に難しかった

岡部明治5年9月の会議で、共同訳の聖書翻訳に各教派から1人ずつ出ること、教派によらない神学校をつくること、J・H・バラ、ブラウンらが推進していく無教派主義の教会をつくること、その3つが決まります。聖書翻訳と神学校についてはすんなり決まるんですが、無教派主義の教会をつくるのは、非常に難しいんです。

というのは、複数のボードが一緒にやっていく場合、各ミッションボードがオーケーを出してくれれば一番やりやすいんですが、オーケーをもらわずに日本だけで運動をするのは非常に難しい。

J・H・バラがいたオランダ改革派はオーケーを出したと思うんです。ところが、長老派とアメリカン・ボードはオーケーを出していない。結局、うまく運動が進まない。ヘボンが「うん」と言わないとできないわけです。

中島その後、海岸教会の支部みたいな形で東京基督公会ができますが、それを主導したのはタムソンなんです。タムソンは長老教会の宣教師ですから、本来は本部の言うことを聞かなければいけないんですけれど、彼はブラウンやバラの趣旨に従ってしまった。となると給料の問題が生じますから、彼はボードに給料を辞退し、そのかわりアメリカ公使館の通訳になって自弁をする。そういうことまでして無教派教会を守ろうとするんです。

ところが、高札が撤去された後、ほかのミッションが一挙に来ますから、そのときに日本人の中でも無教派主義という意識がだんだん薄れてきてしまって、教派主義が強くなってしまった。そういう時代の流れがある。

教派のことよりも回心経験を伝えたい情熱

小檜山結局、お金の問題なんです。宣教師は給料をもらっているわけです。そのお金はボードと呼ばれる宣教本部が、教会から集めている。そのとき、自分たちの教会の仲間を増やすという言い方をしなかったら、なかなか献金してくれません。アメリカ本国で資金が集まらなければ伝道はできないわけですから、そういった戦略的なことを考えると、無教派主義というのは難しいですね。

J・H・バラみたいな宣教師は典型的なリバイバル(信仰復興運動)の中から出てきた宣教師のイメージに近いと思うんです。どういうことかというと、本当に生まれ変わったという自分の経験、その経験を基盤にして神様の言葉を伝えるんだという情熱で出てくる。したがって、どこの教派でどういう教会政治をしているかとか、神学的にどう違うか、そういった差異は、回心経験に照らしてみると余り意味がない。

そういう立場の人から見たら、教派とか、教会にこだわるのはばかばかしいことと認識されるんでしょうね。

海外伝道の宣教師のうち3分の2は女性

松信婦人宣教師が来日してミッションによる教育事業が進められますね。

小檜山海外伝道全体で見てみても、イギリスも含めてその傾向がありますが、日本に多く来ているアメリカに限定して話しますと、大体3分の2が女です。男は3分の1。そういう意味では海外伝道というのは実は女性の運動なんです。概算ですけれども、この3分の2の女性のうち半分は既婚で、半分は独身という割合です。

なぜ女の人がたくさん出てきたのか。アメリカでは独立革命の後、1833年にマサチューセッツ州で政教分離が成立する以前は、とくに会衆派は、税金から教会の運営費や牧師の給料を払っている州もあった。教会は役所のような役割を果していて、牧師はいわば執政官の一員ですから、選挙日に演説をし、裁判官でもないけれども、トラブルの仲裁に入ったりしていたんです。

それが政教分離ということになると、教会は、言ってみればただのボランティアの団体になってしまうわけです。牧師の給料も献金から出さなければいけない。一生懸命お金を集めて、自分たちの教会の教勢を盛りたてていかないと教会が成り立たない。それで教派主義というのがとても重要になってくる。

アメリカは独立革命で共和国になりましたけれども、女性には選挙権は与えられなかった。そこで、投票できない女性と、政治から分離された教会の利害関係は一致していく。女性は教会と結びつくことで、自分たちの意見や権利を公的に表現する手段を得ます。キリスト教道徳を主張することで政治的影響力を獲得します。アメリカでは、女性は「道徳の守護者」と言われ、社会全体の道徳のトーンを決めるとされました。

別の言い方をすると、女性が自分の要求を通そうと思ったら、宗教の言語を使わなければならない。「これは私がやりたいことではないけれども、神様が私に命じたことです」と言うと、みんな聞いてくれる。

つまり、女性は、必ず自己犠牲的なレトリックを使わなければ自分の要求を通せないわけです。「私がやりたいんだからこうやるんだ」と言うと、つつましくない、下品な女になってしまう。「自分にとってこれは大変な災害になるんだけれども、誰々さんのために私はこうします」という言い方をしないと要求を通せないような文化が生まれてくるわけです。このような政治文化を背景に力を持っていった典型が禁酒運動ですね。

結婚前の教師の経験が女子教育につながる

小檜山海外に出てみたいという女性の要求も宗教の言葉で表現される必要がありました。例えば、もっと広い地平を見てみたい。違う世界で自分の運を試してみたいという要求。それを女性が実現するには、当時の文脈では伝道しかないんです。

ですから、海外伝道のリクルートをすると、女性はたくさん来ました。しかも、例えばインドでは、女性しか入れない空間がありますので、女の身体を診られるのは女だというのを旗印にして、女医宣教師としてインドや中国に送り出していきます。アメリカでは女医の活躍の場は限られていたので、女性たちは海外に活路を見つけたのです。

リクルートされた女性、とくに独身の女性の大半は女子教育にかかわるようになる。それは、彼女たちが教師を経験していたからです。アメリカの中流女性は、結婚する前に教師を経験することが多かった。

1830年代以降、アメリカでは無料の小学校をつくる運動が広がります。地域で教員を雇うとき、女の教員は結婚前の腰かけなので、男性の半分ぐらいの給料で雇える。しかも中等教育を受けた女性はまじめですし、小さい子を教育するには男よりもはるかにいい。ですから、多くの女性が教員になったんです。

当時は女性は通常、牧師にはなれませんので、女性の宣教師にできることは女子教育と、日本では余り発達しなかったけれども、医者や看護婦の養成やセツルメントのような社会福祉事業でした。

女性宣教師のトレンドを先駆けたM・E・キダー

M.E.キダー

M.E.キダー
(1834-1910)
フェリス女子院蔵

松信フェリス女学校を創立したキダーも教師ですね。

小檜山キダーは、1869年、35歳で日本に来ました。

独身の女性の宣教師が盛んに送られ出すのは、南北戦争後、つまり1865年より後で、とくに1870年代に教派別に婦人伝道局が設立されて、組織的に独身女性をリクルートするようになります。キダーは、婦人伝道局ができる前に送られた独身の宣教師という意味で、ちょっと古い世代に属していて、来日も早い。その後のトレンドを先駆けるような人ですね。

彼女はマンソン・アカデミーという名門の学校でかなり高いレベルの教育を受けて、教師を長年しながら、都市部で貧しい人たちのために日曜学校を運営し、手芸を教えたりして、宣教師としてのインフォーマルな訓練を受けた人です。S・R・ブラウンの教会の会員だったこともあり、彼の学校で働いていた縁などから、日本に来ることになります。

“愛ある結婚”はミッションスクールから

松信キダーの結婚観は興味深いですね。

小檜山近代的な恋愛結婚、つまりその前提に愛がなければいけないという結婚のあり方は、アメリカでも19世紀前半になって初めて一般化してきます。それ以前の結婚は、長幼の順に親が適当に決めることが多かった。お互いの愛し合う感情が優先順位のうちで高くなっていくのは、およそ1820年代、30年代以降と考えていいと思います。

キダーは1834年生まれですから、愛を前提にした結婚というのが固まっていく風土の中で育つ。キダーがアメリカで長年結婚しないでいたということも、そのことと関係があると思うんです。適当な相手と都合がいいから結婚するんじゃなくて、自分が本当にいいと思った人と結婚したい。そういったことがあったと思います。

日本で、愛を前提にした結婚が試みられ始めるのは、およそ1880年代だと思います。しかも、80年代の前半に、最も早くそれが模索し始められるのは、ミッションスクールの環境であったと私は考えているんです。

E・R・ミラー

E・R・ミラー
(1843-1915)
フェリス女学院蔵

キダーが結婚したのは1873年で、ある書物によれば日本で行われたキリスト教式の結婚の最初のものだと言われています。彼女は、自分より9歳年下の、プリンストン出のミラーという金持ちの独身の宣教師と出会った。願ってもない相手だったと思います。恋愛関係にもなったし、待ったかいがあったんじゃないかと思います(笑)。多分大喜びで結婚したんじゃないかと想像します。

恋愛結婚のはしりになった牧師の家庭

小檜山キダーは夫と一緒に学校に住んで、生活しながら、自分の愛ある結婚の姿を生徒たちに見せていきます。

近所にあったメアリ・プラインの学校では早くからやっていたんですが、ミッションスクールはパーティーをよく開いていました。そこに、宣教師の眼鏡にかなった若い男の子も招くんです。

内村鑑三もそのうちの1人で、メソジストの女学校のパーティーの招待状をもらったときは大喜びしています。女の子を見つけるいいチャンスなんだと書いている。

北村透谷の妻はプラインの学校の生徒でしたし、島崎藤村も、『桜の実の熟する時』で、明治学院の近くの頌栄女学校という長老派の女性宣教師が関与した学校のことを書いています。そういう交流が背景にあって、そこでは甘美な恋愛が起こる。とくに牧師の家庭は恋愛結婚のはしりになっていく。

そういう空間をいち早く築いていったことが、ミッションスクールの大きな魅力であり特徴だったというのが、最近私が考えていることです。

横浜共立学園の前身をつくったメアリ・プライン

M・P・プライン

M・P・プライン
(1820-1885)
横浜共立学園蔵

岡部プラインの学校というのは山手にある横浜共立学園の前身です。1861年、ニューヨークに、米国婦人一致外国伝道協会という組織が設立されます。これは聖公会や組合教会、長老教会など教派を超えた組織で、独身女性を外国に派遣し支援することを目的につくられました。

J・H・バラがアメリカに戻ったとき、プラインの家に滞在するんです。プラインは外国人と日本人との間に生まれた混血児の状況を聞いて、その救済施設をつくることを協会に願い出て、日本に派遣されます。メアリ・プラインとピアソン、クロスビーの3人の宣教師が1871年に横浜に到着し、最初は山手48番に学校を開きます。プラインは51歳、ピアソンは39歳の未亡人で、クロスビーは30代後半の独身でした。

この山手48番館は、1880年にメソジスト・プロテスンタント教会の外国伝道局から派遣されたH・G・ブリテンが、横浜英和女学院の前身になる女学校を始めるときも使っています。バラの持ち家だったということですが、どんな性格の建物だったかちょっと知りたいですね。

翌72年に、山手212番に移り、イギリス駐屯軍の兵士の子どもや混血児の面倒を見ることから活動が始まり、その後は、女子教育に力を注ぐようになります。

カンヴァースは捜真女学校の基礎を築く

C・A・カンヴァース

C・A・カンヴァース
(1857-1935)
捜真学院蔵

松信バプテストの女性宣教師では捜真女学校のカンヴァースが有名ですね。

小玉捜真は、もともと学校を始めたのはネーサン・ブラウンの夫人のシャーロッテです。ブラウン夫妻は、ちょうど日本でキリスト教が解禁になる1873年に横浜に来ております。翌年からでしょうか、町の女子を集めて教え始めたんですが、病気になって一たんやめ、1875年にアメリカ婦人バプテスト外国伝道協会が派遣した最初の独身婦人宣教師の1人として来日したクララ・サンズがそれを引き継いで発展させます。

1886年1月1日にネーサン・ブラウンが亡くなり、サンズがアメリカに一時帰国したので、ブラウン夫人が寄宿生7名を引き受け、山手67番の自宅裏にあったネーサン・ブラウンの聖書印刷所を教室兼寄宿舎に、英和女学校としてスタートしました。

そのとき、横浜に明治時代からある4つの女子の学校のうちフェリスと横浜共立、横浜英和の3つは、もう校舎も建っていました。バプテストでも女子教育を始めるなら校舎も建てようと、ミッション本部の婦人部に要請したわけです。

校舎の資金は割とすぐにめどが立ったんですが、有能な教師が見つからなくて、ブラウン夫人は1889年にアメリカのミッション本部に行って要請します。ちょうどクララ・カンヴァースも宣教師を志願してミッション本部を訪れたんです。

33歳で校長に就任し、35年間在職

小玉カンヴァースは、ヴァーモント・アカデミーから名門のスミス・カレッジに行き、卒業後、ヴァーモントへ戻って教えていたんですが、自分には何かほかにすることがあると思っていたときに父親の死に直面し、宣教師にならなければいけないと決心しました。

それで翌年、1890年1月に日本に着いて教師になりますが、ブラウン夫人はその年の9月に、アシュモア博士と結婚して中国伝道に旅立ってしまい、校長を引き受けることになります。そのとき33歳です。翌年には山手34番に校舎を建てて移転、さらに翌92年に捜真女学校と改称いたします。そして1910年には現在の神奈川区中丸に移転させています。

カンヴァースは1925年まで35年間校長をして、その後も10年間、学校の近くに、一生カンヴァースを助けた山田千代という共立女学校出身の教員とともに名誉校長として暮らしました。

昭和の初めの不況のとき、ミッションの伝道方針も変わったこともあったのか、ミッション本部のほうで捜真を閉鎖しようという計画があったんです。捜真は小さい学校だから、閉鎖しても余り影響はないだろうということだったんですが、カンヴァースに教えを受けた卒業生たちが「どうしても閉鎖しない」と、募金など、存続のために奔走しました。そのときは関東学院の坂田祐先生が校長兼務ということで続けられたんです。

第2次大戦で校舎が全部焼けてしまったときも、関東学院との合併を勧められましたけれど、捜真という名前を残したいという卒業生の思いがかない、復興しました。それができたのは、クララ・カンヴァースの教育にあるのではないかと思います。捜真の基礎を築いた、学校にとって非常に影響の大きい方です。

松信捜真というのはどういう意味ですか。

小玉トゥルース・スィーキング(真理を捜す)という英語の訳でして、カンヴァース校長にとって、教育の究極の目標は「聖書の真理を捜し求める」ことでした。

横浜英和女学校のハジスや、関東学院のベネットらも紹介

松信今度の新書ではプロテスタントの宣教師を11人ほど紹介するわけですが、簡単にご説明いただけますか。

岡部来年の開港・開教150年に合わせて出版することになったんです。

内容には、ここでは出なかった宣教師も、もちろんおります。例えば横浜英和女学校の8代目の校長を務めた婦人宣教師のハジス、関東学院大学神学部の前身でもある横浜バプテスト神学校を開いたベネットなどです。読んでいただいて、どのぐらい反響があるかわかりませんので、よろしくお願いします。

松信どうもありがとうございました。

小玉敏子 (こだま さとこ)

1931年東京生れ。
共著『明治の横浜−英語・キリスト教文学』 笠間書院(品切)。

岡部一興 (おかべ かずおき)

1941年東京生れ。
編著『宣教師ルーミスと明治日本』 有隣堂 1,000円+税。

中島耕二 (なかじま こうじ)

1947年茨城県生れ。
共著『長老・改革教会来日宣教師事典』 新教出版社 3,000円+税。

小檜山ルイ (こひやま るい)

1957年神奈川県生れ。
著書『アメリカ婦人宣教師』 東京大学出版会 4,800円+税。

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