Web版 有鄰

488平成20年7月10日発行

神奈川の「酒文化」 – 特集2

相原精次

14の蔵元が丹沢山の麓を中心に操業

14の蔵元

14の蔵元
神奈川県酒造組合「神奈川県の蔵元」から作成

私が『かながわの酒』という本を世に出したのは今から14年前、1994年のことだった。そのころは友人との会話の場で、ただ「酒」を楽しむだけの「酒飲み」にすぎなかった。そんな自分がどうしてお酒にかかわる本を出すことになったのか。それは偶然のきっかけからだった。

その年、新たな勤務先へ向かう途中に神奈川県酒造組合の事務所があり、そのショウケースに、県内にある酒蔵の銘柄のビンが展示されているのを見た。私は神奈川県にも酒蔵があったことをそのとき初めて知ったのだった。

「日本酒」は日本の古くからの文化であるという認識は持っていた。ただ、酒は「さけ所」といわれる遠い地方で造られるものという勝手な思いこみを持っていたのだ。私はすぐその場で各蔵をめぐってみようと思いたった。

蔵めぐりを始めたのは夏だったので、蔵本来の姿を知ったのは数か月後、寒仕込みの始まる時期になってからだった。私は、仕込みの始まるのを待ち、改めて蔵めぐりを始めた。そのころは、同じ関心を持つ友人たちも加わって、グループでの行動となっていた。そして、そのときの印象などを交えてできたのが『かながわの酒』だった。

私が蔵を回り始めた当時、蔵は18社あった。そのうち、実際に稼働し酒造りを行っているところが15社だった(現在は14社)。それらの蔵は、主に丹沢山を中心とした麓の地域に弧状をなして点在している。県単位の蔵数としては、これは少ない部類なのだが、醸造元が県下にもあることさえ知らなかった私には、「こんなに多くあったのか」という驚きだった。

創業が明治以前というのは14社中の8社。いずれも立地が、矢倉沢往還や津久井道などの昔の街道筋。一見、辺鄙そうな場所なのだが、人が足を使って移動していた時代をそのまま示していた。

訪れるとどこも「蔵」独特の雰囲気がただよっており、酒が古い伝統の中に育まれた産業であるということを、改めて実感した。

ちなみに最も古い蔵が、現時点で247年(寛政元年創業)、最も新しい蔵が、96年(大正元年創業)の歴史をもっている。

古来、酒造りを支えてきた良質の水

中津川筋の酒造業・大矢武平家

中津川筋の酒造業・大矢武平家(現大矢孝酒造) 愛甲郡愛川村(現愛川町)
「日本博覧図」第十編 明治27年 個人蔵

酒造りに欠かせない問題に水がある。幸い神奈川県は、冬には雪も戴く丹沢山塊を持ち、相模川、酒匂川が流れている。「県の水」は日本三名水の一つであって、これが古来、神奈川の酒造りを支えてきた。

その丹沢山の前峰である大山の信仰は関東一円にわたっている。石尊大権現[せきそんだいごんげん]は不動信仰も併せ持つ神仏習合した形で、主祭神はオオヤマヅミノ神。この神は海運・漁獲・農産・商工業など各方面に霊験があり、とりわけ雨降山[あふりさん]の別名もあるように雨をつかさどる神でもあった。

この祭神、オオヤマヅミノ神は京都の梅宮大社と同神。別名酒解神ともいい、酒の神様としても知られている。なお、同じ京都の西にある松尾大社も酒の神であるが祭神が違う。

「酒」と風土の結びつきは、そのラベルにも見られる。銘柄に地名や土地柄が反映することが多いのだ。

山と海に恵まれた神奈川県。ラベルに丹沢山や箱根山、大山などの山の名、また、湘南や相模灘等々、海にかかわる名がある。また一地域の地名の反映としては、「曽我の誉」の曽我、「白笹鼓」の白笹、「いづみ橋」の泉、等々がある。

酒造りは風土に根ざした文化

蒸米(米を蒸す作業)

蒸米(米を蒸す作業)

10月。新米の収穫時が、「蔵」の年度の始まりである。

11月になると仕込みの専門家「杜氏[とうじ]」が酒どころ(新潟や岩手の南部など)から蔵にやってくる。そして、いよいよ仕込みが始まる。

12月・1月・2月・3月。およそこの4か月が仕込みの時期。一般に「寒仕込み」という。厳寒の中、夜中から始まり未明のころが作業の中心になる。

再び10月。「蔵」における新年度が始まる。蔵のタンクは、つぎの仕込みの準備に入る。秋から冬にかけてのころは「日本酒」の最も出荷量の多い時期でもある。ほぼその年度の中で出荷は完了する。

古代から、酒は神事に付きものだった。また、「酒」そのものの製造工程にも神秘的な要素が多々見られる。

たとえば、まず酒の原材料などは常に自然の力に左右されている。その上に酒母造り等々には、年ごと、そしてそのときどき、それぞれに微妙な調子があるという。同じ年の中にあっても一本調子で進むものではない。

また「蔵」にはその蔵ごとに独特の酵母菌が棲んでいるのだという。蔵の中には随所に酒の神が祭られているのを見る。その意味も自ずと納得され、酒造りが単なる「物作りの産業」ではなく、風土に根ざした文化であることを、改めて思う。

蔵の存続のためのさまざまな問題点

ひととおり各蔵の見学を終えるころから、私の意識がいささか変化しはじめたことがあった。部外者の思いとはよそに、「酒造り」にはさまざまな問題があることがわかってきたのだった。

①水の問題。経済の発展で周辺の開発による水脈の変化が起こり、場所によって蔵の存続を危うくしていた。

②杜氏の問題。微妙な酒造りに欠かせない杜氏の制度を維持しづらくなっている。

③機械化の問題。大手は量産のための機械化を推進していたが、中小には難しい要素があり、神奈川県下の蔵はこの中小の企業の部類に属していた。

④嗜好品の多様化。日本酒人気の先行きについて見通しが立てにくい。

等々、「蔵の存続」のためにはさまざまな問題が山積している、という事実をかいま見たのだった。

加えて、当時、酒造界や酒販界には大きな変化がおとずれ始めているころだった。1989年(平成元年)に「清酒の製法品質表示基準」が示され、製造法の違いによる「吟醸酒」や、「純米酒」などといった標示が義務づけられた。これにより、酒に対する嗜好のあり方にも変化が起きていた。

また、1994年前後からは酒販店の設置基準(人口に対しての店の数、また店舗どうしの距離)が緩和され、酒類販売の自由化が始まり、市場で混乱が起き始めていた。

そうした中での蔵めぐりであり、本の出版だった。

以来十数年を経過した現在、神奈川の蔵はどうなのだろうか。総体的な見方をすれば酒造りの原点を見直すチャンスととらえた10年だったと言えるだろう。

現に、私が取材を始めた頃、すでに県下で純米吟醸「神奈川物語」という共同銘柄の酒が造られ、世に出されようとしていた。これは、新しい時代に対する県酒造組合の対応策の一環だった。

共通した酒米で精米歩合をそろえ、ラベルは「神奈川物語」。ただし、仕込みにおいては蔵独自の味を出す。こんな共通理解のもとに、各蔵が一斉に自分の蔵の「酒」を世に問うことにしていたのだ。この試みを嚆矢として、県下の蔵は種々、模索を開始していた。

「手作り」を最大限生かした新たな試み

そんなころ、私には一つ目についたことがあった。それは次代を担おうとの意欲ある若者の姿が多くの蔵に見られたことだった。

①「地産地消」。独自の水田開発、自家製の酒米、地元ニーズに即した酒造り。

②杜氏や蔵人の自社育成。

③自家の酒を楽しんでもらおうと、蔵の会館などの開設。

④「酒」に限定せず、同じ蔵で「地ビール」などの製造。

等々の動きがあちらこちらの蔵で見え始めていた。

これらは主に各蔵を継ぐ若者達のエネルギーとアイデアによる変化だった。

こうした試みに加え各蔵が共通して持っていたのは中小の蔵であるが故の小回りのよさを十分活用し、手間ひまを惜しまない、昔ながらの「手作り」を最大限生かす、つまり酒造りの原点を再度見直す、という姿勢であった。

現に「わが蔵の酒」をアピールする、この傾向が各蔵でより顕著になった。そのため「かながわの酒」は蔵ごとの「こだわりの反映した酒」として見直されつつあり、さらに近ごろは日本酒で梅酒をと、新しい地域起こしも一部軌道に乗り始めている。

こうした活動のさらなる発展として、こだわりの酒販、こだわりの飲食店、こだわりの蔵、この三者が一同に会して「立志会」なるかながわの酒の会ができている。最近でのこの会には酒販6社、飲食店30社、蔵5社が参加した、とのことである。

なお、平成16年に厚木市旭町にある神奈川県酒造組合の会館内に「かながわ蔵元屋」が開設された。ここには県下すべての銘柄が揃い、試飲もできる。

相原精次氏
相原精次 (あいはら せいじ)

1942年横浜生れ。元県立高等学校教諭。
著書『かながわの酒』 彩流社 1,748円+税、『図説「鎌倉史」発見』 彩流社 1,900円+税、他。

※「有鄰」488号本紙では4ページに掲載されています。

 

横浜開港150年・有隣堂創業100年
横浜を築いた建築家たち(1)

ブリジェンス Richard P. Bridgens (1819-1891)
幕末・明治の横浜最大のアーキテクト――

吉田鋼市

横浜駅(初代)

横浜駅(初代)
横浜開港資料館蔵

2009年は安政6年の横浜開港から150周年、また、明治42年創業の当社の100周年にあたります。これにちなんで、横浜ゆかりの建築家とその事績を全12回にわたって紹介します。

イギリス仮公使館(慶応3年)、横浜駅(明治2年)、横浜税関庁舎(明治6年)、横浜町会所(明治7年)など、幕末・明治初期の横浜の代表的な建物をほぼすべて設計したアメリカ人である。当時の横浜を代表する建築家として間違いないのだが、今日的な意味での建築家というのとは少し違う。

来日は1864年ころと考えられているが、その前はサンフランシスコで石版画家として活躍していたことと、サンフランシスコの砲台をつくったことぐらいしかわかっていないらしい。石版画家と砲台建設という組み合わせも、今日から見れば風変わりだが、もともとの「アーキテクト」の守備範囲はいまよりはるかに広く、この2つが入っていても少しも不思議はないから、ブリジェンスは本来の意味でのアーキテクトだったとも見なされる。

それに、建築家の職能に公的な資格が云々され始めるのも、西洋でも1世紀ほど前にしか過ぎないし、机上で図面しか引かないような、やわな建築家では、洋風建築の施工方法を伝えることから始めなければならなかった当時の日本ではお手上げだったろう。

そもそも、そうした実際的な能力をもっていなければ、日本にはやって来なかっただろう。実際彼は、高島嘉右衛門(横浜のインフラ整備に貢献した高島易断でも知られる実業家)や清水喜助(今日の清水建設のもとを築く)などの建築請負師を育てているし、下岡蓮杖に石版画を教えてもいるという。

いわゆるお雇い外国人でもなく勝手にやってきたブリジェンスの大活躍の理由に、当時のアメリカ公使夫人と彼の夫人とが姉妹だったことが指摘されている。それも一因かもしれないが、この大活躍はやはり彼の実践的で広範な実力のたまものであろう。彼の建てた建物の多くは、外壁は石だが柱などの架構は木造の木骨石造だったが、写真で見る限り本格的な洋風で形もよい。それらは今日すべて失われているが、横浜駅とペアでつくられた新橋駅が2003年に復元されているので、その実力の一端がしのべる。また、彼の墓は山手の外国人墓地の19区にある。

吉田鋼市 (よしだ こういち)

横浜国立大学大学院教授。

※「有鄰」488号本紙では4ページに掲載されています。

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