Web版 有鄰

472平成19年3月10日発行

夢はバイオの花見
—京都・醍醐寺と小田原・紹太寺の桜— – 特集2

中村健太郎

ソメイヨシノは江戸末期のクローン品種

タンポポや菜の花など春を彩る花はたくさんあるが、中でも桜ほど日本人に親しまれている植物はあまりないのではないだろうか。それは我々の生活の中に桜に関係する風習や慣習が多く存在することや、桜から辿れる思い出が皆さんの記憶の中に必ず一つはあることからもよく分かると思う。では、この桜という植物、いつ、どこで生まれ、日本人の生活の中で重要な存在となってきたのであろうか。

桜はバラ科サクラ属の植物で、世界に約400種が分布しており、アジアの桜はヒマラヤ生まれと言われている。日本には原種が10種類程度しかないが、それから生み出された園芸品種は、なんと約340種もある。その中で、現代の桜の主役となっているソメイヨシノは、江戸末期に生み出された園芸品種と言われているが、このソメイヨシノが全国どこでも同じ花を咲かせる理由は、ソメイヨシノが接ぎ木で増やされたクローンであるからである。

接ぎ木は最古のクローン増殖技術の一つで、ローマ時代にブドウを接ぎ木で増やしたのが人類初の接ぎ木と言われている。クローンというと、「気持ち悪い」とか、「SFの世界の話」と言われる方も多いが、植物は元々自分でクローンを作り出す力を持っており、人間はこの能力を借りて接ぎ木や挿し木といった技術を開発してきたのである。

京都・醍醐寺の「土牛[とぎゅう]の桜」を組織培養技術で再生

原種は古来より日本に分布し、その気候に適応しているため長寿な種が多い。だが、長寿だけでは生き残れるはずはなく、地元の方々により、大切に守り受け継がれてきたことも理由の一つである。しかし、最近の気候変動によりその大切な桜が衰え始めている。今回の話の主役となる二本の桜も、樹勢が衰え始め、守り受け継ぐための“技”が必要となった桜である。

一本目の桜は、真言宗醍醐派の總本山、醍醐寺(京都市伏見区)で守り続けられている枝垂桜[しだれざくら]である。

醍醐寺は、874年に聖宝[しょうぼう](諡号[しごう]・理源[りげん]大師)が笠取山に准胝堂[じゅんていどう]を建立したのが始まりと言われ、その後、御願寺[ごがんじ]になり、広大な寺領と伽藍を誇っていたが、応仁の乱の際に下伽藍堂宇がことごとく灰燼と帰した。しかし、1598年3月15日、豊臣秀吉により、かの有名な「醍醐の花見」が執り行われたことにより、醍醐寺はその姿を復活させた。

醍醐寺の桜は平安時代から知られていたが、この花見のためだけに山城・大和・近江・河内の国々から約700本の蕾をつけた桜が運ばれ、植えられたと言われており、現在も醍醐寺境内にある十数本の枝垂桜の巨木は、それらの子孫であると言われている。

さて、今回の主役である桜は、「土牛の桜」と呼ばれる、巨木の中で唯一名前を持つ桜である。その桜は醍醐寺境内の三宝院の大玄関前にあり、推定樹齢約150年の白色単弁の枝垂桜である。この桜が「土牛の桜」と呼ばれるようになったのは、この桜を題材にして日本画家の奥村土牛が83歳の時(1972年)に「醍醐」という絵を描いたことに由来する。

さて、私が桜の研究に着手することになったきっかけは実は、この桜との出会いにある。1997年、私が勤務している会社の関連会社である住友林業緑化(株)が醍醐寺から境内の緑化整備工事のお話をいただいたのだが、その工事の中には「土牛の桜」の樹勢回復と後代稚樹の養成という大きな課題が含まれていたため、住友林業グループとしてその二つの課題に取り組むことになったのである。

数百年の歴史を見守ってきた樹木は、歴史的建造物と同じぐらい文化的価値が高く、樹木研究者として、このような事業に参加できたことは、大変名誉なことであった。また、私にとっては、いつも身近にあった親しみ深い樹木であったため、それまで以上に研究に力が入った。と言うのも、生まれてから現在に至る40年間で、“桜”という一文字が、常に私の身近にあったからである。

私は横浜生まれであるが、通っていた幼稚園は「桜丘幼稚園」であったし、創立100年を超える母校・市立旭小学校には見事な桜があった。中学入学とともに大和市に引っ越したが、その最寄り駅が「桜ヶ丘」であり、自宅の目の前には「千本桜」と称される引地川の桜並木があった。高校時代は野球に明け暮れていたが、その背には阿夫利[あふり]の高嶺に映える校庭の桜があり、大学時代、そして就職してからも常に目の前に桜並木がある生活を送ってきた。

世界初のクローン桜が誕生

さて、話を元に戻し、組織培養によるサクラ増殖の試みについてお話したいと思う。

私が桜の組織培養技術に着手した時、枝垂桜に関する組織培養は20年近く前から取り組まれていたにもかかわらず、成功例はほとんどない状態であった。私の会社でも、研究当初は、材料を植え付けても植え付けても葉が奇形になるばかりであった。

ある日、窒素と葉の関係の話を思い出し、慌てていろいろな窒素をかき集め、新しい培養液の試験を始めた。1か月後、インドネシアに出張し熱帯樹木の研究をしていたある日のこと、助手から「奇形も出ずに、きれいに発根してますよ!」、という嬉しい電話がかかってきた。奇しくもその日は私の33回目の誕生日であった。帰国後、増殖した小さな桜の苗を試験管から取り出し、通常の方法で鉢に植え付け、温室で育苗を始めた。

そのわずか数週間後、再び大きな問題が発生した。なんと、全ての苗が葉を落とし、冬眠し始めてしまったのである。春の日差しもちらほらと感じられるようになった3月のことであった。冬眠してしまった苗を見て、頭が白くなったことを、今でも覚えている。その時、「バラは秋に山上げして冬の寒さに当てると花芽が多くなる」、という話がふと思い出された。前述したとおり桜はバラ科の植物である。

急いで実験室に戻り、育苗寸前の小さな苗たちを試験管から出さずにそのまま冷蔵庫に放り込んだ。数週間後、冷蔵庫から苗を取り出し、温室で育苗を始めたところ、眠っていた芽から緑の葉が姿を現わした。春の日差しを浴びて次々に展開していく緑の葉が温室中に広がっていく光景を見た時は、感無量であった。

「土牛の桜」のクローン苗が5メートル程度まで成長し、あとは花を待つだけとなった頃、私はある桜と対面するため神奈川県小田原市にある長興山紹太寺[ちょうこうざんしょうたいじ]にいた。

樹齢338年を超える小田原・紹太寺の桜の再生にチャレンジ

長興山紹太寺は、箱根駅伝の名物「山上り」の5区の中継所の近くにある有名な山寺で、小田原城主稲葉家の菩提寺である。初代城主稲葉正勝の母親は、徳川家光の乳母として有名な春日局であり、父は稲葉正成である。

林(稲葉)正成は、豊臣秀吉に仕え、後に小早川秀秋の家老となり、関が原の戦いでは徳川家康に組するよう説得したと言われている。その後斎藤利三(明智光秀の重臣で本能寺の変で斬首)の娘で、美濃清水の稲葉重通の養女となっていた福(後の春日局)と結婚し、稲葉家の婿となり稲葉姓を名乗るようになったが、福が家光の乳母として召し抱えられた際、福とは離縁している。

長興山紹太寺の枝垂桜

長興山紹太寺の枝垂桜
勝山輝男氏撮影

正勝の後を継いだ正則は、春日局の絶大な力により35歳という若さで老中となり、父母と春日局の供養のため、長興山紹太寺を創建している。その際、「春を忘れぬ形見にとて、桜など植えしも十とせあまり過ぎもてきて、古きかげとぞなりにける」と正則が書き残した桜こそが、私が対面したいと思っていた”長興山紹太寺の枝垂桜”である。

長興山紹太寺の創建と同時に植栽されたことから、樹齢338年を超える古木で、神奈川県内のみならず関東では比類なき名木である。現在は小田原市の天然記念物、そして神奈川の名木百選に選ばれているが、高さ、葉張りとも13メートルという大きな体で山の中腹に堂々と立つその姿は一見の価値がある。

この桜は江戸時代には「瓔珞桜」と呼ばれていたようで、その名が刻字された石標が稲葉一族の墓所入り口にある。”瓔珞”とは、古代インドの貴族が身につけていた珠玉や貴金属を編んで作ったネックレスのような装身具で、その姿に似たものに「ようらく」という名が残っている。仏壇や天蓋に下げてある金色の装飾は瓔珞と呼ばれ、植物では「ヨウラク蘭」「ヨウラクほうずき」が知られている。

さて、私がこの桜に会いに来た理由は、「土牛の桜」と同じく樹勢が衰え始めていたこの桜を何とか守り、受け継ごうと努力されている小田原市を始めとした地元の方々に協力させていただきたいと思ったからである。各方面からのご許可もいただき、いよいよ桜に登ったところ、思っていた以上に、成長が衰え始めていた。芽の脱落も多く、増殖の材料としても決して良いとは言えない状態であった。

採取した枝を研究所に持ち帰り、「土牛の桜」で開発した数種類の培地に植え付けたが、その反応は非常に鈍く、「土牛の桜」の際に100%近かった生存率は、僅か10%程度であった。さらにその先のステップに進むと、生存率はどんどんと落ちていき、苗まで育てられたのは数本であった。

培地や育成条件が合わずに枯れていくことはあっても、反応がないというのは初めての経験であり、樹齢や樹勢の問題が、ここまで深刻であるとは予想もしていなかった。その後、もう一度材料を採取させていただき、培地を改変してチャレンジしてみたが、結果は同じであった。

早急に増殖技術を開発し、今冬は、芽の反応を呼び覚ますであろう新しいアイデアを持って、再度チャレンジしたいと思っている。春日局と稲葉一族、その方たちを見守る長興山紹太寺の皆さん、そして桜を守り続けている小田原市の皆さんに少しでも早く新しい命をお渡しできるよう、今後も、全身全霊頑張っていきたいと思っている。

樹木の生命力と現代技術の力で桜の雲海を夢見る

「土牛の桜」については、その後、一番花が開花し、また醍醐寺境内への移植も無事終了した。現在は、親とも言える「土牛の桜」の前で、クローン桜が可憐な花を咲かせるとともに、各所への植樹も始まっている。今後は、醍醐寺境内に残る枝垂桜の巨木20本についてもクローン増殖を行うとともに、桜以外の貴重木についても新しい取組みを行っていきたいと考えている。さらには、全国に残存する名木・貴重木について樹勢回復やクローン増殖技術を用いた後継稚樹の育成を行い、事業をとおして地域のお役に立てればと思っている。

豊臣秀吉が「醍醐の花見」を催し、稲葉正則が春日局の冥福を祈るため桜を植えてから早や数百年、樹木の生命力と現代技術の力を借りて、醍醐寺や紹太寺が桜の雲海に浮かぶ姿を夢見ながら、今日もピンセットを片手に研究に没頭する毎日が続いている。

中村健太郎氏
中村健太郎 (なかむら けんたろう)

1966年神奈川県生れ。
神奈川県立厚木高校卒、東京農工大学大学院修了。
現在、住友林業株式会社 筑波研究所主任研究員。

※「有鄰」472号本紙では4ページに掲載されています。

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