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472平成19年3月10日発行

[座談会]新宿・小田原・江ノ島 「小田急」開通80周年

元小田急電鉄運輸計画部長・鉄道友の会参与/生方良雄
立教大学教授/老川慶喜
横浜都市発展記念館調査研究員/岡田 直
有隣堂社長/松信 裕

左から、岡田 直・生方良雄・老川慶喜の各氏と松信 裕

左から、岡田 直・生方良雄・老川慶喜の各氏と松信 裕

はじめに

酒匂川を渡る最新型ロマンスカーVSE車

酒匂川を渡る最新型ロマンスカーVSE車
生方良雄氏撮影

松信新宿から小田原、片瀬江ノ島、そして唐木田(多摩線)へと走る小田急線は、通勤・通学、またロマンスカーに象徴されるように、観光の足としても大きな役割を果たしています。

1927年(昭和2年)4月1日、まず小田原線が開通し、2年後の1929年4月1日には藤沢を経由した江ノ島線が開通しました。今年は小田原線開通80周年となります。

小田急電鉄株式会社は、1923年(大正12年)5月に小田原急行鉄道株式会社として発足いたしました。第一次世界大戦後の不況、関東大震災(大正12年9月)といった時代背景の中での創業と言えます。そして戦争の時代、戦後の復興、高度成長の時期を経て、多摩線の開通などがあり、現在に至っております。

本日は、小田急線の開通80周年にちなんで、小田急の歴史と、沿線地域の変化や発展などについてお話しいただきたいと思います。

ご出席いただきました生方良雄様は、長年、小田急電鉄に勤務され、車両部長、運輸部長、運輸計画部長などを歴任されました。現在は鉄道友の会参与、鉄道史学会会員でいらっしゃいます。

老川慶喜先生は立教大学経済学部教授で、近代日本経済・経営史がご専攻です。特に交通・運輸の分野で多くの研究をされており、鉄道史学会会長も務められました。

岡田直様は、横浜都市発展記念館調査研究員で、歴史地理がご専門で、鉄道の歴史についても詳しくていらっしゃいます。

政治家から転身した利光鶴松が創業

利光鶴松

利光鶴松
小田急電鉄株式会社提供

松信小田急の創業者は利光鶴松という方ですね。

生方利光鶴松は、1863年、大分県の生まれです。明治法律学校(後の明治大学)に学び、今の弁護士である代言人の資格を取って、東京市議会議員、1898年には衆議院議員になります。

1902年に政界を引退して実業界に入り、1910年に鬼怒川水力電気をつくります。このころ、京成電鉄の創立や京王電気軌道などにも関わります。

老川利光鶴松は政治家から実業家に転身しますが、後に小田急とライバルになる西武の堤康次郎は実業家となった後に政治家にもなり、生涯、政治家であり続けます。東武の根津嘉一郎も若いときには山梨県で県会議員として活躍しています。政治家から鉄道企業家へというケースがすごく多いですね。

政治家から実業家に転身するにいたった経緯について、利光鶴松は、星亨と一緒に政治活動をしていて、利光は実業家の信用を得る活動をしていましたが、その過程で、インフラの整備が重要であることがわかり、鉄道事業に関わるようになった、と説明しています。東京市議会議員のときにも東京市内の市電の問題などを手がけてますから、交通事業にはもともと関心があったようです。

政治と鉄道業とは割合深く関わっているような気がしますが、利光鶴松もそんななかの一人かと、非常に興味深いですね。

生方京成の本多貞次郎も最初は工部省で東海道線の工事に関わり、後に千葉県会の議長や衆議院議員、千葉県の市川町長をやっていますね。ちょうどそのころ京成の路線は千葉方面にのびるんです。

新宿を起点に起工から2年で全線を一気に開通

小田急電車のパンフレット

小田急電車のパンフレット
『図説 ふじさわの歴史』(藤沢市)から

生方利光は、1919年(大正8年)、東京の地下鉄をつくろうということで東京高速鉄道を創立します。総延長32キロの地下鉄計画でした。ところが、掘削した土砂で外濠を埋立てる案が内務省の反対で頓挫します。そこでその支線として、東京−小田原間の地方鉄道を出願し、社名を小田原急行鉄道と改めたのです。当初、起点は平河町五丁目で原宿、渋谷、三軒茶屋、砧からは大体現状と同じで、原町田から小田原に至るものでした。その後、起点を新宿三丁目に変更しました。

老川新宿に変えるように示唆したのは鉄道省です。鉄道省が私鉄を押さえていくということになるんですかね。

生方国鉄新宿駅の青梅街道側を回って西口に入り、幡ケ谷、代々木上原から東北沢付近で現在の路線に入ろうとしたんですが、当時の国鉄新宿駅はホームが青梅街道口と甲州街道口と二つあって、国鉄としては、青梅街道口に乗換え駅をつくるという震災前の計画があったんです。

しかし、新宿駅の大改良でホームは一本に統合することになり、青梅口での接続ができなくなります。新宿駅の国鉄のホームに並べてつくれという考えが出てきたり、国鉄の用地取得に問題があったりして、やっと計画がほぼでき上がったところに関東大震災がおこりました。そこで工事が若干遅れ、1925年(大正14年)11月に起工式を行いました。

起工式のときに、利光は、1年で全線開通させると啖呵を切る。結果としては、1927年(昭和2年)4月に開業しますが、全線を一気に開通させるのは、かなり画期的なことでした。このときは一部単線で、半年後に全線複線になります。

当時は、第一次大戦後の鉄道ブームで、各地に私鉄ができ、高速鉄道を走らせようという機運があり、東武日光線や大阪電気軌道と参宮急行、京阪新京阪線なども高速運転を目指した。小田急だけの突飛な計画ではなく、当時の趨勢だったんです。

小田急は私鉄電車が起点を山手線の駅に併設した早い例

岡田小田急は私鉄の電車が起点を山手線の駅に併設するようになったかなり早い例です。

関東と関西の私鉄を比べると、関西は独自の巨大ターミナルを持っていますが、関東は国鉄に併設する形でしかないんです。ただ、関東でも、小田急以前に京成や京王、京急の前身の京浜電鉄は、山手線の駅ではなく、東京市電の路線網の末端に独自にターミナルを持っていました。

京王は、名前は何度か変わりますが、新宿追分にターミナルを持ち、そこにデパートが入ったこともあります。京浜電鉄も高輪というターミナル駅と駅ビルがありました。京成も、市電に接続する形で押上にターミナルがあったんですが、やがて電車が大型化され、高速化されると、市電に接続する考え方がなくなっていった。

昭和2年に小田急の新宿駅ができ、同じ年に東横線の渋谷駅もできる。これが関東の私鉄郊外電車の起点駅のスタイルになるんです。

中央線と東海道線をつなぎ、空白を埋める役割を果たす

松信路線はなぜ神奈川県になったんでしょうか。

生方小田原から箱根・伊豆を目指したのだと思いますが、北には東武、千葉のほうには京成がありますから、その間隙を縫ったんじゃないでしょうか。

老川利光鶴松は政治家時代に多摩の自由民権運動に関わりました。そのときの仲間の、町田の村野常右衛門が武相中央鉄道という神奈川県の中央を通る鉄道を計画していますが、小田急はそれとよく似ています。そういう意味では、小田急の原型は明治期に構想されていたといえます。

それから、新宿から延びる中央線と東海道とをつなぐ役割も、小田急は果たすことになると思うんです。

岡田神奈川の鉄道は、明治時代にまず東海道線と横須賀線、明治末期に横浜線の前身の横浜鉄道ができ、中央線ももうできていますが、県の真ん中が空白だったんです。

生方武相中央鉄道は明治末期に免許失効し、実現しなかったんですね。

神奈川県が東京圏に組み込まれる素地がつくられる

多摩川を渡る小田原急行鉄道 昭和初期

多摩川を渡る小田原急行鉄道 昭和初期
木村幸敏氏蔵

松信厚木出身の小説家の和田傳は随筆『わが人生』の中で、小田急ができるまでは平塚に出て、そこから東海道線で東京に行ったと書いていますね。

老川平塚まで乗合馬車や人力車で1時間半、東海道線でさらに1時間半とか。

岡田秦野からも湘南軌道で東海道の二宮に出ていました。

生方当時は国府津からの御殿場線が東海道本線でしたが、鉄道の交通だけ考えるなら東海道線につなぐだけでいい。あえて小田原まで延ばしたのは、やはりその先の温泉地を考えていたのでしょう。

岡田横浜のほうから見ると、小田急の開通前の大正15年までに、現在の相鉄にあたる神中鉄道が横浜郊外から厚木まで開通しました。ほぼ同時期に相模鉄道(今の相模線)が茅ヶ崎から厚木まで延びて、神奈川県内に横浜を中心とした交通網ができつつあった。

ところが、小田急ができたために神奈川県の真ん中を東京からの放射状の交通網が通ることになる。これが将来、神奈川県が東京圏の一部として徐々に切り取られていく素地になったと思います。

当初の乗客の中心は箱根への観光客

松信開通当初はどんな運行状況だったんでしょうか。

岡田乗客の中心は、東京から箱根への観光客ですね。

松信そのための特急を初期のころから運行しますね。

生方ノンストップを始めたのは昭和8年頃だと思います。「温泉急行」と称して土曜日に出しました。でも面白いのは、行きはノンストップでも日曜日の帰りは考えていない。途中停車の急行で帰るんですよ。

昭和4年ごろのダイヤを見ますと、新宿−小田原間は等間隔じゃないんです。一番詰まっているところは20分間隔でも、昼間は40分かと思うと70分あいたりする。今のように電車は等間隔で動くという感覚はなかったようですね。

岡田通勤・通学の人の移動は国勢調査でわかります。戦前の調査は昭和5年だけですが、小田原線沿線で現在の川崎市北部の柿生村、生田村や向ヶ丘村などからは、東京市にも横浜市にも通勤していた人は10人未満なんです。まだほとんど誰も通勤していない。稲田村(今の登戸付近)からは、東京市にやっと10人通勤していたという記録があります。

町田から東京市、横浜市に通う人がどちらも40人ぐらい。大野村は今の相模大野から淵野辺あたりですが、東京市と横浜市にそれぞれ、やはり40人ぐらいが通っています。これらは主に横浜線を使ったのでしょう。

厚木、海老名、座間あたりでは、東京市に通勤する人も横浜市もほとんどゼロです。つまり戦前は、通勤・通学にはまだあまり使われていなかったようですね。東京市への通勤圏はせいぜい世田谷の経堂(当時は郊外)あたりまでだったんだろうと思います。

生方開通当時は朝のラッシュ時に稲田登戸(今の向ヶ丘遊園)から上がってきて、経堂で増結して新宿に行き、下りは経堂でまた切り離したという話があります。ですから、通勤圏として経堂あたりが限度だったようですね。

老川戦時期に軍の施設が相模原に来て、通勤輸送が始まったという感じですね。

江ノ島線は、まず藤沢までの路線で認可を取得

吉田初三郎「小田原急行鉄道沿線名所図絵」 昭和2年

吉田初三郎「小田原急行鉄道沿線名所図絵」 昭和2年
横浜都市発展記念館蔵

松信江ノ島線は、小田原線開通から2年後れですね。

生方藤沢までの路線は、小田原線の起工式の翌年の1926年6月に免許を得ました。当初から江ノ島線として計画されましたが、江ノ島電鉄などと競合するために認可がおりず、一時は藤沢を経由しない案や終点を辻堂海岸とする案も出されました。そして1927年12月に、ようやく本鵠沼、鵠沼海岸で大きく西に張り出した形で藤沢−片瀬間も認可され、1929年4月に、相模大野から片瀬江ノ島間が開通しました。認可から1年余りという短期間で、かなりの突貫工事だったようです。

片瀬江ノ島駅は龍宮城をかたどったもので、新宿方面からの夏の海水浴客を、たくさん運びました。

沿線の開発は江ノ島線の開通のころから

松信沿線の開発計画はそのころからあったんですか。

生方当時の鉄道をつくった人たちは、土地開発という考えはあまりなかったんです。

成城学園が現在の場所へ移転したのは、小田急よりも前なんです。小田急が開通するというので、学園の用地と一緒に広範囲に買収して宅地分譲をやったのですが、それについては小田急は一切手は出していません。

その後の玉川学園も、玉川学園が独自に山林を買収して学園建設と同時に宅地分譲をやったんです。

林間都市構想が出てきたのは玉川学園の状況を見てからでしょう。小田急線ができて少しあとになってから、宅地分譲という考えが出てきたんじゃないでしょうか。

岡田小田急が吉田初三郎という有名な鳥瞰図絵師に発注して、昭和2年につくられた沿線案内図があります。今の中央林間のあたりに「住宅経営地」とは書かれていますから、ある程度は考えていたんでしょうね。

生方江ノ島線のときに考えたようです。

岡田林間都市という名前で分譲を始めますが、戦前はその名のとおり、森林の中に道路だけが整備されたといった状態で、住宅地開発としてはあまりうまくいかなかったんでしょう。

松信住宅開発という点では不十分だったようですが、中央林間には1929年(昭和4年)に、利光の娘の伊東静江が聖セシリア学園を創設していますね。

営業収益は不動産よりも鉄道のウエートが高い

向ヶ丘遊園地 昭和初期

向ヶ丘遊園地 昭和初期
木村幸敏氏蔵

岡田この沿線図では、座間のほうに「座間遊園地」というのがあるんですが、これは実現しなかった幻の遊園地のようです。座間駅のそばの土地を整理して遊園地をつくり、街をつくるという発想だったようです。向ヶ丘遊園は実現しましたね。

生方向ヶ丘遊園も、最初はもっと線路の近くに計画したらしいのですが、用地買収の関係で、山の上に持っていったようです。

老川社史に事業別営業収益が掲載されています。

鉄道業と不動産業をみると1927年の開通の年には、不動産の比率が41,2%、鉄道が58,4%です。その後、鉄道のウエートがだんだん高くなって、1930年には不動産は19,4%になります。営業収益から見ると、不動産の比率がだんだん低くなっていっています。

生方開業のために、相当広範囲に用地買収をしたらしいんです。鉄道ができてそれを売り出し、4、5年でもう手持ちがなくなりました。

老川戦略的な不動産事業は、あまり展開しなかったということですね。

岡田沿線開発よりは、東京と箱根を結ぶことが主眼だったんでしょうね。

「おらが鉄道」意識で一流を目指す

松信小田急の経営方針の特徴はどんなところですか。

老川よく言われることは「おらが鉄道」意識です。

利光鶴松は、社員を沿線の住民と自分の故郷、大分県から採用したと言っています。沿線の住民は小田急に雇われることで小田急に対して自分たちの鉄道という意識を持つようになった。農民や地域の人々にとっては、出稼ぎに行かず、村に居ながら働く場所ができて、現金収入が得られるのですから、当時としてはすごくありがたかったでしょう。

「おらが鉄道」意識は、戦後に社長になった安藤楢六の「日本一流の電鉄」会社を目指す考えにつながり、労資協調でストがない、そういう会社をつくっていく源流になったのではないでしょうか。

また、経験者は採用しないという特徴もあった。利光はほかにも京成などの鉄道を経営していたので、まったくの新人を雇って、そこで訓練したりしていたようで、だからそういうことができたのでしょうね。

松信今でも、小田急の方は自分たちの電車はすごくいいんだという愛着を強くお持ちですね。

老川利光は、建設工事を短期間で完成させる。全線を複線にしたり、車両も地方鉄道としてはかなり立派ですね。

生方昭和2年には、他の私鉄ではまだ木造車が多かったんですが、全部半鋼製車で揃えました。

すべて小田急で箱根を観光する周遊旅行を計画

生方もう一つは観光ですね。小田急の乗り物で箱根へ行き、小田急のホテルに泊まって、箱根登山など小田急傘下の乗り物を使って観光するという、今の状況につながるような箱根周遊の旅行計画をかなり早い段階でやっています。当時としては斬新な発想だったと思います。

利光は1928年8月の段階で湯本までの路線を計画していて、箱根の地元住民もそれを支持して誘致していた。結果的には今の箱根登山鉄道の小田原電気鉄道が12月に免許を受けたので、小田急はやめることになるんですが、当初から箱根直通の長距離輸送を考えていたようです。

当時の長距離列車での旅行は、東海道線なども当然そうですが、旅客と手荷物を同じ列車で運んでいた。ですから電車は小さなものですが、設備も立派でしたし、全部荷物室を持っていました。ただ新宿−稲田登戸間の区間電車だけは手荷物室がありません。これは完全に都市近郊電車という考えだったようです。

戦時期は東京急行と統合し「大東急」に

松信戦時下には、東京急行電鉄との統合がありますね。

生方国策として、私鉄は地域ごとに統合することになり、京成の地域、東武の地域、西武の地域、南西地区は東急の地域と大きく分け、昭和17年に小田急は東急に合併しました。

大東急になりましたが、実を言うとばらばらだったんです。というのは軌間が、京浜急行は4フィート8インチ半で大きいですし、東急と小田急は3フィート6インチで同じですが、電圧が小田急は1,500ボルト、東急は600ボルトだった。合併しても車両の融通が全然きかないので、中途半端な形だったんです。

ただ、利光鶴松はその前から東急の五島慶太に譲るという腹ができていたようです。これは社会情勢をにらんだことと、利光がもう相当な年だったこともあって、小田急が東急に合併というのはすんなりと運んだんです。

戦前は、小田急は東急より南武鉄道(今の南武線)との結びつきが強かったんです。砂利列車を入れたり、江ノ島の海水浴客輸送のときに南武鉄道の電車を借りたりしているんです。ところが、南武鉄道は国鉄に買収され、その関係がなくなりました。

老川利光鶴松は1941年6月に社長をやめて、その後一時、養子の利光学一が社長になりますが、すぐに五島慶太が入ってきます。利光は五島のことを信頼していたというか、仲がよかったんでしょう。

軍事施設への通勤輸送で乗降客が増加

陸軍士官学校本部

陸軍士官学校本部
荻原美寿雄氏蔵

松信相模原に軍事施設が移ってくるのは、昭和12年からですか。

岡田12年に、当時の座間駅のそばに陸軍士官学校ができて、士官学校前という駅名になりました。士官学校のことを相武台と呼んだので、やがて相武台前と駅名が変わり、12年から15年にかけて陸軍の病院や通信学校なども集まってきます。

それに合わせて小田急の駅名も変わります。信号所だった相模大野は、近くに陸軍の通信学校ができて、13年に通信学校という駅になりましたが、その名前では防諜上問題があるため相模大野に変更され、現在に至っています。

松信乗降客にもかなり変化があったんでしょうか。

岡田社史に、軍事施設ができたおかげで何とか助かった、会社としてやっていけるようになったとあります。

老川戦時期には観光での乗客が期待できませんから、通勤輸送が少し出てきたので助かった、ということです。

松信乗降客が増えるという面もあったでしょうが、軍関係の施設があるために、攻撃されるようなことはなかったんですか。

生方施設の被害は割合少なかったんです。ただ、列車を運転していると、グラマン戦闘機が狙って、銃撃は盛んにやられました。そういう被害はありましたが、井の頭線の車庫が焼けるとか、京浜急行のように沿線が焼けたとかいう壊滅的な被害はありませんでした。

松信開通当初の駅舎も残ったようですね。

生方厚木、向ヶ丘遊園、新松田とか、立派な駅だったんですよ。

岡田向ヶ丘遊園の駅舎は残っているんですか。

生方現在北口に最初の形が残っています。いわゆるマンサード屋根と言う、二段になっている屋根です。それから、玉川学園が小田急に駅舎を寄贈した玉川学園前駅は、昔の千駄ヶ谷の駅をモデルにしたハイカラな駅だったということです。

戦後の車両不足を経て1948年に分離独立

松信戦後は、企業統合から分離して再発足ということになりますね。

生方終戦直後から分離するまでの3年の間にもいろいろありました。

井の頭線は車両がほとんど全滅したので小田急の車両を大分応援に出したんです。相鉄線は当初、横浜から二俣川まで電化されていて、さらに海老名まで電化することになった。

横浜−二俣川間は600ボルトで、二俣川−海老名間は1,500ボルトで電化しますが、今度は車両の融通がきかないということで、目蒲線で使っていた車両に、京浜急行が昔600ボルトと1,500ボルトで運転していた機械を取り付けて走らせました。その後、全線が1,500ボルトになってからは、小田急の車両をすいぶん出したんです。

実を言いますと、63形は10編成割り当てが来ましたが、結局、相鉄へ半数以上持っていきました。そんなことで、車両の面ではかなり苦労しました。

老川戦時中の大東急には合併会社特有の問題がいろいろとありました。

とりわけ小田急の分離独立にかける意志は強いものでした。社史によると、ここでも小田急社員の「おらが鉄道」意識が非常に強くあらわれていたといわれています。

もう一つは、五島慶太がどう考えていたかということが大きな問題だと思います。このころ五島慶太は公職追放になっているので、分離独立には直接関係していないんですが、背後にはその存在があったのではないかと思います。人事や資金の問題、労働組合運動が激しくなっていたことから考えても、無理だという判断があったのでしょう。それで1948年6月に分離独立していく。ただし、井の頭線は小田急ではなく京王帝都に所属するようになります。

箱根登山鉄道が傘下に入り、開通当時の目的を実現

相模厚木駅(現在の本厚木駅) 昭和2年頃

相模厚木駅(現在の本厚木駅) 昭和2年頃
飯田孝氏蔵

生方京王電気軌道は、戦前は配電事業で相当利益を上げていたんです。それを電力統制で全部持っていかれたので、軌道だけでは採算が取れなくなった。分離してもやっていけるかというと、ちょっと無理じゃないか。しかも、車が小型なので大型化しなければならないという問題もあった。当時は、京浜急行と小田急は分離して資本金1億円だったんですが、京王は5,000万円です。だから、旧帝都電鉄の井の頭線を京王につけたんでしょう。

小田急はそのかわりに、神奈川中央交通、箱根登山、江ノ島電鉄を傍系にしたので、先の見通しから言うと、プラスだったと思います。神奈中などは東急の子会社でしたからね。

老川江ノ電が傘下に入るのは1953年で、箱根登山と神奈中はそれより前の1948年です。

松信傘下の企業が増えたことが発展の基礎になった。

老川開業のときに、利光鶴松は箱根をめざしていました。それが、箱根登山鉄道を傘下に入れることによって、安藤楢六社長のとき、戦後の出発点で実現したと言えますね。

バス路線の問題を発端に、長く続いた「箱根山戦争」

小田急箱根湯本乗入記念乗車券

小田急箱根湯本乗入記念乗車券
生方良雄氏蔵

生方当時、小田原から箱根へのバスは、箱根登山系が占めていて、西武系の駿豆鉄道(今の伊豆箱根鉄道)のバスは、小涌谷より上をテリトリーとしていました。それが小田原へ走るとき、宮の下から小田原まではノンストップという条件だったんです。しかし、戦後、バスは逼迫していたので、途中停車を許可した。そこから東急・小田急系と西武系の「箱根山戦争」が始まったんです。

老川これは、箱根登山鉄道と駿豆鉄道の争いで、五島慶太と堤康次郎の代理戦争だと言われています。

バスの路線免許問題が発端で、伊豆箱根の前身の駿豆鉄道が経営していた一般自動車道に、箱根登山のバスが乗り入れることを駿豆鉄道が拒否した。堤康次郎の方は自分が用地を買ってつくった自動車道に、他人がそこを通らせろというのは卑怯だという論理なんです。

しかし、駿豆鉄道の私有の道路とはいっても、専用道路ではなく一般道路ですから、公共交通手段が乗り入れるのは、社会的にいって当然だというのが、箱根登山の言い分です。

訴訟合戦が何回も繰り返されて、21年続きました。最後はその道路を神奈川県と静岡県が買い取るということで収束しました。その過程で芦ノ湖の湖上輸送の問題も絡んで、昭和30年代を中心に長い紛争が続きました。この争いを描いたのが獅子文六の小説『箱根山』です。

私は相手方の堤康次郎の伝記を書いたことがあって、次男の堤清二さんがお父さんの資料をお持ちでしたが、「箱根山戦争」に関わる訴訟文書がたくさんありました。

これ以後、神奈川の観光地の私鉄の勢力範囲は、鎌倉から東が京浜急行、西側が小田急となり、箱根は小田急と西武が共存、「箱根山戦争」は痛み分けという感じですね。

ロマンスカーの運行で箱根と「小田急」をPR

松信再出発の時期の新しい動きがロマンスカーですね。

生方小田急が分離独立した当時、客車は96両しかなくて、中には半身不随の車が結構ありました。そのころ、新たに63形が入ってきます。それとともに、小田急としては従業員の士気を高める目的と、一般の人にも箱根を看板にして「小田急」の名前をPRしようと、昭和23年10月に箱根ノンストップ特急を運行したわけです。

特急車などありませんので、一般車の中で程度のいい1600形という車を特急に指定しました。朝のラッシュに使った車両を、すぐに経堂の車庫で清掃して、シートに白いシーツをかぶせて、午後、箱根ノンストップ特急として走らせる。日曜日には朝の9時ごろに出しました。

昭和24年には、車両新造は許可制で、割当ての10両のうち、6両は3つ扉の一般車、4両は2つ扉でセミクロスシートの車にして、それを箱根特急にしました。これも朝のラッシュには通勤輸送に使いましたが、黄色と青に塗り分けた車体で一層人目を引きました。

松信ロマンスカーという名前も印象的ですね。

生方ちょうどそのころ、新宿の武蔵野館という映画館に、2人掛けのロマンスシートという席があって、それがヒントだったようです。

これが評判になったので、昭和27年に次の特急をつくろうという声があがるんですが、資金がなかなか調達できなくて経理がうんと言わない。運輸省の車両新造の認可もむずかしいというので、改造名義でつくることになりました。1700形を4両つくり、真ん中の付随車は国鉄の焼け電車の大枠を使って20メートルにして、3両編成を2本つくりました。

これは初めから特急用でつくりましたから、お客さまの評判がよくて、翌年に、続いてもう1編成をつくり、3本で動かしました。これで箱根特急が一般に定着しました。

SE車によって箱根への観光客が爆発的に増える

鶴川−玉川学園前を走るSE車 昭和34年

鶴川−玉川学園前を走るSE車 昭和34年
生方良雄氏撮影

生方昭和28、9年ごろから、私鉄各社で従来の方式と違う軽量高性能車の開発の動きが出てきます。レールへの負担が少ない高速の電車ということで、戦後のアメリカの技術も取り入れ、特急専用の車の設計を始めました。それが昭和32年に製造された、愛称「SE車」と呼ばれているロマンスカーです。

このときは国鉄技術研究所の協力を得て、メーカーも参加して設計や研究を進めたこともあって、国鉄の東海道線で試運転をやりました。最初は藤沢−小田原間で、次は小田原−沼津間で実施し、狭軌鉄道最高速度の145キロを出しました。このSE車で小田急の名が一躍上がり、箱根の観光客も爆発的に増えて現在の箱根特急に続いています。SE車ができてから、今年は50年の記念の年です。

老川戦前の週末温泉特急がこういう形で進化したんですね。

松信SE車は技術力をアピールする意味と、乗降客増加にも貢献したという両面ですね。戦後の復興で、観光需要が潜在的にあったことと合致したんでしょうね。

老川ちょうど、高度経済成長期に向かっていて、時期的には非常によかった。年間輸送人員を見ると、1952年ころから5年ぐらいは、確かにすごい増加率になっています。

車両の新造やホームの延伸で人口増加に対応

松信同時に輸送力も増強されていきますね。

生方昭和30年ごろから日本経済が上り坂になるのと同時に、住宅建設が盛んになり、多摩川までの間に都営住宅がどんどんでき、民間の住宅開発も進んでいきます。

その後、面白いのは向ヶ丘遊園から町田の間を飛ばして町田周辺に大型団地がたくさんできた。鉄道にとっては輸送距離の長いほうが効率が良く、もうかるんです。

当時の小田急は16メートル車の小型車で、主要駅は4両編成まで運転できるホームでした。しかし4両では足りなくなり、6両編成が必要になりました。そうなると、ホームの両側にある踏切をつぶさなくてはならない。踏切をつぶすには、地元の協議に長い時間がかかり、なかなか6両編成にできないというような問題がありました。

車両も増備が間に合わないんです。資金が限られているので非常に苦労しました。この時期は、小田急以外の各社も、古い車両を直して使ったり、国電の戦災車を改造して使っていました。

ホーム延伸にしても、車両の新造にしても、非常に苦しい。乗車効率が200%を超えて、250%、260%という数字が出てくるものですから、現場は苦労しました。

しかし、おいおいにホーム延伸をやって6両の長さにするとか、20メートル車を入れて1両当たりの輸送力を増やすとかして、何とか危機を乗り越えたんです。当時、小田急沿線と東武線沿線は住宅増加が非常に激しかった。その点では、京王とか西武は時期的にちょっと後になる。東急は沿線がほとんど飽和状態ですから、そんなに大型の人口増加はありませんでした。

横浜よりも東京に通勤する人がずっと多い

新宿駅を発車するSE車 昭和33年

新宿駅を発車するSE車 昭和33年
生方良雄氏撮影

岡田国勢調査をもとに、小田急沿線で東京23区に通勤する人、横浜市に通勤する人を調べますと、昭和30年では、町田は東京に通う人が横浜に通う人の3倍あります。これは横浜線と小田急線の設備の差が出ていると思われます。相模原、厚木、海老名、大和は横浜に通勤する人のほうが東京よりも多く、このあたりはまだ横浜の勢力圏でした。それを通り越して秦野や伊勢原に行きますと小田急で一本の東京に通勤する人のほうが多かった。むしろ遠いところから東京の勢力圏になっていったという気もします。現在は、相模原も厚木も東京に通勤する人のほうが横浜よりずっと多いですね。

生方各駅の乗降人員を見ますと、昭和30年代後半ぐらいから登戸が非常に増えたんです。当時は工場がどんどんできましたので、南武線に乗り換えて川崎方面に行く人も増えたんですね。

歌や映画、テレビで「全国区」に

松信長い歴史の中で、沿線も時代とともに変貌し、小田急が及ぼした影響も大きいと思います。沿線のイメージはどういうものでしょうか。

岡田私は関西の出身ですので、小田急の電車は子供のころはまったく乗ったことがありません。ただ「小田急」という名前は全国区で、日本中みんなが知っていた気がします。

それはどうしてかと考えますと、戦前では、有名な「東京行進曲」の歌詞に「いっそ小田急で逃げましょか」という言葉があるんですね。戦後には、東宝の撮影所が沿線の砧にありました。その関係か、小田急沿線を舞台にした映画がつくられたりした。

それから砧にはウルトラマンの円谷プロダクションもありました。子供のころ、テレビでウルトラセブンを見ていると、小田急のロマンスカーが怪獣に襲われてるんです。

実際には乗ったことがない人にも、歌や映画、テレビなどによって、小田急が知られる機会はたくさんあったんじゃないでしょうか。

戦前から続く高級感のある沿線イメージ

老川私は大学・大学院とも立教で、池袋で過ごしました。池袋には東上線と西武線が入っていて、小田急沿線に住んでいる学生もいました。小田急は一番リッチな学生が通学する路線だった。(笑)

また、箱根には、外国人が来るというイメージがある。それで堤康次郎は箱根と軽井沢を開発したんです。避暑地であり、外国人がたくさん来て、ちょっと高級感があるんですね。

そういう場所にロマンスカーが走るというイメージが、戦前からつくられていて、戦後になると、安藤楢六が「一流の電鉄へ」と言った。そういう形で一流の電鉄会社が実現されてくるのかなと思います。鉄道会社は経営の努力ということはもちろんありますが、やはり沿線にものすごく規定されると思うんです。人がいないところに鉄道をつくってもしようがないと思います。そういう意味では箱根や江ノ島・湘南というイメージが、小田急にずっと結びついているのかなと思うんです。

松信きょうはどうもありがとうございました。

生方良雄 (うぶかた よしお)

1925年東京生れ。
著書 『小田急ロマンスカー総覧』 大正出版 3,800円+税

老川慶喜 (おいかわ よしのぶ)

1950年埼玉県生れ。
共著 『阪神電気鉄道百年史』 阪神電気鉄道。

岡田 直 (おかだ なおし)

1967年滋賀県生れ。
共編著 『鉄道「歴史・地理」なるほど探検ガイド』 PHP研究所 (品切)。

※「有鄰」472号本紙では1~3ページに掲載されています。

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