Web版 有鄰

469平成18年12月10日発行

安達泰盛と霜月騒動 – 特集2

福島金治

有力御家人安達泰盛が御内人代表平頼綱に滅ぼされた事件

安達泰盛[やすもり]になじみのかたは少なかろうが、2001年のNHK大河ドラマ『北条時宗』で、柳葉敏郎が泰盛役を演じ、御家人の重鎮として時宗をささえた役柄を覚えている人もおられるのではなかろうか。

高校の日本史教科書では、蒙古襲来後、北条氏の権力が拡大するなかで弘安8年(1285年)に有力御家人安達泰盛らが御内人[みうちびと]代表の平頼綱に滅ぼされたこと(霜月騒動)、これにより得宗[とくそう]貞時の得宗専制政治が確立した、とある。通説が簡略にまとめられている。得宗とは北条氏嫡流家の当主、御内人とは得宗家の被官のことである。

蒙古襲来のころ、群を抜く立場にあり、鎌倉幕府の転換期に生きた泰盛のことをのべてみたい。まず、父祖のことからみておこう。

頼朝・政子を支えた曾祖父安達盛長、祖父景盛

安達氏一門の隆盛の基盤をつくったのは曾祖父の盛長[もりなが]である。盛長は流人時代の頼朝の当初からの従者で、頼朝挙兵のおり、相模国内の武士や千葉常胤などを味方につけるべく奔走した。頼朝の挙兵前、盛長は頼朝が陸奥国の外が浜と西国鬼海が島を踏んで南に歩を進める夢をみたという。この夢は頼朝の全国統一の兆候とされた。幕府成立後の盛長は、鎌倉の甘縄[あまなわ]に邸宅を構え、甘縄神明宮の管理にたずさわった。上野・三河国守護ともなった。

祖父景盛[かげもり]は、北条政子や将軍実朝に信頼され、安達氏が継承する秋田城介[じょうすけ]に任官された。この官職は名目的なものだが、出羽国守の次官で国府が秋田城にあったことに由来する。承久3年(1221年)の承久の乱では、政子の演説を代読して「京方を打倒せよ」と御家人を鼓舞した。

出家すると、高野山にあって実朝らの供養のために政子が後援した金剛三昧院を管理した。宝治元年(1247年)には、突如、鎌倉に下り、北条時頼と共謀して三浦泰村一族を倒した。

父義景[よしかげ]は、評定衆・引付頭人の重責をにない、時頼主催の私的会議である寄合[よりあい]のメンバーに列した。娘は時宗に嫁した堀内殿である。生涯の重事は、仁治3年(1241年)の四条天皇の継嗣問題で六波羅探題北条重時と連携して後嵯峨天皇擁立に尽力したことで、これにより幕府の朝廷への干渉は一段とすすんだ。

このころまでに、安達氏は上野・武蔵の武士を被官に組み入れ、北条・長井・武藤・二階堂氏らと婚姻関係を結び、所領を拡大した。屋敷は、甘縄邸のほかに鶴見に別荘があり、義景邸には無量寿院が建立された。義景は有力御家人・得宗の両者と緊密な縁を結んだ。これらは父祖が泰盛にのこした最大の遺産だった。

泰盛の時代は北条氏一族に比肩する勢力に成長

泰盛は、義景と小笠原時長の娘との間に寛喜3年(1231年)に生れ、弘安8年に霜月騒動で没した。55歳。泰盛には年長の兄が複数いたが、当初から安達家の嫡子とされた。正妻は北条重時の娘。屋敷は甘縄邸、松谷の別荘、幕府出仕用の塔ノ辻屋形[やかた]と、少なくとも3か所があった。経済力は建治元年(1275年)の京都六条八幡宮造営の負担額でみると百五十貫文。北条時宗は五百貫文、金沢文庫を創建した実時が八十貫文、足利義氏は二百貫文。鎌倉でも有数の御家人だった。

北条時頼が没して時宗が得宗についたころ、泰盛は名越時章・北条実時とともに土地関係の訴訟を管轄する引付の頭人、御家人の再審請求に対応する越訴[おっそ]奉行についた。彼らは寄合のメンバーで、宗尊[むねたか]親王の追放を決定するなど幕府の重事を決定した。

寄合は得宗の私的な会議ながら評定などの公的なシステムを動かしていた。一族の進出もいちじるしく、弘安7年の評定衆・引付衆は、総数は30名のうち5分の1を安達氏一門が占めた。北条氏は一族あわせて8名で、霜月騒動の直前、安達氏は北条氏と肩をならべるほどの勢力となっていた。

文永5年(1268年)3月、時宗が執権につくと、その地位を強化するために、文永9年(1272年)2月には時宗の兄で六波羅探題の時輔や名越時章・教時らを殺害した。討手の御内人は、恩賞はおろか誤殺として殺害する非情なものだった。泰盛は事件の罹災者の供養文を高野山の町石に刻んでいるが、「一代の彰功」とあり、正当化をはかっている。首謀者の1人だったことは間違いなかろう。

泰盛の晩年は対外的には文永・弘安の両度の蒙古襲来にみまわれ、対応策が求められた。文永11年(1274年)、それまで軍役動員の対象外だった朝廷や公家・寺社領の住人もその対象にくみこんだ。一方、泰盛は、将軍の命をうけて恩賞の証文を発給させる御恩[ごおん]奉行についた。『蒙古襲来絵詞』の竹崎季長と泰盛の問答の場面からは御家人制の維持に腐心していたことが伝わってくる。

弘安5年(1282年)7月には陸奥守に任官された。陸奥守は北条氏がほぼ独占してきた官職で、その任官は京都でも驚かれた。このころ、鎌倉では弘安4年に焼失した鶴岡八幡宮の再造営が行われ、泰盛は八幡宮造営奉行だった。高野山の整備も行っている。それらの功を反映しての推挙だったと思われる。

霜月騒動の情報発信の場となった飯山寺や松谷正法蔵寺

鎌倉の仏教界ではたした役割も大きい。後白河法皇の皇子守覚[しゅかく]法親王が確立した仁和寺御流[ごりゅう]は、国家的法会や儀礼を体系化した法流で、幕府の護持僧らに伝授された。特に、執権北条経時の子頼助[らいじょ]は守覚の聖教[しょうぎょう]類を伝授され、佐々目遺身院[いしんいん]を中心的な場にして北条氏や有力御家人の一族の僧らに伝授した。その外護者は泰盛で、聖教の再編成にも関わった。時宗没後の法流の伝授の許可も行い、執権・得宗に近い存在となっていた。

一方、泰盛は俗人ながら僧のような存在で、醍醐寺報恩院流・地蔵院流などの伝授もうけた。泰盛の氏寺と考えられる鎌倉の松谷正法蔵寺[しょうぼうぞうじ]や安達氏由緒の厚木にある飯山寺には東大寺の法流がながれ、霜月騒動の情報発信の場となった。

高野山への信仰も深く、建治3年(1277年)以降、空海の著作類を刊行した。高野版とよばれるが、元版の一部は鎌倉明王院で写経された。文永2年(1265年)以降、高野山奥院までの道標である町石[ちょういし]も建立した。町石整備の目的は、天皇・将軍の息災と天下太平を祈願したものだった。しかし、町石が完成した弘安8年(1285年)10月の願文には安達氏が大施主とみえ、当初の目的とはずれができていた。将軍側近や得宗御内人には大きな違和感を与えたものと思われる。

このころ、得宗家は全国に膨大な所領をもち、得宗家公文所[くもんじょ]を整備して、被官を公文所の成員や守護代・代官に任用して経営した。得宗被官の代表は平頼綱で、北条家の古くからの家臣だったが、寄合に加わるなどして実力をつけていった。

頼綱は、文永8年(1271年)、日蓮が北条氏を批判し異国侵略の危険性を訴えると佐渡に流罪に処した。所領規模は八貫文と泰盛の20分の1にすぎないが、得宗の権力を背景に家政を動かし、商品流通に深く関与するなどして実力を蓄えた存在だった。

泰盛主導の改革に平頼綱らの不満がつのる

弘安7年(1284年)4月、北条時宗が没すると貞時が継承し、泰盛は外祖父として幕府政治の前面にでてきた。平頼綱らと結ぶ大仏宣時[おさらぎのぶとき]らは、有力御家人の一人、足利家時を自害させ、六波羅探題の佐介時国を討った。得宗被官の台頭を示す事件だった。

こうしたなか、泰盛らは新たな法令を矢継ぎ早に発布して改革に着手した。得宗には倹約・清廉・自制、得宗被官には得宗への奉仕と礼節を求め、幕府公務への介入を排除する姿勢を明確にした。また引付頭人には、指揮・監督の厳正を求めて責任を明確にした。蒙古襲来で祈祷や合戦に動員したものには鎮西神領興行令・名主職[みょうしゅしき]安堵令を発布して、神領の回復や安堵でこたえようとし、その処理のために博多に「鎮西特殊合議訴訟機関」を設置した。

泰盛主導の改革に、平頼綱らの不満はつのり、弘安8年(1285年)11月4日には将軍家護持僧源恵が、頼綱らの依頼でひそかに調伏の祈祷を勝長寿院で行う。11月17日、泰盛は周囲が騒がしくなったことに気づき、貞時邸に出仕したところを殺害された。

霜月騒動の罹災者は全国で500人余におよぶ

罹災者は、泰盛一族のほか小笠原・三浦・葦名・武藤・吉良・小早川といった人々500人あまりにおよんだ。金沢顕時は下総国埴生荘[はぶのしょう]に籠居[ろうきょ]した。逃亡した安達氏の追捕[ついぶ]は常陸・遠江・三河・美作・播磨にもおよび、九州では岩門合戦で息子の安達盛宗[もりむね]が敗死した。鎌倉では将軍御所も焼失した。乱の衝撃は大きく、京都では石清水八幡宮などの祭礼が中止された。

この霜月騒動の原因を『保暦間記』は、泰盛の嫡子宗景[むねかげ]が安達氏の祖先は源氏で将軍になろうと企てたといっている。実際、弘安7年5月には高野山からの祈祷報告書を宗景がうけとっている。この行為は執権と同列のもので、宗景は引付頭人ながら執権に就任していない貞時の立場を代行していた。

将軍の権威を回復して得宗被官の政治介入を抑制しようとする泰盛らの改革は、頼綱らにとっては許しがたいものだった。乱後の幕府に旧来の御家人のすがたはなく、得宗専制のもとで頼綱の専権が幅をきかせていった。

武家政権の新たな転換の扉を開き、それに殉じた泰盛

頼綱も、永仁元年(1293年)、鎌倉大地震の最中に貞時に殺害される。平頼綱の乱と呼ばれるこの事件の後、霜月騒動の罹災者一族は復権していった。泰盛の改革は形をかえて継承されたものもあるが、幕府のもつ自律性は損なわれていった。

足利氏らの有力御家人は、やがて倒幕の主力にかわる。足利尊氏の弟直義[ただよし]らが制定した『建武式目』には泰盛の弘安改革の指針と同列に属するものが多い。執権が将軍に代替できない鎌倉幕府にあってその矛盾点をつき、武家政権の基盤である御家人の弱体化をみさだめながら基盤を外に広げようとしたことが、共通する理念だったからだろう。安達泰盛は武家政権の新たな転換の扉を開き、それに殉じた人物といえよう。

このほど有隣新書で『安達泰盛と鎌倉幕府』を上梓した。鎌倉時代中ごろに北条氏に比肩する勢力をもった安達泰盛の事蹟と、泰盛が滅んだ霜月騒動の実相を明らかにしようとしたものである。詳しくは同書をご覧いただきたいと思っている。

福島金治氏
福島金治 (ふくしま かねはる)

1953年宮崎県生れ。
神奈川県立金沢文庫をへて愛知学院大学文学部教授。専攻は日本中世史。
著書 『安達泰盛と鎌倉幕府』 有隣堂 1,000円+税、『金沢北条氏と称名寺』 吉川弘文館 6,900円+税、ほか。

※「有鄰」469号本紙では4ページに掲載されています。

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