Web版 有鄰

469平成18年12月10日発行

鈴村和成と『アジア、幻境の旅』 – 人と作品

作家・日野啓三が残した足跡を追体験した紀行文学

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鈴村和成

読者を別の場所へと誘い出す文学の面白さ

“自分でもよくわからない力”に駆り立てられ、色々な場所を旅した作家、日野啓三さんが死去して、4年が経った。『アジア、幻境の旅-日野啓三と桜蘭美女』は、日野さんが旅し、小説やエッセーに書いた場所を実際にたどった紀行文学である。

「日野さんの作品には、『ゴースト』という亡霊のような人物が繰り返し登場します。日野さんの旅は、生身の身体から抜け出した分身と言える亡霊がさ迷った、そんな旅ではなかったか。亡くなってから本を読み返してそう気づき、ゴーストの跡をたどろうと考えました」

1929年、東京で生まれた日野啓三は、34年、家族とともに植民地「朝鮮」に渡り、45年、日本に引き揚げた。旧制一高から東京大学に進み、52年、読売新聞社に入社。外報部に勤め、60年に韓国のソウル、64年に南ベトナムのサイゴン(現・ホーチミン)に特派員として赴任。学生時代から評論を書いていたが、ベトナムから帰国して小説家に転身した。

「日野さんの最初の小説集『還れぬ旅』に引き揚げの話が書かれていますが、もっとさかのぼり、5歳で朝鮮に渡った時点で、地球上をさ迷う”還れぬ旅”の原型が生まれていた。5歳で離れ、舞い戻った東京は焼け野原で、いわば砂漠です。以降、どこかから来てどこかへ行く異邦人、風のような人物として生きることになった。評論から小説に転じた人は多くいますが、日野さんは小説しか書けないと言っていいほど、本来的な意味での小説家だった。評論は、書く〈私〉がはっきりとし、論じる対象を捉えて書かれるものですが、日野さんが書く〈私〉は、根無し草のような〈私〉で、評論にそぐわない所がある。そして、『ボヴァリー夫人』『ドン・キホーテ』など、優れた小説の人物は、作者から離れ、時間を超えて存在するゴーストたちなんですよ。私は日野さんの文章に、本の中にとどまらずにほとばしり出ていく魂の動きを感じました」

ソウル、カッパドキア、タクラマカン砂漠、メコン・デルタ、ベナレス…。日野啓三が訪れた場所のほとんどはユーラシア大陸に属する。中でも、荒野や砂漠、廃墟など、静寂に変化して存在する、そんな場所を歩いていた。

「顔つきあわせて日野さんの文章を愛読するうち、私も今ある場所からもぎ放されてアジアの幻境へ誘い出されました。読者を別の場所へと誘う。それが文学の面白さです。作家の影を追い、私自身がさ迷える私になった。この紀行の私もゴーストだと、そう読んでいただけると嬉しい。日野さんの小説の場合、作家が訪れた場所に、足を踏み込む必要があると思いました。作家の跡を追うことは、文章の跡を追うことで、文章と風景が重なります。例えばタクラマカン砂漠について、日野さんはまず短い紀行文を書き、時を経て、小説『遙かなるものの呼ぶ声』を書いています。同じ旅から書かれた二編を並べると、文学が生まれる場所が見えてくる。旅をノートに書き付けた作家は、帰国して、日々書き続けていく。流れる時間の中をゴーストが旅を続け、人物として立ち上がり、小説が生まれる。良い作品は時間を旅していくものです。日野さんの作品はそういうところがある」

ランボー、金子光晴ら作家の跡を旅し文学との関係を考察

1944年、名古屋市生まれ。詩人、文芸評論家。東京大学仏文科卒。横浜市立大学教授。著書に『小説の「私」を探して』『ランボー、砂漠を行く』『愛について-プルースト、デュラスと』『金子光晴、ランボーと会う』『ヴェネツィアでプルーストを読む』などがある。近刊に詩集『黒い破線、廃市の愛』。今回の紀行もそうだが、ランボー、金子光晴ら作家の跡を旅し、考える、紀行、評論をいくつも書いてきた。

「ランボーはフランスを発ってアフリカへ行き、デュラスは仏領時代の南ベトナムで生まれ、少女時代までを過ごしました。ランボー、プルースト、金子光晴、デュラス、日野啓三と、テーマにしてきた作家をみると、まさしく異邦人が一堂に会したような世界です。ある場所から追放される、あるいは脱走するときに、文学が生まれる。植民地主義という時代の流れに沿って移動しながら、自分の存在が、どうしようもなく流れから遊離してしまう。そんな異邦人の旅、書かれた作品に惹かれ、やがて自分が旅へと誘い出される」

日野啓三をめぐる旅を終え、次は、金子光晴を再び取り上げるという。

(青木千恵)

『アジア、幻境の旅』・表紙

アジア、幻境の旅
鈴村和成/角川春樹事務所/3,300円+税

※「有鄰」469号本紙では5ページに掲載されています。

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