Web版 有鄰

469平成18年12月10日発行

[座談会]箱根神社とその遺宝
−秘蔵されていた平安時代の神像を初公開−

箱根神社宮司/濱田 進
箱根神社禰宜・宝物殿学芸員/柘植英満
神奈川県立歴史博物館専門学芸員/薄井和男
箱根町立郷土資料館学芸員/大和田公一

左から、大和田公一・濱田 進・薄井和男・柘植英満の各氏

左から、大和田公一・濱田 進・薄井和男・柘植英満の各氏
箱根神社社務所にて

はじめに

箱根神社本殿

箱根神社本殿
箱根神社蔵

編集部世界有数の観光地として知られる箱根、その中でも雪をいただいた富士、そして芦ノ湖とその湖畔にたたずむ箱根神社の朱塗りの大鳥居をのぞむ風景は、箱根の美しさを代表すると言っていいと思われます。

箱根は、奈良や京都から東国に至る玄関口に位置し、箱根神社はその中心として古代から連綿として続いてきております。

箱根神社は、奈良時代の天平宝字元年(757年)に万巻上人が神託によって現在地に創建したと伝えられ、来年は御鎮座1250年に当たります。その記念事業の一環として、新しい宝物殿が開館することになり、神社に伝来してきた宝物の数々が来年1月1日から紹介されることになりました。

これに先立って、ご所蔵の宝物の調査も行われ、これまで知られていなかった神像群が公開されると同時に、開館の特別展として「二所詣[にしょもうで]」をテーマとした展示が開催されると伺っております。

本日は、箱根神社様から、宮司様でいらっしゃいます濱田進様、そして宝物殿学芸員を兼ねていらっしゃいます禰宜[ねぎ]の柘植英満様にご出席をいただきました。

また、神奈川県立歴史博物館専門学芸員で、中世彫刻史がご専門の薄井和男様、箱根町立郷土資料館学芸員で、主に近世史をご研究の大和田公一様にもご出席をいただいております。

箱根神社の歴史と伝えられてきたご神宝について、幅広い角度からお話をお伺いしたいと思います。

奈良時代に開創、来年は鎮座1250年

編集部まず、箱根神社の由緒について、宮司様からご紹介いただきたいと思います。

濱田箱根神社は奈良時代の天平宝字元年(757年)に、中興の開祖・万巻上人が箱根三所権現として、現在地にお祀りされました。来年はそれから1250年で、大変めでたい、意義ある年を迎えます。その御鎮座式年大祭を来年8月1日に執行するわけですが、箱根山信仰の原点にかんがみ、今日的成果を究めていこうと考えます。

この神社は、奈良時代の権現信仰、つまり、神仏習合の神々を根底に形成され、鎌倉時代に拡大発展しました。

とくに、万巻上人に匹敵するような別当寺・金剛王院の行実僧正と、源氏の棟梁・源頼朝との出会い、そしてその交渉経過を通じて、箱根権現の威光が一天に輝き、社頭が繁栄した時代です。しかも、頼朝を中心として幕府の武家社会に及ぼす信仰的要素と影響力が大きかった。

鎌倉幕府の将軍の伊豆・箱根の両所権現の二所詣が創設され、また、武家起請文の原形となった神文、別しては伊豆・箱根権現が起請文の頭に出てくるんです。鎌倉時代では、二所詣とこの二つのことが大事だと思うんです。

鎌倉時代には頼朝の二所詣により最盛期を迎える

濱田源頼朝がおこなった二所詣は、鶴岡八幡宮が出発点で、権現にお参りして一晩泊まって参籠して、翌日の早朝にご祈願をしてから峠を越えて、熱海の伊豆山権現に参詣した。参詣の仕方が実に堂に入っているんです。武将としても信心が非常に固い。

そういう意味で、武門の崇敬が非常に盛んになった神社です。今日では、年間2,000万人の観光客が箱根にやってきますが、その中心にあるのが箱根神社です。観光とは光を観る、箱根神社の権現様の光を観ることなのに、みんな忘れているんです。2,000万人のうちの一割ぐらいはここにお参りに来る。そのまた一割ぐらいが昇殿参拝というようなご祈祷をやっております。そういうのが箱根神社の今日の状況です。

編集部平安時代の延喜式の神名帳には、箱根神社の名前は書かれていませんが、どうしてでしょうか。

濱田式内社にならないんです。なぜかというと、仏教色が非常に強いんです。箱根三所権現と言ってお祀りしたのは神仏で、仏様が神様の姿をして現われたという考え方、垂迹説のほうが非常に強い。ここは権現寺で寺としての要素が非常に強かったので外されたのでしょう。

万巻上人像――聖僧を神格化した関東最古の像

万巻上人坐像 (部分) 奈良時代

万巻上人坐像 (部分) 奈良時代
箱根神社蔵

編集部箱根神社は万巻上人のお像が以前から知られておりますね。

薄井関東で一番古いと言っていいと思います。万巻上人については、今回の新しい宝物殿の開館を記念して本ができますが、それには慶応大学の紺野敏文先生が一文を寄せていらっしゃいます。

万巻上人は、神仏習合を推進した奈良時代から平安初期にかけての修験道のお坊さんで、中央においてもよく認識されていました。箱根はまさにその人の本拠地の一つです。そこに万巻さんのお像が祀られているのは極めて当然のことですし、恐らくは地方という感じは全然ない。

万巻上人は伊勢の多度神宮に最初に神様のお像を安置したということもありますし、もともと姿形のない神を仏教との習合の中で姿あるものにした最初の方だと言っていいと思います。

紺野先生も、ある意味では万巻さん自身の肖像としてつくったのではなくて、むしろ万巻上人自体に神威というものを盛り込んで、神と仏の世界を往き来する聖僧を神格化した像なのではないかと解釈されています。私もこれはいい解釈だなと思います。単に写した肖像ではない。万巻上人の持つ神意といったものを感じさせる。

言ってみれば、我が国の神道美術の中でも、ごく原初的なというか、ある意味では神道彫刻は万巻上人に始まると言っても過言ではないということだろうと思います。つくられたのは平安初期、九世紀初頭でよろしいと思います。

濱田私がいつも思っているのは、文化財などにしてしまうと、美術的、歴史的価値ばかり重く見られて、神像の持つ信仰的意義を失ってしまう。万巻さんも一つの神像として本堂にお祀りされて拝みの対象になっていたものですから、そういう意味では神社にとっても、単なる肖像とは思っておらんのです。ご神像と考えております。

文化財として手当てをしながら神殿の一番奥に秘匿

編集部今度、これまで知られていなかった神像が、初めて公開されるそうですね。

薄井戦前の『箱根神社大系』に載っている三神のほかにご神像があって、それがどういうものかは、宮司さんしかずうっと知らなかった。

今回、新しい宝物殿ができるのと同時に、秘中の秘と申しますか、今まで確認されていなかったお像がお出ましになるのは、濱田宮司様のまさにご英断だったのではないかと思っているんです。

濱田私はここの宮司をやって24年になりますが、文化財を守る見地からは、10年ぐらい前から、文化財の専門家が来て防虫駆除をやってくださったり、お宮の中で燻蒸したり、そういう手当てはしておりました。しかし、ご神像は秘匿するべきもので公開するものではない。なるべく見せないようにと考えて、今までご神殿の一番奥に置いてあったんです。

今年の春に神奈川県立歴史博物館で「かながわの神道美術」展を開催されたから、公開する気になったんです。最初は非常に疑問を持っていたのですが、展覧会では神奈川県の神社がそろって出品し、正しい評価を与えられた。これで問題なしと思った。

これで我が社のご神像が、日の目を見ることができるなと考えたんです。そういう意味では、おっしゃるように大英断なんです。(笑)

箱根の三所権現を具体的な姿にした三体の神像

編集部調査はどのように進められたのですか。

薄井まず、ご神像がどういう状態か、いつの時代のものかという確認調査のためにこちらに伺いました。

最初に、『箱根神社大系』や絵はがき等で前から存在が知られていた、男神二体と女神一体の立像は、三体がセットで、仏像で言うと、阿弥陀三尊とか、薬師三尊と同じような組み合わせです。

真ん中のお像は、僧形が頭巾をかぶっている姿です。右側が女神で、髪は真ん中で髷[まげ]を結い、耳のところで一回束ねている。左側は巾子冠[こじのかんむり]をかぶって、袍[ほう]をつけて笏[しゃく]をとる。男神像の伝統的な姿です。

『筥根山[はこねさん]縁起並序』を見ますと、万巻上人が箱根権現で修行をしたときに箱根の山の神が現われるんです。我らは奇怪な姿をしているけれども、箱根の山の神である。その一つは僧形である。一体は宰官[さいかん]形で、威儀をただしたお姿です。もう一つは、婦女形という女性のお姿であると、自分たちの姿を言っている。

濱田瓊瓊杵尊[ににぎのみこと]と木花咲耶姫命[このはなさくやひめ]、彦火火出見尊[ひこほほでみのみこと]ですね。

薄井まさにこれは、僧形神、男神、女神という箱根の三所権現の具体的な姿を写したもので、鎌倉時代の製作と判断していいと思います。

彩色が残る平安後期の男神・女神像

薄井今回出てきたその他のお像は、拝見するなりびっくりしてしまったのですが、なかにそれ以前の時代だと思う像があったんです。つまり、三所権現をつくるようになったのは中世に入ってからで、中世以前はもっと古い姿のご神像がもともとの形としてあったのだろう。それが今回確認された二体の男女神なんです。

製作年代は、作風から見て、平安後期の早いほう、10世紀後半から11世紀前半と考えて間違いないと思います。

特に男神像は、この手の神像のなかでは保存状態が抜群によくて、彩色も、朱と冠の黒とコントラストがすばらしくよく残っている。

何とも威厳があるお顔立ちで、眉が濃くて、目がカッと開いています。そして跳ねるような口ひげがかいてあります。横から見ますと、非常に鼻高で、見ようによっては異国的な顔ですけれども、神奈川県下ではほかに類例はもちろんないと思います。

もう一体は女神像で、頭につけている髪飾りの形が、仏像で言うと天部像の兜の前立てみたいに見えるんですが、カチューシャのような冠の前飾りだろうと思います。

彩色でわかるんですが、衣を胸前で打ち合わせていて袖が膨らんでいます。腹の部分がU字型の飾りのようになっていて、大変仏教色の強い唐形の服装です。ただ、髪の結い方とかが大変個性的で、これも全国には類例があまりないんじゃないかと思います。

箱根の山岳信仰の神駒形・能善権現をあらわした可能性も

薄井ともに一木造で、彩色です。時代はほぼ同じと見ていい。この二像は万巻上人像に次いで箱根神社の古い歴史を示すことになるんじゃないかと思います。

濱田本当の宝物だね。

薄井大きさは、仏像で言うところの三尺(立像で約90センチ)に相当するぐらいの坐像です。神像にはそんな巨大なものはないので、神像彫刻としては極めて本格的です。

この二像はいったい何の神様なのか。もしかすると駒ヶ岳、駒形、箱根のもともとの山岳信仰の中の神様に相当するんじゃないかなという気はしています。

濱田駒形、能善。

薄井空想めいていますけれども、女神が能善権現、男神が駒形権現というのがふさわしいかなと思っています。

編集部平安期の信仰の形態として二体の坐像、鎌倉時代の別当行実のあたりの段階で三体の立像になったということですか。

薄井一つの仮説なんですが、そういう解釈もどうかなと思っています。

天鈿女命と思われる女神像「袖隠」は鎌倉中後期製作か

薄井さらにすごいのは、その後に袖隠という女神像が出てきたんです。これも全国に例を見たことはまだありません。唐衣[からごろも]をつけた、巫女さんのような姿をしています。大磯の高来神社や、金沢区の瀬戸神社の女神もこのような形ですが、何より変わっているのは、両袖の袂で手を隠して、片手を額の上にかざしている。よく見ると歯を出して笑っているような、ちょっと不思議な表情をしています。何のお像なのか、よくわからないんです。

濱田天鈿女命[あまのうずめのみこと]ですか。

薄井なるほど。舞っている姿でしょうか。何とも不思議なお像です。

濱田顔がふくよかでね。

薄井伊豆山神社の別当寺であった般若院の木彫の伊豆山権現像が、置物みたいな、かわいらしいお像で、あれと作風が一脈通じるんです。時代も多分同じぐらい、鎌倉中期から後期にかけてですね。

さらにもう一体は銅でできている男神像です。巾子冠で束帯形のお像で、大変若々しい顔立ちをしておりまして、恐らく若宮神像みたいな感じを受けるかと思いますが、これ自体も大変珍しいんです。

時代が異なる二つの『縁起絵巻』

『箱根権現縁起絵巻』(部分) 鎌倉時代

『箱根権現縁起絵巻』(部分) 鎌倉時代
箱根神社蔵

編集部絵画でよく知られているものに『箱根権現縁起絵巻』がありますね。

柘植通称『箱根権現縁起』といわれる『箱根権現縁起絵巻』は国指定の重要文化財ですが、この絵巻の最初の部分はかなり欠落しておりまして、正式名称はわからないんです。ただ、内容から見ると、箱根権現の縁起を示してあるということです。

当神社には、三つ縁起がありまして、一つは『箱根権現縁起絵巻』で、ビジュアルな見る絵巻です。それとは別に、『筥根山縁起並序』という物語絵巻があり、これには白文本と訓読本と二つがあり、この三点が一つのストーリーとなって伝わっています。

『筥根山縁起並序』は、当社の沿革を淡々と述べている縁起ですが、『箱根権現縁起絵巻』は、どちからというとお伽草子に近いような物語です。神様が二人の王子、また二人のお姫様に仮託されて、箱根権現の鎮座のいわれを説いています。

その内容は、神様の本地を示した本地物語で、それを絵巻化した作例は、ほかには見られない。つまり、今のところ日本で一番古いものではないかと言われています。

また、最後のところには、この絵巻ができた当時の箱根権現社の社頭の景観図が載っていて、歴史絵画史料としての価値がそこに見出されると思います。製作年代は、鎌倉末期と言われています。

ご神体のように厨子の中にあった平井家本の絵巻

柘植江戸時代の『新編相模国風土記稿』の中の当神社の修験の記録に、正覚院というのがあります。

5、6年前、山北町の平井さんというお宅で、家の中にある祠を調べたところ、それが正覚院だった。正覚院は代々伝わっていて、平井さんのお話では、修験がさびれた後は、神主さんをされていたということです。

この祠の中に小さな神棚のようなお厨子があって、ご先祖様の遺言で「絶対あけてはいけない、見てはいけない」といわれていたそうですが、お堂が古くなったので修理をすることになり、初めて今のご当主がお厨子の扉をあけたら、絵巻が二本入っていた。箱ではなく、神棚の形のお厨子の中にご神体のように立てかけてあったんです。

「箱根大権現」という字が読めて、湖もあるので、これは箱根神社ではないかということで、ご一報いただきました。伺って拝見しますと、平井家本は二巻本で、伊豆山、箱根、三嶋まで色鮮やかに残っておりました。時代は箱根神社のものよりは新しい、後世のものですけれども、天正年間、戦国時代の年号もありました。

内容には、箱根神社本にないものが載っておりまして、つまり、もともとの箱根神社本を見ないとかけない。完本を見た上でつくったという形ですから、反対に平井家のものから追っていくと、神社本の全貌がわかるという相互の補完関係にある重要な絵巻だと思います。

箱根神社の絵巻だけでも結構注目されていたんですけれども、平井家の絵巻が出てきたことで、今、研究が非常に活発になってきています。

今回の企画展では、平井さんにお願いいたしまして、箱根神社本と平井家本の両方を展示できることになりましたので、一度に見られる機会として、研究者の間では、今から楽しみにされている方もいらっしゃるようです。

頼朝の二所詣は後白河法皇の熊野詣の関東版

編集部中世は鎌倉将軍家の信仰を得て、二所詣で頼朝や実朝が訪れることになります。

柘植二所詣では、伊豆山権現、箱根権現と言いますけれども、正式には、二所詣と言いつつ、もう一つの三嶋明神(今の三嶋大社)の三所を回っているんです。伊豆山と箱根は権現さんで二所なんですが、三嶋大社は明神さんということで趣がちょっと違う。

ただ、必ず三嶋大社も参詣されていますので実際には三所詣で、今、研究が進んでまいりました。源頼朝が二所詣を創始したわけですが、その時代の背景を考えますと、東国と西国で二つの政権、つまり頼朝の樹立した武家政権と、一方の京都の朝廷と両方がある状況にあったわけです。

京都では後白河法皇が熊野詣をやっています。熊野は本宮と速玉大社、那智大社という三所があり、東国でも、伊豆、箱根だけではなくて三嶋の三所なんです。そして『吾妻鏡』などによると、最初の二所詣に出発するときの作法で精進をする。また禊ぎなどをするんですけれども、その方法は後白河法皇が行っていた熊野行幸の作法とよく似ています。

頼朝と後白河法皇は同じ時代に生きた人間ですので、これはまだ推量の域を出ないんですけれども、やはり京都の朝廷の熊野詣を意識した。その関東版が二所詣、あるいは三嶋を含めた三所詣ではないかということが指摘されていることです。

曾我兄弟の弟・五郎が稚児として箱根権現で修行

『曾我物語絵巻』 (部分)

『曾我物語絵巻』 (部分)
箱根町立郷土資料館蔵

編集部中世では『曾我物語』に箱根権現が登場しますが、弟の五郎が稚児として来ていたということですね。

濱田これは今更、説明する必要もないほど有名な話ですが、父の仇の工藤祐経を曾我兄弟が富士の巻狩で討ち果たすという物語です。祐経が所領争いで叔父の伊東祐親に恨みを抱いて、郎党に襲わせた。放った矢は一緒にいた祐親の嫡男の河津三郎祐泰に当たって祐泰が亡くなり、妻の満江御前とその子、一萬丸と箱王が残された。これが曾我の十郎、五郎兄弟です。満江御前は曾我祐信と再婚し、兄弟は曾我の里で成長した。工藤祐経が頼朝の家来として昇進していくと、母の満江御前は子供を守りたいので、仇討ちはやっていけないと言う。それで弟が13歳のときに、仏道に入れようというので箱根権現の行実という偉いお坊さんに預けたんです。

箱根権現の稚児として仕えていたのは、13歳から17歳の非常に短い期間だけれども、仏道修行より剣術のけいこばかりやっていたというぐらい戦闘精神が強かったそうです。

編集部箱根町立郷土資料館ご所蔵の『曾我物語絵巻』はどういう絵巻ですか。

濱田あれは、私は非常に欲しかったんです。(笑)

大和田三巻仕立ての絵巻で、各巻20メートルぐらいある長いものです。表題は「夜討曾我」で幸若舞の曲の一つを絵巻として仕立てたものだということです。10年以上前ですが、近世文学を専門に研究されている方のお話によりますと、絵巻の形式は非常に珍しいもので、類例としてはニューヨークの市立美術館に、今、箱根にあるものと同じようなものがある。その二巻しかないということでした。

製作は、江戸の中期ぐらいだろうと言われているんですが、今回展示していただくことになっています。

北条泰時が定めた『御成敗式目』の起請文にも挙げられる

編集部鎌倉幕府とのつながりが深かったんですね。

柘植二所詣は源氏の将軍が創始しますが、その三代が滅んだ後も、執権となった北条氏が宗尊[むねたか]親王などに必ず随行して一緒に来ていまして、二所詣はずうっと続いているわけです。

石橋山合戦で源頼朝と一緒に苦労したのが北条時政で、そのとき源頼朝と一緒に助けられて、ここにかくまわれています。その経緯から源氏三代が滅んだ後、北条氏が執権となっても、箱根権現への信仰は北条氏も持っていたわけです。先ほどの宮司の話にもありましたように、1232年の「御成敗式目」(「貞永式目」)を制定したときに、五十一箇条からなる条文の最後に付されている起請文に、「別而伊豆箱根両所権現・三島大明神・八幡大菩薩……」という形で筆頭に挙げられています。

武家の規範とする一番大事な法典の中の神文の部分に、八幡大菩薩が最初に来るのだったらわかるんですが、伊豆箱根が来て、八幡大菩薩と続く。式目を定めた北条泰時のときも、非常に崇敬があったと思うんです。

一番いい例は『吾妻鏡』で伊豆山に続いて安貞2年(1228年)11月に箱根権現の社殿が焼亡するんですが、そのときに、北条泰時がすぐに解謝之儀を行ったということが記録されている。ですから北条氏のときも依然として勢力は衰えることはなかったと思います。

豊臣秀吉の小田原攻めで社殿を焼失

松田康長書状 天正18年 (部分)

松田康長書状 天正18年 (部分)
箱根神社蔵

編集部戦国時代、小田原北条氏が社殿を復興したという棟札がありますね。

柘植大永3年(1523年)のものです。小田原北条氏は神社の文書を見ても、棟札を見ても、もともとは伊勢氏なんです。二代氏綱のときに伊勢から北条氏に改姓する。

棟札はその改姓の間際のもので、伊勢氏綱とあります。北条氏に改姓するのも、当然鎌倉の北条氏が頭にあった。執権北条氏も箱根権現を非常に大事にしていた。ですから北条氏となったときには御社殿を建立するわけで、信仰とともに引き継いでいるのではないかというのが棟札でわかるんです。

編集部天正18年(1580年)の豊臣秀吉の小田原攻めが箱根権現にかかわってきますね。

柘植秀吉の禁制があります。それから山中城の松田康長の天正18年の文書があって、北条方が秀吉勢を迎え撃ったときの最後の状況を伝えています。秀吉によって、箱根神社は全部焼かれてしまいました。

家康が社殿を再興、小田原城主も手厚く保護

編集部徳川の時代になり、徳川氏が社殿を再興することになる。小田原城主の稲葉美濃守の寛文の造営のときの棟札も、こちらに残っているんですね。

柘植神社では三回大きな修造、あるいは造営が行われたのですが、慶長年間は徳川家康、次の寛文年間は小田原城主の稲葉氏、その後が元禄の大久保加賀守ですね。これが全部リンクしていまして、徳川家康の愛読書は『吾妻鏡』なんです。『吾妻鏡』を読んでいれば、伊豆、箱根というのは大事にしなければいけないというのが当然わかってくる。ですから、頼朝がやり、執権北条氏がやり、小田原北条氏がやり、そして徳川家康が領地替えで江戸に入府し、社殿を造営したというのは、『吾妻鏡』の記述を見れば、一つのつながりが見えてくるんじゃないかなと思うんです。

大和田東国の民心の安定というか、箱根権現に対する思いをそこで復活させておかなければいけないということがあったと思います。

編集部現在の社殿は、いつの時代ですか。

濱田昭和5年11月の北伊豆地震で社殿が倒壊しました。最近、専門家が本殿を調べたところ、小田原城主の稲葉氏が造営した寛文時代の柱が残っているそうです。

柘植遺構は、家康による慶長の造営の遺構を踏襲しているそうです。倒壊したときに、使える古材は使っており、寛文年間のものが確認されました。

濱田社殿の縁の下の亀腹基壇は当時のもので、外からも見えます。

静岡県深良村に水を流すための箱根用水を許可

箱根神社に宛てた友野与右衛門の願文 (部分) 寛文3年

箱根神社に宛てた友野与右衛門の願文 (部分) 寛文3年
箱根神社蔵

編集部江戸時代に箱根用水が開削されるときも、箱根権現が登場しますね。

濱田用水は、神社では非常に重要な歴史的事実だと思っているんです。

今の静岡県裾野市、当時の深良村では水不足に悩んでいて、名主の大庭源之丞が、芦ノ湖の水を流すことを計画します。そこでまず、「欽白立願状[きんぱくりつがんじょう]」が箱根権現に提出される。でき上がった暁には二百石差し上げますと言う。三島にある箱根権現領、徳川家康が先例により安堵したのが二百石ですから、当時の別当の快長もこれはしめた、二百石もうかったと思って非常に努力するんです。それで小田原城主の稲葉美濃守正則が幕府の老中で、総奉行ですから、監督として家老を担当としておいていた。

大和田寛文3年(1663年)に立願状が出され、実際には江戸の商人の友野与右衛門の町人請負新田として、寛文6年に着工、10年に完工します。外輪山に1.3キロほどの箱根用水というトンネルをつくって深良川へ水を流すんですが、灌漑用水の効力を発揮したのは二百町歩ぐらいと考えられています。

芦ノ湖の水利権は箱根権現が握っていた

濱田寛文年間は、ご造営事業と箱根用水、その監督と両方を一遍にやっています。小田原城主としての期間は短かったが、稲葉氏が非常に働いた時代です。

柘植箱根用水と寛文の造営がセットだったんです。江戸時代の宝物で今残っているご神具、蒔絵の高杯とか鏡などは、寛文年間、つまり、箱根用水のときのものです。

濱田もう一つお神輿が残っている。それから神社としては曾我神社がそっくりそのまま残っています。

編集部芦ノ湖の水は箱根権現のものだったのですね。

柘植「権現みたらしの池」ですね。水利権を握っていましたから。

濱田ご神像と同じぐらい大切なものですね。立願状に恐れながら水をいただきたいと書いています。

大和田明治になると、水利権の問題が発生しますけれども、これは灌漑用水としての利用というよりは、近代化の中での、例えば水力発電の問題ですとか、深良側に資本投下してつくられたものに対しての水の必要性が起こってきたということもあり、寛文年間の利用形態とは、かなり異なったものが出てきたんだろうと思いますね。

東海道を通る旅人たちも参拝し旅の安全を祈願

編集部箱根神社は近くに箱根の関所もありますし、いろいろな人が訪れますね。

大和田東海道は、伊勢参りなどで、多くの人が旅をしており江戸期になりますと、そういう人たちが道中日記を残していく。もしくは案内文というものが出てくる。

当時の旅は、道中の神社仏閣に立ち寄って、旅の安全祈願もかねて、参拝をしながら旅を続けていくという慣例がありました。ですから、箱根八里を行く旅人たちは箱根権現に参拝して行く。

十返舎一九の『東海道中膝栗毛』でも、弥次さん、喜多さんが権現坂にさしかかったとき、急ぎ旅をする人々に対して、箱根の子供たちが箱根権現への代参を申し出て、旅人にいくばくかの小遣いをせびるというくだりが出てきます。

多くの旅人たちが箱根権現について書いていますが、中でもおもしろいのは元禄年間の、井上通女という人の『帰家日記』です。讃岐丸亀藩の女性で、藩主の母養生院の侍女を勤めるため江戸に出てきていまして、養生院の死去を機に実家に帰るときに箱根を通る。関所を通ると出女になりますから、それを日記に細かく書いています。関所の手前で、6月13日の箱根神社の例祭にぶつかる。近隣を初め三島あたりから大変多くの人たちが集まってきて、すごいにぎわいを見せているという記述があります。

箱根神社を世界に紹介したケンペルの『日本誌』

編集部外国人ではケンペルがよく知られていますね。

大和田外国の方々も東海道を旅することがあって、特に、ドイツ人の医師で博物学者のケンペルは、元禄4年、5年の二度にわたって箱根を通ります。箱根権現に立ち寄って、宝物を見て10種類近くを紹介をしていますね。

柘植そうですね。

大和田『日本誌』を、ケンペル没後の享保年間に弟子がまとめ、何か国語にも翻訳されて全世界に出回る。『日本誌』を通じて、箱根権現がかなりグローバルに紹介されることになるんです。

江戸後期になりますと、箱根は湯治場、さらに温泉観光地という位置づけができて、湯治に来る人たちが湯治日記を書く。湯治は基本的には21日間かけて温泉につかって病を治す。その中で病が回復したり、安定したときに箱根のあちこちを巡るんです。

天和年間、17世紀の江戸の初頭で非常に早い時期なんですが、塔之沢に湯治に来た旗本の京極高門が、箱根を一周する箱根七湯巡りのようなものをやるんです。そのときは七巡りとは言いませんけれども、その中でも彼は箱根権現で宝物を観覧している。

江戸の中・後期には、宝物を拝観して学術的研究がされるようになる。言い伝えと歴史的事実との違いを紹介するとか、天保年間の勝間田茂野などはかなり詳細に、そういう先駆けをやっています。

江戸期に街道を通る人々、温泉に集まる人々の中で、箱根権現は箱根の中の一つの大きなポイントで、観光的要素が、すでにそのところで起こっていたという証になるのではないか。江戸期の道中記や温泉日記、湯治日記などからも権現の姿が読み取れます。

編集部勝間田茂野は地元の人ですか。

大和田出自は不詳ですが芦之湯の湯亭を嗣いだ人です。

神仏分離で流出した仏像も展示

五雲亭貞秀「東海道箱根山中図」 (部分) 文久2年

五雲亭貞秀「東海道箱根山中図」 (部分) 文久2年
箱根町立郷土資料館蔵

編集部明治初年の神仏分離で箱根権現は大きく変化しますが、以前、祀られていた仏像も展覧会に出るそうですね。

柘植もともと箱根権現にあったものが神仏分離のときにかなり流出しております。その一部が幸いなことに、おひざ元に興福院というお寺がございますが、そこにある程度秘匿されまして、今日に伝わっております。平安時代の頭部が残る菩薩頭、永仁5年(1297年)の銘のある能善権現の本地仏の普賢菩薩坐像がご住職のお力添えで、新宝物殿の開館に合わせまして、今回に限り、こちらに展示していただく。一時的に境内に入るわけです。

薄井普賢菩薩像は像底に朱の漆で書かれた立派な造像銘があります。

大和田神仏分離で、神奈川県では鶴岡八幡宮や大山寺は仏教的な色彩をかなり失いますが、境内に残っている鎌倉中期の湯釜には「大筥根山東福寺」の銘がありますね。

柘植はい。中世の湯屋施設のもので、古ぼけたお釜ですが、実は日本全国で中世の釜の中ではベスト5に入っておりまして、ベスト5のうちの2点が箱根神社に残っていて、両方とも重要文化財に指定されているわけです。

薄井湯釜は、全国でも残っているところはほとんどないんです。禅寺の古い浴室などを見てもまずないですね。

柘植お寺では東大寺と興福寺にある2つが国宝になっていますけれども、神社では箱根と熊野と吉備津神社の三社が古釜を持っていますが、あとはほとんど残っていません。そういった意味でも非常に貴重です。

編集部浮世絵にも、湖畔の賽ノ河原などを含む、神仏分離以前の風景が描かれていますね。

大和田文久2年(1862年)の「東海道箱根山中図」という、おそらく14代将軍の上洛をモチーフにして描かれた絵に、賽ノ河原の中心本尊だろうと思うんですが、ブロンズの地蔵菩薩がある。それは小田原に運ばれて現在は徳常院にありますが、この像はベアトが撮影した写真でも見ることができますし、明治4年に撮影された古写真では日輪光背が欠けて崩れてしまっていて、廃仏毀釈の波をもろに受けた状況を確認することができます。ですから地蔵菩薩は、浮世絵で見て、写真で見て、現物は今小田原で見ることができる。

薄井湯釜、浴堂釜も描かれていますね。

柘植お釜は広重も描いていますし、平井家の絵巻にもあります。本当に古い時代から、あの場所でそのままの状態である。また、それが置いてあった地が字名で残っていて、お釜と言うんです。

大和田二の鳥居のところですね。

柘植ちょうど三角公園と言っている地です。

新宝物殿では箱根神社の歴史とゆかりの宝物を展示

竣工した新宝物殿

竣工した新宝物殿

編集部新しい宝物殿はどういう形になるんですか。

柘植鉄筋コンクリートの3階建てで、1階が受付と簡単なエントランスです。

2階が常設展示室で、箱根神社の1250年の歴史を概観できる形で、3区分にいたしました。箱根神社の創建期と、最盛期を迎える鎌倉時代、そして豊臣秀吉によって全山が焼き討ちに遭ってしまいますが、その後に徳川家康が幕府を通じて再興する。その3区分をそれぞれ代表する国指定重要文化財を含む展示品を随所に配置します。

濱田ぐるっと見てもらえば歴史がよくわかります。

柘植真ん中には映像を映します。大きな画面で、箱根神社の一年のお祭りと、箱根神社がどうして創建期にここに鎮座したのかという説明をつけたものが10分と20分のバージョンで、合計30分の解説と、展示をしております。

さらにエレベーターで上がって3階は、企画展示室でございます。今回はこけら落としの意味もございまして、頼朝公の「二所詣」をテーマにした特別展を開催することになりました。箱根神社の宝物はもとより、全面的な協力をいただきました伊豆山神社、さらには頼朝公ゆかりの鶴岡八幡宮、三嶋大社の三社のご協力のもとに、重要文化財クラスのものをお寄せいただきまして、50余点を一堂に集めて、約1か月間、展示いたします。

先ほどお話があった新しい神像群、絵巻、今回は今まで出したことのないものも含めて、すべてお見せする形で計画しております。

編集部ありがとうございました。

濱田 進 (はまだ すすむ)

1929年鹿児島県生れ。
著書『箱根用水と宝暦治水物語』 新人物往来社 1,748円+税、ほか。

柘植英満 (つげ ひでみつ)

1961年岐阜県生れ。

薄井和男 (うすい かずお)

1952年神奈川県生れ。
共著『仏像を旅する(東海道線)』 (品切) 至文堂、ほか。

大和田公一 (おおわだ こういち)

1956年東京生れ。
共著『箱根旧街道「石畳と杉並木」』 神奈川新聞社 930円+税、ほか。

※「有鄰」469号本紙では1~3ページに掲載されています。

『書名』や表紙画像は、日本出版販売 ( 株 ) の運営する「Honya Club.com」にリンクしております。
「Honya Club 有隣堂」での会員登録等につきましては、当社ではなく日本出版販売 ( 株 ) が管理しております。
ご利用の際は、Honya Club.com の【利用規約】や【ご利用ガイド】( ともに外部リンク・新しいウインドウで表示 ) を必ずご一読ください。
  • ※ 無断転用を禁じます。
  • ※ 画像の無断転用を禁じます。 画像の著作権は所蔵者・提供者あるいは撮影者にあります。
ページの先頭に戻る

Copyright © Yurindo All rights reserved.