Web版 有鄰

562令和元年5月10日発行

日本史の中の元号 – 1面

本郷和人

歓迎ムードの新元号発表と戦後の国民世論

新元号の発表を前に「ワクワクしている」とか「どんなサプライズがあるか期待している」などの声をよく聞く。メディアの論調もこれに呼応し、おおむね歓迎ムードを基調としていて、「いま改めて元号の是非を問う」等の記事を見ることはない。

こうした状況に接するにつけ、時代は変わったものだなあ、と実感する。元号法が成立した昭和54(1979)年、ぼくは東京大学の1年生として目黒区駒場に通っていた。当時は「良識ある都会的な知識人は、中道やや左であるべし」という不文律のようなものがあって、教養学部のキャンパスにはそうした主義主張に基づいた立て看板が所狭しと置かれていた。元号法の制定にはもちろん反対。日本を敗戦に導き、多くの犠牲を強いた「天皇絶対」の思想を補完する装置としての元号など不要、という主張であったかと記憶している。

いま、立て看板はほぼ消滅したように思う。少なくとも東大のキャンパスには、本郷にも駒場にも存在しない。それと同様に、新しい元号は宜しくない、西暦だけが望ましい、との発言に遭遇することもまずなくなった。世論調査によれば、昭和52年においても国民の78.4%は元号を支持していた(元号はあった方が良い58.9%、どちらかといえばあった方が良い19.5%の合計)ようだから(内閣府政府広報室が実施した「元号に関する世論調査」)、メディアに登場する機会の多い知識人・言論人の側が「社会のコンセンサス」に歩み寄った、と考えるべきなのかもしれない。

先日一緒に仕事をした若い女性のディレクターが、こんな指摘をしていた。平成への改元は昭和天皇の崩御とセットであった。だからどうしても、喜ぶことができなかったに相違ない。これに対して今回の改元は異なる。生前退位をされる天皇陛下はお元気である。だから国民は新元号の発表を心から楽しんでいる。一種のお祭り騒ぎになっている…。なるほど、一理ある。若い人たちはそういうかたちで、日本の伝統を受け継いでいってくれるのかな、と微笑ましく思った。

歴史の中で元号制定が意味するもの

だが、歴史研究者としては、元号のなんたるかを考えておく必要がある。日本はどうして元号を制定し、使っているのだろうか。

東アジアの歴史の中心が中国にあったことは、否定しようのない史実である。中国は自らを世界の中心であると位置づけ、文化の薫り高い「中華」であると誇る。中華の周囲には北狄(ほくてき)・東夷(とうい)(日本はここに入る)・南蛮・西戎(せいじゅう)が存在する。狄も夷も蛮も戎も、訓は「えびす」。要するに野蛮な国々であり、彼らは貢ぎ物をもって挨拶にやって来る。これが朝貢、という概念である。

野蛮な国の首長は中華の徳を慕い、皇帝の臣下となる。「天」の代理人であるところの皇帝は、首長をその国の「王」に封じて(冊封)存在に正統性を付与するとともに、庇護・訓化の対象とする。これが冊封体制であり、この関係を築くと、当然だが臣下側の国のトップは「皇帝」を名のれず、また元号を自ら定めることができない。中国のものをそのまま用いることになる。そうした国の優等生が朝鮮半島、ベトナムの王朝であった。

一方で我が国は、中華への臣従を選択しなかった。日本の歴史の一つの画期は、天武・持統天皇の頃に求められる。夫婦であるお二人の時期に神話世界が天照大神を中心として整理され、神の子孫が天皇であると位置づけられた。皇帝と同格の「天皇」という称号が用いられたのもこの頃(それまでは「大王」=おおきみ)であり、国号も「日本」が用いられるようになった。

そして、わが国は元号を常用するようになった。元号は「大化」から始まるのだが、その後しばらくは元号のない空白期もあり、不安定であった。持統上皇(ちなみに初めての太上天皇=上皇である)が補佐する文武天皇の5年(701年)に「大宝」が元号として掲げられ、それからは現在の平成まで、切れ目なく続いている。改元が天皇の代替わりに限られるようになったのは明治以降のことで、それまでは憂慮すべき事件(政争、戦乱、天変地異、飢饉など。もちろん天皇の代替わりもこれに該当する)が起きると、人心の一新を図るために、改元が行われた。

この意味で、元号とは、日本が自立する国家である証しであった。たしかに国力ははるかに劣るものの、日本は中国の王朝に従属しない、という意志の表明であった。太平洋戦争の敗戦後、天皇主権が否定されると、元号の廃止も検討された(例えば石橋湛山(たんざん)は否定論者であった)。昭和25(1950)年2月には、参議院で元号を存続させるや否や、という議論がもちあがった。このとき高名な古代史学者(東京大学教授、史料編纂所所長)であった坂本太郎は「元号は独立国の象徴である」と論陣を張った。坂本の説は、歴史事実から見て、説得力を有したのである。

時間を司る役割から新たなる時代の改元へ

もっとも、庶民までが元号を知っていたかというと、おそらくは否であろう。字の読み書きができなかった彼らの日常生活に元号は浸透し得ない。元号よりも「えと」(子・丑・寅・卯…)が使われて、時間の観念を構成した。一方で、武士階層はそれなりに元号を認識していた。たとえば戦国時代。地方に下克上を旨とする大名がしきりに勃興し、京都の情勢は顧みられなかったとされる。ところが、改元の情報はそれなりに地方に伝えられ、戦国大名たちは新元号を直ちに自分の治世に取り入れている(年月日を記載した文書の残存状況から立証できる)。

源頼朝に始まる武家の政権は、天皇・朝廷から軍事・政治の権能を奪取していった。強力な江戸幕府が誕生すると、天皇が政治・経済に積極的に関与することはなくなった。「禁中並公家諸法度」は「天皇は学問をもっぱらにせよ」と上から目線で命じている。かかる天皇のもとにどんな権限が残っていたのかを見てみると、ぼくはそれは「時間を司る」仕事であったと理解している。具体的に言うと、暦を制定すること、それに改元を実施することである。このうち、暦の制定は、次第に幕府の業務になっていく。朝廷がもっていた宣明(せんみょう)暦は800年も使われていた古いものだったので、日蝕や月蝕が明らかに当たらなくなっていた。そこで幕府は渋川春海による貞享暦を、新たに採用したのだ。ついでに述べておくと、貞享(じょうきょう)暦にもズレが生じるようになった。それは地球の大きさが正確に分かっていなかったために、計算に狂いが生じたからであった。そこで幕府は天文方を創設し、地球の大きさの測定に乗りだした。このとき日本列島の地図を作ると共に、地球の大きさを計算するためのデータを実測したのが、有名な伊能忠敬だった。

それはさておき、かくて天皇の大きな仕事として最後まで残ったのが、実に改元だったのである。

明治より前の改元のあり方を簡単に記しておこう。先述したように、改元が意識されるのは「憂慮すべきこと、まずいこと」が起きたときであった。喜ばしいことがあったら、「いま」の状態を変える必要はない。良くないことがあって初めて、元号を変えて人心の一新を図ろうという運びとなった。

新しい元号を定める会議を「改元定(かいげんさだめ)」という。出席メンバーは現役の公卿(くぎょう)のうち、知力に優れていると認められている10名ほど。指名するのは上皇や関白など、朝廷の真の権勢をもつ人である。彼らに話し合いの具体案を提供するのは、中国の典籍に通じた中・下級の貴族たち。5人ほどが選ばれて、それぞれが3つくらいの元号案を典拠を明記しながら提案する。

改元定めの議事は、基本的に減点法で進められる。この元号は縁起が悪い、この字を用いた元号ではろくな事が起きてない、この元号の音は別の字を充てるとこうしたマイナスの言葉になる等々、ケチが付されて候補が消えていく。かくて重箱の隅の突きあいのような議論の末に、「これが良い」ではなく、「これなら無難である」ものが選ばれる。それを奏上し、天皇の認可を得て、天皇の名で公布されるのだ。

但しこれはあくまでも昔の話。新しい元号は、「これが良い、すばらしい」という判断に基づいて制定されるべきだろう。私たちが生きた平成という時代は、様々な難問が山積しているにせよ、後の世からは「日本に戦争がなかった良き時代」、もしくは「戦争のない日本が始まった時代」と評価されることだろう。新元号のもと、その平和な平成を継承する、新しき良き時代を作っていきたいものである。

本郷和人
本郷和人(ほんごう かずと)

1960年東京都生まれ。東京大学史料編纂所教授。
著書『承久の乱』文春新書 820円+税。他多数。

写真提供・文藝春秋

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