Web版 有鄰

464平成18年7月10日発行

想像を超えている新書戦争 – 特集2

鷲尾賢也

創刊ラッシュはどこまで続く?

有隣堂本店の新書コーナー

有隣堂本店の新書コーナー(中区伊勢佐木町)

20年近く、講談社現代新書の編集に携わっていた習い性なのだろうか、毎月、20日頃になると、いまでも書店の新書新刊コーナーに立ち寄る。また、前後して新聞宣伝をじっくりと眺める。なんとなく気になるのだ。

「そうか、そういう手があったのか」、「苦労して、あの原稿はとったのだな」、「知らない著者だな、まだ若いのかな」といったような独り言をつぶやく。そして、「あっちの方が売れそうだな」とか、「地味な企画、がんばっているではないか」などといった感想も付け加える。そして、つい2、3冊買ってしまう。もう、直接、関係ないのに、「三つ子の魂百までも」である。

ところが、最近、書店に立ち寄っても、そういった気持ちになれないことが多い。あまりにも膨大な数の新刊にただただ圧倒されてしまうからである。編集者として、岩波新書、中公新書と競っていた頃は、毎月3点(途中から4点になった)。ライバルの編集者の顔もよく見えていた。お互いの編集方針のちがいも分かっていた。いまや、いったい、何が、どうなっているのか、さっぱり分からない。

いま何社から、新書が刊行されているのだろう。岩波、中公、講談社現代新書のほかに、岩波ジュニア新書、講談社ブルーバックス、ちくま、文春、集英社、平凡社、新潮、光文社、PHP、洋泉社新書y、NHK生活人新書、ワンテーマ新書(角川書店)、河出夢新書、講談社+α新書、中公新書ラクレ、プリマー新書(筑摩書房)、ベスト新書(KKベストセラー)、祥伝社新書、パンドラ新書(日本文芸社)。つい最近ソフトバンク新書が刊行された。もしかしたら書き漏らしたシリーズがあるかもしれない。あるいは、休刊になっているものがないとはいえない。もう覚えきれないのである。

しかも、毎月3、4冊とは限らない。5、6冊などはざら。岩波新書が、新赤版リニューアルと称して、4月、5月と各10点刊行した。いったい、毎月、1ヶ月で何冊出ているのか。おそらく100点は優にこえるだろうが、その上はまったく見当がつかない。お手上げである。冒頭にいったつぶやきや、定点観測など、あまり意味をなさなくなってしまった。

編集経験者の私ですらそうなのだから、まして一般の読者は、平台の前に立ち、ただただ呆然としているにちがいない。新書の世界はいったいどうなっているのだろうか。

『バカの壁』『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』『頭がいい人、悪い人の話し方』『国家の品格』といったベストセラーが喧伝されている。そういうミリオンセラーの数字を聴けば、不況で悩んでいる出版のなかで、新書業界だけが景気がいいように思えても仕方がないだろう。事実、NHKの「クローズアップ現代」でも、その方向で放映していた。

創刊ラッシュはまだまだ続くらしい。朝日新聞(朝日新聞のPR誌「一冊の本」によれば、創刊10冊、その後、毎月5冊の予定だという)から秋に、またそれに前後して、ベストセラー志向の幻冬舎からの新書創刊も噂されている。「いったいだれがそんなに新書を買うの」と、つい先輩顔をして声を上げたくなる。

書下ろしが新書の大原則

新書。言葉どおり新しく書く。大家がやさしく書き下ろす、あるいは新進気鋭がチャレンジする。さらにいえば、知的ハウツー。そういうものが従来の新書であった。私の読書体験でいえば、岩波新書の伊東光晴『ケインズ』林屋辰三郎『京都』などは、いかにも大家の啓蒙書という感じがしたものだ。新進気鋭でいえば、野崎昭弘『詭弁論理学』(中公新書)、ハウツーでいえば、板坂元『考える技術・書く技術』(講談社現代新書)などが印象深かった。

例外はあったが、新書の大半は書下ろしが大原則であった。そして、大学生の教養(いまや死語になってしまった!)のためのシリーズといってもよかった。いまや大学生には新書はむずかしすぎるという。現在、私が非常勤講師をしている私立大学でも、書店にいったことがないという学生は珍しくない。音楽雑誌、スポーツ雑誌をコンビニで買えば、「こと終われり」なのである。新書の現在の主要読者世代は、すでに50歳代になっている。嗚呼!

だんだん古老の固陋な話のようになってしまって恐縮だが、書下ろしの原則など、ほとんどの編集部の念頭にもないようだ。なぜ新書を発刊するかといった理念も追求されていない(その端的な実例は、創刊の辞が近年創刊された新書にはほとんどないことだ)。

ありとあらゆるものを盛る容器に変化

雑誌などに書き散らしたものを集めたもの、しゃべったものをライターがまとめたもの(このごろじつに多い)、連載を1冊にする、さらには単行本を新書化する(これは文庫の役割だった)、座談会、対談形式もある。いわば「何でもあり」状態、言葉をかえていえば新書は「ごった煮」状態である。ありとあらゆるものを盛る容器に新書が変化してしまったのである。

慨嘆してただただ、むかしに帰ればいいといった守旧派のつもりはないが、はたしてこのまま新書全体が推移していくのか。なによりも、読者がついてゆくのか、かなりの疑問があることはいっておかねばならない。

危惧すべき点はいくつもある。たしかにベストセラーが輩出しているが、このように新刊が多く出されているにもかかわらず、全体の売上げがあがり、新書市場が拡大しているというデータはどこにもない事実だ。つまり、お互いに食い合っている。初版部数もじつは減少している。

また昔話で恐縮だが、私の編集長時代、ふつう、岩波新書の初版部数は4万部、刷り置き1万部であった。講談社現代新書は、2万部から3万部の間。中公もほぼ似たような数字だったろう。これが、いま、各社とも初版2万部がいいほう。それを切る新書も多い。そして、何点かの超ベストセラーを除くと、売行率は想像以上に芳しくない。

一般的には、関心が払われないようだが、新書編集・販売でいちばん頭を悩ませるのが、じつは流通問題なのである。業界内の話になっていささか気がとがめるが、簡単に触れておく。創刊時から1年ぐらいは、棚におさまるから、新書の返品は少ない。ところが、時間がたつにつれ、誰もが青くなる。棚をはみ出すほどに新刊が刊行されれば、必然的に過去の書目が押し出されてしまう。

創刊2年目あたりから、過去1年間の売れなかったものが出版社に戻ってくる。たくさんの点数を出してれば、出しているほど、その可能性は高い。すべてベストセラーになるのならともかく、そんなことはありえないからだ。すると、突然、眼前に一挙に出現する膨大な既刊本にびっくりする。

ロングセラーの重要性

新書シリーズ成功の鍵は流通にあるというのは、こういう構造があるからである。そこで浮上するのがロングセラーの重要性だ。細かいことは省くが、新書は単行本に比して低価格。初版だけではなかなか採算がとれない。それをロングセラーで補うという構造だった。

講談社現代新書でいえば、中根千枝『タテ社会の人間関係』は100刷を超え、100万部をとうに突破している。何十年にわたって、年間に何度か、かならず重版していた。それが全体に絶大なる好影響を与える。そういう財産のためには、既刊本を大事に管理する体制、そして、長く読者に読まれるていねいな本作りが必要とされるのはいうまでもないだろう。いまはそれがどうも欠けていないだろうか。本来、新書は手間や暇がかかるものだ。

岩波新書に、各社がなかなか追いつけないのは、1938年創刊以来の歴史の重み、数々の信頼できる名著のせいである。丸山眞男『日本の思想』、清水幾太郎『論文の書き方』、あるいは笠松宏至『徳政令』など、一朝一夕では、肩を並べられないほどの力作が並んでいる。どれほど私たちは切歯扼腕したか。なんとか、一歩でも、二歩でも近づきたいと、プランを練り、読者に読んでもらえるような工夫を講じたかわからない。

こういう体験談を縷々のべても仕方ない状況になっている。読み捨て。来月になったらだれからも忘れられてしまう新書があまりにも多いからだ。よくいえば多種多様。硬軟の幅の大きさ。優れたものから、箸にも棒にもかからない駄作まで、すさまじい勢いで刊行されている。その結果、長く読みつがれたロングセラーの数々が書店の棚になくなるという現象が起きてしまう。さみしいことだ。

つまり、点数が多いということは、書店の棚が限られているので、結果として絶版や品切れも多くなることだ。ある程度売れ続けないと、店頭から消える。そして、ふたたび、出荷されることなく、紙くずとなるコースをたどる。だから、よほどのものでない限り、昔の新書は読めないということになる。

岩波、中公、講談社現代新書に集約される前に、同じような現象があった。三一新書、紀伊国屋新書、グリーンベルト(筑摩書房)、角川新書、東大新書など、それなりに妍をきそっていた。しかし、次第に撤退し、三大新書におちついた経緯がある。

かつてのように、現在の状況は整理されてゆくのだろうか。しかし、いま新書を刊行しているところは、日本有数の出版社ばかりである。それぞれの面子もかかっている。簡単に新書の舞台から降りるとは思えない。すると、この状態はまだまだ続くと考えた方がいいだろう。徒労覚悟であるが、いきつくところまで行くのではないか。

「教養」は戻ってくるのか?

一方、読者サイドを見れば、先の大学生のように、毎月、教養を身につけるために読むといった人は皆無になった。話題になったので、読もうといった読者ばかりだ。だから、ミリオンセラーは出現するかもしれないが、ロングセラーは減少の一途をたどる。つまり、新書は流行(はや)り本になってしまっているである。

今回の、岩波新書新赤版リニューアルのラインアップを見ると、もう一度、教養を取り戻そうとしている意図がよく分かる。それなりに重版もかかっているらしい。いくつかの中身には註文がつくが、全体の方向に私は賛成である。しかし、これをどこまで貫き通せるだろうか。教養の復活はあるのだろうか。そして、大学生を中心とした若い読者を今後獲得できるのだろうか。さらには、こういった方向を各社の編集者がどう考えるのだろうか。出版社、書店だけでなく、日本文化の問題のような気がする。おおげさでなはないだろう。新書戦争はまだまだ続く。

私自身、20日前後の店頭で、新刊を手に、ぶつぶつ感想を吐く習性を止めたくても止められないのである。

鷲尾賢也

鷲尾賢也 (わしお けんや)

1944年東京生まれ。
講談社で、現代新書編集長、選書メチエ創刊などに携わる。取締役を経て、現在、顧問。
著書『編集とはどのような仕事なのか』 トランスビュー 2,200円+税、ほか。

※「有鄰」464号本紙では4ページに掲載されています。

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