Web版 有鄰

464平成18年7月10日発行

小島信夫と『残光』 – 人と作品

瑞々しい90歳の最新長篇小説

小島信夫
小島信夫

妻と小説 ―― 2つの繋がりが濃密に

「90歳の最新長篇」だ。どんな職業も、年を経れば「経験」と「慣れ」のために自由さを失うのが普通だが、70年以上小説を書いている小島信夫さんの新作『残光』は、改めて文学の最前線に立つような、瑞々しい作品になっている。

内容は、老小説家の身辺のこと。そこにある「意識の流れ」を、あるがままに書き出した――そんな小説だ。2005年1月から7月半ばまでのことが書かれている。主人公の「私」は、90歳の小説家で、妻・愛子の認知症がいよいよ進む中、「トーク・イベント」に出席する。対談相手の保坂和志さんに褒められた自作(『寓話』と『菅野満子の手紙』)を友人と読み返し、思索する。

「妻と小説。私にとり書くことに関わるこの2つの繋がりが、非常に濃密になる日々があったので、書く気持ちになりました。手の感覚で“100枚ほど”書いて渡したら、“140枚分入っていた”そうで、編集者の方には苦労をおかけしましたね。結果、四百字詰め原稿用紙で約400枚。昨年7月のトークが終わって8月から書き始め、10月いっぱいで書き上げました」

主人公の「私」は、ずっと小説のことを考えている。岐阜で「小島信夫文学賞」が創設され、<まだ生きている私の名前の賞>の選考委員になる。やがて妻は夫の顔もわからなくなり、入院した妻を訪ねて、<アイコさん、ノブさんが来たんだよ。コジマ・ノブさんですよ>と呼びかける――。悲しさと可笑しさが混じり合った雰囲気は、小島さんの代表作『抱擁家族』をほうふつさせる。

「今は、目が見えづらくなったせいもありますが、僕はもともと、書いた小説を読み返さず、手直ししません。この小説を若々しい作品と思っていただけるのは、昨年の半年間を『現在』として書いているからだと思う。要するに、急に頭をはたかれた感じで驚いたり、潜在的に隠れているもの、言いたいけれどいっぺんには出てこないことがあったり、そんなことが繋がって日常がある。全身で考えながら書いていると、自分と世の中との繋がりの部分が小説に現れてきます。日常的な繋がりが現れて変化する様子が、作者としては面白い」

1965年に『抱擁家族』で谷崎潤一郎賞を受けた。「代表作」といわれる作品を発表してなお、40年以上も書き続けている凄さである。文学史上では、遠藤周作、安岡章太郎、吉行淳之介らとともに「第三の新人」の一人で、この一群の作家たちがその後の書き手に与えた影響は大きい。遠藤、吉行の作品は、ふたりが亡くなった今も、新たな読者を得ている。

「人は世の中全体のことをずっと考えて生きているわけじゃないですね。親しい者との関係の方が濃密です。今こうしてみると、ひょっとして、時代に関係ないところで書いたものの方が続けて読まれるのかも知れない。私が小説を書き始めた昭和の初め頃は文化が爛熟して、華やかだった。すべてが生き生きとしてみえて、子供の目で見たままを、時代に関係なく書きました。生きていることについて簡単に分かるものじゃない。分かるものじゃないこと、口に出せないことを、書きたい気持ちがする。難しいけれど、書きたい。小説が書きたい。まあ、とりとめもないことですね」

純粋経験の組み合わせが小説

1915年(大正4年)、岐阜県生まれ。東京大学英文学科卒。55年、「アメリカン・スクール」で芥川賞。82年、『別れる理由』で野間文芸賞。小説の中でも、話す間も、これまで大量に触れてきた小説や評論についての話題がぽんぽんと出てくる。作品同様、とらえどころがなく、収まらず、ひたすら思考が伸びていくようすだ。

「高等学校時代に、僕らは西田幾多郎の『善の研究』を読もうとして、なかなか難しかったんですが、その本には“純粋経験”について繰り返し語られています。個人をつくる一番のもとになるのは自然との関係で、知覚して自由に意志を持つ。僕は小説家だから、小説の場合も純粋経験から始まるところがある。いわば純粋経験の組み合わせが小説で、それもあって僕は書いたものを読み返さないのだと思う。これはうまく行ったということが書けても、舌なめずりして喜んでいるわけにはいかない。それはその時だけでね。さまざまな動きの中で出てきただけだから、改めてゼロから出発しなければいけない。書いたら終わり。書き足すこともなく、いつでも新しく出直しです」

(青木千恵)

『残光』・表紙

残光
小島信夫/新潮社/1,600円+税

※「有鄰」464号本紙では5ページに掲載されています。

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