Web版 有鄰

464平成18年7月10日発行

[座談会]多様化する文学賞

作家/黒井千次
小学館出版局文芸編集長/稲垣伸寿
読売新聞文化部/鵜飼哲夫
ライター・本紙編集委員/青木千恵

左から鵜飼哲夫・黒井千次・稲垣伸寿・青木千恵の各氏

左から鵜飼哲夫・黒井千次・稲垣伸寿・青木千恵の各氏

はじめに

『ダ・ヴィンチ』・表紙

『ダ・ヴィンチ』
メディアファクトリー

青木昨年から、雑誌が主催する「ダ・ヴィンチ文学賞」(メディアファクトリー)や「野性時代青春文学大賞」(角川書店)、英訳の出版を特典とする「ランダムハウス講談社新人賞」、ネットで募集する「ヤフー!ジャパン文学賞」、児童書が中心だったポプラ社が大人向けのエンターテインメント小説を対象にした「ポプラ社小説大賞」など、公募による新しいタイプの文学賞が次々に創設されています。また、書店員がネットで投票する「本屋大賞」も、2003年の創設以来、多くの話題を呼んでいます。

新しい文学賞の公募

新しい文学賞の公募

これらの新しい賞は、作家が選考する、芥川賞・直木賞などのような従来の賞と違って、読者代表や書店員が参加したり、ネット投票など、選考方法も大きく変わってきています。

本日は、作家で、今年6月まで日本文芸家協会理事長を務められた黒井千次さんと、小学館の新文芸誌『きらら』編集長で、「『きらら』携帯メール小説大賞」や「小学館文庫小説賞」に携わってこられた稲垣伸寿さん、読売新聞社文化部の鵜飼哲夫さんにご出席いただき、新しいタイプの文学賞と、それにまつわる最近の文学についてお話をうかがいたいと思います。

編集者や読者が選ぶものが多くなった公募文学賞

『きらら』・表紙

『きらら』
小学館

青木稲垣さんは、実際に小学館でたくさんの文学賞創設にかかわっておられますね。

稲垣最近新設される公募文学賞の特色は、小説家が選ぶのではなく、編集者あるいは読者が選ぶものが多くなっている。もちろんこの傾向は出版社がやる公募の賞にも影響していて、たとえば講談社の「メフィスト賞」も「小学館文庫小説賞」や「きらら文学賞」も編集者が選んでいる。そういう選び方の多様化のなかで、いろいろな文学賞が出てきているのではないかと思うんです。

星野伸一『ア・ハッピーファミリー』・表紙

星野伸一『ア・ハッピーファミリー』
小学館
第1回きらら文学賞

今、これまでのように文学の周辺だけではなくて、インターネットやブログの周辺でも小説が語られるようになり、読む人も、書く人もずいぶん変わってきている。

そんななかで、今までの賞で包含しきれないものを新しいかたちで始める。小学館で言えば、携帯メールで応募してもらう「『きらら』携帯メール大賞」とか、編集者が選ぶ「小学館文庫小説賞」とかですね。それは、なによりも読む側に近い立場で小説を選びたいという気持ちなんです。

「12歳の文学賞」は雑誌の『小学六年生』が中心でやってますし、少年向けの「ガガガ部門」と少女向けの「ルルル部門」がある「ライトノベル大賞」は、コミックの編集部の人たちが小説を手がけたいということで始めた。それぞれの読み手の立場で、それぞれの書き手を見つけていったらいいのではないかと考えているんです。

ですから、これからもっとたくさん出てくると思うし、そこで旧来の文学賞とのせめぎ合いもあるでしょうね。島田雅彦さんが朝日新聞の文芸時評で「もののあはれが崩壊した」と書かれていますが、確かに「もののあはれ」は希薄になっていると思います。

僕は旧い世代の小説読みなので、この賞はどうかなというのも多いのですが、とはいえ、今は小説を取り巻く状況は厳しくて、とりあえず裾野を広げる必要がある。「もののあはれ」は少ないかもしれないけれども、広く小説の読み手と書き手を開拓しなきゃいけないと、編集者としてはとにかく痛感しています。

青木賞が増えて、その結果というのはどうですか。

稲垣僕たちはまだ始めたばかりで、一番古いのでも5年ぐらいですから、結果はまだなかなか出てきませんね。ただ、小説に対する環境が、パソコンとか、ネットや携帯で、根本的に変わってきているというのが僕の認識なんです。たぶん、その影響で、今の若い人たちは、僕たちの時代より、はるかに書いたり、読んだりしている。その中で新しい表現なり、物語の形なりが生まれてくるのではないかというのが、いつも感じている淡い期待なんです。

書き手とか、読む人たちと話をしてみると、小説に対する考え方のハードルが非常に低いというか、すごく自由な発想を持っている。それがいいか悪いかは判断しかねる部分もありますが、その人たちを否定してしまったら次世代の小説は生まれてこないんじゃないかと思うし、心に触れるものも少しある。次世代につなげたいという感じがします。

読むのはきらい、書くのは好きで文学が「カラオケ化」

稲垣書くほうも書くことに関心を持っている。少なくとも僕が大学生のときは、小説を書いているなんてことは大きな声では言えなかった。閉じられた世界で、ハードルもすごく高かった。

青木作家になるとか、そんなイメージではなかった。

稲垣非合法活動みたいなね。今の人たちは、そういう意識はまずないと思う。晴れがましく書いている人が多いですよね。僕たちのときは、みんな何か心に薄暗いもの、悩ましいものを持ちながらやっていたところがあった。

青木書く人がものすごく増えているのは確かで、今年3月が締め切りの第1回ポプラ社小説大賞は、賞金が2,000万円というのがあるかもしれないですけれども、2,746編の応募があった。

稲垣だけど、残念なことにどんな賞でも、30%ぐらいしか読むのに値するものはないような気がします。

鵜飼最近、文学のカラオケ化と言われる。歌うのは好きだけれども、人の歌を聞くのはきらいだ。それと同じで本を読むのはきらいだけれども、書くのは好きだ。

稲垣そこがカラオケと同じ感覚なんですね。

鵜飼後藤明生の“千円札文学論”ではないですけれども、お札が表と裏がないと流通しないように、言葉とか文学は読む・書くということが裏表にあることが大事では。

カラオケ化が悪いとは一概には言えないけれども、一つ言えることは、本人はオリジナルのつもりでいても、ある程度読んできている人間からすれば、どこかで見た作品だなというのが少なくない。

稲垣他人の歌を聞かない人は、自分の歌の評価はできないんです。つまり、他の人のものを読んでいない人の小説は読めばすぐわかる。読むと書くは実は裏表で、読んでいない人が書くととんでもないものが出てくるんですよ。それが半分ぐらいはある。

青木でも、その後に残るものから何かが始まる。

稲垣そこに才能が埋まっているかもしれない。そこを見極めていくのが編集者で、そこを自分の尺度できっちり選ぶということです。

書き手の裾野を広げたワープロやパソコン

青木鵜飼さんは、古い小説も、新しい文学賞の小説も読んでいらっしゃると思うんですが、どういうふうにご覧になっていますか。

鵜飼手書きの時代より書きやすくなったことは明らかだと思うんです。ひところ、ワープロで書くのが文学といえるのか論争になりましたが、今はワープロソフトで書く人が大半。ワープロだったから書いたという作家もいる。たとえば高村薫さんとか、宮部みゆきさんもそうですね。

表現手段が変わってきて、書く世界に入りやすくなったのでしょうね。その分、裾野が広がっているということもあるし、その中から新しい芽が出てくる可能性もないとは言えないでしょう。

今から20年位前に、吉本隆明さんが、文学は必ずしも文芸誌の中だけにあるんじゃない。たとえばマンガや雑文のちょっとした文章だとかの中にもある。そういうものを探していかないと、これからの文学はなかなか見つからないかもしれないということをおっしゃっているし、今の編集者は音楽、マンガなど、別のジャンルから文学の才能を見つけ出すのにやっきです。

そういう意味で、いろんな人にきっかけをつくることそのものは悪いことではないと思うし、選び方も作家の選考だけではなく、編集者とか、読者が投票という方法があってもいいとは基本的に思うんですが――僕の場合、そこに若干ではなくて相当留保がついてしまう。一応理解はできるけれど納得はしていない。

稲垣納得はみんなしていないと思います。次世代と今の世代のせめぎ合いが始まらなければいけないんだけれども、それを意図的に避けているという感じがしますね。

書店員が売りたい本を選ぶ本屋大賞

本屋大賞のポップ(有隣堂ヨドバシAKIBA店)

本屋大賞のポップ(有隣堂ヨドバシAKIBA店)

鵜飼本屋大賞は一つの典型としてあると思うんです。本屋大賞は、基本的にアンチ直木賞みたいな形で始まったわけです。本屋さんが伝えたい本が賞を取らない。その代表が直木賞だった。

しかし、第1回の小川洋子の『博士の愛した数式』は、読売文学賞を受賞した後に本屋大賞になった。第2回は、吉川英治文学新人賞を取った恩田陸の『夜のピクニック』です。

今年の『東京タワー』は賞は取っていないまでも、すでにミリオンセラーになってますし、市場には十分に伝わっている。リリー・フランキーさんの子供時代の表現がリリカルで、地方の非常にうらぶれた環境の中で、複雑ではあるけれども、温かい家族のことを書いています。

それぞれの受賞作はいい作品だとは思うけれども、実際に選ばれたものを見ると、既存の賞との違いは大してないと思ってしまうわけです。

稲垣本屋大賞ができたときの趣旨とはちょっと違ってきて、“発掘”という感じが薄れている。

鵜飼本屋大賞は、もともと『白い犬とワルツを』が、習志野の本屋さんが店頭にポップを立てたことから火がついてベストセラーになったというエピソードから発生したものですね。目に見えるお客さんに向けて、本当に伝えたいものを売りたいという形の中で出てくることに意味があったんです。

しかし今は、そういう手づくり感とか、地域感とか、ざわざわ感とか、温かい感じがちょっと希薄になったのではないか。もちろん選ばれている本がいけないと言っているわけではないです。

稲垣投票者が増えたこともあるのでは。投票者が増えれば増えるほどマスに近づいていく。より多くの書店さんの気持ちを反映したいという気持ちだとは思いますが。

鵜飼そうですね。

公募賞を設け新しい書き手を探し出す

鵜飼今の広がっていく文学賞にも、編集者が選ぶ賞と読者が参加するものの二つのタイプがあって、それぞれは違うと思うんです。

編集者が選ぶものの場合はかつてであれば、別に賞がなくても編集者が社内でけんかして、「俺は絶対出すんだ」と言って出してきた。それでおしまいだったわけです。そこに何賞という帯をつけなくても出し続ける。ずうっとそうやってきた。

それは編集者がよく目配りをしていればいいだけであって、なぜ公募文学賞という冠を必要とせざるを得ないのかというのが、若干よくわからないところなんです。

稲垣僕たちの中では、まだ未開の領域の中から、小説を書いている人たちに出会いたいという気持ちがあるんです。つまり、賞を与えることよりも、新しい書き手を発掘していきたいという気持ちのほうが強い。

「小学館ライトノベル大賞」は、完璧に書き手を新しい領域から探し出したいという発想なんです。

鵜飼もともと文芸誌などの媒体を持っていれば、そこに書いてもらって、それを本にすればいいけれども、媒体のないところは、賞をつくって集めるということですね。

稲垣それがあるので、こんなに賞が乱立しているような気もします。僕たち自身も、新しい小説賞の中から果たして継続的に書き続けることができる作家があらわれるのかどうかは、始めたばかりなので半信半疑の状態なんです。一つの可能性としてやっている。こっちには公募があって、もう一方では編集者のある種のこだわりで才能を見い出し、育てていく。その両輪みたいな形でやっているんです。

黒井両輪になっているんですか。片一方が非常に小さいみたいな気がするけどね。

稲垣いいえ、現実には僕たちの仕事は圧倒的に後者のほうが多いし、結果もいいものが出ます。

「メフィスト賞」は編集者が選ぶ賞の始まり

京極夏彦『姑獲鳥の夏』・表紙

京極夏彦『姑獲鳥の夏』
講談社

青木「野性時代青春文学大賞」のように、編集部の第一次選考の後にネットで読者投票、さらに書店員や読者の代表で最終選考するというものもありますね。

鵜飼編集者が賞を選ぶものはまだわかるんですね。一方で最近増えている、書店や読者が選ぶというのは、話がちょっと別かなと思います。確かに民主的かもしれないけれども、文学に民主的なものって必要なのかなという感じがするんです。

稲垣最大公約数で選ぶわけですけどね。

鵜飼たとえば50年後、100年後の読者に、今の民主性の結果――たとえばベストセラーを名作として押しつけたところで困るでしょう、と僕はいつも思うわけですよ。

今生きている人が、投票的な形でやる、そういうやり方があってもいいと思うけれども、本というのは、10年、20年という長い目でその価値が評価されるべきで、今の時点の人気だけで評価するのはどうか、と思う。

稲垣読者投票で選ばれた賞は、たとえば僕が見て、これがいいなと思っているものではなく、全然違うものが選ばれるんですね。僕がちょっと変わっているのか。これでいいのみたいな、割と無難なものが選ばれる傾向がある。

鵜飼編集者が選ぶ賞の始まりはメフィスト賞だと思います。この賞はそもそも、京極夏彦さんの持ち込みの作品『姑獲鳥[うぶめ]の夏』が当たった。しかも、その編集者が非常に力を持った。それでメフィスト賞にしようと1996年に始まった賞で、初めにメフィストありきではなかった。

青木『姑獲鳥の夏』は、第ゼロ回のメフィスト賞だといわれますよね。

稲垣賞に値する作品が出てきた時だけ、賞を与えるというすばらしい賞ですね。

鵜飼売れる売れないじゃなくて、「これは俺が読みたかったんだ」と、読み手の代表としての第一線にいる編集者が、原稿を前に、作家ととことん話してつくりあげていくのが昔のやり方。今は作家と話す機会も減っていますよね。原稿をもらいに行くことがそもそもなくなっているし、ちょっと前まではファックスでのやりとりでしたが、今はもうメールですからね。

芥川賞—選評には選考委員の文学性も反映

青木これまでの文学賞は、その道の専門家である作家が選ぶ形でずっとやっていたわけですが、黒井さんは芥川賞の選考をされてきて、最近の新しい文学賞について、どのように思われますか。

黒井文学賞は、これはどういう賞であるということを鮮明に意識している賞のプロデューサーがいて、賞のイメージを確定するために、しっかりした明確なコンセプトを持って、それを実現していくことによって、時を重ねるにしたがってだんだん姿がはっきりしてくるんだろうと思うんです。

実際、賞の性格は、選考委員の顔ぶれというか、どういう人が選考するかによって決まってくるところが大きいと思うんです。

芥川賞の選考委員は、聞くところによると、原則として小説家だけで、評論家と思われる人であっても、実際は小説を書いた人であるという説明を受けたことがあります。それが芥川賞の性格として一つある。

ですから、本屋さんなり、読者なり、ネットまで含めた非常に開けた受け手側の選び方であれば、それが賞の性格になるんでしょう。

逆に、専門家の選考委員、小説家なり批評家なり、とにかく文学畑で仕事をしている人が選ぶものは、あるところまでは閉じられているかもしれないけれども、その閉じられている中で、従来の文学の持つ伝統や蓄積と、新しく出てくるものとがどういうふうにぶつかり合い、せめぎ合って、新しいものを生み出していくかということを確かめる場になるのではないか。

賞がたくさん出てくるのは悪いことではないかもしれないけれども、その賞がどういう性格で、それが文学、小説そのものにどうかかわるかというところの問題はかなりあるように思うんです。

鵜飼芥川賞の場合には選評が出ますね。すると、賛成でも反対でも、そのことで選評を書いた作家の文学性が問われる。作家が選ぶということは、結果的には、選ばれた作品や作家だけでなく、選んだ作家もまた、その選択の力量が評価にさらされることになるわけですね。

芥川賞でおもしろいのは、取った人と、取らなかった人の両方の歴史があるわけでしょう。たとえば太宰治は落ちて、川端康成に「私見によれば、作者目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みあつた」と言われて、「この野郎」とかいった。

取った人でも、昭和30年に受賞した石原慎太郎の『太陽の季節』を、佐藤春夫が、「作者の美的節度の欠如を見て、最も嫌悪を禁じえなかった」と言ったということも含めて、議論にさらされてきたわけです。そこに、賞のおもしろさ、文学というもののせめぎ合いのおもしろさがある。

絲山秋子『沖で待つ』・表紙

絲山秋子『沖で待つ』
文藝春秋
第134回芥川賞

最近でも、東野圭吾さんが直木賞を『容疑者Xの献身』で受賞したときに、これまで落とされるたびに、「この野郎、この野郎」と思っていたけれども、今回「この野郎」と言わずにすむと言っていたし、『沖で待つ』で芥川賞を受賞した絲山秋子さんも、もうこれで落ちたら候補になるのを拒否しようと思っていたそうですね。

芥川賞は厳然と、基準として存在してほしい

稲垣僕は、平成15年に綿矢りささんと金原ひとみさんが芥川賞を受賞したのは選んだ人たちの失敗だと思いましたよ。(笑)

芥川賞は、職能集団の優秀な人たちが、ニューカマーの腕を審査して、この人はいいだろうということで、「おまえは我々の仲間に入っていいよ」というような性格も若干持っているのではないかという気がするんです。そこでああいう若い人たちに「入っていいよ」と言ってしまうと、どんどん若返って、古い人たちは結構厳しくなる。とくに、そこに”新しさ”などが盛り込まれていれば、旧世代の場所はますます狭まっていく。

彼女たちの作品を否定するわけではないんですが、僕たちみたいに新しい賞をやっている人間から見たとき、芥川賞は厳然としていて、基準として、規範として、権威として存在していないと困るんです。そこが揺れてくると結構大変なことになる。

ですから、芥川賞は40歳以上の人にしかあげないとか(笑)、それは無理なんでしょうが、芥川賞は日本文学の一番のメインストリームを今まで担ってきた賞なのだから、文学性、完成度、物語性とか、そういうあらゆる面を含めたところで、厳格なくらい厳格ないいものを選んでほしいと思っている。

黒井おっしゃることはよくわかるんだけれども、芥川賞であれだけ若い人たちが出てきて、その小説について、論じて決める。選んでいるのは、相対的にみんな年寄りなわけです。だから、世代の断絶であるとか、壁だとかいうことがいろいろある中で、年寄りも読んで、それなりの価値があると思ったものが出てくることが、一つの意味でもある。

稲垣そういうふうにあってほしいと僕も思います。

話題になって売れないほうがいいのではないか

黒井あの辺の一群で出てきた人たちの作品には、世代の違いということだけで簡単には言えないものがあると思うんです。

時代とのかかわりということで言えば、たとえばパソコンとかインターネットとか、そういう新しい状況と必ずしもぴたっと一致していない、つまり異質の人たちをふくむ選考委員が読んで、「ああ、おもしろいな」と言わせるものがあれば、そこから新しいものが出てくることになる。ときに時代錯誤みたいなものがあってもいいのではないかと思います。そこを突き破って出てくるものは、何もないところにふわっと出てきて売れるものよりは、もっと力があるのではないか。

そういう意味では、芥川賞を取った作品は、あまりどっと売れないほうがいいのではないかという気もしますね。

鵜飼長い目で見て売れればいいということですね。

黒井そうそう。話題になってさっと売れないほうがいいという感じがしますね。

ただ、そうして出てくるものが、今は、ほとんど売れ方ではかられてしまう。マーケティングですよね。何部売れたか、こんなに売れてないのかという尺度が強くなると、そんなに売れないけれども、良質な読者にはきわめて大切な作品として受け入れられるべきものが、排除される傾向がどうしても出てくるのではないか、という気がするんです。

鵜飼芥川賞がメインストリームになったというのは、恐らく石原慎太郎前後だと思うんです。第三の新人あたりから安定してきた。

稲垣それまでは一般的には知られていなかった。

鵜飼吉行淳之介さんが昭和29年に『驟雨』で取ったときは、新聞のベタ記事で小さく出る程度だった。今みたいに騒がれるようになったのは、石原さんの頃からで、その後、紆余曲折しながら、また一つの波が来ると注目される。

ただ、その中で、芥川賞は取らなかったけれども、この作品はいいというものは、編集者が自己責任で出していたと思うんです。賞という冠なんかなくてもよかった。

稲垣三島由紀夫の『仮面の告白』はそうですね。

プロの編集者が何度も書き直しを命じる

鵜飼黒井さんが小説を書き始めた当時、文学賞はほとんどなかった。今みたいな状況のほうが書きやすいとは思われませんか。

黒井全然思いません。当時も賞はなくはなかったけれども、それより、どこかで編集者との結びつきをつくって、それが切れてしまったらおしまいだから、とにかくその人につかまっているという感じだった。

一つの原稿が何か月も行ったり来たりして、何度も書き直したりというプロセスが、後から思うと非常に貴重な時間だった。よく辛抱強くつき合ってくれたと思いますね。二回も三回も書き直しを命じられると、だんだん頭にきて、「この前はこう言ったからこうしたのに、何で、今度はこう言うんだ」と思ったりした。そのときの僕の相手は坂本一亀さんでした。

鵜飼『仮面の告白』の編集者ですね。それは大変でしたね。どの作品ですか。

黒井一番最初の『二つの夜』です。駿河台の河出書房の木の階段がギシギシ鳴るのを、何度も上っていった記憶が鮮明に焼きついているんです。そのときに編集者に言われたことの一つ、一つは、大したことではないにしても、頭に残っている。そういう表現は、読者はしてくれない。プロの編集者が見ると、なるほどそういうふうに読めてしまうのかとか、「長過ぎる。三分の一で書けるはずだ」と言われると、こっちも頭にきたり、途中でいやになってしまって、新しいものを書いたほうがいいのかなと思ったりするけれども、これだけ何度も通ったなら、これを活字にしなければ意地でもいられないという気持ちになったことなどもありましたね。それも幸せな時期だったと思います。

賞が持つ力や権威は、昔は弱かった

青木内向の世代とか、安岡章太郎、吉行淳之介、遠藤周作といった第三の新人の作家たちは、新人賞から出たのではなかったんですか。

黒井内向の世代も、阿部昭の「子供部屋」は文學界新人賞、坂上弘の「ある秋の出来事」も中央公論の新人賞、後藤明生の「赤と黒の記憶」は全国学生小説コンクール入選作ですね。でも、そうではないところでやっていたことが先につながっている気がする。賞の持つ力、権威というものが、昔は弱かったのではないですか。あまり問題にする必要のないキャリアにしかすぎなかった。

結局、編集者と書き手とのつながりになると思うんだけれども。「これはおもしろいから読んでみてくれないか」と、若い人の作品を編集者に紹介したりする。賞がなくても編集者と結ばれていれば、だんだん何とかなっていったかもしれないというところはあるかと思うんです。

今、例外はあるんでしょうが、「持ち込み原稿は認めません。新人賞に応募してください」と文芸誌が言うようになって、賞が、作家として活躍する足場を得るためのシステムみたいになっている。特に文芸誌の賞がそれをシステム化したことは、問題ではないかという気はしますね。

賞から外されて大ベストセラーになった例も

鵜飼エンターテインメント系の『オール讀物』や『小説現代』では、賞をとってもなかなかケアし切れなくて、結果的に再度、江戸川乱歩賞などで出てくるケースがありますね。

稲垣江戸川乱歩賞は特に多いですね。

鵜飼藤原伊織は最初はすばる文学賞で『テロリストのパラソル』で乱歩賞と直木賞を同時受賞ですね。

青木横山秀夫さんも、最初はサントリーミステリー大賞でしたね。

鵜飼それで松本清張賞に出すという形で出てきた。

稲垣賞を取ったことで、作家として経済的にやっていけるかというと、ほとんどはそうなってはいかないという実情がありますね。

片山恭一 『世界の中心で、愛をさけぶ』・表紙

片山恭一 『世界の中心で、愛をさけぶ』
小学館

片山恭一さんは、1986年に文學界新人賞を受賞したけれども、単行本はなかなか出なかった。2001年に出た『世界の中心で、愛をさけぶ』が3冊めの本だった。賞を取ったからといって必ず本が出るという状況はとにかくあまりない。

鵜飼逆に言うと、外されることが話題になる場合だってあるわけでしょう。たとえば高見広春の『バトル・ロワイアル』は、角川の賞で選考委員全員の総スカンをくったというのを帯にして出したら大ベストセラーになった。映画化もされましたね。

賞の性格がはっきりしていれば、落ちるということもやっぱり大きな話題になる。

黒井そうそう、落ちる意味みたいなものが認められればね。

稲垣あえて受賞を拒否する人もいますね。

黒井そういうふうになれば、それはそれでまたフォローのしようがあると思うんだけれども、そうではなくて、これが一つの制度として確立してしまうと、そこから外れたものは見向きもされないというふうになっていってしまう。そこで失われているものもあるのではないか。

賞をとらなくても本が出れば受賞作と同格

青木最近の人でみると、吉田修一さんとか、横山秀夫さんとか、新人賞を取って出てこられた人がいる一方で、西村賢太さん、三浦しをんさんは、最近、芥川賞とか山本周五郎賞の候補になって注目されているんですが、公募賞からは出ていないんですね。彼らのような超個性は、賞はなかなか取りづらいのでしょうか。

黒井取りづらいでしょうし、そんなにめったに出てくるものではないということもあるんだと思いますね。

鵜飼でも結果的に、たとえば西村さんの作品は、芥川賞を取らなくても本にしている。そこが昔で言うと、賞を与えているのと同格と言ってもいいわけでしょう。

今は誰でも出すから同格には見えないけれども、今から2、30年前、賞では落ちたけれども本になっているというのは、文学好きのイメージからすれば、みんなほとんど同格だった。ただ、それが今は拡散しているんです。しかも、ますます拡散を深めてしまっている。

作家になることより作家であり続けることのほうが大変

稲垣僕たちがやっている賞では、予選通過の段階で作者と会うんです。会って話を聞くと、その人がどのくらい小説を読んでいて、どんな気持ちで小説を書いているかがわかるんです。それで賞にかなわない人が結構います。小説に対して愛情もないし、書き続けるという気持ちがないとわかる。

黒井それでも作品はある程度おもしろいんですか。

稲垣おもしろいんです。結構うまく書けてしまう。カラオケのたとえでいえば、生まれながらにして声も美しくて、じょうずに旋律もたどれる、能力の高い人がいるんですよ。そういう人が精進を積めば、本当に優秀な才能になる可能性があるんですけれども、どうしても小説に専心できない。それだけ志のない人だとそのまま終わってしまう。それを見極めるには、やはり会って話をしてみなくては。

鵜飼新人賞がたくさんあれば、おもしろい作品も出てくるでしょう。でも、それで作家になれるかというと、ちょっと違う。作家であり続けることのほうが、作家になることよりも相当大変だと皆さんおっしゃいますね。

稲垣奇跡的に作品がうまく書けてしまう。ミラクルが重なって作品として成り立ってしまうときがあるんです。だけど、その人は一回しかそれができない。継続的にできる人の才能はまた違うところにあるような気がします。

青木作家であり続けるにはどうすればいいのですか。

黒井書き続けることしかないですね。

プロとアマチュアの垣根ははっきりとある

青木賞がふえて、応募する人も多くなるし、自費出版もできる。そうするとプロとアマチュアの垣根がなくなるようなことはないですか。

鵜飼プロとアマチュアの垣根は厳然としてあるでしょう。商品形態としての本は、自費出版もふくめて言えば、プロの作品であろうが、アマチュアの作品であろうが、同じように出て、同じように享受できるような環境になっているから、たまたま本になった若い人たちも当然いる。差はないように見えるけれど、内容には、プロとアマチュアの垣根は厳然としてあるとしか言いようがないぐらいはっきりしていると思います。

作家になるしかなかったという人と、作家になりたいという人ではモチベーションが全然違う。プロの人は作家であることしかないわけで、さっきのカラオケ化の延長で言えば、作家になりたいという人の作品、まして売れっ子作家になりたい人の作品は、自己満足の作品が目立ち、余り読みたくない。書きたい、何か伝えたいというものが感じられるものが読みたいですね。

稲垣古くさい言葉でいえば、内的衝動につき動かされて、ということですか。

鵜飼そうだし、やっぱりそれが、よい文章で表現されていくかということがないと続かないのではないか。

稲垣僕が小説を読んでいて心を動かされるのは、物語がどうできているとか、ストーリーがどうとかいうことよりも、表現としてのオリジナリティーみたいなものに一番惹かれるんです。しかし、今の賞の応募作には、ほとんどそういうものを感じない。

オリジナリティーは、持って生まれたものではなくて、たくさん読んで、たくさん書いた中で生まれてくると思うのです。ところが、今の人たちは本当に過去の作品を読んでいないし、継続性というものから切断されているので、持続力のあるオリジナリティーになりようがない。模倣でしかないものも多いので、公募文学賞は読んでいて時折に不毛なときがあるんですよ。

でも、たまさか才能で書けたものにオリジナリティーを覚えることもある。この人は作家をずっと続けないだろうけれど、作品として強烈な独創性を覚えたりするんです。たいへん残念なことですが。

青木こういうふうにすごく厳しい状況ですと、本当に実力があるのに、実力が伸びないままに、プロレベルまでいけない人なども出てきたりしないでしょうか。

稲垣実力のある人は必ず出てきますよ。実力ってどこが実力だかわかりませんけれども、書き続けることで絶対出てくると思う。でもそんな人は本当に10年に一人ぐらいしかいないんじゃないかな。

超高齢化時代には年配の新人作家も

青木新しい文学賞は、これからどうなって行くのでしょうか。

鵜飼今、新人賞だらけじゃないですか。新人賞は文学全体で言えば、はっきり言えば、一握りのところでそういうことをやっている。それも不毛だなという感じがするわけで、マスコミの悪いところでもあるんだけれども、新人というと騒ぎやすいから、新人じゃない人たちの変化を見落としていくのも多々あることで、それをやっていくと文学は、ただの新鮮ごっこというか、新しさごっこ、若さごっこになっていってしまう。

若い時代にすごい作品を書いたなんて、十指にも満たないぐらいじゃないですか。詩人は割と若い人が多いけれども、小説では三島由紀夫だって『仮面の告白』は24歳のときでしょう。

稲垣この作品を書くために大蔵省を辞めた。

鵜飼大江健三郎も、21、2歳ですし、大体20歳過ぎている。川端康成は『十六歳の日記』とか、短編を書いていますけれどもね。

新人というと、どうしても若いというのがイコールになるけれど、ひところ年配でデビューした作家がいっぱいいたわけで、森敦さんはもちろん若いころに書いていたにしても、実際のデビューは『月山』ですね。

稲垣車谷長吉さんも、若いころ書いていたとはいえ、デビューは遅かった。

鵜飼古山高麗雄さんも、最初に書いたのが49歳だし、そういう人たちもいるわけで、これからの表現は、ましてやこういう超高齢化時代ということであれば、老人文学というくくりがいいのかどうかは知らないけれども、青春文学があるとすれば、老人文学もあるわけで、そこで新しい書き方が出てきていると思うんですよ。

そういう意味で、年をとった新人を発掘していくことで新しい読者も開拓できる。実際に団塊老人世代が2007年には出てくるわけですね。そういう人たちで、もう一度活字を読みたい、書きたいと思っている人たちも多いはずです。市場のことは言いたくないけれども、老人文学は、これからの時代の市場になっていくような気がする。

賞の数がふえれば淘汰のメカニズムも正確に働く

黒井新人賞は、これまでにないような格好で出てきたり、応募の仕方も、選び方も非常に多様化していっぱいあるわけで、それは現象として当面は仕方がないんじゃないか。それでやってみたけれども、ある時間がたてば、自然に淘汰されていくんだろう。淘汰されていくプロセスで、意味があるものは、淘汰されたにしても意味としては残るかもしれないし、全然意味がなくなってしまうかもしれない。それは書き手が賞を取るにせよ、取らないにせよ、どれだけ書き続けられるかということと似たようなもので、自然にあるところへ落ちつくのではないでしょうかね。

稲垣たくさん出てくれば出てくるほど、淘汰のメカニズムが正確に働く部分があるという感じがするんです。だから、賞が増えていく傾向に対して、悪くはないなとは思うんです。少ないと、淘汰のメカニズムはうまく働かないんじゃないか。

楽観主義的ですけれども、多分、今みたいにたくさん出てくると、よりいいものは10年後、20年後にも残っていく。そういう小説が新しい賞の中から生まれるのか、それとも旧来の芥川賞や文芸誌の新人賞のほうから生まれるのかはわかりませんけれども。

鵜飼人によりけりだとは思うけれども、文学賞があることによって、その賞がきっかけで作品を知り、読むこともたくさんあるわけです。今まで知らなかった本との出会いにはなると思うんです。

一方で、書きたいという気持ちを持っている人は、賞を取っても取らなくても書くということが大切。そして、落とされたら落とされたで、逆にそれが10年、20年後に、あいつを落とした賞は変じゃないかといわれるような腰のすわった作品は、僕は読みたいと思います。

青木どうもありがとうございました。

黒井千次 (くろい せんじ)

1932年東京生れ。
近作に『一日 夢の柵』 講談社 1,900円+税、
石の話』 講談社文芸文庫 1,200円+税、ほか多数。

稲垣伸寿 (いながき しんじ)

1955年埼玉県生れ。

鵜飼哲夫 (うかい てつお)

1959年名古屋市生れ。

※「有鄰」464号本紙では1~3ページに掲載されています。

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