Web版 有鄰

463平成18年6月10日発行

横浜のプール家
父は関東大震災の体験記を出版
息子は「象徴天皇」を起草

伊藤久子

GHQ民政局 リチャード・プール氏の訃報

今年2月末から3月初めにかけて、新聞各紙にアメリカ人リチャード・A・プール氏(86歳)の訃報が載った。関東大震災前の横浜に生まれ、終戦後、連合国軍総司令部(GHQ)民政局で日本国憲法の天皇に関する条項を起草したという、日本にゆかりの深い人物である。

なかでも毎日新聞は「戦後60年の原点」シリーズで憲法制定過程を取り上げるため逝去直前のプール氏にインタビューしており、訃報を追いかけるように出た「新憲法案要綱」特集(3月5日付朝刊)で氏の証言を大きくとりあげた。 ヴァージニア州の自宅での写真も添えられていた。

実は筆者も、昨年の3月、プールさんを訪ねてお話を伺い、資料を拝見して楽しく充実した一日を過ごしていた。 写真を目にして、その日のことがまざまざと脳裏に甦った。

ただ、当時、横浜開港資料館に勤務し資料調査のため訪問した私の主たる関心は、プールさんと憲法とのかかわりではなく、プールさんの父O・M・プール(オーティス・マンチェスター、通称チェスター)の横浜時代のことであった。

そう、プールさんは、関東大震災の克明な体験記『古き横浜の壊滅』(有隣新書、1976年刊・品切)を書いたチェスター・プールの息子であった。 そして父の没後、父が残した文書や写真をそっくり保存していたのである。

父チェスターは7歳で来日、母ドロシーは横浜生まれ

プールさんの父チェスター・プールは、明治21年(1888年)、スミス・ベーカー商会の日本茶買付人となった父に連れられて、シカゴから汽車と汽船を乗り継いで横浜にやってきた。両親、兄バート、姉エレノア、チェスターの5人家族で、末っ子のチェスターはまだ7歳だった。

一家は山手の外国人居留地に居を定め、チェスター少年は兄とともに家から5分ほどのヴィクトリア・パブリック・スクールに通い始めた。 ヴィクトリア女王即位50年を祝って前年に設立された学校で、約70名の男子生徒の大半がイギリス人だった。

丘あり海ありの山手界隈でチェスターたちは理想的な少年時代を過ごした。 フットボールやクリケットには学校全体で「鉄砲場」(山手駅付近)まで行進していき、夏には本牧や海岸通りの前の海で思う存分、水泳やダイビングに興じた。

海での少年たちのリーダーは、当時まだ独身で32歳のウィリー・ウォリー・キャンベルだった。 プール一家と同じ頃、パシフィック・メール社(アメリカの郵船会社)の代理人として来浜したスコットランド系カナダ人で、ヨットを愛し、横浜ヨットクラブの「提督」(会長)として知られることになる。

チェスターの父は射撃の名手で山好きだった。 子どもたちは父から射撃や山歩きや、カメラや現像の手ほどきを受けた。 母と姉はピアノの、兄はヴァイオリンの名手で、プール家は音楽好きの人びとの溜り場になっていたという。

チェスターは学校卒業後、フランス語・日本語・速記・タイピングの個人教授を受け、1895年(明治28年)、15歳でイギリス系商社のドッドウェル・カーリル商会(のちドッドウェル商会)に入った。 ロンドン・香港に本社があった貿易・運輸会社で、チェスターは世界各地を広く旅行し、独身時代には3年間の神戸支店勤務も経験して、1918年(大正7年)、日本の4支店の総支配人に昇進した。 まだ37、8歳の壮年で、大震災の5年前のことだった。

震災後の1924年春、神戸に滞在中の家族(O. M. プール氏提供)

震災後の1924年春、神戸に滞在中の家族。
中央がO.M.プール夫妻、その両脇にキャンベル夫妻。
3人の子どものうち、左端がディック(リチャード)。
(O. M. プール氏提供)

その間、1916年に、横浜生まれのアメリカ人ドロシー・キャンベルと結婚。 岳父は少年時代の遊びの師匠W・W・キャンベルである。 ドロシーの母方は古くからの居留民で、母キャラ(旧姓ライス)の父は駐横浜副領事、祖父は初代駐箱館領事という家系だった。

横浜で二世代目のプール家には長男アンソニー(愛称トニー)、次男リチャード(愛称ディック)、三男デイヴィッドの3人の子どもが生まれた。

当時の横浜の外国人社会は「常に流動的であり、人々は、勤め先の会社によって極東のある港から他の港へと転勤を命ぜられたが、なかには二世代三世代にもわたって横浜に居残った家族もある」とチェスターは『古き横浜の壊滅』に記している。妻ドロシーの母方の家族がそうであったように、プール家も代々横浜に住みつづけていたかもしれない。

しかし突然、大震災が横浜を襲った。

関東大震災で神戸に脱出、2年後にアメリカに帰国

震災直後の神奈川県庁

震災直後の神奈川県庁
内部は焼失している。左の塔は開港記念横浜会館。
(O. M. プール撮影/横浜開港資料館 蔵)

1923年9月1日、大地震が起きたとき、チェスターは山下町のドッドウェル商会にいた。 瓦礫と火の手のなかをなんとか山手へたどりつくと、妻と3人の息子(6歳、4歳、3歳)は幸運にも崩れた家から脱出しており、近くに住むキャンベル夫妻も無事であった。ドロシーの伯母(母の姉)メイベル・フレイザーもあとで無事が確認された。

チェスターの父は茶の事業のため静岡に住んでおり、結婚して上海に住んでいた姉エレノアと息子が軽井沢に避暑にきていたが、いずれも無事だった。父はその日、地震のため電気もつかず、外からのニュースが何も入ってこない静岡から、チェスター一家の安否を問う手紙を出している。 しかし横浜や東京の惨状は想像もつかなかったに違いない。手紙がチェスターの手元に届いたのは1ヵ月半もたってからだった。

海に避難したプール一家はヨットで一夜をしのぎ、その後カナディアン・パシフィックの汽船に救助され、4日目にエンプレス・オブ・カナダで神戸に向かった。

その後、一家は神戸で2年間過したが、チェスターのニューヨーク支店長着任にともなって帰国。 チェスターは1949年の引退までニュージャージーに住んだ。横浜生まれの息子たちもそこで成長した。

長男トニーは航空会社の職員となり、ボリヴィアを拠点に活躍していたが、1944年、ペルーのリマで病死。次男ディックはハヴァフォード大学で政治学を専攻後、国務省の外務職員局に入り、モントリオール副領事を皮切りに、各地に赴任する生活を送った。三男デイヴィッドは技術者となり、祖父ゆずりのヨットマンとなった。

憲法草案作成の際 天皇の条項起草の責任者に

『古き横浜の壊滅』が有隣新書として邦訳されたとき、チェスターは多数の写真や回想記を有隣堂に寄せた。 また友人のC・B・バーナードが描いた本牧の田園風景の水彩画も贈っており、その裏には、本牧の思い出が書き添えてあった。 この絵は、のちに横浜開港資料館に寄贈された(最近、季刊『横濱』12号の本牧特集号に掲載された)。 その後、高齢だったチェスターが亡くなり、プール家とは音信がとだえてしまったという。

ところが、今から7年前、筆者は思いがけないところで次男ディックの消息を知ることになった。 たまたま読んでいたベアテ・シロタ・ゴードンの『1945年のクリスマス』(平岡磨紀子構成/文、1995年刊)のなかで「横浜生まれのリチャード・プール」の名に遭遇し、さらに、鈴木昭典氏が本人にインタビューした詳細を『日本国憲法を生んだ密室の九日間』(1995年刊)で知ったのである。

同書によれば、1946年の2月、東京のGHQ民政局で25名のメンバーによってわずか9日間で日本国憲法の原案が作成された。 このとき天皇・条約・授権規定に関する小委員会の責任者に、まだ26歳のリチャード・プール海軍少尉が抜擢された。「メンバー発表の最後に近くなって、ケーディス大佐があたりを見回して、天皇は君、プール少尉にまとめてもらうと言うんですよ。(中略)責任を感じました」とプールさんは回顧している。 ケーディス氏も「君はたしか天皇と誕生日が同じだったろう? それが君を選んだ理由だよ、なんて言った覚えがありますよ」と証言している。

たしかにプールさんは1919年4月29日、横浜生まれである。 震災のときは4歳。大学卒業後、国務省外務職員局に勤務していたが、国務省から入隊許可を得て海軍に入り、GHQ民政局に配属されて日本国憲法の草案作成という秘密任務に携わったのである。

リチャード・プールさん

リチャード・プールさん
(2005年3月、筆者撮影)

鈴木氏からプールさんの連絡先を教えてもらった筆者は早速手紙を出した。だが返事はなく、仕事に追われてそのまま時が流れた。ところが、昨年1月、なかばあきらめつつ再度手紙を出してみたところ、なんとジリアン夫人からEメールが届いた。自宅にはチェスターが残した沢山の写真や文書があり、日本の機関で関心があるところがあれば寄贈してもよいという。夫が亡くなったら誰もチェスターの資料を整理する人はなく、資料が廃棄されてしまうのではないかと、夫人は心配していた。

こうして筆者はプールさんを訪ねていくことになり、彼が「発掘」しておいてくれた資料を調べて、関東大震災関係の写真や手紙・記録、プール家の系譜、居留外国人の出版物やアルバム等々、おもに日本や横浜関係の資料をよりわけた。 プールさんはそれを横浜開港資料館に寄贈してくださり、その一部は昨冬の同館の企画展「横浜&バンクーバー 太平洋を越えて」で公開された。

プールさんにお会いしたのは、それが最初で最後になってしまった。 訃報に接して、あの日のご夫妻の暖かな歓待の記憶が一層忘れがたく甦った。

伊藤久子
伊藤久子(いとう ひさこ)

1944年東京生まれ。
元横浜開港資料館調査研究員。
共著『図説 太平洋を越えて 横浜&バンクーバー』 横浜開港資料館 714円+税、他。

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