Web版 有鄰

463平成18年6月10日発行

[座談会]いま、なぜ松本清張か――戦後日本と対峙した作家

作家/半藤一利
文芸評論家/清原康正
有隣堂社長/松信 裕

右から清原康正氏、半藤一利氏と松信 裕

右から清原康正氏、半藤一利氏と松信 裕

座談会「いま、なぜ松本清張か」書籍リスト(新しいウインドウで開きます)

はじめに

『けものみち』『砂の器』『黒革の手帖』・表紙

『けものみち』『砂の器』『黒革の手帖』

松信松本清張さんが平成4年に亡くなられてから、すでに14年がたちましたが、最近、『砂の器』や『黒革の手帖』『けものみち』などの作品が相次いでテレビドラマ化されております。また、文庫の新装版が次々と出されており、改めて松本清張さんの作品が注目を浴び、若い読者層も増えていると伺っております。

松本清張さんは明治42年に現在の北九州市小倉に生まれ、給仕や印刷工として働き、その後、朝日新聞九州支店に入社されます。 作家活動は40年に及び、昭和25年に、『週刊朝日』に処女作『西郷札』を応募してから、亡くなるまでの間に書かれた作品は、長編、短編を合わせると千編、原稿用紙10万枚をはるかに超えると言われています。文藝春秋から刊行された『松本清張全集』は全66巻にも及んでおります。

本日は、編集者、また雑誌『文藝春秋』の編集長として、長年、親しく接していらっしゃった半藤一利さんと、大衆文学を中心に幅広い分野の文芸書に精通しておられる文芸評論家の清原康正さんにご出席いただき、松本清張さんとのかかわりや、作品の魅力などについてお話を伺いたいと思います。

昭和27年 『或る「小倉日記」伝』で芥川賞を受賞

清原私は、清張さんは文壇のパーティなどではよくお見かけしたんですが、面と向かってお話ししたのはたった1回で、ご自宅に行ってインタビューをしたんです。 ものすごく怖い人だという印象ばかり聞いていて、私は緊張しっ放しだった。 半藤さんは、ご著書の『清張さんと司馬さん』の中で優しい人だとお書きになっていますが、一番最初は昭和28年の芥川賞の授賞式のときにちらっと顔を見たんだそうですね。

半藤昭和28年のお正月でしたので、昭和27年の下半期、『或る「小倉日記」伝』で受賞された。

当時は、銀座のみゆき通りと並木通りの角の、今は画廊になっているところに文藝春秋社がありました。 小さな応接間に受賞者を招いて授賞式をした。 社の幹部との記念写真は残ってますが、何ということはない授賞式でしたね。

清原同時受賞が五味康祐さんの『喪神』(『秘剣』に収録)、直木賞は立野信之さんの『叛乱』ですね。

半藤私が入社したのはその年の3月なんですが、「遊んでいるなら働きに来い」と引っ張り出されて、時々、会社に行っていたんです。 そしたらちょうど授賞式の日にぶつかりまして、そのころ、芥川賞、直木賞も、今ほど世の中がワアワアともてはやすほどの賞じゃございませんでしたし、私も、受賞者がどのぐらい偉いのか知りませんでしたから、ちょっと眺めただけでした。

上京当初は階段の踊り場で原稿を執筆

半藤初対面は翌年の29年に『別冊文藝春秋』の用事で練馬区関町のお宅に行ったときです。 小倉から単身で東京に出てきていた清張さんがご家族を呼び寄せた直後でしょうか。関町の家を知っている人はあんまりいないんじゃないですか。

驚いたのは、2階に上がる階段の踊り場に机を置いて、そこで原稿を書いている。 部屋じゃないんですよ。

「おもしろいところでお書きなんですね」と言ったら、「本当は部屋の中で書きたいんだが、入れてくれないんだよ」と言っていました。

清張さんのことを、ものすごくおっかなくて、土下座して頼んだとか、「あんな無礼なやつはいない」とか、「ひどいやつだ」とか言う編集者がかなりいるんです。 でも私は、そんな人ではないんじゃないかなと思います。 そのときも私に対してそんなに威張ったことは言わなかった。 ただ「君はどこの大学だね」と聞かれました。 「東京大学です」と言ったら、「そうか、東京大学かね」とにこにこするんですよ。 東大卒の編集者に、おまえはいかに無能であるかというのをやることが、彼の快感なんですね。

私も、「君はそんなことも知らんのかね」と言われました。 「実は私はボートの選手でございまして、隅田川大学のほうが正確なんです」と言ったら、呆れていました。 そんなふうでしたから、悪い印象は持たなかったんです。

「行ってみたいね」は「連れて行け」ということ

半藤私は、文藝春秋という会社で文学畑に行ったことがないんです。 月刊誌の文藝春秋編集部と週刊文春編集部を行ったり来たりしていて、小説は1回もらっただけで、むしろ昭和史関係の『小説帝銀事件』や『日本の黒い霧』とか『現代官僚論』、ノンフィクションのほうで長いことつき合いました。

清原アメリカ、カナダ、九州路の取材に同行された。 アメリカ、カナダは安宅産業の崩壊がテーマの『空の城』ですね。 九州路のほうは?

半藤『西海道談綺』ですね。 長編で、その連載中に4日ぐらい行きました。 アメリカ、カナダは1週間近くになりましたね。

清原取材の旅では、どんな様子だったんですか。

半藤旅行に行って苦労した人は多いですね。 予定をどんどん変更するんです。 「半藤君、ここはぜひ行ってみたいね」と言う。 「行ってみたいね」ということは、「連れていけ」ということなんですよ。(笑)

飛行機の切符は通しで買ってますから、一遍変更するとその先が全部なくなってしまうんですね。 ですから、その都度、買わなきゃいけない。 変更に次ぐ変更で、実際に手配をしていた部下が、どうにかしてくれと、悲鳴を上げちゃいましたね。

じっと見ていたディテールが作品に生かされる

半藤アメリカでですが、安宅産業をつぶしたことになる製油所がニューファンドランドにあるんです。 私たちが行ったときは、もう廃墟でした。 清張さんはそこに立ったまま、10分ぐらいジーッと見ているだけなんです。驚くほど長い時間に感じられましたけれども、その後、自分のカメラを向けます。 つまらないものを写しているんですよ。 あんなところは必要ないんじゃないかと思うようなところを写す。 それが旅行から半年ぐらいたって、作品にその場面が出てくるんです。

私たちは風景なんかすぐ忘れてしまって、大西洋なんか同じ海じゃないかとか思っていますが、清張さんはじっと見ていて、それが作品に生きてくる。 そのときは「ああ、小説家というのはこういうものなのか」と思いました。

清原カメラは持っていらっしゃるけれども、その前に自分の目で全部見ていく。

半藤まず見る。 それから咲いている花を一輪むしって手帳の中にはさんだり。 写真を撮るのは、鉄の柱のさびとか、水たまりに浮かんでいるものとか。 ディテールに関しては非常に細かくやっていましたね。

清原人間観察のようなこともありましたか。

半藤ええ。 小説の中にタクシーの運転手が出てきますが、清張さん自身が英語で話していましたよ。

あの人の英語はキングス・イングリッシュなんです。 言ってみれば候文で、日本語に直せば「なんじ、この辺にてしばしお待ちいただけるや」とやる。山とか気候のことを一々聞いていました。 でもメモは余りとらないんですよ。

清原記憶力のすごい方だったんですね。

半藤ただ、ホテルに帰ってダーッとメモをとるみたいですね。 私たちの見えないところで、それはいかなるときでもそうでした。

編集者は、単なる付き添いではなく話し相手

清原清張さんは余りお飲みにならない。 こちらがビールをゆっくり飲みたいと思っていると、飯を食って、「さあ行こう。 きょうの取材はどうだった」と言うとか。

半藤さあ一杯飲もうじゃないかと思っていると、「早く上へ上がって、きょう見たこと聞いたことに関する検討会をやろう」と言うから、一人でやれと思う。 (笑)

清原同行した編集者たちの感想も聞くわけですか。

半藤そうです。 議論じゃなくて、あのときどう思ったかと聞く。 「ふん、ふん」なんて聞いていますよ。 「おまえら、そんな程度にしか見ないのか」とは言いません。 ちゃんと聞いていました。

清原自分が見た角度とはまた違う見方を知りたいということでしょうかね。

半藤だと思いますよ。 ですからどんな感想でもいいんですが、何か言わなくてはいけない。

清原何を聞かれるかわからない。 必死になって見ておかなくてはいけないですね。

半藤そうなんですよ。 だから、単なるつき添いというわけにはいかない。 話し相手ですからね。


社会派推理小説

事件や話題をキャッチして提供

清原最初に清張ブームが起こってくるのは『点と線』をはじめとする社会派推理小説ですね。 半藤さんはその勢いを編集者として見ておられたわけですね。小説そのものは担当なさらなかったけれども、すごい人が出てきたなという実感はありましたか。

半藤それはありました。 しかも、1作じゃないんですから。 同時進行で何本もやっているわけです。 一番すごかったのは昭和34年から35年でしょうか。

清原連載を10本持っていた。

半藤『オール讀物』に『球形の荒野』、『週刊新潮』に『わるいやつら』、読売新聞の夕刊に『砂の器』、問題作が軒並みでした。 『文藝春秋』には『小説帝銀事件』とノンフィクションの『日本の黒い霧』でしたね。

私なんかも、原稿をくれるのを待っているんですけれども、もしかすると、うちの原稿じゃなくてほかの社のを書いているんじゃないかと疑ったり、とにかく、とりっこでした。

私が担当していたから思うのかもしれませんが、清張さんは小説を書くよりも『日本の黒い霧』のほうが好きだったんじゃないでしょうか。 こっちの原稿は比較的早くくれて、小説のほうは遅れるんですよ。『オール讀物』もうちの会社で、締め切りは少し違うんですけれど、盛んに牽制しながらやっていましたね。

小説の裏にはっきりとした社会的テーマがある

半藤もちろん小説もすごいのばかりでした。 しかも、小説としてすごいだけじゃなくて、裏側にそれぞれのテーマがはっきりあるんです。 当時の社会的な話題をパッとキャッチして、小説の中に取り込む。 それは驚きました。

『砂の器』で言えば、ハンセン氏病を裏に置いているのと同時に、当時、出雲の言葉と、東北のほうの言葉が共通しているということで、日本の言語学会がわき立った。

『球形の荒野』は、スイスでやった、ダレス工作と言う和平工作を種にして推理小説として仕上げていますね。

「えっ、あの問題か!」というのが一つ一つにある。 すごい人が出てきたと、みんな思ったんじゃないですか。

清原そうですね。 『点と線』も、その次の『眼の壁』も、個人が犯罪をする。 だけどその動機は組織悪だとかにつながっている。 背景の奥深さがありましたね。読んでいると、単なる謎解きではなくて、今おっしゃったような社会との絡みがあって、知らず知らずのうちに現代史、昭和史につながっていくところをわれわれは感じていたのではないか、というおもしろさがあった。

半藤そうですね。

清原その後、社会派推理という形で、社会の犯罪と、戦後史そのものとが、どこかで重なっているといったような作品がいっぱい出てきますね。 水上勉さんの『飢餓海峡』も黒岩重吾さんもそうだし。清張以前・清張以後という言われかたをした。

男の家出、政治献金、国有地払い下げなどを取り上げる

『ゼロの焦点』『球形の荒野』『駅路』・表紙

『ゼロの焦点』『球形の荒野』『駅路』

半藤清張さんは、そのときの社会に起きている事件や話題をきちっと正面から取り上げた推理作家だった。 例えば、男の家出がはやった。 女房からの脱出……。

清原蒸発ですね。

半藤『駅路』がそうですね。 教科書問題を扱ったのが『落差』。 『ゼロの焦点』では戦争直後の混乱で心ならずもおこなったことが尾を引いた悲劇、政治献金問題を扱ったのが『彩り河』です。国有地の払い下げを『花氷』で扱い、広告業界を『空白の意匠』で、選挙資金の問題を『告訴せず』で取り上げた。 まだあるんですよ。 正面から出したものも、そうでないものもありますけれども。

しかも、推理小説として、誰もが読めるような形にして提供した。 清張さんの社会派推理小説というものを考えるときに、単なる推理小説というレッテル以外に、その時点の社会問題をすべてキャッチしていたというところを、しっかりと押さえておいたほうがいいと思います。

歴史小説

社会の底辺で生きている人々への共感

清原歴史小説も、単なる時代物ではないところがありますね。

半藤そうですね。

清原一つ、彼は私小説がきらいであったということがあると思うんです。 『半生の記』を書いたときに、こんなのを書くんじゃなかったと一応言うんだけれども、例えば『いびき』だとか、『佐渡流人行』とかを読んでますと、ところどころで、これは形を変えた私小説ではないかというのがありますね。

『いびき』は、いびきをかく男が牢屋に入れられて、いびきをかくというだけで殺されてしまうのではないかと恐れる。 あれは自分の軍隊での体験をそのまま書いている。

半藤軍隊の内務班は、いびきをかいて寝られないやつがいると、「この野郎のために俺たちは全滅する」というので、布団をかぶせて殺してしまう。 そういう話が軍隊内部であったんですね。

清原召集令が来るとき、順番が狂うのは、召集係の役人が一人飛ばしたりするからで、江戸時代でも、八丈島からなかなか帰れない囚人がいて、自分より後に来たやつが先に帰ったりする。 それは江戸の役人が飛ばしていたからだという話になる。 そこにはさらに、留置場に20日間アカの容疑で入っていた時の清張さんの体験も入っている。

半藤本当は現実に自分で経験したことなんですね。

私小説や社会派の要素を歴史小説に盛り込む

清原現代小説ではシチュエーションとしてちょっと書きづらいものが、時代小説のちょっとしたところに入っている。 時代小説なんだけれども、実は私小説なのではないかなというおもしろさがありますね。

半藤そういう面も時代小説の中に盛り込んでいる。

清原『かげろう絵図』は完全に官僚組織特有の構図が描かれていますね。 その中で幕閣と小役人とのあつれきがあって、どうなるとかいうからくりで進んでいく。 そういう形で見ていくと、それが次の現代史、昭和史というところを解明していくそもそもの根っこというか、芽のようにも思える。

半藤そうですね。 『西郷札』なんかもそうで、官僚組織、日本の官僚がいかに卑劣でだらしないかを、時代小説の中で描いていたんですね。

ところが、時代小説では、自分が本当に訴えたいところが生に出ませんから、清張さんとしては、理解されていないという若干の不満が多分あったと思います。

推理小説が書けると見抜いていた坂口安吾

清原処女作が作家の全体を決めるみたいな言い方がよくされますね。

私たちは後づけで評価するから、よけいにそうなるのかもしれませんが、『或る「小倉日記」伝』は、無名の人がこつこつやったものが結局報われない話とか、鷗外研究ともつながっていくし、『西郷札』も、事件の背後に陰謀があってというところは、後の社会派推理への兆しがすでにあらわれていますね。改めて読んでみると、現代史も、古代史もあらわれている。

半藤『或る「小倉日記」伝』は、清張さんは純文学で賞を取るとは思わなかったんでしょうね。 直木賞を取りたかったんだと思いますけれども、直木賞の選考委員だった海音寺潮五郎さんが「これは芥川賞のほうがいいよ」と言って、芥川賞に回したんですね。 それで芥川賞を取った。 大衆小説という意識ではなかったんですね。

私はその直後に坂口安吾さんから直接聞いたんですが、「文章が正確でいいんだ。 この筆力をもってすれば、すごい推理小説が書ける」と見抜いていました。 でもそれは安吾さんくらいで、あとはみんな、清張さんのことは純文学の作家だと思っていたんですね。 あんなに精力的にいろいろな作品を書く方だとは、最初は誰も思っていなかったと思います。

世間に認められない人たちの、うっ屈した思いを描く

松信松本清張さんは作家でデビューする前に、すごい下積みがありますね。 処女作が42歳。 そういう下積み時代のことも、作品に反映されているんでしょうか。

清原初期作品では『断碑』とか『西郷札』、『或る「小倉日記」伝』もそうですが、アカデミズムから外れていった人たちが、社会的に報われないことを一生懸命調べ上げるけれども認められなくて、結局は虚しく終わってしまうという作品を、清張さんはずいぶん書いていますね。

犯罪の動機にしても、社会の底辺で生きている人たちの怨念だとかいうことがいっぱい出てきます。 ある意味では非常に暗い背景があってというところがある。

時代小説では『火の縄』という長編があります。 これは稲富治介という鉄砲の名人が主人公で、細川忠興のガラシア夫人にほれる。 鉄砲はうまいんだけど、ちょっとねじ曲がった性格という設定になっていて、家康が鉄砲の師匠としては敬うんだけれども、それ以外のところでは軽蔑の目で見られている。

特殊技能の人たちが、特殊技能であるがゆえに世間的に認められないみたいなところがある。 それは、ご本人が版下工として新聞社にいたんだけれども、新聞社の中でも下積みであるということが関係してくるのかなという感じがしますけどね。

稲富治介という特技者の持っている怨念みたいなもの、武士なんだけれども、使っているのが飛び道具だからというので、武士として認められないわけです。 そういう怨念を書かせると、やっぱりうまい人ですね。

先ほど言ったように、そこは彼の形を変えた私小説だと思うんです。 それは現代ノンフィクションにも、古代史にも出ているんじゃないでしょうか。

松信自分の若いころの、下積み時代のうっ屈したような、思い入れみたいなものが形として出てきている。

清原そうです。 現代史でもそうだし、古代史を手がけているときにも、アカデミズムに対する闘争心というか、競争心はあったんじゃないですか。

半藤ものすごくあったと思いますね。

ノンフィクション

真実はそのまま書かないと伝わらない

『日本の黒い霧』・表紙

『日本の黒い霧』

半藤昭和史・現代史では一番初めが『小説帝銀事件』です。 小説として書いたんですが、それでは読者には、この中でどれが真実で、どれがフィクションかわからない。自分が本当に言いたいことが伝わらないようだというので『日本の黒い霧』でやり直したんですね。

清原『小説東京帝国大学』もありますね。

半藤作家ですから、資料そのまま、歴史そのままではなく、離れて作品化したいという思いはずうっとあったと思いますよ。

ところが、読者のほうの受け取り方がちょっと足らないといいますか、はっきり言えば編集者が無能なんですよ。 編集者が有能ならば、「君はわかってくれたか」というぐらいで、清張さん自身は満足していたと思いますよ。私も含めて編集者どもがみんな、「はあ、そんなことを言いたかったんですか」と後から言っているから、やっぱりだめかと思ったんじゃないでしょうか。

ノンフィクションの始まりになったのは『小説帝銀事件』

『昭和史発掘』・表紙

『昭和史発掘』

半藤大事なテーマを時代小説化したり、推理小説化してみたりしているうちに、本当の真実は、そのまま真実として書かないと伝わらないんじゃないかという思いがだんだんしてきたんじゃないでしょうか。創作化してしまうと余分なことを書いたりしますから、どこが本当で、どこがうそかわからなくなる。

清原『日本の黒い霧』には、そういう思いがあったんですか。

半藤そうです。 『小説帝銀事件』のときはまだどっちだったかわかりませんが、その後、清張さんの中にものすごくうっ屈したものがあったんでしょうね。 ノンフィクションとして書きたいと言って始めたのが『日本の黒い霧』なんです。 その後『現代官僚論』、その次が『昭和史発掘』という流れをたどるわけですけれども、最初は『小説帝銀事件』だったのではないかと思います。 そのときは私は実は知らないんですが、ノンフィクションのほうにものすごく熱意を燃やしたことは確かなんです。

『日本の黒い霧』は小説家の眼で見た帰納的結果

半藤ただ、『日本の黒い霧』は後の評価としていろいろ問題にされましたね。

清原大岡昇平さんがちょっと反論を書かれた。

全部GHQに原因説を持ってくるのはおかしいというのは発表当時からあって、それに対して清張さんは「史眼」という言葉を使って、歴史家だって、資料の空白の部分を歴史の考察で見ていくじゃないか。 それを自分は小説家の眼で見ている。 それが松本史眼ということで、帰納的にそうなってしまう。 『日本の黒い霧』は、たまたまそうなったんだとずっとおっしゃっていましたね。 その点は半藤さんいかがですか。

半藤資料を並べて読んでいくと、ちょっと違うんじゃないかというのも幾つかありますよ。 三原山に突っ込んだ「もく星号」遭難事件は、私は無理だと思うところがあるんですね。

ただ、昭和34、5年の時点で、GHQの内部がGS(民政局)とG2(参謀第二部)に分かれて抗争し、日本の占領政策があそこでひっくり返ったんだということを見抜いて、その争いがこういう事件になって出ているんだということを構想した人は一人もいないと思う。

今になれば、GHQ内部の民政局と参謀第二部の紛争というか、内部抗争があったのはみんな知っていますね。 資料もたくさん出ましたけれども、あの時点であれだけの資料を集めた。 それを自分の考え方でずっとならべてみてきて、それを帰納的にしてみたら、そのとおりになっただけで、初めからそれがあるのではないという清張さんの見方は正しいと思うんです。当時あそこまでやれたのは相当な推理力ですね。 やっぱりすごいことですよ。

清原昭和30年代半ばですと、かなりの制約の中で資料を集めることになる。

半藤すごい制約ですし、必ずしも自由に書けたとは言えない部分もあると思う。

清張さんがあの資料をどこから持ってきたか、共産党から持ってきたんだろうとか、悪口のように言う人もいますけれども、どこから資料を持ってこようが、とにかく資料を探し求めて、それを本当に読み込んで、あそこまでの結論に達するという作業をなさったというのは、ちょっと希有なことだと思います。

清原清張さんが言っていた帰納的という言葉を、昭和35年という時代背景を考慮して、もう少しくみ取ってあげなくてはいけない。

限られた資料からすぐにツボを押さえる

清原今、半藤さんは昭和史をやっていらっしゃいますね。 調べていく中で、清張さんの足跡みたいなものにぶち当たるようなことはありますか。 ここはもう清張さんがやっていたということは。

半藤ありますよ。 例えば帝銀事件の裏側に、細菌部隊の七三一部隊がいたんじゃないかというのは、私たちは今になれば、資料が出てきていますからわかりますよ。 あの時点では何をいっているのかと思うような話でした。

清原清張さんが『小説帝銀事件』を書いている当時はわからないわけですね。

半藤そんな資料はまだ全然ありません。 私が探し出したのも大分前なんですけれども、太平洋戦争中に、風船に細菌爆弾を積んで、アメリカ本土に落とそうという計画が立ったときの細菌部隊の名簿を見たら、その中に信管担当内藤良一中佐とある。 この人は七三一部隊の石井四郎中将の片腕と言われた人です。 つまり、細菌を乗せるために配属された。

誰もそんなことは知らないときに、清張さんの作品の中には七三一部隊が出てくる。 よくこんなことを探り当てたなという思いはありますよ。

資料の本質をなめるようにていねいに表現

清原清張さんは資料に対してすごく真摯だったようですね。 集めてきた中から本質というか、本論をつかみ取る能力はすごかったんですか。

半藤すごかったと思います。 ものすごく勘がいいというのがあるんでしょうね。

清原当時の限られた資料の中で指摘したものが、それから10年、20年たって出てきたいろんな資料に符合していく部分がいっぱいあるということになると、清張さんのつかみとり方は、やはり的を得ていたということになりますね。

半藤あの方は非常に頭のいい方です。 司馬遼太郎さんも頭はいいと思いましたけれども、資料の読み方で、勘どころのつかまえ方がものすごく速いんです。理解力といいますか、それが特別すぐれていましたね。

清原どちらも、資料の読み方がすごく速い。

半藤速かったですね。 ある意味では楽なんですよ。 山ほど資料を持っていく必要がない。 本当にいいものを持っていけば、清張さんはさあっと見ていって「ここだね、ここが大事なんだね」と、すぐツボを押さえる。 そういう意味では、あの方は聡明な方です。 ただし、よっぽどいいものを探したつもりで持っていっても、「君、こんなものは使えないよ」と言われてしまいますから、清張担当になると、編集者は大変なんです。

清原お二人の違いは、司馬さんは核心をつかんで2、3行で書くところを、清張さんはなめるように、草の根みたいに10何行も書く。

だから司馬さんは小説を書く必要がなくなった。 清張さんはそういう書き方だったから、最後まで小説を書き続けた、ということでしょうか。

半藤そうですね。

それから、清張さんには代作者がいるんのではないかとか、清張工房があって、たくさんの取材者を使っているのではないかなどと言われましたが、これは、全くのうそです。私が自分で体験していますからね。

古代史への感心

箒の行商をしながら奈良・飛鳥を歩く

半藤古代史は、最初のころは、松本清張が古代をやったって誰も認めていません。 ですから、清張さんは歯ぎしりをしていましたよ。

古代史に対する関心はかなり前からあったんですね。 短編小説の中で古代史を扱ったような短編がありますね。

清原『断碑』なんかそうですね。

半藤それが続いて古代史になったんでしょうか。

清原そもそも小倉にいらっしゃったとき、箒の行商で、岡山とか広島あたりまで日曜日なんかを利用して行くんでしょう。 その話は聞いたことがありますか。

半藤ええ。 箒なんか売れたんですかと言ったら、戦後ですから売れたそうです。 電車の中でいろんなものを読んでいくんですって、それが勉強だと言っていました。

清原あの辺は吉備の国ですから、古墳をいっぱい見ている。 もともと古代史は好きだったみたいですね。

半藤奈良、飛鳥も箒を担いで歩いているんですね。

清原ご自分でずっと調べていらしたと思うんです。 それで、方向と距離に陰陽の考え方を取り入れて、邪馬台国をテーマにした『陸行水行』をお書きになる。

半藤このころはまだ小説なんですね。

清原それで昭和41年からの『中央公論』の『古代史疑』のあたりから邪馬台国論争に加わっていく。 そのころには完璧にきちっと理論武装をなさっているんですね。

半藤このころは勉強していますからね。 とにかくどんどん先に行くので太刀打ちできないんです。 私は古代史が好きだったので、幾らかできましたけれども、清張さんの話し相手になった編集者はいないんじゃないでしょうか。

最終的には小説家ではなく古代史家としての作品

『眩人』・表紙

『眩人』

清原古代史小説は、『火の路』と『眩人』がありますね。 『火の路』は、現代のミステリーの中に古代史がちょっと入ってきてという扱いだった。『眩人』には唐への留学僧やペルシア文化、朝廷の権力争いなど、いろいろな要素が入っていますが、それ以後、小説では古代史はお書きになっていないんですね。

最終的には『清張通史』など、古代史ものが随分ありますが、歴史家として書かれているようなところがある。

半藤もう、小説家じゃない。 古代史家なんですね。

清原その後は、永井路子さんや杉本苑子さんが古代の女系の天皇の話を書かれて、またちょっと飛んで黒岩重吾さんまでない。 黒岩さんは清張さんとは逆で、歴史エッセイとか、いろいろ書かれましたが、最後まで古代史小説。小説だったんですね。

半藤清張さんが、黒岩さんのような天平・飛鳥の世界をもしやったら、もっとおもしろく書いたと思いますよ。

でも、清張さんにしてみれば要するに神話でしかない。 史料があるわけじゃないし、小説にすることにはほとんど興味がなかったんじゃないですか。 ただ、清張さんの古代史は、私たちにとっては余計なもので、作家の世界に戻ってこいと思っていました。 でも、古代史学会ですごい成果を上げているんですよ。

清原古代史ファンを増やしたこともありますね。

清張ブームの再来

戦後の日本をいま、もう一度見直す

『神々の乱心』・表紙

『神々の乱心』

半藤亡くなるときは、一番最後に私が会っているんです。 次の作品の打ち合わせで会いに行ったんです。

『神々の乱心』を『週刊文春』にまだ連載中だったんですが、飽きちゃったんです。 清張さんは連載の終わりごろになると、次の作品に頭が行っちゃうんです。

次のテーマは、GHQ内部の確執と、服部卓四郎が中心となった服部機関という旧軍人の機関、日本再軍備の内幕でした。 昼の1時ごろにお宅にうかがって、夕方に清張さんが、「きょうは銀座で会合があるので、この後のことは明日にしよう」と言って、日程表に「午後3時文春」と書いて別れた。 そうしたら、その晩に倒れて、しばらくして亡くなられた。

あの時点では憲法とか、今の問題まではまだ行っていなかった。 まだ占領なんです。 『日本の黒い霧』の続きものをもう一遍きちっとやっていくということでした。 でも、再軍備に目をつけていましたから、時代の空気は察知していたのかもしれませんね。

オウムの先取りとも考えられる『神々の乱心』

清原清張さんの、小説の中で時代の最先端の現象みたいなものをさっととらえる、その時々の時流に乗るのではなくて、先読みをする。 あの感覚はものすごいですね。

半藤世界の動きの先読みですね。 亡くなる時点で、再軍備ということを次のテーマにしている。 妙な感覚を持っているんですね。

『神々の乱心』は、事によると、オウムの先取りなんです。 ある一つの妙な新興宗教が宮中にいて、それがいろいろやるわけです。 ですから、あのテーマは、現代人はどういうものに魅せられているのかというものを、清張さんが感じたのかなと思うんです。

清原あの意識で今をご覧になったら、何をおっしゃるでしょうね。

半藤それは本当に知りたいですね。

銀座のマダムを登場させる艶やかなところも

清原非常にジャーナリスティックで、ある意味ジャーナリストなんですね。 それをデビュー作からずっとなさってきている。

半藤そうなんですよ。 少なくともその時代と正面から切り結んでいましたね。 本当にビビッドですよ。

清原それと、清張さんとはまた違うんですが、司馬さんのように上から見て、パッと本質を言ってくれる作家も今はいないと思いますね。

半藤いないですね。 作家はたくさんいるんでしょうけれども、こんなにたくさんテーマがあるのに、清張さんのように現代と切り結ぼうとしている人を挙げろと言えば、本当に2、3人しかいないんじゃないかと思いますね。

余り大きなことは言えませんが、今の作家たちは、もう少し現代とまっすぐ向かえよと言いたくなるんです。 若い人たちがどうしてみんな自分たちのつまらない世界に潜り込んじゃうのか。

清原現代と切り結ぶということは、清張さんのどの作品にもありましたね。 短編であろうが、時代ものであろうが、現代ものであろうが。

半藤時代に対して触覚がきくというのか、希有な方だと思いますよ。 これを死ぬまでやっているんですからね。

清原そこが偉大なところで、普通の作家は、古代史をやったり、現代史をやったりすると、小説をやめてしまって、最終的にはエッセイを書いてということになるんだけれど、彼はずうっと推理小説をやっている。晩年でも、例えば銀座のマダムを出したり、ちょっと艶ものやベッドシーンを入れたりして、文章の上では艶やかなところがありましたね。

半藤ありました。 そういう意味で最期まで非常に好奇心が強くて、若々しかった。

戦後から高度成長期までの日本の歴史がわかる

半藤今、テレビ化される作品は、時代を現代に変えていますね。 それでも受けるのは問題意識が非常にしっかりとしているからだと思いますね。 清張さんが読まれるのはそういう意味も大きい。

清原私も全くそうだと思いますね。 今またいろんな形で清張さんのブームが出てきている。 それは、戦後のGHQの占領のときから、東京オリンピックを経て高度成長になるまでのあの日本を、もう一度見直そうというのがあるんじゃないですか。

憲法問題にしても、天皇制の問題にしても、自衛隊の問題にしても、戦後すぐまでさかのぼって論議をしなくてはいけないということに、我々はちょっと気がつき始めたんじゃないか。全部あの頃に問題の芽があった。 その辺をきちっと彼が分析してくれているという感じはしますね。

松信昭和30年代の反省という感じですか。

清原30年代が今またレトロでブームになっているのとはちょっと違うけれども、清張さんを読むと、例えば占領が終わったころの雰囲気みたいなものがよくわかる。

半藤戦後の日本がきちんと書かれている小説があるとすると、清張さんじゃないですか。 あの時代を身に近づけて感じるには、清張さんの小説が一番いい。

清原現代人は、日本の歴史を司馬遼太郎さんの小説で学ぶという言われ方をしましたけれども、戦後から高度成長期までは、清張さんの小説や『昭和史発掘』などで学ぶことができると思います。

当時、手にできる限りの一等資料をふんだんに使って、その中からスパスパッと本筋をつかんで、当時の日本人に先立って小説の形、あるいはノンフィクションの形で、提示されたことの偉大さはあるんじゃないでしょうかね。

松信きょうはいいお話をありがとうございました。

半藤一利 (はんどう かずとし)

1930年東京生れ。
著書『清張さんと司馬さん』 文藝春秋 (文春文庫) 552円+税、
昭和史 戦後篇(1945−1989)』 平凡社 1,800円+税、ほか多数。

清原康正 (きよはら やすまさ)

1945年旧満州生れ。
著書『山本周五郎のことば』 新潮社 (新潮新書) 680円+税、
小説を書きたい人の本』成美堂出版 1,100円+税、ほか。

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