Web版 有鄰

461平成18年4月10日発行

[座談会]西洋医学と明治の横浜

飯山医院院長/荒井保男
順天堂大学客員教授/酒井シヅ
横浜開港資料館・横浜都市発展記念館調査研究員/斎藤多喜夫

左から、酒井シヅ・荒井保男・斎藤多喜夫の各氏

左から、酒井シヅ・荒井保男・斎藤多喜夫の各氏

はじめに

編集部安政6年(1859年)の横浜の開港にともない西欧のさまざまな文化が流入し、日本人の生活は大きく変化しました。

医学・医療の分野においても例外ではなく、横浜を舞台に、多くの優秀で献身的な外国人医師たちが活躍したことで、医療事情は飛躍的に向上し、その流れは現在まで続いております。

本日は、幕末明治の横浜において、日本の医療の近代化に大きく貢献した外国人医師や、新たに開設された病院などをご紹介いただきながら、西洋医学が浸透していった様子や近代医療史の中で横浜が果たした役割について、お話しいただきたいと思います。

また、4月14日から16日まで、「第103回日本内科学会総会」が、横浜みなとみらい地区の「パシフィコ横浜」で開催されますので、幅広い視野からご紹介いただきたいと存じます。

ご出席いただきました荒井保男先生は、横浜市鶴見区にございます飯山医院の院長を務めておられます。また、横浜市立大学医学部の同窓会「倶進会」の顧問でいらっしゃいます。

酒井シヅ先生は順天堂大学客員教授でいらっしゃいます。医史学をご専攻で、日本医史学会常任理事を務めていらっしゃいます。

斎藤多喜夫先生は、横浜開港資料館、横浜都市発展記念館の調査研究員でいらっしゃいます。

幕末までの日本の医療は漢方が圧倒的だった

編集部開港以前は日本の医療はどういう状況だったのでしょうか。

酒井幕末までの日本の医療は漢方と西洋医学が対立したりしていますが、漢方のほうが圧倒的に多いという状況でした。西洋医学に関しましては、長崎では直接外国人医師から学び、江戸では翻訳書から学ぶという形でした。地方に住む医師は江戸や長崎に出たり、江戸でも蘭学が興ってきますと、江戸に行って学んだりしています。けれども、やはり西洋医学の中心は長崎で、江戸では杉田玄白や大槻玄沢という系統の蘭学者たちによるものでした。

幕末になりますと、オランダ人のポンペが長崎で西洋医学を系統的に教える学校をつくります。それが一つの西洋医学教育のモデルになって、それをまねたような、あるいは小さくしたようなものが各藩の医学校としてできていました。

西洋医学を本格的に学ぶまでにはまだいっていなかったんですが、それでもたくさんの人が西洋の医学のすぐれていることを学び、そしてまた実践していました。

私がおります順天堂大学は佐倉にあった順天堂という医学塾が前身です。佐倉藩の要人の招きで佐倉に移った佐藤泰然が、天保14年(1843年)に創立しています。医学塾は佐倉だけではなくて、いろいろな所にあるんです。

外科手術は華岡青洲が大変有名で、彼は漢蘭折衷、西洋と漢方を折衷した日本特有の形の外科ですが、佐倉では医学書をもとに西洋の技術を習得し、まったく独創的な西洋の外科をやったので、全国から大勢の学生たちが集まってくる。そして横浜が開港する時代になってくるんです。

衣・食・住とともに定着が早かった医療と宗教

編集部安政6年(1859年)に横浜が開港してすぐ、宣教師としてアメリカからヘボンが来日し、翌年には同じくアメリカ人のシモンズが居留地で開業していますね。

荒井ヘボンが来るのは早いんですよ。開港の年の10月17日に来ますし、シモンズもそれから2週間たって来ますから、彼らはすごいなと思いますね。

斎藤横浜の外国人居留地で、外国から来た文化はどのように日本人に採り入れられたか、「もののはじめ」ということを調べるときに、横浜開港資料館が集めた幕末の英字新聞を丹念に見ていったんです。基本的に欧米人の場合は、ローカル新聞に開業広告を出すことがルールなんですね。

それで気がついたのは、医師が非常に早い時期から来日している。横浜で一番早いのはダッガンというイギリス人で、安政6年に開業しています。アメリカ人のベイツの開業広告は翌年ですし、オランダ人フィッシァーも非常に早く開業しています。

なぜだろうと考えてみますと、人間にとっては食べるもの、着るもの、住むものと同時に、医学も必要ですね。それから精神の衛生を保つ意味では宗教が必要で、この五つのものが非常に早く入ってきているんです。医療は寄港地として持つべき要素かもしれないですね。

開港直後は外国人は神奈川宿に滞在

編集部外国人たちは最初は神奈川宿にいたんですね。

斎藤横浜の開港は安政5年(1858年)の日米修好通商条約で決まったんですが、そこには神奈川を開港すると書いてあったんです。

ペリーとの日米和親条約の交渉のときから、横浜が天然の良港だというのはわかっていたので、横浜も神奈川も同じ湾のうちだということで、日本側は横浜も念頭に置いて神奈川としたんですが、外国側は神奈川宿のことだと思っていた。

神奈川宿は、東海道の宿場の中では幕末には一番繁栄していた場所なんです。ですから、そのすぐ近くに港を開いて、外国人居留地を設けるのがいいのではないか。

横浜はその湾の対岸で、当時は辺鄙な場所でしたから、そこを開放するというのは、外国人を長崎の出島のように閉じ込めて、日本人から隔離する意図があるのではないか。出島化するという意味のデシメーションという言葉まであるくらいで、出島は監獄と呼ばれて、外国人には非常に評判が悪かったんです。

それで、開港はしたものの翌年の万延元年(1860年)2月ぐらいまで、居留地を神奈川と横浜のどちらにつくるか、ずっともめていたんです。

ところが、日本人の商人はほとんど横浜に集まっていますし、港湾施設もある。すると、外国の商人たちは毎日、渡し船で神奈川から通勤しなければならない。それよりも横浜に住んだほうが便利なので、ほとんどの商人は横浜に住みました。

成仏寺

成仏寺 明治6年
横浜開港資料館蔵

しかし、領事館は神奈川にできましたので、商売をするわけでもない宣教師たちは、神奈川にいる状況が続いていた。ですからヘボンも、神奈川宿の成仏寺に1862年の暮れまで住んでいます。

ヘボンは神奈川宿に滞在中から日本人と交流

斎藤ヘボンは、神奈川宿にいるときから、若干日本人との接触があったんです。いろいろな人とつき合っているんですけれども、早くもその段階で本多貞次郎という日本人が弟子入りしている。これも安政6年中のことです。それも早いなと思いました。日本人は、もともと中国から文化を取り入れることで自分の文化を育ててきたという伝統があるので、外来のものを吸収することについてはたけているのかなと思いますし、逆に鎖国の時代は情報が限られているので、新しいもの、未知のものに対して今の我々よりもっと鋭敏だったのかもしれないですね。非常に早い時期から学ぼうとしている。ヘボンから目薬の製法を伝授された岸田吟香も幕末から関わっています。

それから、ヘボンたちと一緒に住んでいた、フランシス・ホールという商人の日記を読むと「ご隠居」というのが出てくるんです。この人が神奈川宿の人で、早くからヘボンとつき合っていた。それから伊勢から出てきた竹川竹斎という人が残した記録の中にも出てくるんです。

竹川竹斎の弟の竹口信義が横浜で商売をしようということで、「ご隠居」を通じてヘボンと接触する。そして外国商人との交渉の通訳を頼んだりしているんです。

順天堂の佐藤泰然も横浜でヘボンから多くの情報を収集

酒井順天堂の佐藤泰然は佐倉を隠居になるとすぐの文久3年(1863年)ごろ、横浜に来ています。ヘボンとは非常に親しい関係であったことを語る手紙も残っています。ヘボン以外にも横浜に住む外国人から得た情報を、佐倉に知らせています。息子で、のちに駐英大使、外務大臣となる林董や、佐藤尚中の息子の百太郎をヘボン夫人の所で英語を勉強させている。百太郎はニューヨークに行って、高橋是清と親しくなって、最初の百貨店をつくります。

斎藤佐藤組と言いましたね。

『横浜もののはじめ考』の本の後ろに人名索引をつけたんですが、ヘボンのところが一番ページ数がありました。気象観測まで出てきます。

J.C.ヘボン――神奈川時代に3500人を診療

ヘボン施療所跡碑

ヘボン施療所跡碑
横浜市神奈川区 宗興寺

編集部ヘボンの医療活動はどのようにして始まったのでしょうか。

荒井最初は幕府の取り締まりがひどくて、なかなかできなかったんです。ところが、眼病で横浜・戸部の弁天堂にお百度参りをしていた漁師を、目薬を一滴たらしただけで治した。それで道が開けたんです。それがきっかけになって、ヘボンは成仏寺の隣の宗興寺というお寺で診療することができたんです。

酒井日本って不思議ですね。お寺に平気でキリスト教徒をポンと住まわせている。今の世の中では宗教が違うと大騒ぎになる国もあるのに、仏教は平気でね。

荒井幕府の管轄として入れたんですけれども、入れられるほうも平気なんですね。

ヘボンは、神奈川時代に患者さんを大体3500人診たと言っています。一番多いのは眼科の治療ですね。目玉にしわができる翼状片の手術とか、瘢痕性内反の手術は30回ぐらいやっています。それから眼球の摘出とか、白内障の手術が13回、痔ろうの手術が6回、盲腸も1回やっています。脳水腫の手術もしたそうです。

沢村田之助の脱疽の手術の成功で一躍有名に

沢村田之助の手術の様子

沢村田之助の手術の様子
(周延画) 杉立義一氏蔵

荒井文久2年(1862年)に居留地に移って、慶応3年(1867年)には名優沢村田之助の脱疽の手術をやっております。当時横浜にいた佐藤泰然の紹介があったんじゃないかと思います。

この大手術はクロロホルムを麻酔に使用しました。いろいろな説があるんですが、クロロホルムでやったのはこのときが初めてだと言う人もいます。その前までは華岡青洲がマンダラゲ(俗称チョウセンアサガオ)でやったくらいで、西洋医学のクロロホルムでやった例としてはかなり早かったようです。

酒井絵も残ってますね。

斎藤はい。ただし「フランス之名医足病療治」という錦絵は、従来、このことを描いたといわれてきましたが、発行が手術をした1年前の慶応2年(1866年)3月ですので、関係ありませんね。沢村田之助の話は、文献によってもいろいろ違うことが書いてあって、ものによっては麻酔をしないでやったとも書いてあります。

荒井ありますね。それでけろっとしていたとかね。

斎藤そんなはずはないだろうと思います。(笑)

荒井ない、ない。クロロホルムでやって、たばこを一服しているうちに手術が終わったと書いてある本もあります。

その3年ほど前に、結膜炎だったと思いますが、岸田吟香が目を治してもらっている。岸田吟香は新聞記者で、そのころ出していた『もしほ草』に、沢村田之助の手術のことを書き立てます。岸田吟香はなかなかおもしろい男で、ヘボンのことを非常に尊敬しておりました。

ヘボンは神奈川時代には朝から晩まで働いていたんですが、彼は非常に使命感が強い人で、居留地時代になると、自分はキリスト教の宣教師として働かなければならないということで、診療は午前中だけにしてしまう。だけど、この時代に日本の医師がいっぱい勉強に来ています。

明治9年(1876年)になりますと、彼はついに診療所を閉鎖して宣教師に専念します。なぜこの時期かというと、自分の教え子や、日本人に優秀な人が出てきたし、シモンズもおりますから、自分はもう第一線で働かなくてもいいだろうということだろうと思います。

W.ウイリス――生麦事件で検死を行う

ウィリアム・ウイリス

ウィリアム・ウイリス
横浜開港資料館蔵

編集部イギリス人のウィリアム・ウイリスは、文久2年(1862年)に来日して、その年の9月におきた生麦事件では死体を検死していますね。

荒井事件があって、すぐ現場に行ったということでしょうね。ほかの人たちは本覚寺に逃げ込んだんです。

斎藤薩摩藩士に殺害されたリチャードソンの検死の記録が『ジャパン・ヘラルド』に出ていますから、検死の報告書がつくられていたということですね。

荒井ヘボンも本覚寺に駆けつけて治療しますね。

酒井生麦事件は、今までの医学史では、我々は余りきちんと見てないんですけれども、検死ということでは、すごく大きな意味があるんですね。外国側の要請だったんでしょうけれど、日本に解剖がまだ定着していないころですから、もっと注目していいんじゃないかと思います。

軍陣病院は戊辰戦争の傷病兵のために設立

編集部ウイリスが勤務した横浜軍陣病院は、どういう病院だったのですか。

酒井慶応4年(1868年)の戊辰戦争のとき、傷病兵の手当てが必要になり、野毛町の修文館にできたのが軍陣病院です。その責任者がウイリスで、日本人では関寛斎や順天堂の佐藤進も医師として従軍したんですが、負傷兵の手当ての仕方で日本人と外国人の力量がものすごく違ったわけです。それで、佐藤進はこのときの劣等感から明治2年にドイツに留学するんです。戊辰戦争を境に、日本の医学はがらりと変わっていきました。

荒井ウイリスの医療は、傷に過酸化マンガンを使ったり、骨折に副木を利用しています。近代医学なんです。手術もちゃんとしますし、手足の切断もどんどんやります。漢方医ですと、自然治癒でやっているから銃創の治療はできないんですね。西郷従道とか大山弥介はウイリスに助けられるんですよ。

酒井それで、全体の傷病兵の手当てをウイリスにいっさい任せて、軍陣病院をつくることになったんです。

荒井最初は東京につくろうとしたんですね。

酒井ところが英国公使のパークスの子供が病気で、ウイリスは公使館付の医師ですから、横浜を離れられなかった。

荒井それで横浜につくろうということになった。

酒井軍陣病院はのちに東京に移り、東京大学医学部につながっていくんですが、オランダが模範としたドイツ医学を採用するんです。

それでウイリスは、鹿児島にできた医学校の教師になって医学教育を始めます。そこに戊辰戦争で自分の力不足を感じた高木兼寛が入って学んでいます。その後、海軍はイギリス医学を採用して、ウイリスのいた鹿児島医学校がその拠点になった。

高木兼寛は、のちにロンドンの医学校を卒業して帰国した後、明治14年に英米医学を採用した成医会をつくります。のちの東京慈恵会医科大学です。名誉会員にはヘボンもおり、明治34年にはエルドリッジが副会長に就任しています。

東京大学のドイツ医学と、海軍のイギリス医学という二つの流れがあり、明治の終わりごろまで、日本の中で確執が続いていました。

D.B.シモンズ――十全医院の基礎を築く

D.B.シモンズ

D.B.シモンズ
『横浜史料』から

編集部ヘボンと親しかったシモンズについてはいかがですか。

荒井シモンズとヘボンは、ペアで考えないといけないと思います。非常に仲がよくて、すぐ隣に住んでいて、行ったり来たりしているんですよ。奥さん同士も仲がいい。

明治3年に、シモンズが福沢諭吉の発疹チフスを治すんですが、このときに、治療法がわからなくて、日本人はみんな手を挙げてしまう。それで横浜の名医のヘボンに診てもらおうということになるんです。しかし、ヘボンは眼科医ですし、たまたまシモンズがヨーロッパで新しい医学を学んで、ちょうど帰ってきていたので、紹介した。それでシモンズが治すんです。福沢諭吉は感激してシモンズを非常に厚遇し、後に、慶応義塾構内に住むよう家を与えるんです。

斎藤シモンズは、十全医院の事実上の院長でしたし、その基礎を築いたとも言えるので、非常に重要な人です。

荒井十全医院は神奈川県権令の大江卓が力を尽くしてまず仮病院をつくり、明治6年に、軍陣病院があった野毛町の修文館の跡へ移転して十全医院となりました。横浜の財閥から寄付金を集めてつくるんですが、シモンズは42歳で全権を与えられるんです。大江卓はシモンズを非常に高く買っていたんです。

野毛町の十全医院

野毛町の十全医院
横浜開港資料館蔵

シモンズは、長く日本にいて日本語も話せて、日本人の体質に合わせて薬の量も間違いなくやってくれるというので大変評判だった。医学的にも彼は本当に優秀だったと思います。

斎藤十全医院は後に横浜市立大学医学部に継承されます。金沢区の福浦に、医学部附属病院を新しく建てるときに、ヘボンの肖像画を飾るということで開港資料館にフィルムを借りに来られた。最初、ヘボンだけだと言われるので、「ヘボンとシモンズの両方をちゃんと飾ってください」と言ったんです。

今まではヘボンのほうが知名度が高かったわけですが、荒井先生が、『ドクトル・シモンズ』を書いてくださったことは、私はありがたいと思っているんです。

シモンズは結局、宣教師をやめてしまいましたが、ヘボンはキリスト教の宣教師としての使命を全うしたので、キリスト教のほうから見ると、どうしてもヘボンの評価のほうが高くなってしまうんですね。医学のほうから見れば、また違うんじゃないでしょうか。

早くから解剖を行ったシモンズ

荒井明治3年に人体解剖をしてもよいという制度ができます。日本では東大が中心で、日本人では田口和美、あとはミュレルというドイツ人が来て主にやっていた。解剖は医学の基本で、一番大事な学問なんですが、東大以外ではほとんどやっていなかったんです。

ところが、明治8年12月の『横浜毎日新聞』に、シモンズの解剖の記事があります。地方でやったのではすごく早いですね。この報告では、明治8年の前に全身解剖3回、病理解剖は4回やったと書いてあって、大変すばらしい業績であり、美事であると称賛してます。

それから、脚気の病理解剖を明治6年7月にやっています。私の調べた範囲では、デーニッツという外国人が来日して東大の教授になるんですが、病理解剖をやったのが明治6年の11月で、これが病理解剖の初めてであると書いてあるんですが、シモンズのほうが早いんです。

脚気や梅毒にもすぐれた研究と治療の実績

荒井当時、全国的な脚気の研究がありまして、陸軍と海軍が対立して、それぞれに学説を立てていたんです。海軍は高木兼寛がいろいろな研究の結果、麦飯がよろしいということで、着々と功績を上げました。陸軍は反対のことをやって、米飯ばかり食べさせていたものだから、日露戦争で大変な数の脚気患者が発生するわけです。

明治6年当時、シモンズは「血液変循」、悪性貧血みたいなものではないかという考え方を持っていたらしいんです。彼は臨床家であり、脚気の研究では当時の日本を代表する研究家で、立派な論文も書いています。脚気には麦飯とアズキを食べたほうがいいということで、非常な実績を上げました。

ただ、陸軍は考え方が違っていました。森鷗外も対策研究をやったんですが、ベルリンに留学中にシモンズの脚気の論文の抄録を読んで、シモンズは何事だ、間違いであると反駁論を書くんです。

そのほかシモンズは、十全医院の広告にもうたっていますけれども、梅毒治療にもすぐれていました。

近藤良薫賛育医院

近藤良薫賛育医院
神奈川県立歴史博物館蔵

当時、昇汞水という水銀療法が盛んに行われたんです。しかし彼は『黴毒小箒』という本の中で、水銀療法は重症な人にやらないほうがいいとか、全身療法を重視したほうがいいといったことを書いていて、「ヨヂホーム」という独特な治療法を紹介しています。近藤良薫という人がシモンズの翻訳をやっています。福沢諭吉の門下生で、横浜や神奈川県の医師会をつくった最初の人です。

斎藤野毛の十全医院のすぐそばの近藤病院ですね。

荒井そうです。銅版画を見ると、立派な病院で、庭なんかもきれいですね。良薫はシモンズのところで勉強していますし、福沢諭吉の治療のときに、一緒に行って処方を書いたりしています。

民間と官、軍医という3つの流れ

編集部ヘボンやシモンズと、ウイリスとでは、医療活動の流れがちょっと違うようですね。

荒井ヘボンやシモンズはどちらかというと民間ですよね。ウイリスはイギリスの医学を代表する人物です。

酒井東大の前身・大学東校で医学教育をおこなったのです。

斎藤今のお話で整理がつくんですが、開業医の流れが一つあるんですね。それに対してウイリスの場合には、ジェンキンスというイギリス公使館付の医師がいまして、その後任がウイリスなんです。

ヘボンとシモンズと同じように、ウイリスもジェンキンスとセットで考えるべきだと思います。ジェンキンスは、横浜ホスピタルという最初の総合病院の医師でしたし、その後任のウイリスという流れがある。

もう一つに、軍医の流れもあると思うんです。オランダ海軍病院が原型になって、後のゼネラル・ホスピタル(山手病院)になる。開業医と、公使館という官の流れと、軍医という流れで見ると、割合整理がしやすいのではないかと思いますね。

荒井梅毒のことをやったニュートンはイギリスの軍医ですね。斎藤先生のように分類して考えるとはっきりしてきますね。

ゼネラル・ホスピタルの院長を務めたエルドリッジ

山手のゼネラル・ホスピタル

山手のゼネラル・ホスピタル
津久井郡郷土資料館蔵

編集部ゼネラル・ホスピタルは居留地の外国人のための病院ですね。

斎藤1866年にオランダ海軍病院として設立したんですが、それを改組して、ゼネラル・ホスピタルになったんです。場所はそのまま引き継いで、最初はオランダ軍艦付医師のデ・ヨングやメーエルが勤めていたんです。

編集部明治9年から院長をつとめたのが、J・S・エルドリッジですね。

酒井エルドリッジはアメリカ人で、初めは開拓顧問の医師としてケプロンとともに来日して、北海道にいたんですが、横浜に来て大変な活躍をした人です。これまで日本の医学史の中にあまり登場していなかったんですけれども、近年になって非常に評価されるようになりました。人間的にも大変すぐれた人だったようですね。

斎藤エルドリッジは、明治17年からは十全医院にも治療主任として勤務しています。ゼネラル・ホスピタルと兼務で働いていたんですね。横浜で28年間医療活動をして、今は横浜の外国人墓地に眠っています。

エルドリッジの墓

エルドリッジの墓
横浜市中区 横浜外国人基地

エルドリッジやイギリス人のウィーラーをはじめ、横浜に骨を埋めた方は多いと思います。ゼネラル・ホスピタルの医師の、イギリス人のダリストンやマンロー、フランス人のメクルもそうです。

運営方法が似ていた山手病院と十全医院

斎藤山手病院は、たいへん優秀な医師が勤めていて、非常にレベルの高い病院だったと思います。

運営の面でも特徴がありまして、一応、領事団が管理するという形ですが、実際には委員会、コミッティーがあって、領事団がコミッティーに権限を委譲して、それが運営していた。外国人墓地も同じ方法なんです。

十全医院がこれと似ていまして、神奈川県が監督官庁みたいな形であるんですが、やはり委員会があって、大貿易商たちが名前を連ねているんです。

それで、土地自体は貿易商が毎年取引高に応じて歩合金を払うんですが、それは率で決まっているものだから貿易が盛んになると増えて、必要額を超えるので、積み立てていくわけです。その積み立てたものを土地に投資したり、建物に投資する。十全医院と同様に、町会所や商業学校なども共有物なんです。

それを当時の言葉で「市中共立」と言ったんです。「あれは市中共立の病院である」というように。非常に興味深いんですが、当時の横浜は貿易商の自治都市的な要素があって、そういう形で病院も運営されていた。貧しい人には無料でしたか。

荒井無料でしたね。

斎藤そういう運営の仕方は、立証はできないんですけれども、山手病院に見習っているところがあるのじゃないか。非常に注目すべき存在じゃないかと思うんです。

梅毒病院やコレラの予防は横浜から始まった

横浜梅毒病院(『武陽横浜一覧』部分)

横浜梅毒病院(『武陽横浜一覧』部分)
明治3年 中央上に「病院」とある建物。
日本通運株式会社蔵

編集部先ほどお話にでたG・B・ニュートンは横浜梅毒病院をつくっていますね。

荒井そうですね。イギリス海軍の軍医の彼が日本に来たとき、娼婦が町の中にいるのを見て、野に虎を放つようなものだと非常に怖がった。

それでニュートンは1867年に吉原町、今の中区羽衣町あたりに仮病院をつくり、強制的に集めて検梅して、感染者は休ませてということをやります。翌年には本格的な病院が建ちました。

梅毒のことは、シモンズもやったんです。売春をする人たちを調べて、お金のない人には、保険みたいな考えで、鑑札制度をつくってやるべきだというんです。これは日本の公衆衛生の始まりと考えていいんじゃないでしょうか。日本人にはそもそも公衆衛生の思想はなかったんですね。

酒井それに啓発された所は多いでしょうね。梅毒病院は古くは長崎でもやったりしているんですが、現代につながるような形ではない。その始まりは横浜なんです。

横浜は明治初期の5年、10年以前の、政府がまだ防疫体制をつくっていないときに、いち早く外国人医師の指導で防疫体制をつくっています。

コレラについてもそうで、明治10年代、西南戦争のときにコレラが大流行します。その後、コレラ予防仮規則ができて、これが正式な法律として伝染病予防規則になっていくんですが、その一番初めの規則らしい規則が横浜に見られるんです。

横浜は、比較的狭い、限られた場所だったから、やりやすかったのかもしれません。

伝染病のために各国疱瘡病院を設立

斎藤防疫の問題では、元治元年(1864年)に『横浜居留地覚書』を4か国と幕府が取り結ぶんですが、その中に、伝染病病院をつくるべきだという条項があって、それでできたのが各国疱瘡病院で、要するに天然痘ですね。英語で言うと、スモールポックス・ホスピタルができるんです。

荒井あれはイギリスの病院じゃなかったでしょうか。

斎藤もともとは既にイギリスが、キャンプ付属の仮病院をつくっていて、それをそのまま『横浜居留地覚書』の規定に基づく病院ということにしたんです。それを各国疱瘡病院にした。その医師がウイリスなんです。これが防疫という意味では一番早いんじゃないかなと思います。

編集部山手には各国の軍の病院がありますが、それとは結びつかないんですか。

斎藤流れとしては、その一つと言っていいですよね。確かに当時の軍隊は病気との戦いみたいだったようで、山手の墓地でイギリスの軍人のお墓を見ても、戦死じゃなくて病死なんですよ。もともと駐屯軍が横浜に来たのは、香港は暑くて病人が絶えない。横浜の山手地区は、高台で乾燥しているのがよかったんだという説もあるぐらいですから、軍艦の寄港地という意味でも病院が必要だったんだと思うんです。

その中で特にイギリスは、ぜいたくにも海軍病院とは別に、後に避病院という言い方をしますが、伝染病のための病院をつくった。

シモンズの海上検疫で防いだコレラの流行

荒井明治5年に、シモンズがヨーロッパから帰ってきます。当時、ヨーロッパではコレラが非常にはやっていまして、その撲滅に苦しんだんですが、シモンズが行ったころ、イギリスでコレラの撲滅に成功する。そういうのを目の当たりに見てきたためではないかと思うんですが、シモンズは、横浜には船が来るから海上防疫をやれとか、便所は井戸の近くにあってはいけないとか、いろいろ提案するんです。日本政府はもちろんですが、横浜でも衛生局というのをつくって、予防をしなくてはいけないと建言している。これが日本の最初の公衆衛生だと言う人もいます。

これを受けて、大江卓は、『家作建方条目』を作るのです。近代的建築制令の萌芽です。予防や予防法の面で横浜は非常に大きな役割を演じていると思います。

酒井ある意味で横浜は新興地ですから、長崎のようなエスタブリッシュな所でやっていくのは大変なんですけれども、横浜はそれがスッとできるんですね。

荒井新しいものを受け入れやすかったのかな。梅毒病院は長崎では失敗しています。

酒井下水もそうですね。

荒井そうですね。コレラは、シモンズは着岸する前の船の上で、海上検疫をやっている。コレラが流行しなかったのは横浜だけですね。シモンズの功績は大きいと思うんですよ。警察を督励していろいろやっていますからね。

有名な虫下しのセメンエンというのも、シモンズがつくったと言われています。私も子供のときにセメンエンは飲みました。

横浜は英米医学の発祥地

丸善薬種店

丸善薬種店
神奈川県立歴史博物館蔵

ノース・アンド・レー

ノース・アンド・レー
神奈川県立歴史民俗博物館蔵

酒井これまで横浜は日本の医学史の中で占めてきた地位が低かったのではないでしょうか。きょうは、シモンズとかヘボンとか、そういう人で語ってきましたけれども、大江卓の衛生行政とか、病院の確立とか、そういうものに関して、一つのモデルシティーというか、横浜が一つの大きな役割をしていたということが、かき消されてしまっているのではないかと思います。

明治20年代までは横浜は非常に重要な場所だった。というのは、それ以前は長崎が重要でしたけれど、東京が中心になったときには長崎は遠過ぎるんです。それで多くの人が今度は横浜に行って勉強するわけです。

今まで長崎へ、長崎へと見ていたけれども、近代化の中で横浜がどんな役割をしていたかということは、さらに注目されなきゃいけないんじゃないかなと思います。

荒井そうですね。これからやらなくてはいけない。

酒井横浜には医学校がないんですよ。居留地で開業していた医師の所に一般の人たちが勉強しに行って、イギリス医学やフランス医学を学んだ。その人たちが集まってきたのが慶応なんです。福沢諭吉のもとで明治6年に慶応医学校ができる。

荒井福沢諭吉も自分のお弟子さんを随分横浜に送りますね。

酒井丸善の創始者の早矢仕有的も福沢の弟子ですね。彼のように、横浜で書店と薬店を開く人もいる。ですから民間と言っても、ポピュラーな開業医だけではなくて、その中のリーダーシップをとるような人が横浜で外国人医師について教育を受けて、独立していくんですね。

斎藤外国人居留地にはノース・アンド・レーという薬局がありますが、その前身のヨコハマ・ディスペンサリーは1863年にできていますね。

酒井そうですね。それがスタートになっている。

荒井横浜の医学の占める位置はかなり大きい。

医師だけでなく医療文化に貢献した人も多い

荒井イギリスとかアメリカの医学は横浜で栄えたんですが、国の方針でドイツ医学が採用されたために、英米の西洋医学の発祥地としての横浜の影が薄れてしまったんです。ですから、横浜の重要さをもう一度見直したいですね。

酒井外国人だけではなくて、横浜でやった日本人も含めて医師の活動をね。

編集部エルドリッジの高弟の六角謙吉とか、近藤良薫とか、島好篤とか。

荒井医学だけではなく、医療文化に尽くした人も横浜にたくさんいるんです。岸田吟香もそうですし、氷をつくった中川嘉兵衛はシモンズの弟子ですが、あのころは氷がないと医療は成り立たなかったんですね。当時は氷が高かったんです。それから、石けんをつくった。公衆便所をつくった。医者ばかりではなく医療文化史として横浜が果たした役割は大きいんです。

斎藤もうちょっと広げて言えば、地方衛生会というのがありまして、オランダ人のヘールツがいろんな建言をするんです。それに基づいて、上水道の調査とか計画などもしているわけで、地方衛生会の果たした役割も大きいと思うのと、あと横浜の場合は、防疫体制をとっても、船が運んできてしまうので検疫が必要ですね。これは外国に守らせなければいけないから、ものすごく苦労をしながら、体制をつくっていく。この二つも広い意味での医療文化として欠かせないと思います。

予防医学の先駆的な都市だった明治の横浜

酒井今、予防医学が重視されていますけれども、すでに開港期の横浜では外国人医師を中心にして予防医学を一生懸命やっているんです。健康をどうやって維持するかということを目指して規則をつくったり、いろんなことを進言している。そういう意味では非常に先駆的なんですね。

とかく我々は医者がどういう手術をしたとか、どういう治療をしたとかいうことばかりに目がいって、ヘボンが足を切ったとかいう話に矮小化されているわけです。ですから、横浜の医学をもっと広く見て、江戸時代の長崎の医学と違った意味で、明治の横浜の医学、その後の横浜の医学を見てみたらおもしろいんじゃないかと思います。

荒井日本の近代医学の発展に果たした横浜の医学を再吟味し、再評価すべきときですね。

編集部どうもありがとうございました。

荒井保男 (あらい やすお)

1924年茨城県生まれ。
著書『ドクトル・シモンズ』 有隣堂(品切)他。

酒井シヅ (さかい しづ)

1935年静岡県生まれ。
著書『すらすら読める蘭学事始』講談社 1,600円+税、他。

斎藤多喜夫 (さいとう たきお)

1947年横浜生まれ。
著書『幕末明治横浜写真館物語』 吉川弘文館 1,700円+税、他。

※「有鄰」461号本紙では1~3ページに掲載されています。

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