Web版 有鄰

461平成18年4月10日発行

有鄰らいぶらりい

沖で待つ』 絲山秋子:著/文藝春秋:刊/952円+税

芥川賞受賞作。東京の住宅設備機器メーカーに総合職として入社、福岡に配属された「私」と、その体型から“太っちゃん”と呼ばれる同期の男性を中心にした話である。

その後、「私」は埼玉へ、福岡で結婚していた“太っちゃん”は東京へ単身赴任するが、彼は不慮の事故で急死。「私」は、どちらかが先に死んだとき、生き残った方が、それぞれの家族や恋人にも知られたくない秘密を記憶しているパソコンのハードディスクを壊すという酒場での約束を果たすため“太っちゃん”のアパートに忍び込む。

恋愛でなく、ただの友情でもない、会社における同期生という男女の新しい関係が、職場の雰囲気とともに巧く描かれているところが評価されたようだ。最後に現れる“太っちゃん”の幽霊も、哀感とユーモアがあって良い。

併載されている『勤労感謝の日』は、母親にわいせつな行為をしようとした上司をビール瓶でなぐって首になった総合職の「私」が、義理の見合いを途中で飛び出してしまう話である。

「もう、私達の額には『私は他の女とは違うのよ』という生意気な刺青が刻み込まれていて、何度顔を洗ったって抜けないのだ。」といったボヤキに、いわばやけくそのユーモアがあって面白い。

漂民ダンケッチの生涯』 神坂次郎:著/文藝春秋:刊/1,900円+税

漂流民を描いた歴史小説は思い出すだけで数点あるが、そこにまた一つ、傑作が加わった。『漂民ダンケッチの生涯』は、最高の傑作といっていいだろう。主人公は幼名伝吉、成人して岩吉。文政7年(1824年)、紀州に村医者の孫として生まれた。村に泊まっていた藩庁の出役が無法に生ませた私生児だった。15歳で家を出て自立、やがて村を出て千石船の水夫として広い海に生きるようになったのも、そんな生い立ちに由来する。

だが、播磨−浦賀を往来するその千石船はある日、嵐に見舞われ、流人の島八丈島に漂着する。約80日後、さいわい寄港した別の千石船に救われて兵庫に帰国。そして栄力丸という新造船の水夫に雇われる。だがこの船も遠州灘でシケに遭い、激浪のなかを漂うことになり、英国海軍に救助されてサンフランシスコへ。そして1年3ヶ月後、香港へ送られる。香港から日本までもさまざまな事件に巻き込まれる。

日本は折しも外国船を寄せつけない政策をとっていた。そうしたなかで、日常語としての英語を学んだ岩吉は、やがて英国総領事として来日するオールコックにダンケッチと呼ばれ、その通辞として活躍することになる。史料を十分に駆使しての描写にはすごい迫力がある。

暁けの蛍』 朝松 健:著/講談社:刊/1,800円+税

『暁けの蛍』・表紙

『暁けの蛍』
講談社:刊

室町時代のある日のたそがれどき、淀川支流の船乗り場で、船に乗り損なった二人、一休和尚と世阿弥の二人が、桟橋際の小屋で来歴を語り合うという形でこの作品は展開する。ここに描かれる一休は頓智の一休ではない。しんしな求道的な宗教家である。

一休は南北朝時代、後小松天皇を父に、その女官を母に生まれたが、不穏な政争に巻き込まれるのを避けて安国寺へ運ばれ、小坊主とされる。当時から神童と呼ばれる利発さだった。

一方、申楽を生業とする世阿弥は滑稽芸を芸術の域にまで高め、初めて後小松天皇の天覧を仰ぐに至った芸術家。初めて幽玄の思想を具象化した天才であった。二人の出会いは初めてではなかった。30年も前、会ったことがあるのだ。

二人を囲む闇のなかには蛍が舞い、深い霧を照らして、二十三日の月が昇る。そこに一艘の小舟がくる。女船頭の「今夜は四十八年に一度の二十三夜なれば」二人を暁蛍楼に案内するという誘いにしたがって二人は乗船する。二人の話はまだ続く……。

何とも幻想的な夜だ。はかない夢のような過去、それを象徴するような蛍の舞い、そして暁蛍楼での幻のような体験。珍しい作品だ。

教育欲を取り戻せ!』 斎藤 孝:著/NHK出版:刊/660円+税

教育欲とは聞き慣れない言葉だが、何となく否定的なニュアンスがある。最近もある男子中学生が父親に勉強しろといわれたのに腹を立てて家に放火し、幼児を殺害した事件があった。「教育ママ」や「説教オヤジ」といえば評判がよくないが、しかし著者は、その「存在そのものを否定するのは、早計ではないか」という。それらは「止むにやまれぬ衝動が原因で生まれてくるものなのです。そしてその衝動こそ……。」教育欲なのだと規定する。

人間には「性欲」「食欲」「睡眠欲」の三大欲求があるが、「教育をしたい」という欲求も大人にとっては本能に準ずる欲求だという。しかしそれが行きすぎてしまったため、その反動として教育欲が否定される風潮がまんえんしてしまった。そこで本書のテーマが生じたわけである。

著者が指摘するとおり、たしかに現代は教育に自信がもてない時代だ。その典型が、「ゆとり教育」であろう。しかしその結果、学力は大幅に低下してしまった。だがここで肝心なことは、教育は「支配」ではないということだ。そこに「卒業」の意義がある。

「風のように来たりて炎を吹きつけてまた風のように去る」というのが教育のイメージだという。教育に正しい自信をとり戻す指針となる。

(K・F)

※「有鄰」461号本紙では5ページに掲載されています。

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