Web版 有鄰

459平成18年2月10日発行

[座談会]かながわの神道美術
—神奈川県立歴史博物館特別展示にちなんで—

町田市立博物館館長・武蔵野美術大学名誉教授/田邉三郎助
東北大学名誉教授/有賀祥隆
神奈川県立歴史博物館専門学芸員/薄井和男
有隣堂社長/松信 裕

右から薄井和男・田邉三郎助・有賀祥隆の各氏と松信 裕

右から薄井和男・田邉三郎助・有賀祥隆の各氏と松信 裕

※資料写真は神奈川県立歴史博物館提供

はじめに

松信神奈川県下の各地には古くから歴史ある神社が数多く残されています。それらの神社では今も地域の人びとによって特色ある神事が守られ、また神像や縁起、あるいは神宝類などが大切に伝えられてきました。

神奈川県立歴史博物館では2006年2月18日から5月7日まで特別展「神々と出逢う—神奈川の神道美術」が開催されます。寺院に祀られている仏像彫刻は、展覧会などで紹介されておりますが、神像は、日ごろは本殿の御簾の奥深くに祀られており、展覧会に出品されることも少なく、これまで目にする機会はほとんどありませんでした。

今回の企画は、神像や縁起類など約200点を一堂に集めて紹介する展覧会で、初めて存在が確認されたものも含まれていると伺っております。本日は、神奈川県の主要な神社の由来もご紹介いただきながら、県内に残されたさまざまな神道美術についてお話をお聞かせいただければと思います。

ご出席の田邉三郎助様は、町田市立博物館館長、武蔵野美術大学名誉教授でいらっしゃいます。日本彫刻史をご専攻で、仏像彫刻のほか能面に関するご著書もございます。

有賀祥隆様は、東北大学名誉教授、東京芸術大学客員教授でいらっしゃいます。日本絵画史をご専攻で、仏教絵画などを研究していらっしゃいます。

薄井和男様は、神奈川県立歴史博物館専門学芸員で、中世美術、特に中世彫刻史にお詳しく、今回の特別展を担当なさいました。

神奈川県神社庁の協力をえて調査

松信今回の企画は、神奈川県域の神社を統括する神社庁が設立60周年ということから開催が可能になったそうですね。

薄井3年ぐらい前、神奈川県神社庁から、設立60周年記念の展覧会ができないだろうかというご相談が私どもの博物館にありまして、それで準備を始めました。

今まで、鶴岡八幡宮など、特定の神社のものを集めた展覧会は開催したことがありますけれども、神奈川県内の神社全体ということになりますと、それこそどういうものがあるのかも全くわからない状態でしたので、まず、調査をさせていただくことにしました。神社庁の方が音頭をとってくださって、主だった神社にどういうものをお持ちかというアンケートをとったり、実際に調べましょうということで、2年ぐらい前から県内のお宮を回りました。

大磯町六所神社から平安期の男女神像が

松信調査では、いろいろな発見があったようですね。

薄井今まで知られていないものも、随分みつかりました。その代表的なものが大磯の六所神社の男女神です。

男神像

男神像
大磯町・六所神社蔵

男神のほうは、四天王像のような神将形ですが、なかなか奇怪な像で、ちょっと苦悩したような表情も独特です。甲冑に獅噛という、バックルみたいなものがついていますが、このお獅子が何とも妙な形で、妙な表情をしているんです。どう見ても四天王像などについている並みのものではないという感じがします。

田邉バックルみたいなものは帯食と言って、中国の鬼の顔のようなものが普通で、これを獅噛といっています。

薄井像の大きさは約1メートルあります。現在両手がなくなっていますが、足ほぞはついています。全体は彫り口も非常にしっかりしていますし、一木で背刳があり、全面布張りしています。つくり方として極めて本格的なものだと思います。

女神像

女神像
大磯町・六所神社蔵

女神のほうは、これと対をなすかどうかは、作風的にもちょっとどうかと思われますし、年代も多少前後するんじゃないかと思いますが、仏像で言うところの吉祥天のような形をとったものです。この2体が今も本殿の中に祀られております。

田邉2体で主神なんですか。

薄井はい。明治以降は、これは御神体そのものではないという解釈で、別の御神体を据えているんですが、もともとはこれが御神体です。

六所神社は、大磯の国府本郷という、相模国府があった場所にあって、近在の一之宮の寒川神社や、二之宮の川勾神社、三之宮の比々多神社、平塚の四之宮の前鳥神社といった主たる神々の神輿を集めて行う国府祭という大変有名な神事を行う、かなりキーポイントになるお宮です。

祭神が素盞男尊と櫛稲田姫命で、この像も素盞男尊と櫛稲田姫命じゃないかと言われてきた経緯もあるそうです。そう言われてみると、確かにぴったり合うなという感じがします。

これまで神奈川ではこんなものがあるとは思われていなかったものです。

田邉時代的には平安、12世紀は間違いない。11世紀かもしれないですね。

薄井背刳なども、そのころの典型的な形です。

女神像も悩んでいるような不思議な表情で、仏像の顔でないのは一目してわかりますね。

有賀男神像は顔を横に振っていて、横顔がなかなかいい。リアリスティックな顔をしている。

薄井京都の大将軍八神社には、こういう神将形の像が80体ぐらいありますね。

田邉この像のほうが内面性というか、何か表現の上ではおもしろいですね。

古代の神奈川の中心は相模川より西

薄井六所神社と隣接したところの、二之宮川勾神社に随身像が2体ありますが、この像も今まで全く知られていないもので、江戸時代の神門に囲いをつけて、その中に収められていました。相当磨滅していますけれども、一木の堂々たる等身大の随身で、両足をそろえて座る、いわゆる倚像の形をしたものです。

時代的には六所神社のものと余り変わらないと思うんです。平安時代のお像ですね。神奈川では古代に関して言えば、相模川よりも西のほうに中心があったというのが証明されていると思います。

箱根神社の万巻上人像は関東最古の木像

万巻上人坐像

万巻上人坐像
箱根町・箱根神社蔵

松信箱根神社に古くからある万巻上人像は、何かの神像だった可能性もあるという意見もあるそうですが。

田邉そこまではなかなか確認しにくい。山岳信仰が波及していって、それを広めていく有名な僧が何人かいる。万巻上人はその一人です。鹿島神宮など、あちこちに名前を残している人で、その彫像が箱根神社にあっても少しもおかしくないし、時代的にもかなりいい線をいっている。

箱根山は、山岳信仰の拠点の一つとして関東では非常に重要な地点だと思うんです。東海道の途中の交通の要所にあって、日光の二荒山神社の状況と非常によく似ていて、両方とも奈良時代から有名なお坊さんが入ってきていた。

箱根神社は、そういう点からもちょっと見直したほうがいいと思うんです。

松信六所神社の像とはどちらが古いんでしょうか。

薄井万巻上人像は平安初期で、関東でも一番古い木像です。六所神社の像は万巻さんに次いで古いと思われますね。実際にはまだありそうなんですが、なかなか調査ができないので……。

大磯町高来神社の女神像は中世の珍しい立像

男神立像

男神立像
大磯町・高来神社蔵

松信中世の神像彫刻については、いかがですか。

薄井大磯の高来神社に神像があります。鎌倉時代の典型的な神像ですが、平安のものと打って変わって、非常に現実味がある。この高来神社の男神像は立っている像で、しかも、袍を着て冠をかぶる典型的な神像の形をとっていながら、その上から袈裟をつけている。まさに神仏一体化した、渾然とした姿をあらわしたものです。

伊豆山権現のものも同じような袈裟をかけています。伊豆山と高来神社とは縁起のストーリーでもつながっていますし、箱根ともつながっていますから、このあたりで共通する図像みたいなものができ上がって、こういう形の神像が生み出されたのかなという気がします。

高来神社は、中世は「高麗寺」と呼ばれていて、頼朝の崇敬も大変厚かった。北条政子の安産祈願で相模国の寺社二十七社に神馬を奉ずるときに、この高麗寺が選ばれていますし、幕府が後白河法皇の法要をするときにも、高麗寺の坊さんが招かれている。相当力があったんです。

高来神社の神像は、全部で11体あるのですが、その中で一具と見られるのが大体1メートルぐらいのもので、男神像2体、女神像2体、僧形2体のセットです。それとは別に、もう一回り大きいセットがあって、これも男神像、女神像、僧形像とあったようなんです。そのうちの男神像の首のところと女神像の頭の中に弘安年間の銘がありました。

松信弘安というと…。

薄井蒙古襲来のころです。1メートル前後の6体は、それとはちょっと作が違うんです。これも一木でできていまして、現在は生地をほとんど露呈していまして、相当傷みがひどい。特に女神像はかなり無残な状態なんですけれども、これも非常に珍しいですね。

田邉女神で立っているのはほかに余りない。

薄井両肩から潔斎の掛帯を回した形で、瀬戸神社の女神像も同じような姿です。こういうタイプの女神像が出てくるのは中世ですね。

田邉そうですね。このころになると神と仏は完全に一緒ですから、仏像的とか、神像的とかと区別しにくくなってきますね。

金沢区瀬戸神社の大山祇命像は南北朝時代の製作

男女神坐像

男女神坐像
金沢区・瀬戸神社蔵

松信今お話に出ました瀬戸神社のご神体はどういう神様ですか。

薄井瀬戸神社は横浜市金沢区にあります。伊豆に流された源頼朝が三島明神を深く崇敬し、挙兵に成功して鎌倉に入り、金沢の地に祀ったと伝える由緒のある神社です。5体の神像、舞楽面などが知られています。

祭神は大山祇命です。わずか15センチほどの像で、髪を中央で左右に分けて、美頭良を結っている。

田邉これは若宮でしょうね。5体の組み合わせはよくわかりませんが、男神も女神も怒っているものと普通の顔のものがある。若宮が怒っているのも珍しいですね。

薄井以前、この神社の調査をされた鷲塚泰光さんは、大山祇命の像を南北朝時代の作といわれています。

有賀東北地方では神様は大木や岩におりる。つまり依代ですね。そういう崇めていた木で神像を彫るとか、そんな様子をうかがわせるものは神奈川県にはないんですか。

薄井そういうふうに思い込めるような大型のものは余りない。例えばウロを持った木を使っているとか、そういう痕跡はちょっと認められないんですね。全体に小さいものが圧倒的に多いですから。

伊勢原市比々多神社の狛犬は古式の形をとどめる

松信狛犬もありますね。

薄井意外と木造の狛犬が残っていまして、なかでも三之宮の比々多神社の狛犬がいい。これは伊勢原市の指定になっています。大化元年(645年)に相模の国司が奉納したと伝えていますが、今回、先生にまたじっくり見ていただいて、かなり時代を古くしてもいいんじゃないかと思っています。

田邉狛犬には角があるんですか。

薄井残念ながら頭部が破損していまして、獅子のほうも面部と上顎の部分が後補になっているんです。ちょっと惜しいんですが、獅子がたてがみを巻いて、狛犬がなびかせているという形です。あばら骨がきれいに造形されていて、背中がぐっと丸くて、古式の形を非常によくとどめています。

神像は仏教が日本に普及した平安初期以降の製作

松信神像というものは、いつごろ生まれたんですか。

田邉もともと神自体は、実際目に映るような形では存在しなかった。ただ『日本書紀』には人間のような感じで書かれています。だから現実につくったものがまったくなかったかというと、私はちょっと疑問なんですが、ともかくも神様自体は、今我々が知っているような人間の形の像ではなく、依代と言って、岩とか八幡宮の枕とか、あるいは大山祇神社は古くは矛だとか、鏡とか、そういうものが御神体として置かれていた。それがある日から人間の形の神像に置きかわってくる。

仏教伝来は西暦552年のことといわれていますね。6世紀の中ごろです。当初は崇仏派の蘇我馬子と、廃仏派の物部守屋や中臣氏との対立といった構図がありましたが、やがて推古天皇が飛鳥寺で大規模な造像を始め、仏教は着実に日本に普及し、こうした影響で、神像が造られるようになったと思います。

地蔵菩薩といわれてきた像も神像である可能性

田邉神像らしい神像が奈良時代にすでにあったかどうか。平安初期ぐらいからというのが一般的です。では、どんな形の神像が最初に出てきたのか。それは仏像の形で神様と考えたという説が今一番強いんです。

仏像でも特に僧形、今まで地蔵菩薩だと言われていたのが、神が仏に従って自分の罪業を悔い改めて修行して、菩薩の形、つまり僧形になったものがかなりあるのではないか。地蔵菩薩とか、箱根神社の万巻上人、あるいは明星菩薩とか妙幢菩薩といった、ちょっと変わった名前で従来知られていた像も、神の像ではないかということですね。

奈良時代の天平勝宝元年(749年)に、東大寺の大仏造立を助けるために九州の宇佐八幡宮が奈良へ出てきて、東大寺の鎮守の神におさまる。その八幡神の像が、いわゆる本格的な神様の像としては最初じゃないだろうか。しかも八幡神の形が僧形で、両脇に女神がつく三尊の形でつくられる。最初は二尊だという説もあるんですが、いつの時点からか三尊になった。三尊形式は仏教の影響かもしれないという説もあるようです。

僧形八幡神像

僧形八幡神像
鎌倉・浄光明寺蔵

しかも、八幡神は僧形の形と、俗形という衣冠束帯の形と両方つくられる。どちらが御神体の中心かというと、本来はどうも僧形のほうらしいというところまで今考えられてきているんです。

有賀京都の場合も、空海が奈良の東大寺と同じような位置づけで東寺を開いて、そこに王城鎮護のために八幡社をつくる。空海は八幡社にまつる神像を造立し、自ら八幡大菩薩の御影を写して、高雄の神護寺に安置したといわれています。そういう系統がずっと続いて、有名な東大寺の快慶作の僧形八幡神像がつくられていくんですね。

薄井時代は少し下がりますが、鎌倉の浄光明寺に、南北朝ぐらいの僧形八幡と弘法大師の画像があります。これは、「互為の御影」と呼ばれて、古くから浄光明寺に伝わっているものです。対と言っても向き合ってはいないんですが、二幅同時にかけてきたといわれています。

田邉それに伴って、そのほかの神像も、平安初期から随時つくられるようになります。その早い例が京都の松尾大社の神像で、それに次ぐ、10世紀に入ってからと思われるものが、熊野速玉大社にある、この間国宝になった神像です。要するに、熊野が中央とのかかわりが深くなって、神像をつくる。神様の像としての特徴的なものを備えた像ができてくるのは、多分、10世紀ぐらいじゃないだろうかと考えているわけです。

俗形は日本独特の神の姿をつくる意欲のあらわれ

松信造形の面でも、特徴が出てくるわけですね。

田邉俗形と普通は言いますが、衣冠束帯の男神とか、髪を長くおすべらかしにした女神像とか、そういう形の神像が出てくるのは、日本独自の神の姿をつくろうという意欲のあらわれかもしれないですね。

9世紀から10世紀ぐらいの文献を見ると、それまでちゃんとした神様だと思っていない、御霊とか巷の神を木でつくることが出てくるんです。官僚とかではなく、俗人の間でそういうものをつくって、お祀りする。これも、独自の神像をつくり出そうという一つの動きじゃないか。

ちょうどそのころ、菅原道真の怨霊が猛威をふるってくる。それに対抗し、それを調伏する形で蔵王権現が出てくる。その辺が神の表現の一つの転換期なんじゃないかと思うんです。神様というのは、礼拝対象だから本来坐っている。ところが立った神像が出てくる。大磯の高来神社の像はみんな立っている。

薄井高来神社のは中世ですから、立っていますね。

田邉立っている神像は、一体何を契機に、いつから出てくるのかということを考えると、どうも日本独自の神像の形を創造してくる段階で出てきた可能性があるんじゃないかと思うんです。立っている神像で一番古いのは12世紀ぐらいです。その一番の大作で最近知られるようになったのは伊豆山神社の伊豆山権現像です。

薄井伊豆山神社は明治時代以前は走湯大権現と呼ばれて、信州の戸隠、駿河の富士山、伯耆の大山と並び称されるほど高く位置づけられた神社で、今も温泉が湧き出し、それが熱海の地名の起こりになったといわれています。

平安時代の男神像は2メートルを超える立像で、朝鮮風の衣服をつけた珍しいものです。もう1体、以前から知られている立烏帽子をかぶった銅造の走湯権現立像もあります。

神道と仏教とで異なる美意識

松信神像は、仏像と比べて、どんな違いがあるのでしょうか。

有賀日本には、古来、美の求め方が二通りあるように思います。一つは何も手を加えず、ありのままをよしとして、手を加えても自然の美しさを残すという態度、もう一方は手を加えてより美しく装飾する態度ですね。いわば、美のネガティブな求め方と、アクティブな求め方です。宗教に当てはめると、前者は神道に、後者は仏教の立場になります。

飛鳥時代に中国から伝えられた、法華経というお経があって、厚く信仰されてきました。その中に、多くの塔を建てて宝玉を飾り、また仏像を自分で描き、ましてや、上手な絵師に命じて美しく描かせれば、その功徳はたいへんなものになるという意味のことが書かれている。こうした法華経への信仰と、美術の創造とが結びついたところに作善があり、仏教美術の本質があるように思います。

薄井素木づくりの伊勢神宮と、法隆寺の壁画や一般の寺院内部の荘厳な装飾などに見られる美しさの違いといったところでしょうね。

絵画は若宮八幡神像や天神像など

松信絵のほうではどうですか。

有賀絵で神様が実際に形としてあらわれてくるのは、神仏習合というか、垂迹思想が確立した平安終わりから鎌倉初めぐらいからなんですが、最初は神様の形はなかなか出てこないんです。残っているものから言いますと、最初は神様の像ではなくて、お宮の神域を描いた宮曼荼羅です。

薄井神像の絵画は、神奈川には余り残されていないんです。鎌倉国宝館にある鎌倉から南北朝時代の若宮八幡神像が古い時期のものです。あとは天神像や僧形八幡像。

有賀古くても鎌倉も半ば以降のものが多い。形も京都や中央にある形で、神奈川県の特色は余りないのかな。

鶴岡八幡宮に「迴御影」がありますが、一般には、八幡垂迹曼荼羅の一つとして「七社絵像」とか「八幡諸神曼荼羅」とか、そんな呼び方の画像ですね。

薄井「迴御影」と言われたのは後なんでしょうね。八幡宮の座不冷壇所というところに懸けて、それを供僧が交替で不断で拝んでいたという由緒あるものです。ですから絵画そのものというよりは、むしろ由緒的な価値があるんじゃないでしょうか。

天神像には衣冠束帯と道服の2つの系統

束帯天神像

束帯天神像
鎌倉市・荏柄天神社蔵

松信天神の画像も結構あるんですか。

薄井神奈川にも、桃山とか江戸初期ぐらいの束帯天神が割とあるんです。

有賀もともとは菅原道真の文官としての威儀をただした姿でかきますから、衣冠束帯ですね。これが恐らく道真像、天神としての、本来の形だと思うんです。実際今残っている束帯で一番古いのは、延文5年(1360年)に描いたという「祖参」の賛がある常盤山文庫のものですね。

田邉彫像では一番古いのは正元元年(1259年)の銘のある、奈良県長谷の與喜天神にある等身大の御神体で、よく似ているんですが、こちらのほうがちょっと古い。

有賀当然それは坐った形でかかれるけれども、立った姿の束帯の天神も出てくるんです。それがまた雲に乗った形で、いわゆる影向、雲に乗った形であらわされる。

田邉そのうち唐に行っちゃうんですね。

有賀道服を着た、いわゆる「渡唐天神」というのはまた考えがもう一つ別で、いわゆる神様と儒教と仏教が一体になった考えで生まれてくるんです。梅の枝を持って、有名な中国の禅僧の無準師範からもらった袋を首からかけてあらわされる。これは禅宗が盛んになってからの天神で、系統が2つあるんです。

束帯がもともとの形で、最初は、怒り天神と言って、怨霊の恨みをのんで亡くなったということで、怒り目でかかれる。それが儒教、あるいは詩をつくる神様として祀られるようになると、怒りがだんだんなくなって、普通の顔をした神様へと変化していき、怒り天神から普通の面貌になってくる。

それから、高麗縁に坐るのと、流されるときの船に敷物がなくて、船の艫綱を巻いて敷物にした。それに基づいた「綱敷天神」と呼ばれている形のものもかかれます。

薄井荏柄天神には室町時代の束帯天神像があります。

平井家本「箱根権現縁起絵巻」は小田原狩野派か

箱根権現縁起絵巻(部分)

箱根権現縁起絵巻(部分)
山北町・平井家

薄井絵画では、寺社縁起があります。

有賀縁起絵にはいいものがありますね。大山寺縁起とか箱根縁起、江島縁起、その土地の神社に結びついた縁起がおもしろい。荏柄天神縁起は鎌倉の荏柄天神社に伝わったからそう呼ぶけれど、内容は京都の北野天神の絵巻そのものです。特にこの間の神奈川県立歴史博物館の特別展「聖地への憧れ−東国の熊野信仰」で出された平井家の新出本の箱根権現縁起絵巻は、箱根神社が持っている重要文化財の一巻本に対して二巻本ですが。

薄井あれは内容を結構補填していますね。

有賀伊豆山と三島大明神も入ってきて、内容的にも面白い。私が初めて見て面白かったのは絵の描写ですね。すぐ想起されたのが狩野永徳作といわれている洛中洛外図屏風で、永徳が31歳ぐらいにかいて、天正2年(1574年)に織田信長から上杉謙信に贈られ、以後、米沢藩上杉家に伝来した。あの描写と近い。

箱根権現縁起絵巻の奥書には、天正10年12月5日に相州小田原新宿で荻野玉月斎政家がかいたと書かれている。年代も上杉本の洛中洛外図屏風と7、8年ぐらいしか離れていない。ぽきぽきしたかき方はほとんど近いですね。筆の穂先でピュッピュッとかいている。これは面白い描写だなと思って見ていたんです。

薄井伊豆山神社の宮司さんも、平井家の箱根権現絵巻をごらんになって、中世の伊豆山の様子をかいたものはなかなかない。すごく貴重だということを言っていました。

有賀これは、前田育徳会が持っている重要文化財のとちょっと違うらしい。天文から天正年間にかけての狩野派のかく風俗画によく似ているので、中央の永徳とか、元信とか、そういう関係の風俗画と結びつけると案外見えてくるかもわからない。

薄井絵師の政家についてはどうですか。

有賀よくわかりませんけれども、狩野派でしょうね。

薄井そうすると、実態がよくわかっていない小田原狩野派の一人という可能性もありますね。

有賀余談みたいなんですが、狩野永徳のお父さんが松栄で、そのお父さんが元信です。元信がかいたという、肥前の名護屋城図屏風がありますが、今江戸時代の写ししか残っていないんだけれども、それをもって元信と言っている。それがちょうど永徳の上杉本洛中洛外図屏風と、参詣とか人物は同じようなかき方なんです。今までの正系の大和絵描写とは違ったものが出てきている。色もよく残っていますし、この絵巻はもっと宣伝してもいいんじゃないでしょうか。

箱根神社の絵巻は風景描写が面白い正系の大和絵

江島縁起絵巻(部分)

江島縁起絵巻(部分)
藤沢市・岩本家

有賀箱根神社の箱根権現縁起絵巻は、内容的には平井家本と言っているものとはちょっと違って、絵は鎌倉時代の正系の大和絵の描写なんです。

一つずつ見たら、それはそれでちゃんとした絵かきがかいているんですが、少し説明的というか、ちょっと間延びしてくる。それは時代のせいだと思いますが、人物よりも、点景、風景描写がおもしろい。それは鎌倉の自然描写というか、たとえば和歌でも自然の風景を詠むのが増えてくるのと同じように、絵巻も人物よりも風景になかなか見るところがある絵巻だろうと思うんです。

薄井今回の展示では、県内の関係の絵巻をほぼ網羅しています。ですから、絵巻のファンの方に満足していただけるのではないかと思っております。

松信箱根、江島の絵巻があって、大山、それと前田育徳会の荏柄天神が見られるわけですね。

有賀今回、大山寺縁起絵巻は平塚市博物館の所蔵本が出るようですけれど、これは類本が多いんですってね。

薄井はい。平塚市博物館の所蔵本が一番古いと言われているんです。大山は古くから信仰を集めた霊山で、絵巻は大山寺の開祖良弁僧正の生い立ちから、良弁が鷲にさらわれて奈良に行き、東大寺を建立して別当となり、その後に相模国に戻って、大山寺本尊の不動明王を造立し、大山を開いて人々の信仰を集めるまでが描かれています。

江戸時代には、大山詣でで非常ににぎわったところですね。

有賀室町の16世紀の関東の絵巻の描写は、大山寺と箱根と、江島の五巻本も大体天文年間ぐらいですね。

薄井江島縁起絵巻は岩本家と、江島神社と両方持っているんですが、岩本家のほうが古く、江島神社のは江戸期のものなんです。

有賀雪舟の流れを汲む日本画の流派を雲谷派といいますが、雲谷派崩れのような表現ですね。岩なんて、雪舟をまねたというか、雲谷派に近いようなかき方なんです。

薄井小田原狩野派とか雲谷派が活躍したわけですね。天文から天正の頃は北条氏の全盛期です。北条氏が最大の勢力を得た時期に、こういう絵巻が描かれたと考えると面白いですね。

習合する神々――本地の仏の形をした熊野三神像

松信神仏習合というのはどういうものなんですか。

薄井今の時代は、神社と寺院、神主さんとお坊さんというのははっきり分かれていますけれど、明治以前は神仏混淆とも言って、神様と仏様は融合し、同一視されていたんです。

田邉鎌倉時代ぐらいになると、神社とお寺が一緒にあるような状態が全国的にあって、そんなに区別はできない。ただ、神様は仏が一時仮の姿をとっているという考え方が出てきて、形の上で本地仏というものが神社に祀られるようになる。神奈川県でそれらしいものはありますか。

薄井本地仏との伝承があるものでは、熊野神社、金沢区小柴の漁港の際の山の上のお宮に、熊野三神の本地仏が祀られています。これは横浜市の文化財調査で見出されたものです。時代的には南北朝まで行っていいのかなと思うんですけれども、サイズは小さいんですが、まさに阿弥陀如来と薬師如来と千手観音という熊野三神に当たる本地仏です。

田邉本地仏というのは仏さんの格好をした神様で、薬師が速玉、阿弥陀が本宮、那智が千手ですね。

薄井そういう当てはめ方をしています。

有賀藤野町の正念寺には「熊野権現影向図」がありますね。雲の間から阿弥陀の上半身が沸きだしている図で、那智の本宮の本地仏が阿弥陀如来として化現したところをかいた。正念寺は今は浄土真宗だけれど、以前は一向宗、時宗ですね。

薄井もともとはそうですね。一遍が熊野に詣でて、熊野権現から神託をうけて念仏思想を感得し、悟りを開いたといわれており、『一遍聖絵』にも、その場面がかかれている。時宗と熊野はつながっていますので、たどっていくと結構おもしろい。

修験道の神、蔵王権現を祀る南足柄市御嶽神社

蔵王権現懸仏

蔵王権現懸仏
藤野町・吉野神社蔵

田邉本地垂迹とはちょっと異質なんだけれども、蔵王権現がありますね。役行者が金峯山で修行中に感得したといわれる修験道の神様で、全国的にたくさんつくられる。奈良県の吉野蔵王堂に大きなものがあるんですけれども、特に西のほうが多いんです。関東では東京都の奥のほうの五社神社や東北に一体、東では数体しか知られていないんですね。

薄井神奈川県内の蔵王権現では、懸仏が、山梨県に近い藤野町の吉野神社にあります。享禄、室町時代のもので、これは明確に金峯山をかいてあります。

それから、ちょっと破損した状態なんですが、南足柄市の箱根外輪山の中腹にある御嶽神社の御本殿に20体ぐらい破損仏が入っている。その中の2体が蔵王権現立像なんです。これは私は平安でいいんじゃないかと思っているんです。これは神奈川に残っている在地性のある蔵王権現の2体で、残存状況はよくないんですけれども、確かに神奈川と蔵王権現は関係があるということを示してくれるものだと言えます。

懸仏は鏡に仏を描いて神様に奉納

薄井懸仏は、神奈川県では、鎌倉の長谷寺の大型のものが知られていますが、今回出るのは、どちらかというと小型のもので、神社に奉納されたり、本殿に祀られていたものです。本地仏、いわゆる仏像があらわされているものが非常に多いですね。

松信懸仏は、どういう意図で生まれたんでしょうか。

田邉本来は鏡で、鏡と一体だったんでしょうが、その表に線彫で描いたり、別に鋳出したものを張ったりして、仏をそのままの形とか、神様になった形であらわす。それを神様に奉納するわけです。中世の神社では、長押にかける。12世紀ごろの物語などにもその状況が出てきます。有名なところはたくさんかけられていたようですね。

願い事をして、それを納めるという習慣で、非常にたくさんつくられるようになる。それが神仏習合思想の中から出てきたものかどうか、はっきりとはわかりませんけれども、非常に関係は深いでしょうね。

鶴岡八幡宮と瀬戸神社の鎌倉期の舞楽面

薄井神社に伝わるものとしては、お面もあります。

田邉舞楽面は鶴岡八幡宮と瀬戸神社が代表的です。翁系統、菩薩面もありますね。

薄井はい。菩薩面は阿弥陀信仰が盛んになって、来迎会の行道に使われたと考えていいようです。舞楽面も八幡宮には五面が残っています。『吾妻鏡』にも、鶴岡八幡宮の舞殿で舞楽が奉納されたことがかかれていますし、現在伝えられているのも鎌倉時代のものです。

瀬戸神社の面は比較的最近重要文化財に指定されたもので、源実朝の所用の面で、政子によって奉納されたと伝えています。抜頭面とよばれる面の裏には、建保7年(1219年)と記された朱の漆銘があります。

松信瀬戸神社は、今は横浜市ですが、金沢文庫とともに鎌倉文化圏ですからね。

有賀菅原道真にみられるように、わが国には古くから怨みをいだきながら非業の死を遂げた人の霊を鎮めるという御霊信仰がありますね。

薄井御霊神だとか、頼朝を祀った白旗社のようなものもこの地域には多いですね。東京国立博物館の、鶴岡八幡宮にあったと伝える源頼朝像は、肖像彫刻というだけではなくて、白旗明神の御神像、御神体という意味もある。

三浦大介像

三浦大介像
横須賀市・満昌寺蔵

横須賀市の満昌寺の三浦大助(義明)も同様に、三浦の祖神、御霊神社の御神体になっています。そういう発想も、神道にはもちろんあるわけです。

神仏分離令をくぐりぬけて生き残った神々

薄井今回の調査でちょっと驚いたのは、神社の本殿の中に仏像が随分あるんです。小柴の熊野三神もまさに本殿の中にきちっと祀ってあるんです。

明治初年の神仏分離令のあと、仏像はほとんど追い出されたという話に大体なっていますが、今回、神社庁の方も言われておりましたが、調べてみたら、「何だ、あるじゃないか」と(笑)。確かに、藤野町の山奥にある一間社の八幡様の扉を開いたら、中から出てきたのは藤原時代の金銅仏なんです。聖観音。これは御神体なんです。

田邉神仏分離令は維新のどさくさに出てくるから、地域によって精粗さまざまなんです。奈良とか京都、滋賀、あるいは鹿児島などは徹底的にやった。そうでないところは余りちゃんとやっていないところがかなりある。ですから、神社に仏像があっても不思議はないんです。

薄井神奈川では、鶴岡八幡宮は仏教関係の堂舎を破壊するなど、派手にやられていますね。

田邉中央に近い中心的なところはやらざるを得なかったわけです。

松信そういう意味では、いろんなものがまだまだ隠されているということですね。

今回の展覧会では、きょうお話いただいたものが拝見できるんですね。

薄井展示は前期、後期に分けて、2月18日から3月の最後の週までを前期、4月から5月の連休までを後期として、2か月の開催になります。今お話したもののほかにも、鶴岡八幡宮の国宝の籬菊螺鈿蒔絵硯箱ですとか、古神宝など、非常にバラエティーに富んだものをご紹介いたします。

前期と後期で展示がえをしまして、絵巻もできるだけ巻きかえて、二期を通じて見ていただくと、相当広い範囲のものが見れるような工夫はしております。ですから、ぜひ二度お運びください。そういうふうに考えております。

松信ありがとうございました。

田邉三郎助 (たなべ さぶろうすけ)

1931年東京生れ。
著書『田邊三郎助彫刻史論集』中央公論美術出版 30,000円+税、『根来寺の能面』淡交社 2,400円+税、ほか。

有賀祥隆 (ありが よしたか)

1940年岐阜県生れ。
著書『仏画の鑑賞基礎知識』至文堂 3,301円+税、『醍醐寺大観 第1~3巻』(共著) 岩波書店 各35,000円+税、ほか。

薄井和男 (うすい かずお)

1952年神奈川県生れ。
共著『仏像を旅する−東海道線』至文堂 2,408円+税、ほか。

※「有鄰」459号本紙では1~3ページに掲載されています。

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