Web版 有鄰

458平成18年1月1日発行

[座談会]「お台場」と江戸湾防備 —品川台場と神奈川台場—

品川区立品川歴史館副館長/柘植信行
横浜開港資料館調査研究員/西川武臣
東京大学史料編纂所教授/保谷 徹

左から西川武臣・柘植信行・保谷徹の各氏

左から西川武臣・柘植信行・保谷徹の各氏

はじめに

神奈川台場(玉蘭斎橋本謙「増補再刻御開港横浜之全図」部分)

神奈川台場(玉蘭斎橋本謙「増補再刻御開港横浜之全図」部分)
横浜開港資料館蔵

編集部「お台場」と言いますと、現在ではショッピング・モールや国際展示場、テレビ局、海浜公園などがある東京都港区台場の「お台場」がイメージに浮かびます。しかし、「台場」という言葉は、江戸幕府が鎖国政策をとっていた18世紀中ごろから外国船が日本に到来するようになり、その防備のために幕府が建設した砲台を意味しており、江戸湾や全国各地に数多く建設されました。

本日は、「お台場」が現在どのような状況にあるかをご紹介いただき、江戸幕府の海岸防備に対する考えやその歴史、また品川台場や神奈川台場について、築造される経緯や実際の用途などをお話しいただきたいと思います。

ご出席いただきました柘植信行様は、品川区立品川歴史館副館長でいらっしゃいます。中世史がご専攻とうかがっておりますが、かつて同館で開催された「黒船来航と品川台場」の展示も担当していらっしゃいます。

西川武臣様は、横浜開港資料館調査研究員で、近世史がご専攻です。昨年、同館で開催されました「神奈川お台場の歴史」の展示を担当されました。

保谷徹様は、東京大学史料編纂所教授で、近世史料部に所属され幕末維新期の軍事と社会について研究していらっしゃいます。

「海よりのり入れば永代橋のほとりまで」

編集部お台場は日本各地の海岸に築かれましたが、特に有名なのが品川台場ですね。現在はどういう状況なんでしょうか。

柘植人気スポットとしてのお台場の話が今ありましたけれども、そこは幕末の黒船来航を背景とした歴史のドラマが凝縮した現場でもあったわけです。

歴史的な経過に触れながら振り返りますと、当初は品川から深川の洲崎にかけて、海上に11基の台場を連珠のように築造しようという計画でした。実際にはまず、第一、第二、第三の台場、少しおくれて第五、第六の台場がつくられました。もう一つ御殿山下台場という陸続きの台場、これを入れると6基が完成したわけです。

第四台場、第七台場は未完成のまま途中で工事が中止され、八番以降は未着手のまま終わりました。

そういった台場ですが、幸いに実戦に使われることもなく、戦前から戦後にかけて取り壊されたり、埋め立てにより埋没して消滅していったんです。

第三台場(レインボーブリッジ遊歩道から)

第三台場(レインボーブリッジ遊歩道から)

第二台場には、明治の初めに品川灯台が設置され、今、品川灯台は明治村に移築されています。7割ぐらい完成の第四台場は、その後は造船所の敷地になり、天王洲アイルの公園に石垣の一部が残っております。

埋め立てで埋没した第一台場は、平成9年から11年に発掘調査がされました。そのとき、台場の石垣や杭が確認されたということです。

現在は港区になりますが、第三、第六の台場2基が史跡として残され、第三台場が台場公園となっています。隣接してレインボーブリッジができまして、臨海副都心の新しい街が生み出されて現在に至っています。

西川東京湾の中にいくつかある台場の中では、品川の2つの台場が、形として一番よく残っていると思います。

編集部神奈川台場は、今どうなっているのですか。

西川神奈川台場は石垣の一部分が地表に出ているだけで、あとは土中に埋まっている状態です。平成14年のトレンチ調査で、土中に創建当時の石垣が、遺構としてそのまま残っている可能性があるということが確認されています。

編集部貨物線が台場の真ん中を通っていて、線路をはさんで、横浜市の中央卸売市場の中と反対側に立派な石垣が残っており、碑が建っていますね。

松平定信が江戸湾防備の必要性を説く

編集部こういう台場は、どのような経緯でつくられたのでしょうか。

保谷江戸時代、鎖国下で唯一の貿易港であった長崎の警備が、お台場の発祥だと思うんですが、江戸湾防備を認識し始めるのは、松平定信の時代と言われています。

1792年にロシア使節のラックスマンが根室にやってきて、江戸での交渉をにおわせる。その前提には、すでに蝦夷地でのロシアの南下、それに対しての危機感があります。このときのことを松平定信は彼の自伝『宇下人言』の中で、赤人はラックスマンを指してますが、「しかるに赤人直にも江戸に来るべしというは、江戸の入海の事なり、房相二総豆州は小給所多く、城などいうものも少なく、海よりのり入れば永代橋のほとりまでは、外国の船とても入り来るべし、さればこのときに至りては、咽喉を経ずしてただちに腹中に入るともいうべし」という有名な言葉を書き残しています。

もし本当に江戸に来るということであれば、海がつながっているので、そのまま来てしまうではないかというわけです。そのころから江戸湾海防が意識的に行われるようになってくる。定信は相模と伊豆の海岸調査を行い、随行した谷文晁によって重要文化財に指定されている「公余探勝図」が描かれます。これがその一連の時代の端緒になるのではないかと思います。

ロシアの脅威などで会津藩・白河藩が江戸湾警衛の任に

保谷その後、1804年にロシアのレザノフがやってきて通商を求めますが、幕府は翌年、これを拒否します。それに対して、1806年から7年にかけて樺太、択捉の日本側の会所等が襲撃される事件が起き、北方での緊張が高まります。

1808年には、イギリスの軍艦がオランダの国旗を掲げて長崎に侵入するというフェートン号事件がある。そういう中で1810年に、会津藩に相模、白河藩に上総をゆだねるということで、初めて大名を動員した江戸湾警衛が始まりました。

1811年には、松前でロシアの艦長のゴローニンをつかまえて幽閉し、高田屋嘉兵衛が間に入って、1813年にゴローニンは釈放される。こうした中で北方紛争が一段落して、幕府の措置が緩み、文政3年(1820年)、文政6年(1823年)に相次いで会津、白河藩の江戸湾警衛は浦賀奉行、代官に移されていくわけです。

アヘン戦争勃発の危機感から西洋砲術を演習

保谷しかし、イギリスが資本主義の世界展開の中でアジア市場に進出し、その間も捕鯨船が日本近海に現われ、争い事がいくつか起きます。1824年には、茨城県の大津浜にイギリスの捕鯨船員が上陸、また薩摩の宝島で食料を略奪する事件があって、文政8年(1825年)に異国船打払令が出る。

天保11年(1840年)にアヘン戦争が勃発して危機感が高まると、幕府は、長崎町年寄の高島秋帆を武蔵徳丸ヶ原(現在の高島平)に呼びつけて、西洋砲術の演習を行わせます。そして、高島流を砲術流派の一つとして認め、奨励する一方、異国船打払令を改めて、天保13年(1842年)に薪水給与令を出します。このとき、相模の海防を川越藩に、房総側を忍藩に命じて本格的な江戸湾の防備体制が構築されていくことになります。

彦根藩などの譜代大名を動員した警衛体制

編集部まず天保8年(1837年)にモリソン号が日本人漂流民を乗せ、通商を求めて浦賀沖にきますね。

西川このときは異国船打払令の時代ですから、浦賀奉行が浦賀の平根山台場からモリソン号を砲撃して、江戸湾から退去させています。この時期あたりから三浦半島にたくさんの台場が築かれたことは、お固め図や老中の阿部家に伝わる「近海見分之図」に描かれてます。

保谷弘化3年(1846年)にはアメリカのビッドルが来航して通商を要求する。それから1849年にイギリスの軍艦マリナー号が浦賀にやってくる。こうした事件の中で、ビッドルが来た翌年、相模は彦根、川越、そして上総・安房側は会津、忍という、まさに譜代のトップである溜間詰の大名を動員して江戸湾海防を行うことになります。

ビットル艦隊のコロンブス号(「黒船絵巻」部分)

ビットル艦隊のコロンブス号(「黒船絵巻」部分)
横浜開港資料館蔵

彦根あたりはこの措置に不満だったらしいんです。本来は京都守護の役をやりたい。ところが、いきなりこういう負担がかかってきて、井伊直弼がすぐに後を継ぐんですけれども、非常に不平不満があった。けれどもトップの格を持った大名家が動員されることで、大きくやり方が変わってくるんです。

会津や白河のときは近辺に所領を分けられ、いわゆる分領地を与えられて、そこで人足などを動員していた。それが彦根のときから、自領並みの取り扱いができる預所の形で周辺に支配地を与えられ、幕府から手厚い支援を受けることになります。

彦根は、世田谷や下野にも分領を持っていますので、大体二万石ぐらい預所を与えられて、そうしたところから多くの人足等を動員して警衛策に乗り出しています。

編集部実際に川越藩などはどのくらいの人数が来ているのでしょうか。

西川ビッドルが来たときには千数百名規模の藩士が来ています。

編集部彦根藩などが動員されるということは、江戸湾周辺には、大きな藩、雄藩がなかったからですか。

保谷そうです。小田原が少し大きいぐらいで、大きな藩がない。小田原から江戸までの間に大きな大名家を置くと、いつ幕府に反乱を起こすかもしれない。城を置くのではなく、大藩を動員してきて分領を与えるなり、あるいは何か手当てをする形で分担させて、大名家を動員した江戸湾警衛体制をつくるんです。

洲崎・城ヶ島と富津・観音崎の二つを防衛ライン

保谷江戸湾警衛策は、それまでにいくつか変わっていくんですけれども、最初は、文政2年(1819年)に富津から先は乗入禁止ということで、オランダ語の警告文を作成しています。

それから弘化、嘉永期に、老中の阿部正弘が海防掛を常置して考えていた当初は、房総半島の先端の洲崎と三浦半島の城ヶ島を結ぶ差止ラインと、富津と観音崎を結ぶ打払ラインの二つを置き、ここから先へは絶対に入れない。内海への侵入を阻止するという策だった。

ただそう言いながらも、弘化4年(1847年)の幕府の指令を見ますと、海戦では絶対無理だと言ってまして、戦いを避けるほうを優先している。幕府は一貫してずうっとそうなんです。

阿部正弘は外国船が来るたびに、異国船打払令を復活するぞ、復活するぞと言い続けて防備を何とかしようとしますが、現実の江戸湾の台場の様子、備砲の様子など、実際の数字を挙げて考えるとお粗末なものだったと思います。

和流の砲術でペリー艦隊に立ち向かうのは無理

編集部当時の大砲はどのようなものだったんですか。

保谷与力の中島三郎助が黒船を見て、今の我々が持っている大砲ではだめだ。五貫目砲以上でないと役に立たないと言っています。当時は、西洋式の大型のものが少しずつ出始めてはいるんですけれども、五貫目以上の大砲はないんじゃないか。西洋流と和流が混在している時期で、ペリーが来たころは、まだ和流砲術が中心なんです。

たとえば川越藩ですと、井上流、田付流、武衛流とか、さまざまな流派があった。大砲一丁ごとにそれぞれ秘伝があって、弾の大きさと火薬の量、打ち手は誰というふうに決まっている。こうした和流の砲術が、西洋の統一された軍隊としてのペリー艦隊に立ち向かっていこうとした。そこに無理があるんじゃないかというのが私の感想です。

和流の大砲は、この当時、いろいろなところで鋳物師を動員してつくるようになるんですが、大体一、二貫目砲とか、最大で五貫目までと言うんです。それで、尾栓がねじでとめる方式なんです。

最初に大筒を鋳造でつくるときに、鉄砲師が設計した。そういう発想があるので、本体とねじの部分をばらばらにつくって、後で合わせて大筒をつくるんです。

最終的に和流から西洋流に決着がつくのは品川台場で、佐賀藩でつくらせた洋式砲を持ってきます。

江戸湾の両側に砲台をおいても弾は届かない

西川黒船が来たとき、台場の大砲はどれぐらいまで届くものだったんでしょうか。

保谷それがわからない(笑)。秘伝書などに、二十町(一町は約109m)とか二十五町とか書かれてますね。だけど、それは誰かが実験歴史学的に確かめたわけではないので、本当にそれぐらい行ったのかどうか……。一般的に、ヨーロッパできちんとつくったものでも射程は1500とか2000mぐらいしか行かない。

西川江戸湾の両側に砲台をおいても届かない(笑)。

編集部真ん中まで行かないですね。

西川後に来たイギリス公使のオールコックや、いろんな外国の人がいうのは、「日本の台場は全然怖くないよ。」と。やっぱり届かなかったんでしょうね。

瓦版の発行で防衛体制が軍事機密でなくなる

「御代泰平鑑」(お固め図)

「御代泰平鑑」(お固め図)
横浜開港資料館蔵

編集部『御代泰平鑑』のような、お固め図といわれる瓦版がたくさん出ますね。

西川一番多いのはペリーが来た後の防衛体制を描いたものです。台場の位置が四角で示され、台場と台場との距離、房総半島側と三浦半島側の距離が書いてあるものが、かなり出てきます。

台場そのものは会津藩がもっと前から、いくつかつくっていますけれども、ペリーが来ると、江戸庶民の中に、日本の防衛体制に対しての関心がかなり高まるんです。

こういう軍事機密が、ペリーが来たときに機密ではなくなってしまうんだろうと思うんです。弘化3年(1846年)にビッドルが来たときも、たとえば川越藩が軍勢を引き連れて、庶民の目の前を東海道を三浦半島に向かっていく。庶民は、黒船が来る、怖いという意識と、防衛はどうなっているんだという目で見ますし、ペリーが来たときにも、実際に配置された大名の家紋を見る。そうすると、どの藩がどこにいるという情報は軍事機密でも何でもなく広がっていく。それがさらに、瓦版という形で広がる。

品川台場――ペリーが防衛ラインを突破した危機感から

品川台場築造図(品川区立品川歴史館発行『黒船来航と品川台場』から)

※画像をクリックして拡大
品川台場築造図 (品川区立品川歴史館発行『黒船来航と品川台場』から)

保谷嘉永6年(1853年)6月にペリーが来航しますが、幕府はこれを、全く阻止できない。ペリー艦隊の搭載砲の合計と江戸湾全体の備砲とを比べると、実に貧弱なものでしかなかった。ですからペリーは、やすやすとそこを突破して内海に入ってくる。

それで幕府は品川台場を建設する。品川に台場を建設するということは、内海への侵入を阻止するという方針を、ある意味ではたな上げにしたことになります。

ではどこでやるのか。品川台場のラインをつくって、そこで一つ。それから、江戸湾の海岸に屋敷を持っている大名たちに、それぞれそこを砲台化といいますか、要塞化して準備するように命じ、砲術を奨励して、この二重の水際ラインを引いて江戸城を守ろうとする。

西川品川台場は江戸防衛の最終ラインですが、本来、幕府は富津と観音崎を結ぶ線を最終防衛ラインと考えていました。江川太郎左衛門英龍も、富津・観音崎のラインに台場を置いて、そこを防衛ラインにすると、最初に言うんですけれども、結局、幕府のほうが、無理だ、建築費ももたないという。水深も深いところがあって、どうにもならない。それで品川沖に台場を築造することになる。

保谷現在、東京湾と言われているところは、近世には「内海」と呼ばれていたんです。そこをペリーは「エド・ベイ」と言った。江戸湾という言い方はペリーあたりから来ているように思いますね。

江川英龍はオランダなどの築城書を参考に計画

編集部品川台場は、ペリーが防衛線を突破した危機感からつくられたわけですね。

柘植ペリーが来航するとすぐに、韮山代官の江川英龍と、勘定奉行の川路聖謨たちが江戸湾を巡視します。それで台場の築造計画が持ち上がってくる。7月に江川が海防の建議書を出しまして、早速8月には江川の指揮のもとに築造工事が始まります。富津・観音崎の防衛ラインからはずっと後退して、品川沖に11基の台場を築造することになったわけなんです。

従来、江川の築造計画はオランダのエンゲルベルツの築城書によるものと説明されてきました。エンゲルベルツの築城書では、海岸の台場の目的が、最初は迎え打つ台場、それから横打ちの台場、さらに通り過ぎたら追い打ちをする台場、この連携による防備の役割が強調されてされています。

品川台場の設計の基本は、「間隔連堡」と言いまして、リニーという一定の間隔で堡を配置する築城方式です。これは実はフランスのサヴァールの築城書にある方形を用いた堡の配置を参考にしたものということが最近の研究でわかりました。江川はエンゲルベルツだけではなくて、サヴァールなどにも熟知していたことになります。

小田原台場は品川台場より1年前に完成

小田原台場(「小田原城絵図」<文久図>部分)

小田原台場(「小田原城絵図」<文久図>部分)
小田原城天守閣蔵

西川韮山に残っている江川の模型は星型ですね。でも品川台場自体は、そうじゃない。当初江川は、実際に築造された台場とはかなり違ったものを計画していたんでしょうか。

柘植江川家に残された木製の模型は、嘉永6年9月に江川が老中の阿部正弘に贈ったものですね。純然たる洋式の城郭の模型だったんです。当時の日本にしては、江川の見識がうかがわれますね。

西川江川が最初に設計したのは小田原台場で、市街地の海岸部に3か所つくりますね。

編集部文久の小田原の城絵図を見ると、ギザギザの形をした半円形の台場が並んでいますね。

西川当初はそれを品川につくりたかったのかもしれませんね。小田原のほうが品川よりも1年早い。あのあたりは、明治35年(1902年)の大津波や西湘バイパスの工事があったので、残っていないのでは。

保谷今、静岡県と文化庁で、重文指定に向けて江川文庫の調査をしています。オランダ語の原本も相当出てきていますし鉄砲方のときの御用留、品川台場のときのいろんなものがあり、初期の調査で3万点、実際には5万点をこえると思うんですが、今、片っ端から目録をつくっています。

英仏の最新技術や機械に依拠した小栗上野介が登用

編集部伊豆の韮山に残っている反射炉では、大砲はつくられていないんですか。

保谷韮山の反射炉は稼働しています。ただ、反射炉で目指していたのは鋳鉄砲で、それはまだ丸い弾の段階なんです。

ところが世界的な技術は鍛鉄と鋼の施条砲(ライフル砲)に移っていく。ずんぐりむっくりした形で、長弾です。火薬の量が違うし、飛距離も伸びるし、先端に信管をつけておけば、当たったときに着発信管でボカンといく。爆弾が飛んできて当たったら、通常の台場はもたないですね。それで、世界的にも要塞は半地下式になっていく。それまでは外国でもタワー式の台場が多いんですが、それが全く意味をなさなくなってきてしまう。そういう大きな変化があった時代なんです。

江川は、もう一つ前の18世紀から19世紀の頭ぐらいまでの技術に依拠してやっています。幕府では小栗上野介のような人物が出てきて、江川では時代おくれだ、イギリスやフランスの最新の技術や機械を入れて、大規模な造兵廠をつくらなきゃだめだというほうに流れてしまう。それで、江川は結局元治元年(1864年)の段階である種切られて、その後、自分のところでは大名からの注文を受けて大砲をつくったりするんですけれども、幕府の位置づけから外されていく。

品川唯一の陸続きの台場・御殿山下台場

柘植御殿山下台場だけ、ちょっと形が違うんです。嘉永7年5月に第四台場の建設が中止になり、かわりに南品川の利田新地につくられたのが御殿山下台場です。後に第四台場と改称されるので、天王洲アイルの第四台場と混同されやすいんですが、今の品川区立台場小学校の付近が御殿山下台場です。現在でも地図上から当時の景観をうかがうことができます。

これはヨーロッパの築城書にあるバスチオンという城郭がモデルだと考えられています。

品川台場が築造されたあたりは浅瀬の海で、台場間の日常の連絡は、小舟が使われました。流れに乗れば、簡単に行けたんです。

突貫工事で8か月で完成

完成した台場での試砲と手前は御殿山下台場(「品川砲台試発図」部分)

完成した台場での試砲と手前は御殿山下台場(「品川砲台試発図」部分)
江川文庫蔵

柘植築造の工事は大変な突貫工事だったようです。海に島を築く埋め立て工事、その上に石垣などの台場上部の工事をする。この経過は幕府の小人目付の高松彦三郎が『内海御台場築立御普請御用中日記』という記録を残していて、『高松日記』としてよく紹介されます。

最初に五間四方ほどの小島をつくることから始まって、8か月で完成したそうです。種々のトラブルもあったようで、大潮で潮が入ったり、強風が続いて工事ができないとか、暮れには大雪が降ったと書かれています。嘉永7年1月のペリーの2度目の来航では、町の通行がとめられて、今度は石工が集まらないとか、工事では大分苦労したようです。当時の史料では「内海御台場」とか「品川(沖)御台場」とか両方の呼び名が出てきます。

土は高輪・八ツ山、石は真鶴や伊豆からも運ぶ

歌川広重(三代)「東京八ツ山下海岸蒸気車鉄道之図」

歌川広重(三代)「東京八ツ山下海岸蒸気車鉄道之図」
品川区立品川歴史館蔵

編集部埋め立ての土はどこからとってきたんですか。

柘植高輪の泉岳寺から八ツ山、御殿山、その辺の山を切り崩して海まで運んだようです。

保谷後で御殿山にイギリスなどの公使館の建設が計画されますが、そのときに最初に見に行ったイギリス公使のオールコックとか、フランス公使のベルクールは、何で真ん中に大きな穴があいているんだ。こんなところで我々はやっていくのかというやりとりがあります。

西川横浜あたりからもかなり運んでいますね。三浦半島も多いんです。埋め立て用の土丹という粘土質の土を持っていく。

磯子区の堤さんというお宅が、土運びの実務を江戸の業者から請け負うんです。船は東京湾の中の漁村からチャーターするんですけれども、それだけでは足りなくて、相模川の河口から船を持っていったりしている。

土運びや木の運搬と、結構資料が残っているんです。横須賀市の永島さんというお宅にもかなり大量の資料がありまして、三浦半島で木を伐採して、台場の上の建物の材木を運んでいます。外側の石は伊豆石とか真鶴石ですね。

品川・東海寺に1000人以上の警備兵の宿舎を依頼

編集部台場の築造は、江戸城をつくるのに匹敵するくらいの事業だったのではないですか。

西川東京湾じゅうの台場を集めたら小さな城ぐらいできるかもしれない。品川台場では、建築費が80万両ぐらいですから、東京湾内の経済が活性化するほどの大工事です。

神奈川台場は小さくて7万両ぐらいですが、その規模の台場が19世紀の初めぐらいからいくつもできるわけですから、恒常的に10万両単位の金が地元に落ちたと考えられる。

柘植品川宿にも、役人をはじめ相当大勢の人が集まったようです。家光が建てた、沢庵で有名な東海寺に、「公用記録」という史料があります。

役人が芝高輪から品川宿あたりに泊まるので、各寺院にも泊めてほしいという要請があるんですが、東海寺は公儀の寺だから、そういう人たちが来て、肉とか魚を食べられると困るとか、そんな相談をしています。

嘉永7年のペリー再来時には、松平越前守が品川と御殿山を警備しますが、千人余りが警備にあたる。東海寺を宿舎としてぜひ借りたいと宿の役人から伝えられています。品川宿は一挙に人であふれたようです。

台場の土取りで中世の石塔や骨が大量に出土

柘植一つ興味深いのは、「公用記録」に、御殿山の土取り場から無縁の石塔や骨が出てきたという記事があります。供養の施餓鬼をしてくれと東海寺に持ちこみ、嘉永7年の7月に実施したということです。

御殿山下の浄土宗の法禅寺には、今も、板碑、五輪塔、宝篋印塔など中世の石塔が残っています。品川は中世には港湾都市として繁栄していましたから、台場築造の土取りによって、期せずして江戸時代以前の貴重な歴史を物語る資料が副産物として出てきたということなんですね。

神奈川台場――開港場の付属施設として築造

神奈川台場図 安政6年

神奈川台場図 安政6年
横浜開港資料館蔵

編集部神奈川台場は開港してからつくられるのですね。

西川品川台場は、首都防衛という役割でしたが、神奈川台場は、開港場の横浜の付属施設としての意味が強い。もちろん軍事的な役割も負わされたでしょうけれど、実際やっていたのは、開港場で行われる外交イベントの祝砲と礼砲の発射です。機能や役割がそれまでとはかなり違う。

遣米使節の幕府の役人たちのアメリカでの見聞記などに、ニューヨーク港には付属した台場があって、礼砲や祝砲を発射しているという記述があるんです。そういうものを日本の一番大きな開港場に設けたわけです。

日本は慶応2年(1866年)に、イタリアと国交を結びます。イタリア使節アルミニヨンの日記、『日本および軍艦マジェンタ号の航海』によれば、到着してまず神奈川奉行と会う。最初の船での会見のとき、お互い礼砲を撃ち合うことになって、奉行は早馬を走らせて命令を出し、神奈川台場で礼砲を打つ。日本はイタリア国旗を持っていないので、アルミニヨンに借りた国旗が台場に翻る。アルミニヨンは日記に、きょうは記念すべき日だ。初めて日本の国土にイタリア国旗が翻ったと記しています。

その後、日本は蚕卵紙の輸出をしていきますが、当時、養蚕地帯を持っていたイタリアは、早く国交を開いて有利な形で蚕種を輸入したい。イタリア商人の活動の基盤を横浜でつくりたい。そういう背景で日本に来る。

これまで軍事対立だけでの存在だった台場が、新たな外交と経済関係を結ぶときの出発点になる儀式の場所に変わってくるということで、非常におもしろいと思います。

御用商人平野屋が工事を請け負い、松山藩が警備

神奈川台場(明治中期)

神奈川台場(明治中期)
横浜開港資料館蔵

西川建設された場所は、東海道の神奈川宿の沖合約200mのところで、広さは約8000坪、大砲は14門あり、延べ30万人が築造に動員されたといわれています。

その経過を少し紹介しますと、四国伊予の松山藩は、安政4年(1857年)に神奈川宿周辺の警備が命じられ、神奈川宿の並木町に台場を築造します。ところが、その翌年にはこの台場とは別に、神奈川宿の猟師町に新たに台場の築造が命じられます。そして横浜が開港した安政6年6月の翌7月に猟師町のほうの台場の工事が始まる。万延元年(1860年)6月には松山藩主の松平勝成が完成した神奈川台場を視察しています。並木町のほうの台場は新しい台場が完成したころに廃止になったといわれています。

編集部建設の材料の土や石は品川と同じですか。

西川だいたい同じです。松山藩がつくるんですが、建設は松山藩の御用商人でもある平野屋などが請け負いまして、日記がやはり残っています。

編集部背後にある権現山などから土を持ってくる。

西川そうですね。磯子の山や三浦半島の山からも持ってくる。横浜市域の土が余りよくないという記録が堤家の日記にあって、三浦半島の土のほうがいいようで、かなり山を切り崩しています。

編集部台場には軍隊が常駐していたんですか。

西川当初の警備には、松山藩士が常駐していました。松山市の伊予史談会という愛媛県の郷土史の大きな団体が集められた資料の中に、ここの警備に来た松山藩士の日記が残っています。そういうものをつなぎ合わせていくと、かなりいろんなことが見えてくると思います。

台場の陸側のところに陣屋がありまして、下級藩士も含めると70人から100人ぐらいは常駐している感じですね。

慶応2年(1866年)に古河藩に台場警備がかわるんです。戊辰戦争の後、明治新政府に引き継がれると、最初は佐賀がちょっと入ってきて、その後は県の兵隊が警備に当たり、さらに陸軍のものになっていきます。

台場築造は政権安定に大きな意味

柘植神奈川台場は、品川とは形態が大分違いますね。

西川神奈川台場は勝海舟が設計したといわれていますので、これが当時の最新の設計なのか、江川英龍と画期的に違うのかなどを検証したら面白いかもしれないですね。残念ながら、現在は土の中ですから、その辺の検証は今後になるかなと思います。

保谷台場のつくり方は本当にわからなかった。本木正栄の『海岸備要』のような翻訳書が出てきて、新しいものを習得しながらやっていくことになるんです。

長崎で実際に佐賀藩がつくったものを外国のカピタンに見せている。指摘されている点を見ると、まず、形はいいけれども胸壁が低過ぎる。これでは大砲が下から見えてしまうじゃないかと。

これは想像なんですが、つくっている側は見えなければいけないと思っているかもしれない。つまり、見せることによって抑えになるという考え方と、船の上から見えてはだめだと。その辺の考え方の違いはどうしても最後に出てきてしまうのではないか。

防備が万全であることを国民に見せること

編集部巨額の費用を投じてつくった台場は、実際何か役に立ったのでしょうか。

西川軍事的に役に立たなくても、たとえば黒船がやってくると、国民がかなり動揺するわけです。ペリー艦隊がきたときも、1回目には疎開騒動みたいな話が出てくる。ところが台場があることによって、防備が万全であるということを、国民に対して見せつけることができる。政権の安定を考えると品川台場には非常に大きな意味があったんだと思います。

目の前に巨大な構造物があって、大砲が置いてあって、海に向いている。東海道の前にそれがあるわけですから、単なる対外的な面、軍事的な面だけではなくて、国内の治安とか、国を支えていくという意味では、それだけの金を投下しても、東京湾の台場は意味を持っていたのではないか。大砲が見えたほうがいいということもあると思うんです。

保谷江戸湾の場合には、全くそれが言えると思うんです。純粋に軍事的にそこで何かするというのは、実際には難しいと思うんですね。むき出しの露天砲台ですし。

それよりも、その台場を外国からきた艦隊が見るだけではなく、日本の国内が見る。その見せ方の問題というのは非常に大きいんじゃないかという気がするんです。

イギリスは居留地防衛のために台場を詳しく調査

保谷1863年から64年にかけて尊皇攘夷との絡みで、戦争の危機があるんですね。イギリスは、いよいよ日本との戦争が始まるかもしれないと考えた。実際に文久3年5月10日に下関で砲撃をやります。同時に幕府は幕府で港を閉ざすということを一応建前では言う。つまり横浜をもう一度鎖港することになるので、もしかしたら日本は本当に我々を追い出す気かもしれないという危機感にかられて対策を打つ。その対策の一環として、イギリス工兵隊の将官たちが、香港から呼ばれた。そして横浜と長崎、箱館といった要所を、特に居留地防衛のために、神奈川台場とか、品川台場の様子を逐一調査させるんです。

彼らがつくった地図には横浜居留地と江戸の間にどういう軍事施設があるかという観察がなされている。面白いのは、品川台場を結んだラインの先、内陸部に「ニューフォート」があると観察している。今の品川区の国文学研究資料館があるあたりにくっきりと四角いスペースが見えたらしい。それを新しい要塞だと思ったのではないでしょうか。

軍事的に言うと、一見列強のほうが強そうですが、たとえば横浜は、周りの丘から攻撃されたら居留地は絶対維持できない。だから、どれだけ早く撤退するかだというふうに思っていたようです。

神奈川台場は見える形での保存が今後の課題

神奈川台場の遺構(横浜市中央卸市場内)

神奈川台場の遺構(横浜市中央卸市場内)

編集部神奈川台場では、今、保存運動がありますね。

西川市民団体などが保存運動を行っていて、調査報告書も出されています。全国各地の台場の保存と活用方法なども研究してまとめられています。市民運動がこれから高まれば、史跡としては重要なものだろうと思いますね。

現在、埋め立てられているところの前面の両側に川が流れていて、片方が高い。ここを掘って水を落とそうという計画があるようです。横浜市の卸売市場を公園にして、海から石垣が見えるようにもしたいというのが、運動をやっておられる方の考えです。ただ、お金もかかる話ですし、今は土中ですから、掘り返しさえしなければ保存はされていく。それをどう見える形にしていくかというのが、今後の課題だろうと思います。

柘植品川の場合はすでに大正時代に国の指定史跡になっています。史跡公園と現状保存の2つの台場が歴史を語りながら、新しい街と調和していければいいと思います。

編集部貴重なお話をありがとうございました。

柘植信行 (つげ のぶゆき)

1949年静岡県生まれ。
共著『都市鎌倉と坂東の海に暮らす』 新人物往来社(品切れ)、『図説 家康の江戸』(絶版)、ほか。

西川武臣 (にしかわ たけおみ)

1955年愛知県生まれ。
著書『横浜開港と交通の近代化』 日本経済評論社 2,500円+税、共著『開国日本と横浜中華街』 大修館書店 1,700円+税、ほか。

保谷 徹 (ほうや とおる)

1956年東京生まれ。
編著『幕末維新と情報』 吉川弘文館(品切れ)、ほか。

※「有鄰」458号本紙では1~3ページに掲載されています。

『書名』や表紙画像は、日本出版販売 ( 株 ) の運営する「Honya Club.com」にリンクしております。
「Honya Club 有隣堂」での会員登録等につきましては、当社ではなく日本出版販売 ( 株 ) が管理しております。
ご利用の際は、Honya Club.com の【利用規約】や【ご利用ガイド】( ともに外部リンク・新しいウインドウで表示 ) を必ずご一読ください。
  • ※ 無断転用を禁じます。
  • ※ 画像の無断転用を禁じます。 画像の著作権は所蔵者・提供者あるいは撮影者にあります。
ページの先頭に戻る

Copyright © Yurindo All rights reserved.