Web版 有鄰

454平成17年9月10日発行

[座談会]俳句の魅力 川柳の魅力

神奈川大学教授/復本一郎
俳人・松の花主宰/松尾隆信
編集者・ライター/新垣紀子
本紙編集委員/藤田昌司

右から、新垣紀子・松尾隆信氏・復本一郎・藤田昌司の各氏

右から、新垣紀子・松尾隆信氏・復本一郎・藤田昌司の各氏

はじめに

藤田俳句は、芭蕉も「俳諧は老後のたのしみ」と言っているように、これまでは老人の文芸というような解釈をされていましたが、最近では神奈川大学などが中心になって、全国の高校生の俳句を募集し、これがたいへん盛況だということで、若い世代にも俳句のブームが広がりつつあります。しかも、これが日本だけではなくて世界的なブームになりつつある。一方、川柳も俳句同様、いま、若い人を含め、一般の人々に広く浸透しています。そこで本日は「俳句の魅力 川柳の魅力」というテーマでお話をうかがうことにしました。

俳句と川柳のルーツは室町時代と言われています。同じ五・七・五の、世界で最も有名な短詩型で、一如だと言われていますが、両者には違う点も、それぞれの主張もあるわけです。たとえば飯田蛇笏と川上三太郎の論争です。蛇笏があれも俳句これも俳句と言うので、三太郎がそれでは俳句の枠を決めてくれ、それ以外はすべて川柳とすると。

このように、形式は非常に似ているけれども、それぞれの自己主張をしながら発展してきた俳句・川柳の違いや歴史、また現在、どういう課題と取り組むべきかということを、それぞれのお立場からお話いただければと存じます。

ご出席いただきました復本一郎さんは、俳論史、俳諧・俳句史をご専攻で、現在、神奈川大学教授でいらっしゃいます。鬼ヶ城という俳号でご自身で俳句をつくられるのはもちろん、俳句や川柳に関するたくさんのご著書を執筆されております。

松尾隆信さんは上田五千石に師事され、現在は俳句会松の花を主宰されております。中村草田男が創設した社団法人俳人協会幹事などもつとめられておりますが、ご本業は税理士でいらっしゃいます。

新垣紀子さんは『月刊オール川柳』元編集長で、NHK文化センターの川柳講座の講師などをつとめていらっしゃいます。

室町末期に連歌の余興として誕生した俳諧がルーツ

藤田俳句と川柳のルーツは連歌ということになるのでしょうか。

復本はい。これをさらにさかのぼりますと和歌になります。和歌、連歌の担い手たちは上流階級の人々、お公家さんとか、位の高い武士とか僧侶で、室町末期に「笑い」の文芸である俳諧が連歌の余興として誕生します。正しくは俳諧の連歌と言いますが、その俳諧とは、「滑稽」「笑い」という意味ですね。

藤田すでに川柳の要素があるんですね。

復本江戸時代に入りますと、商人を中心とした庶民が徐々に力をつけてきます。それと俳諧という文芸が合致して、いわば、俳諧ブームが起こる。

その立役者が松永貞徳という人です。貞徳は、「俳言」という、和歌では使われない言葉、つまり俗語、日常語、あるいは漢語、そういったものを作品の中に盛り込むことで、俳諧性というものをもたらそうという主張をしたわけです。これが貞門俳諧です。これが非常にわかりやすかったので、人々がぱっと飛びつき、すそ野がだんだん広がって、ほぼ定着する。

それはそれでよかったんですが、言葉遊び的な要素が非常に強くなった。言葉に余りにも頼り過ぎているので、もう少し生活に密着したところで「笑い」の文芸というものを形象化し得ないかということで、西山宗因という人が談林俳諧という俳諧を起こしました。そのスターが井原西鶴です。

藤田『好色一代男』や『日本永代蔵』の小説の作者としてもよく知られている作家ですね。

復本西鶴によってかなり庶民詩としての色合いが強くなるわけですけれども、それでも今日的な意味での文芸作品としてはまだまだということがあって、そこに登場するのが芭蕉なんです。

「笑い」の文芸の中に寂しさを盛り込んだ芭蕉

復本それまでは「笑い」の文芸であったわけですけれども、芭蕉は、もう少し人間存在の寂しさとか、悲しさとかを「笑い」の文芸の中に盛り込めないかと考えた。そういうものを「笑い」のオブラートで包んで提供しようとしたのが芭蕉なんです。

恐らく芭蕉に強い影響を与えたのは、芭蕉が敬愛し心酔していました歌人の西行だったと思うんです。西行は、寂しさというものを追求した、『新古今和歌集』の中でも独自の歌人ですね。『新古今』の歌人、たとえば藤原俊成や、その子供の定家のように、妖艶とか、幽玄とかいった美を求めるのではなくて、西行はわかりやすい庶民的なものを歌にしています。

それで芭蕉俳諧というものが確立する。もちろんその後でも、従来の貞門とか、談林の俳人は同時並行的にたくさんいたわけで、芭蕉は当時、決して図抜けて今日のような形で評価をされていたわけではないんです。それでも芭蕉がなぜすぐれていたか。これは正岡子規と非常に似ていると思うんですが、優秀な弟子がいたんです。芭蕉と同じような方向を向いていた当時の俳人で、伊丹の鬼貫はほとんど弟子をとらなかった。やっぱり芭蕉には人間的な魅力があったんでしょうね。集まった弟子たちが、師の教えをどんどん喧伝する。子規も周りに高浜虚子とか河東碧梧桐がいて、子規の教えを広めたんです。

俳諧の発句が俳句に付句が川柳に発展

藤田俳句と川柳はどんなふうに分かれたんですか。

復本もともと俳諧の連歌は、今日のような五・七・五の文芸ではなくて、五・七・五・七・七、五・七・五・七・七とつなげていくものでした。芭蕉以前は百句が標準なんです。それが芭蕉の時代になりますと、越後屋の手代の野坡のような庶民が参加しますので、悠長に百句やっていられない。一日で終えたい。そこで一番都合のいい、歌仙形式と言う三十六句になる。その一番最初の、発句と言われているものが今日の俳句になったんです。

発句以外は必ず前の句があるわけです。五・七・五に七・七をつけたり、七・七に五・七・五をつけたりする。それを付合と言います。その付合の稽古として雑俳と言われるものが誕生する。その雑俳の中から出てくるのが川柳です。ですから、兄弟と言えば兄弟、ルーツは同じで、全く違いはないんです。

藤田前句付から川柳。

復本前句付と川柳は区別が難しいんですけれども、例えば「にぎやかな事/\」という七・七に五・七・五をつけなさいということで作品を募ります。

そうすると「ふる雪の白きをみせぬ日本橋」  にぎやかな事/\

お江戸日本橋は一番繁華な町ですから、どんなに雪が降っても人々の往来が激しいので、決して積もることはないというんですね。

このようにして集まった作品に、点をつけるというか秀句を選んでいく。当時、そういうことをした人はたくさんいるんですが、その選び方が非常にうまかったのが柄井川柳という人で、どんどん人気が出てきます。

それで、川柳の点のつけた秀句が「川柳点」と呼ばれた。それがいつの間にか「川柳」と言われるようになったわけです。川柳点のエッセンスが『柳多留』(呉陵軒可有編)です。

藤田「切りたくもあり切りたくもなし」に「ぬす人をとらへてみればわが子なり」というのもそうですね。

それが江戸から明治にかけて非常に盛んになり、現在も引き継がれている。

復本明治初めの川柳は、教訓的で陳腐きわまりないものが多いのですが、職人がつくった「正札に二言はないと士族店」、「顔に泥塗るなと左官子に教へ」などは、庶民の本音が聞けておもしろいですね。

月並俳句を糾弾し俳句の革新を図った正岡子規

藤田現在のようなかたちの俳句を確立したのが、正岡子規ですね。

復本子規の俳句は現代俳句のルーツと言っていいでしょうね。子規は、幕末から明治にかけての俳句を、月例の句会を催すことから「月並俳句」と名付けて攻撃したんです。月並俳句は、読者の感情よりも知識に訴えようとし、言語は緊密さに欠け、陳腐であると糾弾して、それを新聞『日本』に、明治25年ごろから約10年間にわたって発表し、自ら「新俳句」を誕生させたんです。

藤田そのころの子規の句には「水底に魚の影さす春日かな」とか「辻堂に火を焚く僧や夜の雪」がありますね。

復本一郎氏

復本一郎氏

復本一方、川柳の革新をするのは、子規の弟子で横浜出身の阪井久良岐という人です。川柳は江戸末期に、いちど堕落して狂句というものになる。これを批判した。もう一人、井上剣花坊という人がいる。この2人が、非常に仲が悪くて、お互いに攻撃し合ったのです。

久良岐は、川柳は風俗を詠む風俗詩だと言う。剣花坊は滑稽性、笑いの文芸だと主張して、それぞれの主宰する雑誌で盛んに論争する。これで川柳が復活したんです。

ちょうどそれが子規の俳句革新の後なんです。久良岐は子規のやり方をそばで見ていて、同じような方法論で川柳革新をやったんですね。

久良岐には「椅子にしたが裾が寒いと復すわり」、剣花坊には「人類学者便器を床にかざりつけ」といった川柳があります。

俳句は虚子によって市民の中に浸透

藤田子規の新俳句が高浜虚子に引き継がれ、『ホトトギス』が全盛になって、日本中で俳句が盛んになった。

松尾江戸時代には、町人が勃興したときに、俳句が隆盛になりました。明治は新しい四民平等、平民の時代で、俳句は平民感覚の詩だったんだと思います。虚子は、平民俳句時代を代表する、最も成功した人じゃないか。

復本虚子によって、俳句はより広がりを持って、市民の中に浸透していきます。ただ、虚子には権門志向というか、プライドがすごく高いところがあるんですよ。

松尾当時のエリート意識の頂点は東大ですね。今もありますけど、明治、大正、戦前は特に強かった。虚子はそういう東大や旧帝大の学生をつかまえていた。

藤田逆にその権門志向が『ホトトギス』の隆盛を招いたということも言えますね。

復本もう一つ、虚子が戦略的にうまかったのは、女性を俳句にいざなったということです。女性が初めて本格的に俳句にかかわるようになった。台所俳句という欄を『ホトトギス』に設けるんです。文芸の才能だけでなく、経営の才能もあったんですね。

客観写生という指導理念は虚子の戦略

藤田たとえば「遠山に日の当りたる枯野哉」というような有季定型、写生句ということを、虚子は非常に強調したわけですね。

復本客観写生と言いました。ですから読む素材が非常に制約される。自然諷詠と言いますから、自然に、自然にと向かうわけです。

ただし、それも虚子の戦略で、虚子自身が、これは方便だとはっきり言っているんです。いろんなことを言ったらお弟子さんは迷う。だから俳句は客観写生だと言う。でも自分はキャパシティーが大きいから、客観写生だけじゃなくて、主観的な句もたくさんつくる。非常に頭のいい人だと思います。戦略家と言えば戦略家です。

松尾主観を認めると、同じパターンの主観句ばかりになっちゃうんですよ。初心者の主観というのは全部同じなんですね。それを続けていたら、小主観の低レベルで常に行っちゃう。姿がはっきり見える客観のものをやれば、初心者はあるレベルまで行くんです。平均レベルはぐっと上がる。そういう意味ではすごい指導理念なんです。

客観写生に反発し虚子に除名された日野草城

藤田『ホトトギス』から除名された日野草城というのは、どんな人なんですか。

復本草城は、虚子が気がつかなかった部分、あるいは気がついても、恐らく俳句では無理であろうと思っていた部分に、ずかずかと入り込んで、ものの見事に形象化してしまったんです。それは、俳句に物語性を詠みこむこと、それからエロスを詠みこむということです。

「春の灯や女は持たぬのどぼとけ」、「白々と女沈める柚湯かな」という句があります。客観写生への反発が非常に強かったんでしょう。

藤田「わび」「さび」というのが、俳句の一つの常識になっているせいか、エロスや恋愛の句などというのは縁がないように思っていたんですが、芭蕉には「紅梅や見ぬ恋つくる玉すだれ」という句があり、また漱石にも「忘れしか知らぬ顔して畑打つ」という失恋の句があります。エロスというのもかなり大きな要素なんですね。

復本草城以降、とくにそうですね。

川柳人口を増やした西の岸本水府と東の川上三太郎

復本川柳では、『ホトトギス』と同じような大きな結社はどこがあるんですか。

新垣大阪に本部を置いている『番傘』です。3000人ぐらいいるそうです。

復本それは大きい。

新垣全国に支部がたくさんあるんです。今でこそ、多様な川柳がそれぞれを主張して、それが個性として輝くわけですが、「数は力なり」の時代が過去にはありました。番傘調の句が圧倒的ですが、同時に、それに対抗する少数派の活動も活発でした。

復本『番傘』の当時の主宰はどなたですか。

新垣西田当百で、次の岸本水府の代で大きくなりました。

復本『番傘』だけが、そんなに大きくなったというのは、どう考えられますか。

新垣水府は広告文案家、つまりコピーライターでしたから、人の心をつかむ表現に長けていたわけです。彼は、「誰にでもできそうで、できない句」を目指せと言いました。代表作「ぬぎすてゝうちが一番よいといふ」でもよくわかります。

また、伝統を踏まえながら新しいものを取り込んでいこうという「本格川柳」を掲げて、とても精力的に動いたんです。新聞やラジオといったマスコミに顔を出して、川柳のすそ野を広げる活動を熱心にした。彼の存在がやはり大きい。

復本新聞の川柳をやっていますね。

新垣紀子氏

新垣紀子氏

新垣はい。同時代に関東で活躍したのが川上三太郎です。三太郎は作家に合わせた指導の仕方をするんです。平均的に上げるという感じじゃない。それから女性を積極的に川柳に引き込んだ。女は女の句をつくっていいんだよと言ったんです。それ以前は男性と余り変わらない視点の作品が多かった。三太郎は作家を育てるのがとてもうまい人でした。

そこで育ったのが林ふじをという女性作家です。34歳の若さで亡くなって、川柳をつくったのも最後の3年ぐらいなんですけれども、三太郎のもとで、ものすごい才能を発揮しました。同時代には時実新子さんがいましたが、まったく同時といっていいほど、女を詠んだ句が発表されたんです。

彼女は不倫をしていたということもあってか、恋愛の句が多いんです。日記のように主観的な句を吐き出す。例えば「子にあたふ乳房にあらず女なり」というような句があります。

結社意識が薄くいろいろな句会で川柳をつくる

藤田川柳の会というのはどんなふうに運営されているんですか。

新垣俳句と同じで、毎月1回、2か月に1回というように、例会があるんです。

藤田それは何と言うんですか。

新垣句会です。結社は、それぞれが句会を開いていますが、俳句と違うところは、川柳家はいろいろな結社の句会を歩き回るんです。「僕は月に20回ぐらい句会に行くよ。」と言う作家も珍しくありません。

藤田川柳のいろんな結社に顔を出すんですか。

新垣そうなんです。道場破りじゃないですけど、いろんな結社を歩く。結社という枠で縛られていない。

復本結社意識とか、師弟関係が希薄なんですかね。

新垣自分が川柳をそこで気持ちよくつくることができれば、それでいい。作家たちの多くには、それが一番大事なわけです。結社意識は昔ほど強くありません。

復本例えば三太郎と林ふじをなんかは、師弟関係は密なんですか。それとも偶然というか、淡いんですか。

新垣偶然の出会いではあったけれど、ふじをは三太郎を師として仰いでいました。ただ、現代の川柳家たちを見ると、一般的に縦のつながりよりも横のつながりのほうが強いようですね。

滑稽、穿ち、軽みの川柳の三要素に反発する人も

『俳句と川柳』

『俳句と川柳』

藤田川柳のセオリーというのは、一般的には、軽みとか、ユーモアとか、諷刺とかというふうに理解されていますね。

新垣川柳の三要素としては、滑稽、穿ち、軽みが長く言われていたんですね。でも現代作家たちに言わせると、それは江戸時代の『柳多留』にある特徴でしょうと反発する方もいらっしゃるし、それをずっと伝統として引き続いている結社もある。あと五・七・五じゃないと川柳じゃないという結社もあります。

まず初心者が入ってきたときに、俳句と川柳の違いは何ですかと聞かれますね。そこで、俳句は自然諷詠ですよ。川柳は人間諷詠ですよという形で、大ざっぱに教えてあげる。私も雑誌の創刊準備をしていたときは、そういうふうに教えられたんです。

ところが、復本先生が『俳句と川柳』などの本の中で、切れの有無とか、穿ちということをおっしゃって、そこで川柳の定義って何だろうとみんなが考えたんじゃないかと思います。

俳句と川柳を明確に区別できるのは「切れ」の有無

藤田現代の俳句と川柳の違いはどう考えたらいいんでしょうか。草城は昭和27年に、川柳は「うなづかせる文学」であり、俳句は「感じさせる文学」であると述べていますね。

復本俳句と川柳って本当に難しいですね。

私としては、強引だけれども、あえて区別をするとしたら、切字、切れの有無というのが一番明確に俳句と川柳を区別し得るのではないかと思ったんです。

でも、それは私が言ったわけではなくて、両文芸の誕生そのものがそうなんです。芭蕉も、蕪村も、一茶も、みんな苦労したのは、俳諧の発句としてつくるときに切字を入れること、切れのあること。逆に、切れがあってはいけないところから生まれたのが川柳なんです。

今日、川柳でも切れがありますと、よく川柳作家の方が言われます。もちろん切れのある川柳はあるんですが、それは異端であって、原則的には川柳は切れがあってはまずい。その辺をもう少し認識してつくられたほうが、おもしろい作品が生まれるのではないかと思うんです。

「切れ」によって2つのイメージを1つの世界にする俳句

藤田俳句にとって、「切れ」は大変重要ですね。代表的な切字は、「けり」「かな」「や」などでしょうか。

芭蕉の「古池や蛙飛こむ水のをと」では、「や」が切れですけれど、これは「古池に」じゃないんですね。

復本ないんです。

藤田「古池に」では説明になってしまう。「古池や」と切れが入ることで、俳句としてのイメージが広がる。

復本そうなんです。「古池に」とやった途端に、それは俳句ではなくなって、川柳に近づく。

藤田この辺が俳句の非常に味わい深いところですね。切れがあることによって、俳句という短詩は世界的になり得たのかなと思うんですが、いかがでしょうか。

復本そう思います。広がりを獲得するということ、余情を獲得するということ。

松尾俳句は五・七・五の中にアクセントが2つあるんです。川柳は1つ。大きなキーワードといいますか、イメージとして2つのものが基本的に入っているのが俳句なんです。その2つのイメージがいろんな形でかかわり合って1つの世界をつくる。それが俳句だというのが、我々の考え方なんです。

俳句は一点から、客観的に突き放して見るのが川柳

松尾隆信氏

松尾隆信氏

松尾私の先生の上田五千石が、西東三鬼の「暗く暑く大群集と花火待つ」という句を挙げて、「大群集が花火待つ」じゃなくて「と」にすることによって初めて俳句になると言っています。

自分が大群集とともに花火を待つというのと、大群集が待つという2つのかかわりがある。あくまで俳句は自分中心につくるんだという考え方なんです。一点の自分を中心にして2つのイメージをつかまえる。「と」によって2つになっている。

復本それはありますね。

松尾五千石は、特に「今」「ここ」「われ」という主張でした。俳句には「われ」が入っていなきゃいけない。川柳については、「われ」の一点から攻めるんじゃなく突き放して見るのが川柳じゃないかと言っているんです。

新垣そうですね。どちらかというと、もともと川柳は客観性の強い文芸でした。

ですが、女性作家人口が増えたことによって主観の句も多くなったんです。女が川柳を堕落させたと言う人がいるぐらいで、男性もそれに感化された。

松尾「われ」の一点から物をつかまえるという原点から見れば、女の人の発想は俳句のほうに近いんです。

復本今、私が川柳を見ていておもしろいと思うのは、客観的な作品よりも、本音の作品ですね。俳句ってなかなか本音が言えない。川柳にはストレートに本音が言えるおもしろさがある。

松尾俳句は二元性というか、二重性があるんです。直接言わないところがある。

新垣川柳で、復本先生に対して反発した人は、切れというテクニックを積極的に使っている。飛躍のおもしろさを知ってしまった人たちは、今さら狭いところに縛らないでもらいたい。

復本私はだめとは言わない。そういう人は俳句にいらっしゃいと言うんです。

似た句を比較すると違いやおもしろさが見えてくる

復本三条東洋樹という昭和50年代ぐらいの川柳作家の「ひとすぢの春は障子の破れから」という句があるんです。いいですね。障子の破れから寒い北風が吹いていたけれど、ある日突然、ふっと、ああ春が来たというふうな。

ところが、同じ発想でこれを俳句にすると、江戸時代の一茶の「草の戸やどの穴からも春の来る」ということになるんです。まず「草の戸や」とやるんですね。草の戸というのは粗末な庵で、そこへ住んでいる私だから、春がどこから来るか気になる。そこで「どの穴からも春の来る」というふうに詠むんです。

これが俳句と川柳との大きな違いなんです。俳句では、何かをまず出しておいて、それに対してもう一つのイメージをぶつけるといいましょうか。

「ひとすぢの春は障子の破れから」はすごくおもしろいんですけれども、俳句的なおもしろさとは違う。こういうふうに似た句を比較していくと、俳句と川柳のおもしろさがわかってくるのではないかなという気がします。

松尾今、川柳も、俳句の雑誌に結構入っていますね。そこが現実には難しいところですね。「道とへば一度にうごく田植笠」とか、「風呂敷を解けばかけだす真桑瓜」などのような句は、俳句の世界でも今でもいっぱいつくられているんですよね。

藤田川柳なんですか。俳句かと思っちゃいますね。

新垣能村登四郎さんの俳句「子にみやげなき秋の夜の肩ぐるま」は川柳なんじゃないかと私は思うんですが。

復本「子にみやげなき秋の夜の」で切れる。そこまではスーと来て、「肩ぐるま」で発想がぽっと飛ぶ。その飛ぶのが俳句なんです。

新垣微妙ですね。これが川柳に出されたら、多分、川柳でとっちゃうんです。

復本限りなく川柳に近い俳句ではありますね。

今日的なものを即座に取り入れて詠むことができる川柳

川柳で乗り切る人生のデコボコ道

川柳で乗り切る人生のデコボコ道

藤田川柳は俳句よりも下のものという見られ方が強いですね。例えば『文藝年鑑』や文芸関係の辞書には俳句、俳壇についてはいろいろ解説が出ています。しかし川柳については残念ながら、『文藝年鑑』にも解説は全く出ていない。

新垣いいか悪いかは別にして、川柳は教科書に当然のようには載らないということがあるんです。

松尾これは大きいね。

新垣俳句や短歌については、授業中にすごく時間を割かれて、実際につくらされたりもします。受験に出る出ないというのもあります。川柳を「かわやなぎ」と読む人もまだいるんですよ。余りにも機会が少な過ぎるんだと思うんです。下に見るとかいうよりも、いい作品に出会う機会がない。

藤田しかし、どの新聞も川柳の欄がありますよね。

新垣ただ、ほとんどが時事川柳です。もちろん共感はします。けれども、文学的、詩的、主観的な句はほとんど取り上げられない。斎藤大雄さんの「人間が好きで失恋ばかりする」などは、作者自身のことかもしれないけれど、いい句ですよね。

藤田でも、我々の日常生活には、少なくとも俳句より川柳のほうが密着しているように思いますが。「親孝行したいときには親はなし」、これ川柳でしょう。

新垣ええ、古川柳です。作者名がつかないんですよ。川柳は無名性というのが弱点で、いい作品がひとり歩きしてしまう。それが良さでもあり、悪いところでもある。

松尾ことわざとごっちゃになっちゃう部分もありますね。

新垣いまだに人々の口から出てくるのは、江戸時代の川柳なんです。残念ながら現代の川柳が出てくることはまずない。

松尾川柳の方で、我々が知っているのは、ほとんど今は女の人ですね。時実新子さんとか大西泰世さん。それ以外の、我々が思う川柳らしい川柳というか、そういう人は個人名が浮かんでこない。

新垣先日、ルミネの有隣堂で、短詩型の棚を見たんです。俳句は大きな棚が五段あるんですが、川柳はそこに間借りしている。これは一般的な川柳観をよくあらわしていると思います。

本音のつぶやきでも息の長い作品ができるはず

復本私、この4月から産経新聞の川柳の選者をやっているんです。「テーマ川柳」と言うんですが、例えば「郵政民営化」というテーマに対して、「配達が若い女性に変わります」というような句がくる。

藤田これはいい。

復本非常にシニカルな鋭い視点ですよね。「女性専用車両」に対して、「お互いに品定めする専用車」。それから「クールビズ」には、「お仕着せのあわれ男のクールビズ」。業平の「昔男」ではなくて、「あわれ男」だよと。こういうシャキッとしたスパイスがよくきいていて、なおかつ今日的なものを即座に取り入れて詠むことができる。これは川柳のすばらしいところだと私は思いますね。

長い目で見ると、こういうものが今言われた無名性の中で人々におもしろがられて結構息長く残ったりする。しかし、今の川柳の革新的な人たちには、息の長さでは俳句のほうが上だという観念があるんです。自分たちの川柳は、ひょっとしたら消えていくのではないかという恐れ。だから、詩に、詩にと向かって行くんです。でも、そうじゃなくて、こういう本音のつぶやきでも、息の長いものってできると思うんです。

誰もが知っている「目には青葉山郭公はつ鰹」は俳句ですけれど、素堂という作者のことなんかほとんど知らないでしょう。「夕焼小焼のあかとんぼ負われて見たのはいつの日か」だって、作詩は三木露風と知ってる人は少ないと思うんですよ。それでいいと思う。そういう作品が人々の心をなごませる。何か豊かなものを残す。それは俳句でも短歌でもそうです。もちろん川柳もね。

作者が、自分の作品が残るかな、残らないかなと思いながらつくるっていやらしいですね。やっぱり人々に愛唱される作品が生まれるのは偶然の結果なんです。

松尾10年先、20年先に残る句は、ねらってできるものではないですね。

全国高校生俳句大賞には大人やプロにはない新鮮さが

藤田最近は若い人で俳句や川柳をやる人が非常にふえている。その中で特に、神奈川大学の主催で全国高校生俳句大賞というのを設定して、もう何年たつんですか。

復本今度で9年目で、北海道から沖縄まで、毎年200校以上、1万通近くの応募があります。

藤田これは非常に有意義な、しかも、ユニークなことだと思うんですけれども、特に若い人の俳句というものに提言はありませんか。

復本つくるということですね。私、授業で大学生に俳句と川柳をつくらせているんです。高校生でも、大学生でもそうですけれども、高校とか大学の授業、講義って受け身なんですよ。学生たちは、それに対して不満がある。でも、じゃあ君たちの思っていることを述べなさい。17文字に全部出しなさいと言われると戸惑うんですよ。しかしそれに慣れてくると、非常におもしろがる。

彼らの頭の中では、俳句なら「古池や蛙飛こむ水のをと」で止まっているんです。これは学校の授業や教材もいけないんだと思うんですが、一生懸命つくってみると、自分の喜びとか悲しみとかを17文字で結構表現できる。そのきっかけを与えたという点では、神奈川大学の試みは評価されていいのではないかという気はします。事実、大人では全然できない作品ばかりです。ですから、大岡信さんもおもしろがって、朝日新聞に10日間ぐらいにわたってずらっと紹介してくださった。

松尾破格の扱いですね。

復本大人の俳人、プロの俳人にはないものがある。例えば「母の弾くショパンは昏し桜桃忌」、いいでしょう。

藤田感性がいいですね。

復本お母さんは恐らく太宰治が大好きなんでしょう。それでショパンは大体明るいものだけど、「桜桃忌」にはお母さんが太宰のことを思いつつ弾くからショパンがどことなく昏くなる。

藤田女性ですか。

復本そうです。第4回の青森県立三本木高校2年生の江渡華子さんの句です。

藤田可能性が大きいですね。

復本大きいです。それから、そうやって俳句に接した若い人たちが、神奈川大学に授賞式で集まるんですが、お互いにコンタクトをとって交流が続いているんです。今、パソコンですぐできますからね。これもやっぱり時代のせいかもしれません。

寺山修司さんは非常に積極的で、『牧羊神』という雑誌をつくって、全国のこれはと思う高校生に手紙を書いて、俳句のグループをつくった。今はそれがメールで簡単にできる。若い人たちがある意味でエリアを超えて広いつながりを持っている。

川柳も俳句もプライドを持ってそれぞれのよさを追求

藤田俳句と川柳の間は近くなりつつあるのか、それともますます違うほうに行っているのか……。

復本微妙です。微妙ですけれども、せっかく俳句を、あるいは川柳をおつくりになるんだから、プライドを持っていただきたい。それぞれのよさを追求していただきたいんですよ。接近して、どうでもいいじゃない、それは読者に任せますというのじゃなくて、川柳をつくっているなら自信を持って、まず自分が川柳を愛さなきゃいけない。読者もこれが川柳なのかとそのよさをしみじみと味わう。俳句も同じです。そうあるべきだと私は思うんです。

松尾芭蕉の言葉で、「俳句は門人の中、予におとらぬ句する人多し、俳諧においては老翁が骨髄」というのがあります。発句は自分よりいい句をつくる人もいるけれど、付句、つまり川柳のもとですね。それについては、私の右に出るのはいないというんです。いろんなとりようがあると思うんですけど、芭蕉は両方にすごいんですよね。

復本両方にすごいです。

松尾すごいプライドを持っていた。もちろん両方合わせての俳諧という意味でのプライドでもありますけれど、自分は発句だけじゃない。発句よりも平句、付句のほうでもっとすごいんだと。何かその辺のものを、川柳もちゃんと芭蕉とつながってもいいんのではないかという気はしますね。

発句性を大切に一番格の高い本格俳句を目指す

菊白し

菊白し

松尾先ほど、本格川柳という話がありましたね。本格俳句という言葉を飯田龍太が言っているんです。同じつくるなら、本格俳句をつくりたい。俳句なら俳句の一番いいもの、川柳なら川柳の一番いいものは何だろう。それを目指さないのはもったいない。それを目指してつくるということでしょうね。

藤田松尾さんが主宰されている「松の花」の主張は、「眼前直覚」、それから「今・ここ・われ」の3つの要素ですね。これを継承しつつ、風姿のある作をつくるということをおっしゃっている。

松尾「おにをこぜ徹頭徹尾おにをこぜ」という句があります。ちょっと生真面目過ぎますけど、「おにをこぜ」と「徹頭徹尾」だけですから覚えやすいかな、という感じで売りにしています。とにかく「眼前」を大事にしたい。

それは発句性を大事にしたいということで、俳句の中では、発句の伝統を引き継いでいるものが一番格の高い本格俳句だと思います。幅は広くていいんですけれども、やはりそれを目指すのを忘れてはいけない。俳諧の発句のもともとは、その場での挨拶なんです。その場の皆さんに対して、その場のものをとらえて挨拶をするということ。つまり眼前、その場というのが大事なんです。

藤田代表作をいくつかあげていただけますか。

松尾例えばエロスのほうで言うと「舌のみは肉の色して雪女郎」。あと、笑いはいろいろな笑いがあって、大岡信さんの『折々のうた』で紹介していただいた「人が生き返る映画や四月馬鹿」。これは俳謔があるといわれたんですよ。まさに、四月馬鹿(エイプリルフール)の句なんです。

川柳に触れる機会をふやしたい

藤田新垣さん、川柳の今後についてはいかがですか。

新垣昭和30年代だと思いますが、日本文化を海外に広く紹介したR・H・ブライスが、日本人は俳句と川柳をもっと誇りに思いなさい、でないと、世界に通用しないですよということを書いているんです。今、俳句は世界的な文芸として認知されていますが、あるときアメリカで、川柳の雑誌を出そうとしたら、タイトルを俳句に変えられたという事実があるんです。

俳句じゃないと売れない。そういう現実があるのはなぜか、今の川柳をつくっている人たちは考えなきゃいけないと思うんです。書店の棚を見れば一目瞭然ですね。そうしないと、無意識のうちに川柳が一段低く見られているという状況は変わらないと思うんです。ですから、いろんな種類の川柳があることを知ってもらう機会をどんどんつくっていくべきです。今年誕生した川柳学会の活動も楽しみです。

俳句も川柳も多様性を持つ文芸として楽しむ

復本重要なのは多様性ですね。多様性という問題は、俳句でも、川柳でも非常に難しいと思います。ですから、私は、俳句でも川柳でも多様であるということを承知しつつ、だけど、多様、多様と言っていたのでは焦点が合わないので、あえて「切れ」ということを持ち出しているんです。しかし、川柳も俳句も多様性が非常にある文芸だということは、きちんと認識しておかなければいけない。これが俳句だ、これが川柳だということは、非常に言いにくいのが現状だとは思います。

読者の人たちは、自分に合う俳句、自分に合う川柳を選択して味わう。鑑賞する。それでよろしいのではないかなと思いますね。

藤田ありがとうございました。

復本一郎(ふくもと いちろう)

1943年愛媛県生れ。
著書『俳句と川柳』講談社現代新書 740円+税、『日野草城』角川学芸出版 2,800円+税、ほか多数。

松尾隆信(まつお たかのぶ)

1946年姫路市生れ。
句集『雪渓』 牧羊社、『菊白し』 本阿弥書店(いずれも品切)ほか。

新垣紀子(しんがき のりこ)

1970年大阪生れ。
著書『恋川柳』 はまの出版 1,300円+税、『川柳で乗り切る人生のデコボコ道』 はまの出版 1,500円+税、ほか。

※「有鄰」454号本紙では1~3ページに掲載されています。

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