Web版 有鄰

451平成17年6月10日発行

—野口雨情没後60年—
「青い眼の人形」と「赤い靴」 – 特集2

長田暁二

野口雨情は「十五夜お月さん」「船頭小唄」「磯原節」など、民衆の心をうたった沢山の童謡、流行小唄、新民謡を書き残した。昭和20年(1945年)1月27日、疎開先の宇都宮市西郊外の鶴田町で62歳で逝去したから、今年は没後60年になる。そこで雨情作品の中でも、横浜とは切っても切れない縁の深い「青い眼の人形」「赤い靴」にスポットをあててみた。

時代の先端をゆくアイドルだった青い目の人形

「青い眼の人形 ネリー」

「青い眼の人形 ネリー」
「横浜人形の家」蔵

「青い眼の人形」は大正10年12月号の児童雑誌『金の船』に発表され、これに本居長世が長調に短調のアンコをはさむおしゃれなメロディをつけた。

第一次世界大戦後はアメリカ文化模倣時代で、「アメリカ」という言葉自体に神秘的な響きがあったというから、この歌がエキゾチシズムにフィットして広く流行したことは容易にうなづける。当時、青い眼の人形は時代の先端をゆくアイドルだった。雨情の三女、2歳の香穂子さんが、セルロイド製のキューピーと遊んでいる情景を見て心をうたれてこの詞を書いた。いかにも子煩悩の雨情らしい。この曲のヒットと共に、セルロイド製の青い眼の人形は、飛ぶようによく売れたという。

昭和2年3月、日米親善の架け橋として、全米各地から手作りの人形12,739体が集められ、文部省を通じて日本全国の幼稚園、小学校に贈られた。

人形は丈一尺(30.3㎝)あまり、着がえのドレスやオーバーコート、ハンカチ、靴下、それにベットまで備えてあり、一体一体がそれぞれ日本大使館のサイン入りパスポートを持ち、ポケットにたどたどしい日本語の手紙を入れていた。

「やさしい日本の嬢ちゃんよ 仲よく遊んでやっとくれ……」と呼びかけるように『平和は子供から』と、日米友好のシンボルとして分配された。このことがあって「青い眼の人形」の歌は更にフィーバーした。

関東大震災でアメリカ合衆国から受けた物資援助の答礼使として大正12年の師走、作曲者の本居長世、娘のみどり・貴美子の姉妹、尺八の吉田晴風などの一行が、横浜港の大桟橋から旅立った。ハワイやアメリカ西海岸を演奏旅行したが、可愛いふりそで姿で歌う本居姉妹は、「ホントウにお人形のよう」と多くの米国人の心をとらえ、各地でひっぱりだこだった。帰国後本居は、「『青い眼の人形』にいちばん拍手が多くて喜ばれた」と述懐している。

だが、太平洋戦争の戦局が日本に不利になった18年、なんの罪もない愛らしい人形は、校長を先頭に「アメリカ生まれのセルロイドは鬼畜米英の人形」といって、そのほとんどが「ひとがた」として火あぶりや竹やりで突きこわされた。それでも、善意の教師の機転や愛情で難をのがれた人形が、全国に210数体も保存されていたことが確認されている。そのうちの9体が50年振りに、ニューヨーク州ロチェスター市で開かれた人形展に出品され、米国の子供たちと対面した。

「赤い靴」の舞台は外国航路で賑わった横浜港

大正時代の横浜港大桟橋

大正時代の横浜港大桟橋

「赤い靴」は大正10年12月号の児童雑誌『小学女生』に発表され、本居長世の寂しげなメロディと相まって今も愛唱されている。歌の舞台になった横浜港の埠頭は、明治以来、外国航路の発着港として賑わった。赤い靴をはいた可愛い女の子が外国人に連れられてゆく様子に、「今では青い眼になっちゃって異人さんのお国にいるんだろう……」と、非現実的な発想をオーバーラップし、メルヘンチックなセンチメンタルに浸らせた。

明治初年から始まった日本人の海外移民は、錦を飾って故郷に帰ってくるという理想像があった。そのとき“孫や曾孫が一緒に帰ってきて、混血児になっているのではないか”という、明治・大正期の庶民感情にこの詞がフィットした。実際、ハワイやアメリカ西海岸の二世、三世になるとハーフが多くなり、姿形は日本人でも日本語が喋れず、思想感覚は完全にアメリカ人になっている人はかなり多い。何しろ「赤い靴」が発表された大正10年では、横浜・神戸のような国際都市以外では、異人さんを目にするのは珍らしかった時代である。

雨情がこの詞を産んだ背景には次のようなことが考えられる。先ず雨情が若い頃、尊敬していた詩人の児玉花外に孤児を歌った作品があり、その影響が内面で生きていた。次に、従兄で仲のいい野口茂吉が、25歳でアメリカに行ったまま帰ってこなかった。出帆時、雨情は茂吉を横浜港の大桟橋に見送ったことだろう。更に、鈴木志郎・かよ夫妻の実際にあった哀話にヒントを得た。この3つのことがクロスオーバーしてイメージを膨らませ、「赤い靴」を書いたと思われる。

アメリカ人宣教師の養女になった女の子がモデル

雨情は茨城県磯原町(現北茨城市)の故郷を捨て、明治40年に北海道に渡り、北鳴新報を皮切りに、新聞社を転々とする放浪の月日を送った。北鳴時代、同僚の鈴木と一軒の家を2人で借りたことがあった。

かよ夫人は旧姓を岩崎といい、明治17年、静岡県安倍郡不二見村(現清水市)に生れた。複雑な理由があって18歳で“きみ”という私生児を出産した。この女児が「赤い靴」のモデルになったといわれる。

2年後、かよはきみちゃんを連れて函館に渡った。そこで青森県鯵ヶ沢出身の農民運動家の鈴木志郎と知り合い、やがて2人は結婚した。開拓民として虻田郡真狩村(現・留寿都村)に開かれた平民農場に入植することになった2人に、幼児の面倒を見る生活の余裕など全くなかった。そこに偶然、函館に布教のためやって来た米人メソジスト派の宣教師チャールズ・ウェスレー・ヒュエット夫妻には子供がなく、きみちゃんを養女にして貰い、その将来を委せた。

ところが鈴木夫妻が開拓民として失敗し、札幌に出て北鳴新報社に勤めた折、雨情と知り合った。ある日、涙を流しながらきみちゃんのことを幸福になってくれるのを祈っていると、綿々と雨情に語った。

しかし、ヒュエット夫妻に帰国命令が出た。問題のきみちゃんは不治の結核に侵され、長い航路を乗切る体力はもうなかった。東京港区にある鳥居坂教会の孤児院に引き取られ、明治44年9月15日、9歳で亡くなった。青山墓地に「佐野きみ」として祀られ、アメリカには渡っていなかった。かわいそうな女の子はやはり薄幸だった。

昭和23年、かよが死ぬ直前に娘のそのさんに言い残した証言にもとづき、北海道テレビの菊池寛プロデューサーが6年がかりで調べあげ、ドキュメンタリー番組を作った。53年11月、テレビ朝日系列で全国放送された「赤い靴はいた女の子」(倍賞千恵子主演)がそれで、多くの人々の感動を呼んだ。

「赤い靴はいてた女の子」像

「赤い靴はいてた女の子」像
横浜・山下公園

これより先の51年6月から、横浜育ちの古美術商の松永春さん達が「コペンハーゲンの人魚像や、ブリュッセルの小便小僧のような世界に誇れる観光名物を横浜にもぜひ作ろう!」と仲間に呼びかけた。すると5,000人あまりが発起人として署名し、像のテーマは横浜の埠頭がはっきりと歌詞にある「赤い靴」にすんなり決まった。松永さんを代表者にして「童謡赤い靴を愛する市民の会」を結成、4年がかりで1千万円の建設資金集めをした。

54年11月11日、横浜市中区の横浜港が見渡たせる山下公園に「赤い靴はいてた女の子」像が建てられ、雨情や本居の遺族、細郷道一横浜市長ら関係者160名が参加して賑やかに除幕式が行われた。像は藤沢市在住の彫刻家山本正道氏の制作になるもので、船をつなぐピットに腰をかけたおさげ髪の少女のブロンズ像が水平線の彼方をじっと見つめ、何ごとかもの思いにふけっている。

“考える”という歌詞があるので、山本さんは「考えるには坐る姿勢が自然だと思った」と述べている。人形の高さ60㎝、台座を含めて1m50㎝の像は、ドウダンツツジやツゲなどの生け垣に囲まれていて、今や港町横浜のシンボル的存在になっている。

子供が口に出せない悲しみを巧みに代弁

雨情は「青い眼の人形」と「赤い靴」を、同年月に別々の雑誌に発表している。この2つの作品の共通点は交通網、交信網の発達した現代ではもはや想像すらつかないだろうが、太平洋の大海原に対する氷のような冷たさ、謎を秘めた恐ろしさ、空白感である。四面を海に囲まれた日本で、海の向こうに連れられていくことは、永遠の別れに等しい大事件と思われた時代が、この童謡を産んだ。

「赤い靴」歌詞の第四節“考える”のリフレーン(繰り返し)には、子供の発想ではないような悲しさがある。雨情が放浪生活時代に体験した人生の軌跡がしみこみ、故郷に残してきた子供に対する熱い目がかくされているように思われる。いずれにしても「青い眼の人形」「赤い靴」の2つの童謡は、子供が口に出せない悲しみを雨情が巧みに代弁している。だからこれからも、日本人の心にそっとしのびこんでくるやさしさに魅せられ続けるのである。

長田暁二
長田暁二 (おさだ ぎょうじ)

1930年岡山県生まれ。音楽文化研究家。
著書『日本のうた大全集』自由現代社 2,800円+税、『歌でつづる20世紀』 ヤマハミュージックメディア 1,800円+税、ほか。

※「有鄰」451号本紙では4ページに掲載されています。

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