本井 英
かつて「世界大戦」と呼ばれる戦争が2回あった。1914(大正3)年から1918(大正7)年にかけての「第一次」と、1939(昭和14)年から1945(昭和20)年にかけての「第二次」だ。世界中の殆どの国を巻き込んだ「世界大戦」。
この2つの「大戦」の狭間の20年こそ、ぽっかり現れた束の間の「佳き時代」。日本の客船がインド洋・地中海を辿って欧州へ、太平洋を東へ進んで北米へと多くの旅客を運んでいた時代だ。
その旅客の中に俳人高濱虚子の姿が見られたのは、昭和11年春、日本発の日本郵船「箱根丸」であった。高濱虚子は明治7年、伊予松山に生まれ、同郷の先輩正岡子規の薫陶を受けて文学の道に進んだ。子規の主張する近代文学としての俳句の担い手として活躍、子規没後は俳誌「ホトトギス」を率いて俳壇をリードした。多くの後進を育て、昭和3年の「花鳥諷詠」の提唱に至って完成された生涯の文学理念を得た。その後、世界大戦を経て昭和34年に没している。
昭和11年虚子渡欧の直接的な目的は、当時フランスに留学中であった次男池内友次郎を訪問することであったが、併せて西洋の様々な文物に触れるのも悪くない、といったものであった。
また大正後期から虚子を囲んだ若き俳人の中に比較的インテリ層が増えてきたことも見逃せない。三高・京大俳句会、あるいは東大俳句会には医師・学者が少なくなく、彼等の何人かは既に欧州などへの留学を果たしていた。例えば虚子が最も可愛がった弟子の一人、高野素十は医学者として昭和7年、ドイツ、ハイデルベルクへ留学同9年に帰朝している。その素十が「ホトトギス」へ投句してくる欧州吟は選者虚子の想像力を様々に掻き立てたことだろう。
入港や汚く黒き蝶来る 素十
夕月に甚だ長し馭者の鞭 々
雪片のつれ立ちてくる深空かな 々
春泥に押しあひながら来る娘 々
「選は創作なり」と虚子は言った。即ち、他人の俳句を選するとき、選者の側にも創作力が働く。それには選者の手持ちの「ファイル」の中の景を一句の解釈・鑑賞に当て嵌める。
前出のような句に接したとき、虚子は日本でもあり得る景ながら、欧州のそれはまた異なった趣であろうことを強く感じていたに違いない。選者としては若干「もどかし」かったであろう。現今の如く、様々の映像媒体によって世界中の様子が眼前のもののように理解出来る時代ではなかったのだ。
隠された虚子渡仏の動機。120日の旅に出たもう一つの動機に、素十や友次郎の作句の現場を確認することで選者として納得しておきたいものがあったのではあるまいか。欧州一周の旅中、ケルンからベルリンに赴くに当たって、わざわざハイデルベルクを経由するには、それなりの執着心がなければならない。
遅まきながら、ここで昭和11年に高濱虚子の辿った旅程を紹介しておこう。
2月16日、 | 箱根丸、横浜解纜。 |
24日、 | 日本各港を経由して上海着。 |
28日、 | 香港着。 |
3月 4日、 | シンガポール着。 |
6日、 | ペナン着。 |
10日、 | コロンボ着。 |
17日、 | アデン着。 |
21日、 | スエズ上陸。 陸路カイロへ。 |
22日、 | ポートサイドにて再乗船。 |
27日、 | マルセーユ着。 |
28日、 | パリ滞在(4月18日まで)。 |
4月18日、 | アントワープ着。 |
20日、 | ケルン着。 |
21日、 | ハイデルベルク着。 |
22日、 | ベルリン滞在(27日まで)。 |
28日、 | ロッテルダム経由、ロンドン着。 滞在(5月6日まで)。 |
5月 6日、 | パリ着(7日まで滞在)。 |
8日、 | マルセーユ着。 箱根丸に乗船。 |
13日、 | ポートサイド着。 |
24日、 | コロンボ着。 |
30日、 | シンガポール着。 |
6月 4日、 | 香港着。 |
6日、 | 基隆着。 |
8日、 | 上海着。 |
11日、 | 神戸着。 |
15日、 | 横浜着。 |
全行程約120日、往路40日、欧州滞在40日、帰路40日、というのが大凡のところである。
さて道中、いくつかのエピソードを紹介しながら虚子の中の「東洋と西洋」に思いを馳せてみよう。
まず「パリでの虚子」。この旅の一つの目的に次男友次郎の生活ぶりを見る、というのがあったことは、既に述べた。そこで同行の六女章子ともどもホテルではなく、友次郎の下宿に一緒に住み込むことになる。
そしてパリでの約3週間の滞在。その間、虚子は多くの時間を「ホトトギス」の雑詠選句に当てている。近くのシャン・ド・マルス公園まで散歩することはあっても、ルーブル美術館を見て廻ったり、ベルサイユ宮殿を訪れたりしてはいない。ましてやロワール河やモン・サン・ミッシェルを見物するなど思いもよらなかったようだ。
今の、或いは当時でも普通の日本人なら憧れの西洋文明の様々の宝物を見て日本への土産話にしようとするだろう。ところが虚子は全くそういう行動をとらないのだ。
実はロンドンでもそうだった。ナショナル・ギャラリーを訪れるには訪れたのだが、
「伊太利のレオナルド・ダ・ビンチや、ラフアエルや、ミケランゼロを始め、多くの画家のものが沢山あつたが、一寸見ただけでは皆同じものゝやうに見えた。(中略)半分許り見て、草臥れたので外に出た」(『渡仏日記』より)
兎にも角にも「西洋」を学んで「西洋」に追いつかなければならない、という近代日本人の「哀しい」症状が、全く無い。この虚子の無関心ぶりを聞いた、当時朝日新聞ロンドン特派員だった古垣鐵郎は虚子の止宿先を訪れ、再びナショナル・ギャラリーへ伴い、さらにテート美術館にも誘掖して西洋絵画の素晴らしさを説くのだが、
「殊にゴツホの絵は、子規の晩年に病床で書いた写生画を思はしめるものがあつた。その他いろいろなものを見たが、見る傍から忘れていつた。」(『渡仏日記』より)
という結果に終わった。
例えば同じ俳人でも水原秋桜子の如き、近代日本の「インテリゲンチャ」なら随喜の涙を流して様々に「論じ・書く」場面で、虚子は「全く」或いは「敢えて」反応しないのだ。
この「態度」については、さまざまに解釈することが出来る。「哀れむべき無教養」とも「妙に捻れた日本主義」とも。そして筆者の想像では、虚子は独特の「直観力」によって、自らの花鳥諷詠の立場と、西洋のキリスト教的人間至上主義の間に大きな隔たりを嗅ぎ取ったのだと思う。
花鳥諷詠とは。「花鳥風月を諷詠することで、一層細密に云へば、春夏秋冬四時の移り変りに依つて起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂であります」と虚子は言う。天地の運行を司る「造化」の営みの、一つの現れとしての季節の変化を賛美するといっても良い。
草木虫魚と同じように人間もまた生かされていると認識する態度。神が造った「アダム」によって命名された「花や鳥たち」と、人間と同じ資格をもって開落し去来する「花や鳥たち」の違いと言っても良いだろう。
高濱虚子にも漠然と西洋に憧れた時代はあった。例えば明治32年初夏、大腸カタルの予後を伊豆の修善寺で養った折りの写生文「浴泉雑記」では、修善寺をエデンの園に擬したりしている。普通の明治の青年らしく素直に西洋やキリスト教を眩しく仰いだ時代もあったのだ。虚子の中の「東と西」の距離。この問題は殆どすべての日本人の心の中にもある。
ところで、本年3月5日から8月28日まで、横浜の馬車道近く、日本郵船歴史博物館で「昭和11年 欧州への船旅−高濱虚子『渡仏日記』より−」という企画展が催されている。
虚子の辿った行程や、往時の写真などで、見る者を70年前の「佳き時代」へと誘ってくれる。また虚子の持ち歩いたトランクや章子さんのチャイナドレスなどの「お宝」も楽しい。就中、その折りの航海日誌が展示されているのは大変興味深く、虚子の旅吟と実際の天候等を並べて解釈することは、丁度「奥の細道」と曽良の「随行日記」を比較する興味にも似ていよう。
※「有鄰」450号本紙では4ページに掲載されています。