Web版 有鄰

450平成17年5月10日発行

[座談会]戦後60年 話題になった本・あれこれ

作家/黒井千次
上智大学教授/植田康夫
文芸評論家/清原康正
文芸評論家・本紙編集委員/藤田昌司

右から清原康正・黒井千次・植田康夫・藤田昌司の各氏

右から清原康正・黒井千次・植田康夫・藤田昌司の各氏

はじめに

藤田ことしは戦後60年という節目の年に当たります。戦後の日本人の精神形成には、読書、本が大きな役割を果たしてきたと思います。今日は、昭和20年代から40年代に重点を置いて、我々はどんな本に影響を受けたかという話を伺いたいと思います。

ご出席いただきました植田康夫さんは、上智大学教授で、日本出版学会会長をおつとめになっておられます。

清原康正さんは、大衆文学を中心に、あらゆる分野の文芸書に精通しておられる文芸評論家でいらっしゃいます。

黒井千次さんは、日本文芸家協会理事長、近代文学館副理事長をおつとめで、「内向の世代」を代表する作家でいらっしゃいます。

アメリカによる占領のための日本研究――『菊と刀』

ベネディクト 『菊と刀』

ベネディクト 『菊と刀』
社会思想社

藤田昭和20年8月15日に日本の敗戦で戦争が終り、その1か月後の9月15日には、早くも『日米會話手帳』というパンフレットと言ってもおかしくないような本が出て、これが空前絶後と言ってもいいほどのベストセラーになりました。しかし、これは本当にバブルのような本でした。

21年に森正蔵の『旋風二十年』が出ました。これは、戦時中、言論弾圧で抑えられていた真相を書いたもので、これも大きな反響を呼びました。真相はどうだったのかということを非常に知りたがったんですね。

そうした中で我々に一番大きな衝撃を与えたのは、23年に出たルース・ベネディクト女史の『菊と刀−日本文化の型』ではないかと思うんですが……。

植田あれは、アメリカのすごさを認識させる本でしたね。アメリカは戦争中から、日本を占領したときにはどのように統治すればいいか、ということを考えていて、戦時情報局が日本人研究を組織的にやらせたわけです。

その成果が『菊と刀』なんですね。日本は戦時中は英語は敵性語ということで、英語の本は全然読めなかったのですが、アメリカの場合には、逆に戦争が終わる前に日本はどういう国なのか、日本人はどういう民族なのかということを研究して、それから日本を占領するわけです。

それに比べて、今、イラク戦争に関してアメリカは、イラクについてどれだけ研究していただろうかなという感じが逆にありますね。

日本の文化を“恥の文化”と規定したベネディクト

藤田ルース・ベネディクトは日本に来たことはなかったんですね。

植田そうです。まさに文献による研究なんです。この本は日本人論として大きな影響を与えましたが、『風土』という著書で日本と西欧の違いを論じた和辻哲郎が『埋もれた日本』で『菊と刀』を厳しく批判しています。この本には学問的な価値はなく、局部的な事実だけで日本人全体の性格を見ていると指摘し、あの本は日本人の本当の性格はあらわしていないんだと、非常にきつい批判をやっています。

藤田『菊と刀』では、日本の文化は“恥の文化”であり、欧米の文化は“罪の文化”である、と言っている。戦時中でも生きて虜囚の辱めを受けるなかれ、というのが日本人のモラルだった。

歴史的に見ても日本人は義理とか恩とか恥というものを非常に大切にした。そういうように他者からの評価を行動の基準にしており、キリスト教的な罪の意識に欠けていたとずばり言われて、なるほどなと思いました。衝撃的でしたね。

外国人が日本人をどう見ているかを意識させた最初の本

植田『菊と刀』は、アメリカが日本に進駐するための一つの手段として研究されたものだったけれど、実は『日米會話手帳』と『旋風二十年』は、逆に日本人がアメリカに対してどう対処するかという本だった感じがするんです。『日米會話手帳』の誠文堂新光社の創立者の小川菊松さんも、『旋風二十年』の鱒書房の創立者の増永善吉さんも、2人とも玉音放送を聞いて、進駐軍を迎え撃つ立場としてすぐ企画をした。これはすごいと思うんです。

清原『菊と刀』について言えるのは、外国人が日本人をどう見ているかということを、日本人が意識し始めたということだと思うんです。それが後の『日本人とユダヤ人』などにつながっていく。

戦後社会学の発展の中で、『菊と刀』はすごく大きな存在だったし、それに対して、かくてはならじというので、和辻哲郎や柳田民俗学を、という意識は当然あるわけです。ほかの国から見た自分たちを、日本人が気にし始めた戦後の一番最初の本だなという感じはありますね。

表現の自由を得て作家のエネルギーが爆発

谷崎潤一郎 『細雪』

谷崎潤一郎 『細雪』
中公文庫

藤田昭和20年代前半は、戦時中、表現の自由を抑えられていた作家たちが書いたものが次々にベストセラーになります。例えば谷崎潤一郎の『細雪』。これは戦時中、密かに書きためていたものでした。それから、言論弾圧されて書けなかった石川達三とか。エネルギーを爆発させるような形で書き始める。

植田『細雪』は『中央公論』で連載を始めていたんですね。それが戦時中に中絶させられてしまった。それを中央公論社が谷崎の生活をずっと支えて、書かせるわけです。

清原『細雪』は、21年から23年にかけて上・中・下巻が次々に出て、それで24年に普及版が出てワアーッと火がつくんです。戦時中には軍部から不要の文学とされて、潜伏していた。それが谷崎の中で爆発して書き上げたんですね。

藤田言論弾圧で真相が日本人に伝えられなかったという意味で話題になったのは、『きけわだつみのこえ』じゃないですか。学生が動員されて特攻として死んでいった。戦時中の学生はこんなにひどい目に遭ったのか、戦後の解放気分に浸っていられないという刺激がありましたね。

植田『きけわだつみのこえ』もそうですが、21年の尾崎秀実の『愛情はふる星のごとく』も大きな存在だと思うんです。戦争体験、反戦といった、戦時中には絶対に書けなかったものを書いた。

左:日本戦没学生記念会『きけわだつみのこえ』右:尾崎秀実『愛情はふる星のごとく』

左:尾崎秀実『愛情はふる星のごとく』 岩波現代文庫 右:日本戦没学生記念会『きけわだつみのこえ』 岩波文庫

清原永井隆博士の『この子を残して』とか、『長崎の鐘』など原爆に関する本も出てきますね。

フィクションでは『斜陽』が23年に出てベストセラーになって、太宰治ブームが起きて、“斜陽族”という言葉が出てきた。文学作品が流行語を生み出した。その後の“よろめき族”や“太陽族”もそうですし、文学、小説というものが社会的な現象になっていく。

知識というか、そういうものに対して、ものすごい飢餓状況があって、抑えられていたものが一挙に解放される。そういう解放感みたいなものがあったと思うんですよ。

藤田太宰のブームと表裏一体の形で思い浮かぶのは坂口安吾の『堕落論』ですね。人間は戦争で負けても、結局本質的に変わってないじゃないか。特攻だった兵士は帰ってきてヤミ屋をやっているじゃないか。女性は娼婦のようなことをやっているじゃないか。人間はとことんまで、人間の本質的なところに堕落しなければいけない。堕落せよ。誠実に堕落せよというのが大きな影響をもたらした。

黒井昭和20年代に野間宏、武田泰淳、梅崎春生、椎名麟三といった第一次戦後派が出てきた。あそこら辺が、いわば現代日本文学という感じですね。田村泰次郎の『肉体の門』が出て評判にもなった。

清原昭和10年代に、すでに活躍していた作家たちですね。その人たちが戦争中に活躍できなくて、戦後になってその本領を発揮しはじめる。

“国民文学”といわれた吉川英治の『新・平家物語』

藤田忘れてはならないのが昭和25年からの吉川英治の『新・平家物語』です。

清原明治の横浜に生まれた吉川英治は、戦前から『宮本武蔵』などで爆発的な人気を得ていた作家ですが、戦後は筆を折っていっさいの作家活動を止めていました。連載は、朝鮮戦争が勃発した年に始まり、連載の時期は戦後経済が次第に復興してくる時期と重なっています。

この小説は清盛や義仲、義経らに光を当てていますが、それも歴史の流れに浮かんでは消えていく運命の中でたどられているに過ぎず、主役は時の流れそのものであり、そうした描写の中に権力の魔力という問題を浮かび上がらせている。

栄華を誇った権門も武将たちも消えて、あとは無力な庶民だけが生き残ったことが描かれている。これこそが戦争をくぐりぬけた吉川英治の言いたかったことで、国民文学とさえいわれるくらい、幅広い読者を獲得した。

裁判でわいせつ文書とされた『チャタレイ夫人の恋人』

ロレンス 『チャタレイ夫人の恋人』・表紙

ロレンス 『チャタレイ夫人の恋人』
新潮文庫

藤田昭和25年にロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』が出て、すぐ発禁になり、裁判になって、昭和32年に有罪が確定する。これは衝撃的な本でしたし、大きな事件になりましたね。

清原6月に朝鮮戦争が勃発して、7月にレッド・パージがあった時期ですね。

藤田激動の時期です。

清原『チャタレイ夫人の恋人』と同時に、ノーマン・メイラーの『裸者と死者』もありましたが、チャタレイ裁判のほうには、翻訳者の伊藤整さんなど多くの文学者がかかわりましたね。

藤田それをきっかけにして、伊藤整ブームも起きた。『女性に関する十二章』とか『文学入門』とか。

伊藤整 『文学入門』・表紙

伊藤整 『文学入門』
講談社文芸文庫

『チャタレイ夫人の恋人』はすばらしい文学書だと思います。たしかに、読んでいてときめいたところもありますよ。だけど、ときめいたから悪いというものじゃない。やっぱり文学です。

昭和20年代でもう一つ言うと、非常にきれいな小説、川端康成の『千羽鶴』が出ていますね。これは後のノーベル文学賞の受賞にも大きく影響をしたと思います。

清原『千羽鶴』は昭和27年に10万部も出ている。大ベストセラーですね。

サルトルの『嘔吐』は新鮮なインパクト

藤田大衆小説では石川達三の『望みなきに非ず』。みんな戦争に負けて失望しているときに『望みなきに非ず』と言う。昭和28年ごろには『光ほのかに』(のち『アンネの日記』と改題)、『星の王子さま』がありますね。

清原ボーヴォワールの『第二の性』も。

藤田『光ほのかに』は、真相はどうだったのかということの延長の本ですね。ヨーロッパでのユダヤに対する弾圧も我々は知らされていなかった。そんなひどいことがあったのかということで、かなり話題になりました。

黒井サルトルの全集もそのころでしょう。あの中に、『嘔吐』が入っていたんじゃないですか。

藤田『嘔吐』が単行本で出たのが21年ですね。新鮮なインパクトがあった。

黒井僕の学生時代に、サルトルはすごくはやりましたね。余りよくわかっていなかったけど、みんな読んでいるから読まなきゃいかんと一生懸命読んだ。

藤田『星の王子さま』は思想的な影響があったわけではないけど、戦後の混濁した時代に、我々の心を洗い流すような物語でした。

清原あれは1960年代半ば以降に絵本になって、すごいブームが来るんです。そのころの大学生たちは、フランス語版の絵本を小脇に抱えてキャンパスを歩くというのがファッションだった。

“太陽族”を生んだ石原慎太郎『太陽の季節』

石原慎太郎 『太陽の季節』・表紙

石原慎太郎 『太陽の季節』
新潮文庫

植田30年代で言うと、やっぱり光文社のカッパブックスですね。その端緒をつくったのは伊藤整なんです。

昭和29年に『文学入門』を出すとき、最初は新書ではなく四六判で出す予定だった。

それに対して伊藤さんが新書判でやってくださいという注文をつけて、そうなったんです。

黒井あれはカッパブックスですか。

植田カッパブックスの第一回配本なんですね。『女性に関する十二章』は中央公論社で、『文学入門』はカッパブックスなんです。

昭和30年代は、まさにカッパと、岩波新書が席巻するわけです。

清原31年に経済企画庁が『経済白書』を出しますね。「もはや戦後ではない」と。それから大衆社会状況が始まっていくわけです。その最大の特色は31年の石原慎太郎の『太陽の季節』でしょうね。

このあたりから文学賞がショー化し、戦後の文学時代も変わってくる。作家のタレント化が始まるとか、今の文学状況がつくり出されてくる。

植田芥川賞も昭和29年の吉行淳之介さんや30年の遠藤周作さんのときなど、授賞式も簡単で、ニュースに取り上げられることもなかった。石原慎太郎、開高健、大江健三郎、このあたりから派手になっていった。

清原『太陽の季節』で、“太陽族”という言葉が生まれますが、“なんとか族”のはしりである“斜陽族”ぐらいのインパクトがあったし、“斜陽族”以上の社会現象があったと思いますよ。

鬱屈した青年が既成の権威に体当たりしていく。それがまさに社会現象そのものになっている。ああいう現象は、戦前にも戦後にもなかったんじゃないかという感じがありますね。

藤田文学の上でも、彼は“太陽族”でしたよ。

清原今の出版状況から考えると、割と幸せな時期で、一つの小説が、それまでの文壇なり、文学状況というものをがらっと変えることができる要素がまだあったということでしょうね。

今は、100万部売れようが評判になろうが、大ベストセラーを出すことによって文壇や小説界、現代小説の状況というものをがらっと変えるインパクトは余りないですね。

黒井一つの作品がということはなかなか言いにくくなっていますね。

不倫の愛を描く原田康子の『挽歌』は「よろめき」のはしり

清原石原慎太郎とか、もうちょっと後ですが、五木寛之が出てきたときだとか、時代が変わるという感じは、大衆小説というか、エンターテインメントの分野ではヒシヒシと感じましたね。

植田それと、原田康子の『挽歌』がビジュアルな形でブームになりましたね。釧路を舞台にヒロインの不倫の愛を描いた。

清原このころはすごいんですよ。31年の『太陽の季節』に続いて32年が『挽歌』。

藤田『挽歌』は一種のよろめきのはしりでしょうね。その次に話題になったのは、三島由紀夫の『美徳のよろめき』です。“よろめき族”という言葉が流行したぐらい読まれた。

それから性に関する小説が注目されるようになってきたのは、谷崎潤一郎の『鍵』ですね。そのきっかけをつくったのはやはり『太陽の季節』でしょうね。

植田そうですね。

『人間の條件』は週刊誌が取り上げベストセラーに

五味川純平 『人間の條件』

五味川純平 『人間の條件』
岩波現代文庫

藤田そのころ、我々は性に関する小説ばかりを喜んで読んでいたわけではなくて、五味川純平の『人間の條件』が大ベストセラーになっています。

学生時代、左翼だった青年が、自分は本音は戦争に反対なのに、軍にとられて満州に行って惨憺たる目に遭って、最後は逃亡しながら死んでいく。ラストシーンなんか哀れなくらいきれいですね。

清原33年にベストセラーのトップになって、最終的には250万部ぐらい売れたらしいんですが、刊行されてから2年間は、話題にもならず、全くと言っていいほど売れなかった。

植田『週刊朝日』がトップ記事にして、売れ始めた。週刊誌のトップ記事が一種の社会現象をつくった。

藤田編集長の扇谷正造がどうしても、と取り上げて、それで火がついたわけです。五味川純平は本当に喜んでいました。これは日本人の読書家にとっても非常にいいことだったと思います。

清原マスメディアというか、そういうものが火をつけた典型ですね。戦後ベストセラーの話をすると、必ずこれが出てくる。『挽歌』はムード広告ですね。女性がエルムの並木を歩いている。

そういうベストセラーのつくり方は、現在でもありますね。例えば、書店の店員がコピーを書いたらワアッーと売れていくとか、結構あるんです。本を広告で売る、そのはしりですね。

昭和30年ごろは剣豪小説のブームや第三の新人たちが輩出

清原30年代半ばから、『週刊新潮』などが出て、週刊誌ブームが始まる。そういう中から、大衆文学のほうでは五味康祐、司馬遼太郎、柴田錬三郎などが出てきて、戦後第一次の剣豪小説ブームが始まる。読切連載というかたちですね。柳生連也斎と眠狂四郎。それが戦後の剣豪小説、時代小説の一つのパターンをつくった。

純文学では「第三の新人」ですね。遠藤周作、安岡章太郎、吉行淳之介、庄野潤三、三浦朱門、曽野綾子、阿川弘之……。彼らの作品はある意味、日常の中の人間性を描くことに焦点があてられている。

黒井芥川賞で言えば、安岡章太郎が28年ですね。それから吉行淳之介、小島信夫、庄野潤三、遠藤周作と続く。

推理小説に旋風を起こした松本清張『点と線』

松本清張 『点と線』

松本清張 『点と線』
新潮文庫

植田そうした中で、35年に『点と線』で突如、頭角をあらわしてきたのが松本清張ですね。

日本の推理小説界に、社会派推理小説という一つの新しい旋風を巻き起こす。トリック本位の探偵小説ではなく、犯罪を起こすような社会的な背景に注目して書いた。

植田社会的な動機。それがブームを巻き起こした。

清原そうした状況の中から水上勉、梶山季之、黒岩重吾たちが出てくる。

植田昭和35年というのは、60年安保で日本はものすごく揺れた年ですね。そういう社会的な背景も恐らくあったのでしょうね。清張さんもドキュメンタリーの『日本の黒い霧』を書いたりしていますね。

清原ミステリーそのものに社会性を持たせることによって、松本清張は一つ道を開いた。彼が出てきたことで、あのころから日本の小説の文体が変わったんじゃないかと思うんです。

「5W1H」という、新聞記事のような事実描写を基調としている。もちろん心理描写もやるんだけど、それをなるべく省いていってという、ノンフィクション的な文体が出てくるきっかけになったんじゃないか。

清張さんの文章は、ある意味では非常にきびきびしているんです。もちろん情念はありますよ。彼自身の恨みつらみみたいなものがいっぱいあふれている。けれども、登場人物の犯罪動機というものを淡々と解明していく部分は、新聞報道の記事じゃないかなという感じはなきにしもあらずなんです。

こういう書き方が一つ確立されたことによって、その後に出てくる梶山季之の企業ものにしても、黒岩重吾の初期の作品もそうなんだけど、何か書きやすくなった。梶山季之の『黒の試走車』は「産業スパイ」という流行語を生んだ作品です。

司馬遼太郎も大衆小説の文体を変える

清原もう一つは、司馬遼太郎の文体ですね。閑話休題というのを入れて、最後のほうは、小説なのか、私論なのかわからないということをどんどんやっていくでしょう。松本清張と司馬遼太郎の2人で、戦後の大衆小説における文体を変えたんじゃないかという感じが強くありますね。

藤田具体的に言うと、センテンスを短くしたということがあると思うんです。これは新聞記事のスタイルなんです。清張さんは新聞記者じゃなかったけど、マスコミ出身ですからね。

清原司馬さんは産経新聞文化部の出身ですね。

植田だから清張さんはノンフィクションが書けたり、あるいは歴史的なドキュメンタリーをやったりもできた。確かに、旧来の小説的な文体だったらあんなふうに幅広くはできなかったでしょうね。

水上勉は社会派のものから『一休』などの評伝に

黒井松本清張という作家は、純文学とエンターテインメントのちょうど真ん中あたりにいた。いわゆる社会派という言い方でとらえられているんだけれども、その後、もう少し人生とか、人間とかいうことについて考えていこうというところになると、それが水上勉さんなんかにつながってくると思うんです。『飢餓海峡』なんか大変な小説ですね。そういうところまで来てしまう。

流れとしては、水上さんもそうだけれど、最後のほうになると、例えば『一休』とか『良寛』とか、評伝風のものにだんだん近づいてくる。松本清張について言えば古代史ですね。そういう道をたどっていくように思うんです。

清原それは黒岩重吾もそうなんです。デビュー作は『休日の断崖』という社会派推理小説だったのですが、後年は『中大兄皇子伝』や『聖徳太子』など古代史小説が中心でした。梶山季之も、最終的には自分のルーツを求めた作品『積乱雲』を書く。そして急死してしまわれるわけですけれど。

あのあたりで清張以前と、清張以後があるんだけれど、清張以後に出てきた作家は、陳舜臣もそうですが、初めは社会派ミステリーで出てくるんです。

藤田デビューしやすいんですよ。

清原そうなんです。ところが社会派ミステリーの中でも、そこから2つに分かれていく。社会派のほうに重点を置いて現代小説を書く人と、社会性とともにトリックも重視する方向に向かう人です。それは純文学とはまた違うところだと思いますけどね。

ビジネスマンや経営者が読んだ山岡荘八『徳川家康』

清原作品の評価は別として、山岡荘八の『徳川家康』は大きいですね。これもやっぱり社会現象になり、経営者の虎の巻みたいな読まれ方をしている。

そして、それ以降の歴史時代小説はそういう観点になっちゃうんです。その流れの大きなエポックメーキングとして『徳川家康』を挙げることができます。

藤田『徳川家康』は昭和25年から三大紙(北海道新聞・中部日本新聞・神戸新聞)で連載が始まったのですが、28年に単行本になったときは、なかなか売れなくて大変だったそうです。四苦八苦していたときに、『週刊文春』が火をつけてくれたんです。

昭和37年に、『週刊文春』が特集で、今の経営者は首を切らなくなった、徳川家康が経営者の虎の巻であると書いたわけです。それで経営者、ビジネスマンたちが非常に読むようになって、売れだした。

植田純文学のほうでは、「第三の新人」の後は、大江健三郎、開高健、北杜夫…。37年に出たのが安部公房の『砂の女』ですね。

血のメーデー事件に関わった柴田翔『されどわれらが日々――』

柴田翔 『されど われらが日々――』・表紙

柴田翔 『されど われらが日々――』
文春文庫

藤田『されどわれらが日々――』は大きなショックを受けましたね。

黒井昭和39年に芥川賞を受賞して、その年に単行本になったんです。

藤田昭和27年の血のメーデー事件に関わった学生たちの心情ですね。これは『人間の條件』と同じで、戦いに参加することは自分は好まないけれども正義感で入っていかざるを得ないという……。

黒井『されどわれらが日々―』は、そういう大きな社会的な出来事の中に、ある種の抒情的なものが一緒に入っている。それが、読む人に世代的な共感を呼んでいるのではないでしょうか。

柴田さんは、僕より学年がちょっと下なんです。血のメーデーは、僕は大学2年生のときで、僕は、どちらかというと、事件の後に20年近くも、延々と続く裁判、社会に出ていった連中と、被告としてそういう場に閉じ込められてしまった人間との対比のほうに関心があった。

清原黒井さんは「内向の世代」の代表と言われてますが、昭和45年くらいからですね。

黒井「内向の世代」というのは小田切秀雄さんの命名で、よく子供のころのことばかり書くと言われた。阿部昭の『子供部屋』がそうですし、高井有一も後藤明生もそうです。けれども、小説にとっては、自分が小さかったときのことを書くのは基本的な一つのテーマだと思うんです。そうすると世代の問題だけど、絶対戦争にぶつかっちゃう。幼少年時代は戦争の時代に他ならない。

清原文学の伝承ということで考えれば、大岡昇平の『俘虜記』とか、戦争で軍隊を体験している人は、当然のことながらその体験を書きますね。野間宏にもそれがあって、その後は次の世代の人たちが空襲のことや、外地から引き揚げてきたことを書く。戦争ということでは、ある意味でつながっていた。

黒井戦争にどの年齢でかかわったかということで輪切りになっているんです。

昭和40年代初め五木寛之ら中間小説作家が登場

黒井40年代の初めを直木賞で見ると、41年が五木寛之、立原正秋、42年が生島治郎、野坂昭如が受賞してます。

清原このころから、第二次中間小説ブームが起こる。

藤田純文学と大衆文学の狭間にあるというので中間小説といわれた。

清原戦後しばらくの中間小説というのは『日本小説』などの雑誌が、戦前に純文学を書いていた人たちに風俗小説を書かせていたものだったんです。

ところが、昭和37年に、戦前からの『講談倶楽部』が廃刊になって、『小説現代』などの中間小説誌が創刊されたことによって、初めから中間小説を書く作家たちが出てきたんです。五木寛之、井上ひさし、三好徹が出てくる。40年代になると、有吉佐和子、司馬遼太郎、佐藤愛子が出てきます。

日本人が書いた紀行文を読んで外国を知る

植田象徴的なのは、五木寛之と石原慎太郎は、昭和7年の同月同日生まれなんですね。作家としては31年に石原慎太郎、41年に五木寛之が出て、どちらもインパクトを与えるわけですけれども、特に五木の場合、顔文一致という言葉が言われた。作家がハンサムであることが、文学的な価値を高めるようなことがありました。

清原当時の日本人男性にとっては、五木寛之の『さらばモスクワ愚連隊』なんかにあるような、日本人が外国を旅して、現地の娘さんと恋愛をするなんていうことは、夢物語なんです。ジャズと、モスクワだとかいう外国との絡みを書いたのが、すごいという感じがあった。

植田確かにそうでした。音楽というものが文学の中に入り込んでくる。外国の青年がジャズを演奏する、あの描写は従来の文学にはなかったですね。

清原それともう一つ、同じ時期、僕らの学生時代なんですが、小田実の『何でも見てやろう』(36年)の影響もあったと思うんです。

藤田その『何でも見てやろう』が刺激を受けたのが、北杜夫の『どくとるマンボウ航海記』なんです。

北杜夫 『どくとるマンボウ航海記』・表紙

北杜夫 『どくとるマンボウ航海記』
新潮文庫

戦後すぐの頃は日本は外国を全く知らず、『菊と刀』のように外国人が見た日本人論を読んでいた。それが、『どくとるマンボウ航海記』や、インドという国と日本の違いのようなものをひしひしと感じた堀田善衛の『インドで考えたこと』が出てきて、それが『何でも見てやろう』につながり、それから五木寛之の小説になっていく。

日本人自身が外国に出ていって、外国人と接することによって、日本人はどういうふうに見られているのかということを、彼らの体験を通じて我々は知るようになった。

清原紀行文ということでは、一個人が裸で日本から出て行っている、こういうのが小説になるんだというのは五木作品が初めてじゃないかという感じは、僕らの世代にはある。

五木さんは、非常に日本の情緒的なものを踏まえつつ、世界に出たときにどうなるかということを、ある意味で小説で開眼された。それで小田実を読み、もう一つは寺山修司なんですよ。書を捨てよ町に出よう、というのが1960年代にはやった。

外国に行きたいなと思っていても、簡単には行けない。それで五木さんや小田さんの本を読んだりすることで、外国の情報をどんどん取り入れていくということが、1960年代の学生の一つのありようだったわけです。

日本人の常識を否定した『日本人とユダヤ人』

山本七平 『日本人とユダヤ人』・表紙

山本七平 『日本人とユダヤ人』
角川書店

藤田そういう状況に冷や水をかけたのが『日本人とユダヤ人』ですね。それまでは百聞は一見にしかずで、とにかく海外に出て、実際に見ればわかると思っていた。ところが、イザヤ・ベンダサンの『日本人とユダヤ人』は外国を見てもわからない、結局、日本人と欧米人は全然違うという視点で書かれている。

これは『菊と刀』と同じような意味で衝撃的でした。日本人は水と空気と安全はただだと思っているということを言って、そのメッセージが、当時は相当強いインパクトがありましたね。ジャーナリスティクな意味でも話題になりました。一体ベンダサンとは何者だと。

植田それまで日本人は、欧米との比較によって自分自身を確認していた。ユダヤ人と比較したのは今までにない視点でしたね。だから、何でユダヤ人と比較するんだろうという感じは確かに正直ありましたね。

イザヤ・ベンダサンは山本七平さんだったわけですけども、山本さんは、戦争中は捕虜になったり、戦後、個人で出版社を経営して、地味な存在でしたけど、突然、イザヤ・ベンダサンという名前で出てくる。それにしても、あの人の博識には本当にびっくりさせられました。すごいなと思った。それと戦争中の捕虜体験から日本人の戦争体験を見ていく視点ですね。

藤田今、「角川oneテーマ21」で出ている『日本人とユダヤ人』の著者は山本七平さんになってますね。

昭和45年当時の日本人は、まだ日米安保体制下の平和に慣れているというのが社会的な雰囲気でしたけれど、今や、もうそうじゃありませんね。水も空気も汚染されているし、テロが横行して安全もただじゃない。だからそういう意味では先見の明があったんじゃないですか。

大宅壮一賞ができてジャンルが確立したノンフィクション

植田昭和45年に、大宅壮一ノンフィクション賞ができます。『日本人とユダヤ人』はこの賞を受賞して注目されるわけですが、これによってノンフィクションが新しいジャンルとしてクローズアップされてきた。大宅壮一賞が生み出したノンフィクション作家には、柳田邦男とか、猪瀬直樹とか、たくさんいますね。『日本人とユダヤ人』がそのきっかけをつくったのは大きかったですね。

昭和49年には立花隆が『田中角栄研究』で内閣をつぶすぐらいの衝撃を与えた。あれもノンフィクションの力を認識させるものでした。

黒井それまで、ノンフィクションとは言っていなかったですね。ルポルタージュとか。

清原実録ものとか言っていました。

植田ちゃんとしたノンフィクションのジャンルの確立というのはなかったですね。

40年代の半ばでノンフィクションというものが何か存在感を示し始めた。それはちょっと見落とせないという感じがあるんです。柳田邦男の『マッハの恐怖』などは衝撃を受けましたね。

80年代以降、テレビに影響されるベストセラー

藤田最後に戦後の出版界について、いかがですか。

植田1970年ころと80年ごろに大きな変化があると思います。

68年から70年は大学闘争でものすごく揺れますね。あのときに知的な権威が崩壊してしまうわけです。大学の先生の進歩派はものすごく学生から批判されて、そこでいわゆる旧来の教養主義、あるいは進歩的な知識人が崩壊する。

80年代以降はメディアミックスですね。以前に僕はテレセラーという言葉を使ったことがあるんですけれど、活字文化自体が独立していられなくなって、テレビの影響を受け始める。いやおうなくメディアミックス状況の中で本が売れていく。そしてまた、テレビのスターの中から登場するベストセラーがある。

黒柳徹子の『窓ぎわのトットちゃん』や鈴木健二の『気くばりのすすめ』、山口百恵の『蒼い時』がそうですね。そういったテレセラー状況は今でも続いている。

「共感」がキーワードになる新しい作家たち

植田80年代以降の特徴は、村上春樹とか吉本ばななとか、ああいう新しい作家の登場ですね。

清原村上春樹現象は昭和63年から始まって、次々とベストセラーになっていきました。村上作品のもとはアメリカ文学だみたいなことを言われもしましたね。

彼らの作品が、今の日本人の精神構造とか姿勢と、どれだけクロスしているかということを考えて読んでいると、全然関係のないところで書かれているような感じがある。

植田結局、彼らの作品には、共感が評価のキーポイントにあるんです。読者に共感をどれだけさせるかということが、ものすごく大きな価値機軸になっている。そうすると、文芸批評も余り通用しなくなるところがあるんです。そういう作品が出てくるのが80年代後期ですね。

清原全くそのとおりだと思うんです。共感ということで言えば、それまでの社会的な現象だとか、思想的にどうだとかという押さえ方の共感ではなくて、感覚的に押さえていくことになってくる。すると、文芸評論としては、そこにはもうそういうものがあるんだということを認めざるを得なくなってしまう。

ある意味では、その典型が去年の芥川賞で話題になった金原ひとみの『蛇にピアス』ですね。これは自分を傷つけたりする話で、社会性もないし、家族も出てこないし、家族問題もない。閉鎖的な社会を乗り越えようとかいう意識も全くない、そんなことは考えもしない若者を主人公に書いている。それが若者たちの社会性なのでしょうが、そういう作品が、80年代、90年代から数多く出てくる。

今までとは違うひとつの社会性を感覚的に描く

清原こうして、文学や小説のありようは、また変わってくるんでしょうか。

黒井例えば松本清張が持っていたような、そういう意味の社会性というものは、そのままでは今は、通用しないといいますか、確かにそういう面が弱いと言えますね。

でもそれは、社会性を排除しているとか、わからないから、書けないから書かないというのとは、ちょっと違っているところがあるような気がします。だから『蛇にピアス』にしても、綿矢りさの『蹴りたい背中』にしてもそうですが、あの中にある共感というもの、その共感自体が持っているものが、ある意味では社会性であるという格好になっているんじゃないかと思うんです。

だから、古い言い方で言えば、確かに社会性がないということになっているんだけれど、こういう人間がこういうことを考え、こういうことを感じながらこういうふうに生きているということ自体が、一つの社会性になっているというか、何かそういうところに今、来ているんじゃないかと思いますね。

編集部ありがとうございました。

黒井千次 (くろい せんじ)

1932年東京生れ。
著書『日の砦』 講談社 1,600円+税、『石の話』 講談社文芸文庫 1,200円+税、ほか多数。

植田康夫 (うえだ やすお)

1939年広島生れ。
著書『新現場からみた出版学』 学文社 2,000円+税、ほか。

清原康正 (きよはら やすまさ)

1945年旧満州生れ。
著書『山本周五郎のことば』 新潮新書 680円+税、『中山義秀の生涯』 新人物往来社 1,262円+税、ほか。

※「有鄰」450号本紙では1~3ページに掲載されています。

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