Web版 有鄰

446平成17年1月1日発行

[座談会]武家の古都・鎌倉

鎌倉市文化財専門委員会会長・鶴見大学教授/大三輪龍彦
鎌倉市文化財専門委員/鈴木 亘
東京大学史料編纂所助教授/高橋慎一朗

左から、鈴木亘・大三輪龍彦・高橋慎一朗の各氏

左から、鈴木亘・大三輪龍彦・高橋慎一朗の各氏

はじめに

鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮

編集部鎌倉は奈良・京都と並んで日本の古都に数えられています。これは治承4年(1180年)に伊豆で挙兵した源頼朝が鎌倉に入り、日本最初の武家政権の根拠地に定めたからで、鎌倉には京都とは異なる独自の武家文化が花開きました。

本日は、日本の歴史の中で、中世都市・鎌倉はどのような位置を占め、どのような文化が育っていったかについてご紹介いただきたいと思います。

1992年にわが国が世界遺産条約を批准し、鎌倉は文化庁の世界遺産暫定リストに掲載されました。現在、鎌倉市は、ユネスコの世界遺産登録に向けて「武家の古都」という新たな理念を示しております。その具体的な事柄についてもお話しいただきたいと思います。

大三輪龍彦先生は、鎌倉市文化財専門委員会会長で、鶴見大学教授、鎌倉の名刹・浄光明寺のご住職でもいらっしゃいます。ご専攻は中世考古学で、若いころから、鎌倉市内各地の遺跡の発掘調査に携わっておられます。

鈴木亘先生は、鎌倉市文化財専門委員でいらっしゃいます。建築史がご専攻で、鎌倉市域では、頼朝が創建した永福寺遺跡などの他、平成13年には荏柄天神社本殿の調査などを担当されました。

高橋慎一朗先生は、東京大学史料編纂所助教授で、日本中世史をご専攻でいらっしゃいます。論文集『中世の都市と武士』では、都市鎌倉、あるいは武士と寺院のあり方について、興味深いご意見を発表していらっしゃいます。

日本史上最も長い武家政治の始まった場所

空から見た鎌倉市街地

空から見た鎌倉市街地
鎌倉市役所提供

編集部中世における鎌倉はどのように位置づけられるんでしょうか。

大三輪古都というと皇居があったところというイメージがありますが、鎌倉には皇居はないですね。では京都や奈良と違うところはどこか。文字が出現してからの日本の歴史の中で一番長いのが武家政治の時代なんです。江戸幕府が崩壊するまで約700年続いた武家政治が始まった場所が鎌倉であるということで、それを世界遺産登録の理念に位置づけようというわけです。鎌倉時代だけではなく、近世・近代まで含めた形での武家の都であるという考え方をしています。

従来余り言われてないことなんですが、鎌倉はどこの古都かということになると、やはり江戸に対しての古都ではないか。つまり、徳川氏自身が源氏ということで、その源氏の発祥の地の鎌倉を古都として非常に大事にする。近世になると石高制が普通なんですが、鎌倉だけは中世的な貫高制を残し、天領にして直轄地として保護した。それは武家政権発祥の地だからだと思うんです。

東国に新たな中心ができ、京都を媒介せずに、物が動く

大三輪もう一つ、古代は、文化的な面で西と東が非常にはっきりと分かれています。それは京都や奈良があったからなんです。ところが、鎌倉に準首都とでもいうべきものができると、京都を通り越して、西の文化が入ってくるようになります。東の文化も西に行くということで、全国規模の文化の交流というものができ上がっていったんではないかと思っています。

高橋京都を媒介としない形で物が動くようになるのは非常に大きいことだと思うんです。鎌倉以前は、物は一度京都に集まって、それから地方に渡っていく形が多いんですが、鎌倉という別の中心ができたことによって、例えば九州のほうから直接鎌倉へ大量に入ってきたものが京都へ逆輸入されるという形が、新しい動きとして出てくる。それは鎌倉という場所に新しい幕府ができたことが大きな要因だと思います。

編集部奥州の平泉と比べてみると、どうですか。

大三輪平泉は独自の文化を持っていて、時代が少し古い。中国の青磁だけをとってみても、平泉には中国の越州窯が出てきますが、鎌倉からは出ない。九州にはもちろん越州窯があるということで、物が入ったルートは、太平洋側か日本海側かというのが大きな問題ですが、平泉は文治5年(1189年)に滅んでしまうので、単純に比較するわけにはいきませんね。

編集部江戸時代の人々は鎌倉をどう思っていたのでしょうか。

高橋鎌倉が武家の古都として意識されていたということで一番象徴的なのは、『仮名手本忠臣蔵』の大序の場面ですね。忠臣蔵を『太平記』になぞらえながら、鶴岡八幡宮を舞台にして始まる。その辺にも江戸時代の人々の鎌倉に対する意識があらわれている気がします。

若宮大路を軸に13世紀中ごろ以降都市整備が進む

編集部鎌倉は、どのような形で都市づくりがされていったのでしょうか。

大三輪文献の上からいけば、頼朝が若宮大路をつくったというのは『吾妻鏡』に出てくるわけで、それが後の都市整備のときの一つの軸になっていることは間違いない。それを利用しながら、13世紀の中ごろ以降に都市整備が進んだと考えていいんじゃないかと思うんです。

一般には、頼朝イコール鎌倉というイメージがありますけれども、実際に発掘してみると、頼朝時代のものはほとんど出てこない。それには、それほど都市整備をしていなかったから遺構がないという考え方と、後世の都市整備の段階で壊されてなくなってしまったという二つの可能性があります。

強いて頼朝時代ということで挙げれば、鶴岡八幡宮の境内の一部の埋蔵文化財、あるいは、街道を横切る形で出てくる、非常に大きな溝があります。例えば大倉(蔵)あたりで、後の六浦大道を遮断するように、何箇所か大きな溝が出てくる。最近では、宝戒寺の裏で、割合古いと思われる溝が出てきている。これぐらいは頼朝時代までさかのぼっていいのかもしれませんが、明確に頼朝の時代だという遺構はほとんどない。13世紀の中ごろから14世紀という時代に非常に鎌倉が栄える、ほとんどがその時期に関する遺跡や遺構であると言えると思うんです。

承久の乱に勝利し朝廷に対して圧倒的優位に立つ

編集部鎌倉は要害の地と言われますが、切通しを造るのも13世紀中ごろですか。

大三輪承久の乱(1221年)が鎌倉方の一方的な勝利に終わって、天皇が臣下の軍に負けるという前代未聞の出来事が起きるわけです。これによって、鎌倉幕府が朝廷に対して圧倒的に優位に立つという結果が生まれます。すると、それまである意味では東国の中で軍事的な政権としてあった鎌倉幕府が、さらに西国のほうまでも視野に入れた大きな権力に発展していく。公権力としての機能が格段に大きくなります。それまでの天皇と将軍の二元支配みたいなものが、武家による一元支配の形に変わり、鎌倉は首都としての機能を持たなければならなくなる。

すると、幕府のもとには、全国から訴訟のために集まる人や、行政の仕事をする人、商人や職人たちも大量に流入するという動きが出てくる。

それまでは「天然の要害」と言われていたわけですが、それでは人が入って来られませんから政治都市としては困る。しかし、片方では武家政権は明らかに軍事政権ですから、要害性を壊さないで、しかも、人が出入りできるものは何だろうか。それともう一つは、谷が多いところに平地を確保したいということで、垂直な崖と尾根を掘り割った切通しというものをつくっていったわけです。

高橋北条泰時の時代が都市改造の出発点というか、大きな画期になるわけですね。

鶴岡八幡宮を最重要視した頼朝

中世の鎌倉

中世の鎌倉 ※画像をクリックして拡大
①鶴岡八幡宮 ②大蔵幕府跡 ③宝戒寺
④勝長寿院跡 ⑤荏柄天神社 ⑥建長寺 ⑦浄光明寺
⑧今小路西遺跡 ⑨大仏 ⑩仏法寺跡

編集部頼朝は鎌倉に入って、最初に鶴岡八幡宮を由比から現在の場所に移しますね。

大三輪頼朝は何よりも一番先にやります。粗末であってもいい、「松住に萱の屋根」で。当時まだ頼朝は源氏の棟梁として認知されていない。棟梁というのは、政をする、つまり、祭祀権を持っている者ですから、頼義時代の由比のお社を一番目立つ場所に持っていって、私が守っていますよというのを標榜しようとしたのが一番大きな理由だと思うんです。デモンストレーションですね。

高橋ご先祖を祭るために移したというのが『吾妻鏡』にも出てきますし、何しろ鎌倉に入って一週間で移すわけですから、何よりもこれを重視したことがよくわかるんじゃないかと思います。

大三輪頼朝は何かいっぱいやっていると思われるんだけど、鶴岡八幡宮を建てた後は、自分の屋敷をつくって、それから勝長寿院と永福寺をつくった。これだけです。

若宮大路は西に対する最終防衛線

高橋頼朝の時代は鶴岡八幡宮と御所、永福寺というように、若宮大路の東側のほうが中心になっていると見てもいいんでしょうか。

大三輪そうだと思いますね。若宮大路は、私の考えでは、軍事政権としては最終防衛線。実際に掘ってみても、東側のほうがもともと土地が高いんです。東側に中枢機能を集中して、若宮大路を隔てて西に向いている。仮想敵が西だったと思うんです。

高橋若宮大路が防衛線ですか。

大三輪最終のね。もっと後の13世紀中ごろに切通しが7つできますね。そのうちの5つは若宮大路の西側で、東側にあるのは名越と朝比奈だけです。ですから西というものをかなり意識していたと思う。

高橋後に御所が移るのもやはり若宮大路の東側ですね。大路を越えて西側には移らない。

永福寺は京都を意識して造られた離宮

永福寺跡

永福寺跡
手前から阿弥陀堂・二階堂・薬師堂の三堂が並んで建てられていた。
鎌倉市教育委員会提供

編集部京都と鎌倉の違いというと、いかがでしょうか。

鈴木平安時代から鎌倉時代の初めごろまでは、天皇は公卿と全然別格なんです。ですから京都では、内裏や御所は、まさに臣下のまねのできない建築なんです。天皇の権威が失墜しても、非常に大きな屋敷を構えています。しかし鎌倉の場合は、将軍と言ってもそんなに変わらないですよね。それは鎌倉武家の特色なんでしょうか。

高橋「鎌倉殿」を、御家人たち、家来の武士がどう見ていたかというのと関係すると思うんですが、天皇家は、一応、建前上はずっと家がつながっていきますけれども、鎌倉幕府の将軍は、源氏が三代で途絶えてしまった後は、摂関家から二代続けて将軍を招き、その後は皇族から招いていて、一つの家が継いでいくという形ではなかった。

したがって「鎌倉殿」は御家人の間では、絶対的な存在というふうには見られてなかったということがあるんでしょうか。でも、将軍の御所は御家人屋敷とは違う特別な建物であったとは思います。

大三輪京都と鎌倉では、広さが違うということがまず一つありますね。頼朝には、京都に対抗しようという意識があったんじゃないかと思うんです。京都から帰ってきたとき、造営奉行を全部京下りの公家にかえるんです。

鈴木初めはやはり京文化を一生懸命入れますね。

高橋最初は京都からまだ人が来ていない段階があったと思うんです。八幡宮をつくろうにもいい大工がいないので、浅草から大工を連れてきてつくったという話がありますね。それが次第に幕府の力というか、財力というものも整って、京都からも人を呼べるという段階に移ってくるんじゃないでしょうか。

大三輪最初は、工事の監督はほどんど大庭景義、地元なんです。それが後に中原親王とか、京下りの人たちにかわっていく。

頼朝は、京都に対抗できるよう離宮をつくろうとしたんじゃないか。それで建てたのが永福寺だと思うんです。

編集部そのころ頼朝の大蔵幕府は、今の清泉小学校のあたりにあって、そこから近い永福寺が離宮というのが大三輪先生のお考えですね。

大三輪義経や奥州藤原氏の怨霊鎮魂だと言っていて、最初の段階はその通りなんですけれども、実際にはお寺と寝殿造が一緒になったようなものです。

高橋すごい庭園をつくるんですね。平泉文化の影響もあるんでしょうか。

鈴木今回の調査で、木製基壇というのがありました。これは平泉の毛越寺の講堂で採用された技術なんです。

大三輪普通は石なんです。後で石にかわるんですが、最初は木製だった。

鈴木木材で基壇を化粧するんです。それが永福寺の二階堂と薬師堂、阿弥陀堂に採用されているんです。その辺も、技術者が京都から来たのかどうかという問題も含めて、なかなか興味のあることなんです。

永福寺跡から出土した経塚は北条政子に関係か

経筒

経筒
永福寺経塚出土
鎌倉市教育委員会提供

高橋永福寺から出土した経塚は、どういう性格のものなんでしょうか。

大三輪渥美焼のかめの中から銅製の経筒がでてきました。それと櫛が10個入っていた。それから数珠。これは復元して、ちゃんと数珠の格好にしました。まず一つは、渥美焼が12世紀末から13世紀初頭のものであること。収められていた持ち物から見て、女性らしい。

鈴木すでに薬師堂とか阿弥陀堂とか三堂はできている時代ですね。

大三輪そうです。13世紀初頭に、永福寺を正面から見下ろすような高い場所に経塚を営める女性は誰か。

高橋源氏ゆかりの女性。

大三輪そうすると、おのずから絞られてくるわけですけれども、そこまで断言できないで困っているんです。経筒に銘文でもあればよかったんですけど。やはり、権力の中枢に近い人間でなければ、あの場所につくることは無理ですよね。

高橋とすると、北条政子が納めたという可能性もあるわけですね。

大三輪ありますね。

大仏は西から来る人のランドマーク

鎌倉大仏

鎌倉大仏(高徳院)
神奈川県観光協会提供

編集部鶴岡八幡宮と大仏の関係はどうなんでしょうか。

大三輪八幡宮が中心ですね。成立した時代が違いますけれども、大仏は西の守護仏だと思うんです。西を非常に意識して、その守りのところに壮大な大仏をつくった。最近、大仏殿の発掘をして、今度国の史跡になりましたが、不思議なのは大仏殿の跡は出てくるのに、ほかの建物の遺構が全然ないんです。すると、あれは本当にお寺だったのかなと。何かあるとお坊さんたちが集まったりするけれど、常駐して寺の機能を持っていたのかどうかはわからない。

高橋かなり西を意識していることは確かだと思うんです。極楽寺の近くの仏法寺の跡からは、和賀江嶋のほうまで見えるんですが、目の前に大きく見えるのは大仏なんですね。さらに大仏殿があったとなると、西から来る人にとっては、まず、それが目に入る。一種のランドマークだと思うんです。京都に東から入ると、法勝寺の八角の九重塔が見えて、「ああ、京都に来たんだな」と認識するんですが、鎌倉ではそれに当たるのが大仏で、西から来た人は、まず大仏を見て「鎌倉の町に来たな」と感じたんじゃないかという気がします。

大三輪この前、海から鎌倉を見てみようということで腰越漁港から船に乗って鎌倉の沖に出たんです。そうしたら、今、あれだけ家が建っているのに、大仏さんの胸から上が海から見えるんです。

高橋すごいですね。すると、鎌倉に入る船からも大仏の威容が見えた。

鈴木だから、阿弥陀さんだけど、南面にしなければいけなかったんですね。

高橋普通、阿弥陀さんは西方浄土だから東に向くんですけれど、海を意識したら南向きになったんでしょうか。

八幡宮の本地は阿弥陀如来で大仏とはセット

高橋特に東国では、八幡宮の本地が阿弥陀ということがありまして、八幡宮とセットでの阿弥陀信仰という可能性はあると思います。これは本地垂迹の考え方に由来するもので、阿弥陀如来が八幡の形になって出現しているというものです。

鎌倉の大仏をつくるときにも、八幡宮で夢のお告げがあったので勧進を始めたという史料もあります。鎌倉の中心としての鶴岡八幡宮と、大仏は北条時頼の時代になってからのものですけれども、あくまでも八幡宮を中心として、そこから派生した守護仏として西のほうに大仏をつくる。そういう構想だったのかなという気がいたしますね。

荏柄天神社本殿は鎌倉時代の建築と判明

荏柄天神社本殿外観

荏柄天神社本殿外観

編集部鈴木先生が調査された荏柄天神について、いかがでしょうか。

鈴木荏柄天神社は、頼朝が大蔵幕府を開く前からあるんです。伝承では、頼朝が幕府を大蔵の地に開いたときに、鬼門の鎮守としてあがめた。位置づけがそこではっきりしてきたんだと思うんです。

初めは幕府の援助がそれほどあったとは思えないんですが、室町時代には、鎌倉公方が行って参籠したり、歌の会をやったりしていますから、かなり援助があったと思います。後北条氏も修理をやっています。

豊臣秀吉が天正18年(1590年)の小田原攻めに来たときに、鶴岡八幡宮と荏柄天神にも行っている。造営しようという話も出たんです。

そのつながりだと思うんですが、家康が八幡宮造営を援助しようという話があって、実際にそれが始まるのは元和7年(1621年)から8年ごろです。そのころ二代の秀忠が八幡宮の造営をやって、寛永元年(1624年)にできたのが現在の若宮です。

そのときに若宮の古宮がまだ建っていたんですが、それを元和8年に荏柄天神社に移したという伝承があって、荏柄天神社に、享保19年の由緒書(鎌倉荏柄山天神社由緒書)が残っています。これは寺社奉行に出したものですから、いいかげんなものではないと思うんですが、それにそういうことが書かれているわけです。

内陣・外陣とも古い手法がのこる

鈴木その後の沿革を調べてみると、火災や、建てかえた形跡もない。大正の関東大震災で大分前に傾いたんですが、それをそのまま起こして一部修理して、現在に至っているんじゃないかということで調査をしたんです。

形は三間社流造ですから、規模はわかりませんが、天正19年の八幡宮の絵図「修営目論見図」に載っている若宮の「御しんでん」と形がよく似ている。それがまず注目されたんです。

そして、実際に外陣に入れていただきましたら、古い時期の、朱漆を塗った扉が外してあって残っている。漆塗りで非常に丁寧な金具が打ってありました。

荏柄天神社本殿内陣

荏柄天神社本殿内陣
小組格天井と横連子

それで、私は驚いたんですが、それがちょうど内陣の中央の外開きの扉と、外陣の正面の両わきの内開きの扉なんです。内開きにするというのは非常に変わってまして、天正の絵図を見ましたら、若宮の「御しんでん」は外陣の扉が三間とも内開きなんです。そういうことがわかってきました。

内部の天井は内陣・外陣とも小組格天井で平らです。これは、八幡宮に残っている丸山稲荷にも用いられている方法で、八幡宮としてはかなり古いんです。

小組格天井というのは、格天井の格板に細かい組子を組み入れたもので、その天井と内法長押の間に小壁がある。そこに横連子がずっときれいにはまっているんです。そういうことで、これは間違いなく中世の建築物だろうということになったわけです。

正和5年に再建された鶴岡の若宮を移築

鈴木鶴岡八幡宮の若宮の歴史を調べましたら、鎌倉末の正和4年(1315年)の鎌倉大火で上下両宮が焼けています。正和5年に若宮、それから上宮も再建されるんですが、それがずっと中世を通じて存続して、元和末年まで来ていることがわかりました。

修理は途中で何回かやっていますが、特に大きな修理は明徳3年(1392年)から応永元年、3年ぐらいで、そのときに金具なども全部新調したという記録が残っていますから、事によると、金具などはそのときのものかもしれない。

ですから、現在の荏柄天神社の本殿は、まず間違いなく元和8年に八幡宮の若宮の古宮を移したと考えていいのではないか。つくりを見ても、垂木の先端の処理なども非常に古いんです。蟇股も装飾されて、少なくとも14世紀にさかのぼるだろうと考えています。柱も全部丸柱ですが、扉を建てるのに使った幣軸という枠が上と左右にある。これも円弧を描いて非常に古めかしいんです。

それから墨書があります。ちょうど秀吉の時代に、天正19年の絵図をもとにして、秀吉が家康に、家康の顔を立てるということで修理を命じるんです。そのときの、天正20年の墨書銘を持った部材が荏柄天神の本殿の斗栱に使われていたことがわかった。そうすると、神奈川県では一番古いものになります。

大三輪円覚寺の舎利殿より古い、1316年ころのものということですね。

鈴木その可能性が非常に強いということです。

高橋「修営目論見図」に出ていたものが、荏柄天神社に残されていたということですね。鎌倉では、圧倒的に古いものになりますね。

鈴木はい。古材が小屋組に残っているんです。鎌倉に残る唯一の鎌倉時代の建築ということになります。

鶴岡八幡宮の文政年間の修理は丁寧な仕上げ

鈴木寛永に再建された鶴岡八幡宮の現在の若宮は権現造で、中世以来の形をまったく変えてしまっていますね。建物の配置も変えてしまっている。

八幡宮の文政年間の上宮の修理は非常に丁寧な仕事で、ちょっとほかでは見られない技術ですね。

大三輪時代的に荏柄天神と若宮との間に入ってくるのが丸山稲荷です。

鈴木丸山稲荷もいい建物ですね。応永5年に新造、明応に修理されたことが明らかにされています。ただ、文政4年以前に描かれたと思われる鶴岡八幡宮丸山稲荷の絵図を見ますと、江戸末期の建築です。

大三輪建物自体が変わっている。夷三郎社と言っていますね。

鈴木どこからかはわかりませんが、恐らく旧夷社を移築して、丸山稲荷にしたのかもしれません。

宋元の様式を受け継いだ寺院建築

編集部鎌倉では禅宗寺院の建築も特徴的ですね。

鈴木禅宗というよりは、宋元の文化の様式を持っているんです。中世に入ってきた宋元の建築を受け継いでいるのは禅宗だけではなく、律宗もそうですね。浄光明寺は、まさに唐様です。それから浄土宗もやはり宋のスタイルでやっていますね。例えば鎌倉大仏は、まさに唐様だと思います。それから、材木座の光明寺は、中世までさかのぼると禅宗と同じような、方丈とかいう建物の名前を使っていますから、やはりそういう要素があると思いますね。

それから覚園寺とか、京都の泉涌寺なんかもそうだし、金沢の称名寺も一部唐様の建築が入っていますから、禅宗だけのスタイルではないと思うんです。禅宗様という名前を今は使っていますが、宋元の仏教を取り入れたところでは、そういう様式が伝わったのではないかと私は思っています。

建長・円覚の伽藍は谷戸を上手に使って建物を配置

建長寺の伽藍

建長寺の伽藍

編集部唐様と禅宗様の違いはどんなところですか。

鈴木鎌倉の禅宗の寺院では、鎌倉時代中期に建長・円覚で伝わったスタイルがずっと守られていきます。非常に古い様式ですね。そういう点では、禅宗の建築は、純粋性といえるような特色を確かに持っています。和様化はなかなかしないんですね。

円覚寺の舎利殿はすばらしいですね。建長寺も建物は近世のものなのですが、中世の伝統を受け継ぎながら、やや和様化した唐様というのが見られます。鎌倉独特のスタイルですし、寺院配置はまさに中国直輸入のものです。

大三輪建長寺の庭園は、今残っているのは明らかに近世の庭園で、発掘調査の結果では池は四角いんです。プールみたいな、谷の前をせき止めて直線的な池にしたようなものが、創建当初の建長寺の池ですね。中国のお寺もそういう四角い池です。「当麻曼荼羅図」の極楽浄土も、前にあるのは四角いプールみたいな池です。

鈴木禅宗の建築で鎌倉五山というのがあります。特に建長・円覚の中心伽藍は谷戸、谷間を上手に使って建物を配置し、塔頭はその周りにあって、丘陵を切り崩して、造成しているんです。特に円覚寺は西南の丘陵の上に現在もある帰源院とか、天池庵、臥龍庵ができる。そこから、向かい側の山がそのまま見える。これは、京都などにはない、独特の景観です。鎌倉の禅宗の非常に大きな特色です。

多様な仏教の新しい運動が鎌倉で花開く

編集部鎌倉では新仏教が中世の一つの様相としてあらわれてきますけれども、京都との関係で言うと、特徴的なことは何でしょうか。

高橋新しい仏教の動きは、京都ではなかなか受け入れられないということがありました。その点、鎌倉のほうは、伝統的な寺院がもともとそんなに多くないわけですので、新しい試みが受け入れられやすい土壌は、その時代の鎌倉にあったと思うんです。

鎌倉時代の鎌倉では、多様な仏教の新しい運動がかなり受け入れられている。

一般に鎌倉と言うと、禅宗というイメージが非常に強いんですけれども、それだけではなくて、念仏・禅・律といったもの、それから後には一遍の時宗から法華、そういったものまでが全部、鎌倉で花開いていきますから、ある意味ではすごく活気に満ちた新しい町、そういう雰囲気があったのではないか。決して禅宗一色の町ではなかったと思うんです。

なおかつ、鶴岡八幡宮のような旧仏教を受け入れる大きなセンターもありますので、時代が下がってくると、京都ですとか奈良のほうからも、例えば、醍醐寺の親玄とか、旧仏教の中心的な人物が自ら進んで関東のほうに来るということまで起こってくるわけなんです。

“何でもあり”の兼学性が鎌倉新仏教の特色

大三輪私は、余りにも今まで鎌倉新仏教というのを強調し過ぎて、それがひとり歩きして間違っているんじゃないかという気が最近してきたんです。実際に遺跡を掘ってみると鎌倉新仏教が検証できるようなものは出てこないんです。建長寺の池でも、禅宗なのにこんなものがあるのというものもいっぱい出てくる。

それを解決するにはどういう考え方をしたらいいのか。鎌倉の新しい仏教というのは兼学仏教、いわゆる何でもありでいかないと理解できないんじゃないかと思っているんです。禅宗なら禅宗と言っているかもしれないけれども、兼学性を持っているのが鎌倉仏教の特徴じゃないか。

高橋最初に鎌倉の中で動きがあったのは、まず、念仏の聖たちで、その後ちょっと遅れて、それに乗っかるような形で律とか禅の人たちが入ってくる。そして、それが全く別々の動きではなくて、一人の人間が律もやり、浄土もやりという形のお坊さんが、かなり当たり前に見られているところが大きな特徴なんだろうと思うんです。

従来の宗派史みたいな見方では割り切れないところが多いですし、さらに広げて言えば、神仏習合ですから、極楽寺の絵図を見ましても、熊野社などいろいろな神社が勧請されています。山岳信仰的なものも含めて、かなりいろいろな動きが鎌倉の町の中であったと考えるべきだろうと思っています。

谷戸単位の、住み分けがない一種の雑居状態

編集部宗教的空間としての中世の鎌倉ということではいかがでしょうか。

高橋江戸時代の城下町では、ここは武士の居住地、ここは町人、寺町は寺町で別の区分というふうに大きな住み分けがされますが、中世都市の場合はそういうことはまずない。これが一つの特徴だと思うんですけれど、宗教的空間が独立して都市の中にあるのではなくて、お寺とかがある中に御家人屋敷も近くにあって、さらにその門前に職人の屋敷があるというような、一種の雑居とでも言えるような形が見られるんです。

特に鎌倉では、谷戸が一つの単位になっていることが大きな特徴だと思うんです。一つの谷の中に有力な御家人、例えば安達氏などの屋敷があって、その背後に安達氏関係のお寺がつくられて、安達氏に縁のあるような職人たちが門前に住む。一つの谷戸の世界とでも言うようなものが、あちこちにできてくる。それが鎌倉の周縁部まで行かないんです。そういうものが平場と山の間の谷につくられていた。

谷戸の世界を描いた浄光明寺絵図

「浄光明寺敷地絵図」(部分)

「浄光明寺敷地絵図」(部分)
浄光明寺蔵

編集部谷戸の世界というのは、魅力的な見方ですね。

高橋大三輪先生のお寺に伝わっている「浄光明寺敷地絵図」にも、その様子を見ることができますね。

大三輪一つの谷の中に寺の境内があり、武家地があって、民家らしい屋根がいくつも描かれているんです。年代は建武元年(1334年)か2年。円覚寺絵図と同じ、上杉重能の花押が書かれているんです。

ちょうど泉ケ谷という谷一つが描かれている。先年、お亡くなりになった石井進先生が言われているんですが、七切通しの中を描いた絵図はあれしかないよ、と。

絵図の中に「御中跡」というのがあるんですけれども、石井先生は、これは得宗が持っていた谷地であろうと。鎌倉幕府最後の執権の北条守時の旧宅と考えられる「守時跡」というのも出てきます。

2007年を世界遺産登録の目標に

鎌倉・名越の切岸

鎌倉・名越の切岸

編集部鎌倉の世界遺産登録の経過や今後はどう進められていくのですか。

大三輪日本ではすでに法隆寺の仏教建造物や白神山地とか、京都の文化財など、昨年は紀伊山地の霊場と参詣道など12件がユネスコの世界遺産に登録されていますが、鎌倉は現在まで推薦されるに至っていません。当初、鎌倉独自の特色となるのは、古来より三方を山稜に囲まれた要害の地と言われてきたことで、具体的に山稜部に残された切通し・切岸を中心とした防衛遺構、つまり城塞都市として登録をしようという考えもあり、七切通しを含む9か所の考古学的調査などを実施しました。

こうした経過をへて、鎌倉市は最終的にいろいろな特徴を検証し、先ほども言いましたように、近世、近代にまで引き継がれているということで、「武家の古都・鎌倉」というキャッチフレーズが一番いいのではないかというところに落ちついたわけです。もちろん、それまでの城塞都市というのを否定するものではないので、それも含めた、もっと大きなものにしようという考え方です。ですから、これからは国史跡がどんどんふえていきます。

今年度は、きょうの話に出てきた荏柄天神社境内、それから忍性が雨乞いをしたという仏法寺跡、この2つが、史跡の申請をしています。大仏殿は昨年度になりました。これからも候補はメジロ押しになっていって、事務が追いつかないような状況です。計画では、2007年の登録を目標にしています。

永福寺跡や遺跡を一般の人が常時見学できる施設を

編集部こうした鎌倉市の活動に対して、何かご提案はございませんか。

鈴木鎌倉には貴重な遺跡がたくさんあり、そこを調査されて非常に成果が上がっている。世界遺産として考える場合は、例えば永福寺でしたら、少なくとも池の整備、二階堂などの三堂ぐらいは、整備はできると思うんです。それで一般の市民に開放することを考えていかなければいけないんじゃないか。それがやはり世界遺産にもつながっていくんじゃないかと思うんです。

それから御成小学校の調査で明らかになった今小路西遺跡については、非常に立派な成果が出たんですけれども、あそこに行ってみると、何もわからないんですね。

鎌倉後期の武家の居館跡とか、庶民の街区とかがありますね。武家や庶民の生活空間を理解するには、御成小学校の校庭の遺構は抜群にいいですね。例えば御成小学校に行って、どこかに模型でも何でもいいですから、何か展示されたものがあれば、「ああ、ここにはこういうものがあるのか」と。現在は校庭なんだけれども、その下に眠っている遺跡というものが視覚的にわかるようなものがやはり欲しい。財政的にも大変だと思うんですけれども、やはり考えていかなきゃいけないかなと思うんです。調査した場所の整備というものが、課題として残っているんじゃないかと思うんですね。

それから当然それに伴う遺物があるんです。非常に貴重な遺物ですね。

編集部出土品も、青磁の大きいものがありましたね。

鈴木そういうものを展示する場所も必要ですね。

高橋昨年秋に、鎌倉国宝館で「鎌倉考古風景」という展示をやっておられ、それを拝見したんですけれど、ああいったものが常時見られるような施設があれば、非常にありがたいなと思うとともに、市民の方々にとっても、そういう機会はぜひ設けてほしいなという気がいたします。

大三輪とにかく世界遺産の登録は、核になる部分が国内法で守られていることが必要なんです。だから、いろんなネックはある。例えば、若宮大路の場合に、核心地域の周囲にバファゾーン(緩衝地帯)を設けて、利用に一定の制限をする必要がありますので、それをどこまでとるかとか、細かい詰めの問題はあります。けれども、文化庁のほうもやっと乗り気になってくれましたし、そういう方向で進んでいくと思います。

編集部きょうはどうもありがとうございました。

大三輪龍彦 (おおみわ たつひこ)

1942年鎌倉生まれ。
著書『中世鎌倉の発掘』有隣堂 品切。

鈴木 亘 (すずき わたる)

1937年横浜生まれ。
論文『荏柄天神社の社殿建築 ※』ほか。
※鶴岡八幡宮発行 季刊『悠久』第98号(平成16年7月刊行)に掲載。

高橋慎一朗 (たかはし しんいちろう)

1964年小田原生まれ。
著書『中世の都市と武士』 吉川弘文館 品切。

※「有鄰」446号本紙では1~3ページに掲載されています。

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