Web版 有鄰

433平成15年12月10日発行

川崎 ―京浜コナーベーション都市― - 特集2

小川一朗

臨海工業地・多摩川流域・多摩丘陵の3つの顔

川崎市の面積は144平方キロ余にすぎないが、人口は129万を数えている。川崎が近郊農村から工業・住宅都市へ急速に発展したことは、市域が東京・横浜にはさまれ、京浜コナーベーション(連接)の中で、その都市性が形成されてきたことによる。

さらに、南北に細長い市域の形から、京浜工業地帯の中核をなす臨海工業地帯の「海の手」、副都心が点在する多摩川流域の「川の手」、住宅地・緑地が広がる北部の多摩丘陵地域の「山の手」と、3つの顔を持っているのも特徴である。

そのような細長い川崎市域を、京浜間を結ぶ幾筋もの交通路が、並行して横断している。

国道には15号(川崎区)、1号(幸区)、246号・第三京浜(高津・宮前区)、東名高速(多摩・宮前区)があり、臨海部には首都高速湾岸線・横羽線が通じている。

電鉄は京浜急行・東海道線(川崎区)、横須賀線(幸区)、東横線・目黒線(中原区)、東急田園都市線(高津・宮前区)、小田急線(多摩・麻生区)が各区を横断し、都市化の根幹ともなってきた。

多摩川流域は近郊農村から田園都市に

多摩川流域の平野は、かつては、二ケ領用水に潤された「稲毛米」の産地であり、さらに野菜類・果実(桃・梨)・花卉(鑑賞用植物)とともに、多くが東京市場に出荷されてきた。また、東京からの肥料の受け入れの便宜もあって、まさに近郊農業地として発展した。

明治17年(1884)、天皇が小向(幸区)に観梅に行幸されたが、多摩川河畔の田園風景は、東京からの文人墨客に親しまれた。国木田独歩、北原白秋も市域に足跡を残した。行楽地としては特に南武沿線の稲田堤の桜(多摩区)や久地梅林(高津区)が京浜間に知られた。

昭和初期に、現在の東急東横線などの郊外電車が開通すると、駅周辺に住宅地が開発され、沿線には会社の運動場や日本医科大学、法政大学などが東京から進出し、農地が次第に減退して、田園都市の様相を呈するようになった。

京浜工業地帯の中枢をなす臨海部

このように、川崎は京浜間にあって交通が至便であることから、町の時代から工業誘致に努め、安価で広い用地があったことが、工業の立地に有利であった。

明治末期より、近代工業が川崎駅付近から近くの多摩川畔に集まった。横浜精糖、東京電気(東芝)、コロンビア、味の素、富士瓦斯紡績など諸種の工業が、京浜や地方から進出した。

大正期に入ると、臨海地の浅海埋め立てや京浜運河の開削が行われ、鉄鋼・製油・肥料等の重化学工業や、製粉・セメント工場、火力発電所が集まって臨海工業地帯が形成された。なかでも日本鋼管の製鉄所は京浜地帯の重工業の中枢をなしてきた。

一方、昭和10年以来、市内を縦貫する唯一の鉄道である南武線の駅付近や幹線道路沿い、場末地などに主に機械工業が集まり、内陸工業地帯は低地を登戸(多摩区)まで伸展した。

昭和35年頃からは新しい埋立地に石油化学コンビナートが形成され、内陸部では集積回路や電算機等の先端技術企業が集中した。工業生産額は昭和59年頃は東京・大阪に次いで多くなり、まさに京浜工業地帯の中枢を占めるにいたった。

川崎の主要企業は東芝・日本電気・いすゞ自動車などのように東京の城南地区から進出した機械製造業が多く、さらに富士電機、横浜精糖など横浜から進出した企業や、京浜市場をめざして大工場を開設した日本鋼管、日立製作所などの立地に特色がみられた。

東京への依存が強い多摩丘陵の新住宅地区

武蔵溝ノ口駅前(高津区)

武蔵溝ノ口駅前(高津区)

戦前の川崎の工業化が頂点に達した昭和18年、人口は39万を超え、工員寮や社宅が次第に内陸部につくられるようになった。戦後の工業再建が進んだ昭和30年頃には、特に幸・宮前区域に公営住宅群、中原・高津区域に会社アパート群が急増し、低地の都市化が進行した。

さらに昭和35年以来、小田急沿線の丘陵地の百合ケ丘、菅その他に公団の大規模な住宅団地が建設され、東急田園都市沿線の台地にも区画整理事業が進み、広大な住宅地が開発された。

台地・丘陵の農林業地は近代的な住宅地域に変貌した。川崎は昭和47年に政令指定都市に昇格し、翌年の人口は100万を突破した。

多摩・麻生・宮前区などの新住宅地の来住者は、東京方面から移転したり、あるいは地方から東京を目指して進出した人たちが多く、通勤・通学・買物・娯楽等にわたり、東京依存の住宅地の性格が強くなっている。

また、小田急沿線に明治大学、専修大学、日本女子大学、溝口近くに洗足学園のキャンパスが開かれて、学園都市的な雰囲気が高まった。いずれも東京から遠心的に移転した大学である。

工業生産から先端技術の研究開発に

武蔵小杉駅前(中原区)

武蔵小杉駅前(中原区)
小池汪氏撮影

重化学工業が発展した川崎市では、昭和40年頃から大気汚染・水質汚濁などの公害の対応に長い年月を要してきた。また、法的な首都圏既成市街地における工業規制等により、日本電線(川崎区)、東京製鋼、日立精工、東芝タンガロイ、明治製菓(幸区)、荏原製作所(中原区)、日本ヒューム管(高津区)、鬼頭製作所(多摩区)その他多数の工場が相次いで市外に転出し、工業生産は、年々減退した。

市内の多くの企業は、製品の高度化・近代化をはかるため、生産過程から先端技術の研究開発に転向するようになった。市内の工業関係の研究所は200以上を数え、各区にわたって広く分布している。臨海地には鉄鋼・化学関係、内陸部には、特に電子工学部門の研究機関が多い。

東芝総合(幸区)、富士通(中原区)、日本電気中央(宮前区)の各研究所は、基礎的総合研究を主とする代表的な施設である。幸区の日立系、中原区のキヤノン、多摩区の松下技研も代表的な研究施設である。高津区には研究機関が集合した県営の「サイエンスパーク」があり、麻生区には川崎市営の「マイコンシティ」が開発され、研究所群が発足している。大企業の施設は超高層のインテリジェントビルに変わり、工都の面目を一新している。

多摩川流域に副都心が点在する多角都市

川崎の年間商品販売額は、平成10年度1兆1754億円で、全国13政令指定都市のうち最低位であった。人口1人当たり販売額も最下位にあり、商店数・従業者数は最少の千葉よりやや多かった。

このように川崎の商業活動が不振なことは、最大市場の東京(区部販売額194兆円)に隣接し、その商圏に包含されているためで、川崎の位置的宿命といえる。

繁華街は川崎駅付近の都心部に集中しているが、各区の中心地にも散在し、多角都市的な状態を呈している。しかし中原区より西の各区民は、郊外電鉄によって新宿・渋谷・横浜方面に買物に出る場合が多く、東に偏在する都心部の繁華街とは、ほとんど係わりがない。

「ミューザ川崎シンフォニーホール」が川崎駅西口に開館

従来、川崎市民は、東京・横浜の先進的な文化・芸能・娯楽施設に依存して生活を楽しむことが多く、川崎は京浜間の「文化の谷間」といわれることもあった。しかし、住宅地の開発によって、東京方面から大量の人口が流入し、都市化の進展に伴って、住民の文化的な関心が向上した。

新都心の新百合ケ丘(麻生区)では映画・音楽芸術の専門校ができ、街では住民組織の映画祭や音楽祭が毎年行われ、組織的な交響楽団も活動している。

また、2004年7月に川崎駅西口近くに開館する「ミューザ川崎シンフォニーホール」は、東京交響楽団が拠点として活動する2,000人収容の本格的コンサートホールで、京浜地域に発進する音楽の一拠点になるものと思われる。

市内にはすでに4交響楽団があり、また、高津区の音楽大学のほかに、近く麻生区にも音楽大学の進出計画がある。「川崎は音楽の街」のイメージが高揚されてきている。川崎は産業都市から研究開発を含む文化都市へと、転身しつつあるといえよう。

筆者は川崎市中原区に生まれ、以来、現在もそこに住んでいる。長年、川崎の産業、都市化の過程などを中心に研究してきたが、このほどそれらをまとめた『川崎の地誌−新しい郷土研究』を有隣堂から上梓することになった。近代以降、東京と横浜の狭間で変貌してきた川崎の活きた姿を理解していただけるものと思う。

小川一郎
小川一郎(おがわ いちろう)

1919年川崎市生まれ。立正大学名誉教授。地理学専攻。
著書『川崎の地誌』有隣堂 1,500円+税、ほか。

※「有鄰」433号本紙では4ページに掲載されています。

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