Web版 有鄰

433平成15年12月10日発行

[座談会]箱根駅伝
2004年◆第80回記念大会を迎えて

パナソニック モバイルコミュニケーションズ女子陸上競技部顧問/横溝三郎
元神奈川大学陸上競技部監督/工藤伸光
読売新聞社メディア戦略局専門委員/水戸英夫
有隣堂相談役/篠﨑孝子

右から水戸英夫氏、横溝三郎氏、工藤伸光氏と篠﨑孝子

右から水戸英夫氏、横溝三郎氏、工藤伸光氏と篠﨑孝子

※印は読売新聞社提供

はじめに

1区六郷橋でトップを争う中央大・三浦達郎選手と法政大・大脇孝和選手

1区六郷橋でトップを争う中央大・三浦達郎選手と法政大・大脇孝和選手
当時の伴走車はサイドカー。第30回大会(昭和29年)※

篠﨑毎年1月2日と3日の2日間にわたって開催される箱根駅伝が、来年(2004年)、第80回目の記念大会を迎えます。箱根駅伝は正式名称を「東京箱根間往復大学駅伝競走」といい、東京の大手町から神奈川県の箱根・芦ノ湖までの往路・5区間(107.2キロメートル)、復路・5区間(109.2キロメートル)の合計10区間(216.4キロメートル)を、関東の大学別のチームが優勝を目指して走る競技です。お正月の風物詩としても、多くのファンから注目されています。

そこで本日は、伝統ある箱根駅伝の歩みと、その魅力について、駅伝にまつわるさまざまなお話をご体験をまじえてご紹介いただきたいと思います。

ご出席いただきました横溝三郎様は現在、パナソニックモバイルコミュニケーションズ株式会社の女子陸上競技部顧問をされております。箱根駅伝には昭和34年(第35回大会)から4大会連続して出場され、中央大学の6連覇に貢献されました。

工藤伸光様は元神奈川大学陸上競技部監督でいらっしゃいます。平成9年(第73回)は監督、翌10年(第74回)は総監督として同大学を総合優勝2連覇へと導びかれました。また同大学在学時には、昭和40年(第41回)から3大会連続して箱根駅伝に出場されました。

水戸英夫様は、読売新聞社メディア戦略局専門委員でいらっしゃいます。箱根駅伝をはじめ、さまざまなスポーツを長年にわたって取材されております。

開催のきっかけはアメリカ大陸横断構想

篠﨑まず、箱根駅伝はどういう経緯で始まったのですか。

水戸箱根駅伝は、大正9年(1920)に始まりました。日本のスポーツイベントの中で最も古いものだと思います。

そもそも箱根駅伝は、アメリカ大陸を若者で横断しようという壮大な発想がきっかけなんです。その話の中心になったのは「日本マラソン界の父」と言われた金栗四三さんです。

金栗さんは、1912年のストックホルムオリンピックに日本が初めて参加したときの、マラソンの代表選手です。当時、東京高等師範学校という今の筑波大学の前身の学生で、優勝候補の一人として期待されていたんですが、オリンピックでは力が出せずに、途中棄権という惨敗で帰ってくる。

それは箱根駅伝が始まる8年前の話ですが、金栗さんの頭には、その悔しさと、本格的に世界に通用する選手を育てなきゃだめだ。それには大会が必要だろうという考えがずうっとあったわけです。

そして箱根駅伝が始まる前年の大正8年(1919)に金栗さんをはじめ、東京高師教授の野口源三郎さんと第1回大会に走ることになる明治大学の沢田栄一さんの3人の陸上関係者で、何か大きなことをやってやろうという話が持ち上がった。当時、アメリカ大陸を横断した人はアメリカ人でもいない。日本の学生だけでリレーチームをつくってアメリカ大陸を横断して、世界をびっくりさせてやろうという途方もない計画を立てて、その代表選手を選考する予選会として、箱根駅伝が考えられたんです。

第1回大会には東京高師、早・慶・明の四大学が参加

水戸その呼びかけに手を挙げたのが東京高師、明治大学、早稲田大学、慶応大学の4校で、大正9年2月14、15日に、初めて箱根駅伝が行われた。そのときにはこの四校の参加なので、名称も、「四大校駅伝競走」と言っていました。

箱根が選ばれたのは、アメリカ大陸の横断が目的ですから、たとえばロッキー山脈だとか、険しい地帯を走ることを想定したのだと思います。

今から考えると、壮大なロマンといいますか、大きいことを考えたなと思います。

その2年後の大正11年には、明治大学と早稲田大学の選手が代表になって、2人で交代で走るということでアメリカに派遣されたんですけれど、早稲田の学生がサンフランシスコで暴漢に刺されて亡くなってしまった。

不幸な事件が起きてしまって、結局、アメリカ大陸横断は実現しなかったんです。

選手がそろわず砲丸投げやスキーの選手も参加

3区戸塚並木道付近での大接戦

3区戸塚並木道付近での大接戦
第18回大会(昭和12年)※

篠﨑第1回は、東京高師が大逆転で明治大学を破って優勝したそうですね。

水戸午後1時に有楽町の報知新聞前をスタートして、1位の明治が闇夜の中を松明を頼りに箱根に着いたのは、8時半を過ぎていました。

工藤第2回目からは東京農大、法政大、中央大あたりが出てきていますね。

横溝10人のメンバーが組めなくて、駅伝の選手ではなく、ほかの種目の選手を使ってチームを編成していた。

中央大学の監督をされた村上利明さんは、砲丸投げの選手だったんですけれども、第22回(昭和18年)と23回(昭和22年)の大会で箱根を走っています。

篠﨑長距離とは体型が違うんじゃないですか。

横溝砲丸投げでも、多少長い距離を走れたんでしょうね。

水戸当時は、陸上部だけではなく、スキーの距離の選手も走っていたようですね。スキーの距離をやっていれば走力はかなりあったんでしょう。作業用の地下足袋を競技用に改良したマラソン足袋を履いて走ったそうです。

横溝そういう時代に、新橋の人力車の車夫を駆り出して、選手として走らせた大学があった。実際は、学生じゃないんです。チームが組めないのと、足が速いということで、某大学のユニホームを着せられて走るんですが、長距離の選手らしからぬフォームなんです。常にわきに手がいって、走りながら「ほい、ほ、ほい」と自分で声をかける(笑)。それでばれたという話を聞きました。

水戸その件は、プロの職業選手がアマチュアの大会に出るのはおかしいということで、後で問題になるんです。

それと、当時はまだ車中心の時代ではないので、走るのは、当然選手のほうが速いですから、各中継の役員が選手を把握できない。常に追いかけられないので、途中で選手を入れかえてしまうこともあったそうです。(笑)

太平洋戦争の影響で計5年間大会を中断

篠﨑戦時中は大会が開催されませんでしたね。

水戸昭和16、17年の2年間と、昭和19、20、21年の3年間、計5年間ですね。16、17年は戦火が激しくなって、軍事物資を輸送する幹線道路の東海道が使えなかった。

篠﨑昭和16年の12月に太平洋戦争が始まりましたからね。

水戸その前年の昭和15年には、東京でオリンピックをやるはずだったんですが、それもつぶれていますし、日本、ドイツ、イタリアで三国同盟を結んだので、スポーツどころではないというので中断になったんです。

テレビ中継の開始によって人気スポーツに

篠﨑戦後は、昭和22年に10校が参加して第23回大会が再開されましたが、応援に出ている人たちもすごいですね。

水戸箱根駅伝は、今の学生スポーツの中でちょっと突出していると思うんですけれども、横溝さんたちが走っておられたころから、箱根駅伝に出たというのはステータスじゃなかったんですか。

横溝それはありますね。私は高校が横浜高校でしたので、箱根駅伝を走りたいという思いが非常に強かった。

水戸高校野球では、甲子園に出たというのが年を取ってからも言われるように、陸上競技では「箱根を走った」というのは大変なステータスです。最近は、それがもっと輝いているような気がしますね。

横溝特にテレビで放映されるようになってから、なおさらですね。

水戸箱根駅伝がグーンと人気になったのはテレビ放映の影響なんですよ。

箱根の山中の電波障害という問題をクリアした日本テレビが、昭和62年(1987)の第63回大会から生中継を始めたんです。これをきっかけに箱根駅伝は変わったと思うんです。

取材していて感じるのは、選手たちのやる気が全然違います。すごい刺激になりましたね。やっぱりテレビに映ると走りがいが違うんですね。

4大会に出場し中央大の6連覇に貢献

雪の5区箱根山中を走る中央大・中島輝雄選手

雪の5区箱根山中を走る中央大・中島輝雄選手
第38回大会(昭和37年)※

篠﨑横溝さんが最初に走られたのは昭和34年ですね。

横溝中央大学は、私が入学した当時、優勝したことも何回かあって、駅伝では名門校でした。それで1年生のときに、いきなり3区の戸塚から平塚までを走りました。このとき中央大は優勝したんですけれど、私は個人的には区間2位だった。

篠﨑区間賞は取れなかったんですね。

横溝非常に残念、悔しい思いをしました。

2年目は5区を走りました。現在の5区は風祭からのスタートですが、当時は小田原の町中からでしたので、今より3キロぐらい長い。一番の難コースだったんです。

水戸5区は国道1号線の最高地点である標高875メートルの芦之湯を越えて芦ノ湖畔までを駆け登る、過酷な区間です。登りで力を出しきると、その後のゴール前の約4キロある下りで、ペースが落ちてしまう。配分も難しいところです。

横溝誰しも山登りはきらうところなんです。チーム内で予選をしたんですが、誰も私の前に出ないんです。つまり、走りたくないんですよ。私の走りのフォームは必ずしも山登りに適していないんですが、どんどん走ってしまってエントリーされてしまった。

練習不足で山登りの5区で大ブレーキ

横溝実は当時、取り組んでいた3,000メートル障害で、膝をちょっと痛めてまして、十分な練習ができない状態だった。実際、自分でもちょっと辛いなという思いで走ったんです。自分ではあまり飛ばしているつもりはなかったんですが、練習不足はやっぱりどうにもならないことで、小涌園の先の恵明学園、一番厳しいあたりから、もう走れなくなって歩き始めた。大ブレーキしてしまったんです。今なら指導者がストップをかけてリタイアになるところですが、何とか励まされて、ようやくゴールにたどりついた。

当時は、この区間にかぎって伴走者が許されていたんです。私にはOBの西村良三さんという方がついてくれて、その人に引っ張られて走ったんですが、私自身はもう夢遊病者みたいで、隣で先輩が怒鳴っているのはわかるんですが、何を言っているかも全くわからなかったです。

たしか2位で走り始めたんですが、結果的には3位で、区間では8位でした。

3年の6区と4年のアンカーでは区間新記録

ゴールインする中央大のアンカー横溝選手

ゴールインする中央大のアンカー横溝選手
第38回大会(昭和37年)※

篠﨑チームの中でブレーキになってしまったときのお気持ちはいかがでした?

横溝もう自殺しようかなという思いでした。中大は絶対勝つといわれていたのが、翌日の新聞では、中大の優勝はなし、と書かれたのを覚えています。復路をどんなに頑張っても無理だろうと。

ところが、6・7・9区を区間賞で通過して、少しずつ差を詰めていって、結局、逆転して優勝したんです。このときこそ、本当に走り切ってよかったなと思いましたね。あそこで私がリタイアしていたら中央大学の6連覇はなかったんです。

3年目は6区の山下りで、区間新記録をつくりました。

篠﨑まさに雪辱ですね。それで4年生のときは?

横溝アンカーです。これは楽々、区間新記録でゴールさせていただきました。

好きな山下りを3年連続走る

篠﨑工藤さんは神奈川大学で、41回大会から3大会に出場されたんですね。

工藤私は高校を卒業して3年ほど仕事についたんです。箱根駅伝を走りたいという思いで会社を辞めまして大学に入ったのは21歳なんです。それで、6区の山下りを3回走りました。

私は細い体型ということもあるんですが、もともと下りが好きだったんです。当時、監督とかコーチとか、面倒を見てくれる方たちがいなかったので、本当に学生たちが主体で、好きな者が集まってやっていたというような状況でしたので、誰がどこを走るかなんていうのは、はっきり言って適当だったんです。

篠﨑僕はここがいいな、とか。

工藤はい。下りが好きだから俺はここがいい(笑)。ところが、中には登りはきついけれど、下りは楽だろうと思う人がいるわけです。下りをやりたいという者が4人ぐらいいた。じゃ、勝負しようといって走ったら、ほかの3人は1回やったら、もう懲りたと言ってやめました。それで結局私が一人残って、3年間走ったという感じでした。

水戸山下りを走った人に聞きましたが、次の日は歩けないらしいですね。

工藤初めてのときは、1週間、階段がまともにおりられなかった。足の裏は全部血まめになりました。横溝さんはどうでしたか。

横溝私の場合は膝と腰がだめになりまして、立っているのがやっとでした。治るのに1週間かかりました。下りは体重をかけますし、1時間近くがんがん行きますから。

走っているときは下りのほうが楽なんです。ところが、走り終えた後は下りのほうが辛いです。

工藤衝撃の反動が内臓に来るんですよ。

横溝山登りと山下りは、スペシャリストという言葉を使うんですが、要するに走り方、フォームなんです。登りはどちらかというと前傾姿勢で、ストライドを伸ばさずにピッチでいったほうがいい。下りは逆にストライドを伸ばしていく。私なんかは本来そういう走りじゃないんです。ですから、回復に1週間かかった。ところが、適している選手は2、3日で立ち直ってまた練習ができるんです。そういう意味でもスペシャリストと言えるのではないでしょうか。

気温が上がり給水が認められる

横溝昔の箱根は非常に寒かった。零下なんて珍しくなかったですよ。寒さ対策にもいろいろあって、真綿や油紙を腹に巻いたり、新聞紙とかも使った。

工藤雨のときは体にワセリンを塗ったり。先輩がいうことはみんな正しいと思ってなんでもやっていた。(笑)

水戸昔は、給水も認められていませんでしたしね。

篠﨑水を飲めなかったんですか。

水戸もともと駅伝は、水を飲んではいけないんです。マラソンではいいんですが、駅伝では助力行為に当たるということで認められていなかった。

ところが、箱根にも地球温暖化の影響があって、気温が高くなることが多く、選手が脱水症状を起こしてブレーキになるケースがここ10年ぐらいの間に何件か起きました。このままだと大会の運営にも支障が出るし、第一、選手の健康管理からも問題であるという声が関係者の中からも高まって、1997年を境にルールが変わったんです。今は沿道でペットボトルなんかを手渡しているでしょう。

高速化や練習のし過ぎで途中棄権が増える

水戸最近は高速化というか、前半から突っ込んでいくような走りをするでしょう。レースの質が、この10年の間に変わったと思うんですよ。ブレーキや途中棄権の原因には、そういうこともあるんじゃないでしょうか。

工藤うちの大学が棄権したのは、優勝する前年の72回大会です。平塚−小田原間の同じ4区で、うちと山梨学院大の二校が棄権した。

3キロぐらいのところでだめになったんです。原因は、医者に診てもらったら疲労骨折だった。長い間やっていますけれども、疲労骨折という言葉自体を、私たちは知らなかったんです。それが最近非常によく聞かれるようになっています。

篠﨑どうしてでしょう。

工藤私の考えですけれども、練習のし過ぎだと思います。今言われたように、スピード駅伝ということもありますけれども、箱根駅伝の20キロ以上の距離をしっかり走るために、どこの大学も、年間を通してかなりの距離を走っていると思います。

うちの大学の例をとりますと、夏休みの1か月間で、大体1,200キロ、1日平均40キロぐらい走っています。あとは学生が自主的に休んだりプラスアルファをやったりする。選手によって、800キロしか走らなかったり、あるいは1,200キロ以上走る学生もいる。

走ることは、もちろん自分の自信になります。他の学生よりも上を行っているという気持ちですね。すると、例えば700とか、800しか走らない選手は、そこで無理をすることがある。それが疲労骨折というところにつながってくるんだと思います。

横溝箱根での20キロという距離は、ごまかしがきかないんです。たとえば本番1週間前に少し風邪気味なんていう状況だとしても、そんな選手はふだん強いものですから、監督さんは風邪が治ったからということで走らせる。

10キロぐらいまではいいんですよ。ところがそれからガタンと落ちる。それが激しいとブレーキになってしまう。過去のブレーキではそういう選手も多いです。

「たすき」の重みとプレッシャー

7区国府津海岸付近を走る日大・横山和五郎選手

7区国府津海岸付近を走る日大・横山和五郎選手
第33回大会(昭和32年)※

篠﨑駅伝は「たすき」をつないでいく独特の競技ですね。これは精神的にどういう違いがあるのでしょうか。

横溝私自身の5区を走ったときのブレーキのことを言いましたが、個人種目だったらやめていたと思うんです。

後にまだ走る選手がいるわけです。たすきを何とか最後まで運ばなければ、チームの成績は残らないというのが頭の中にあった。たすきの重みですね。

途中棄権にはいろいろなケースがありますけれど、箱根でブレーキした選手は、それ以降ほとんど立ち直っていないんです。もう競技会に出てきていないです。私もあれでやめていたら、恐らく現在、陸上の世界にいなかったと思います。

水戸たすきがつなげないということは、記録がまったく残らないということですからね。

横溝本人の記録はもちろん、学校全体の記録も残らない。そのプレッシャーが強過ぎるんじゃないですか。選手を育てるという意味では、給水も、何でもっと早く認めなかったのかというふうに感じます。

水戸僕もそう思います。箱根でつぶれちゃうと、それだけ精神的なダメージが大きいんですよ。それに、全国放映でテレビでみんな流れてしまいますから、そこから精神的に立ち直るのは、よほどの強さがないと。

篠﨑たすきをつなぐってマイナスとプラス両面の作用があるわけですね。

エースが登場する「華の2区」

篠﨑2区はブレーキも多いところですが、なぜ「華の2区」なんですか。

横溝まず難コースです。後半に山登りがあるので、相当の走力がないと、あそこを走り込むのは難しいんです。あれだけの山なんですけど、後半に山があるのはものすごく疲れるんです。

水戸登りは20キロぐらいからゴールまで続きますね。

横溝ええ。でもその前に14キロから2キロ続く権太坂の起伏が難関ですね。ずっと登りっ放しだったらまた違うんですが、下がったらまた上がる。変化が激しくて非常にリズムがとりづらいんです。グーッと登ったらストンと落ちて、平均して走れないことが、体調を崩す大きな原因になるんです。だから、相当走力がないと走れない。距離も一番長いですから、ここでかせいだチームが大体上位に入ってきますので、活躍できない学校は、後半で非常に苦しくなります。

工藤各校のエースが走る区間ですね。

横溝ほぼ90%、エースが2区を走りますね。

水戸2区はコースが厳しいから、エースを持っている大学と、持っていない大学とでは、ここで5分ぐらい差がついちゃうんです。ほかの区間ではせいぜい1分とか、1分半ぐらいでとどめられるところを、2区だけは大きくついちゃう。差がつくのは山登りですね。

工藤そこにどのぐらいの学生を配置できるか。

篠﨑監督としてはそういうことですか。

工藤予選会から初めて上がってくると、どこを誰にということで非常に頭を悩ませます。選手がそろってきて、適材適所で張りつけられるようなチーム状況になったら、これは強いと思います。

監督として神奈川大学を2年連続優勝に導く

2連覇を達成した神奈川大

2連覇を達成した神奈川大
中央左下・工藤総監督
第74回大会(平成10年)※

篠﨑工藤さんが監督をやられるようになったのは、何年からですか。

工藤私は43年に卒業したのと同時に大学に残させていただいて、それからずうっとかかわり合いを持たせていただいたんです。

神奈川大学は昭和11年の第17回大会に、前身の横浜専門学校の陸上部が初出場して、戦後は昭和25年に神奈川大学として出場しています。連続出場していた時期もあったのですけれど、50回の記念大会(昭和49年)を最後に、18年間途切れていた。私が監督になったのは、ちょうどそのころだったんです。そんなわけで、当時は、大学としてはそんなに駅伝に力を入れていませんでした。

成績も、過去には7位になったこともありましたが、10位以下が多くて、私が選手として出たときも、最下位、14位、12位でした。そんな学校でも、先輩たちにしてみたら、それなりに大変なことだったと思うんですよ。

ある意味で伝統のある大学ということで、OBの方とかいろんな思いを持っている方たちからの声も強くなって、昭和63年に大学のスポーツの推薦制度ができました。そこから学生を採り始めて、今日に至っているんです。

篠﨑監督として2年連続優勝されましたが、どうやって強くされたのですか。

工藤神奈川県内の高校にはよく行きました。箱根駅伝をやりたいので、学生をぜひうちの大学に、とお願いするんですが、全然わかってもらえない。そのころ神奈川大学はずっと出ていませんでしたので、駅伝を目指すと言っても、ピンときていないような雰囲気でしたね。それでも何とか来てくれる学生さんを集めてやり始めたんです。

優秀な学生が来れば、例えば10のところを5からスタートできる。ところが、うちの学生は、はっきり言ってゼロからのスタートというくらいレベルの差があったと思います。

私自身も箱根を走りましたので、この子たちが4年間のうち1回でもいいから箱根駅伝で走って、あの感動を、すばらしい雰囲気を味わってほしいなということで一生懸命やりました。

篠﨑生徒たちにも素質があったのでしょうね。

工藤手はかかりましたけれど、とにかく、やればどんどん強くなりました。難しいことは全然考えないで、ただ走れ、走れでしたね(笑)。現在、監督をつとめている大後栄治コーチも、科学的トレーニングで随分協力してくれました。

素直に指導者に従いレベルを高める

横溝ほかの強いチームを見ていると、大体高校の一線級の選手ばかり集めているんですよ。彼らは自分なりに持っているものがあります。自分のやり方というのがあるんですね。ですから、そういう意味では素直さがあまりない選手もいて、指導者の言うことも聞かないで、それである時になると伸び悩むんです。そうすると落ち込みが激しいんです。

神大さんは、一線級の選手が採れない分、高校のチームでも4番目、5番目だった学生を採るわけです。それが、素直に指導者の指導を忠実に守って、記録が伸びるたびにレベルを高く上げていった。これが神大の強さなんですよ。

指導者もやっぱり人間ですから、手のかからない子を採りたいんですよ。ところが、それが意外と落とし穴になることもあります。

水戸それはよくわかりますね。

横溝神大が今、ようやく全国区になり、神奈川県外からもどんどん強い選手が来るようになって、逆に弱くなったというのは、そういう部分もあるんじゃないかなと思います。

3大大学駅伝の中で箱根は別格

篠﨑大学駅伝には、全日本大学対抗駅伝選手権大会(名古屋)と、全日本大学学生選抜駅伝(出雲)、そして箱根駅伝と、1年間で3つの大きな大会がありますね。

横溝箱根以外の2つの大会は、全日本とは言っても、実際は距離も短いですし、正直いって箱根駅伝の参考にはなりませんので、各大学ともさほど注目していないんじゃないですか。全日本ということで大きく感じますが、レベルは箱根のほうがずっと上なんです。

水戸現在、全国の高校生の優秀な競技者は、みんな関東に集まっているのが現実です。極端な言い方をすると、将来、世界を目指したり、日本のトップを目指す選手は、今ほとんど関東の大学に来ている。その中でも精鋭だけが箱根を走れるんです。だから箱根は、まさに学生の競技会の頂点なんですよ。

80回大会から参加校が正式に20校に

初めて箱根で行われた第80回大会の予選会

初めて箱根で行われた第80回大会の予選会
神奈川大学提供

水戸箱根駅伝は従来、前年に9位までに入った学校がシードされて、予選会で6番までに入ったチームを加えて15校でやっていました。過去には50、60、70回の記念大会で20校がありますが、原則は15校でした。

ところが箱根駅伝に出たい学校がふえて、参加校の枠を広げてほしいと、多くの大学からの要望があったんです。それに応えて、80回大会になったら20校にふやそうということで、準備段階として今年から20校になった。

プラス5校をどうやって決めるかというと、まず、シードが1校ふえて上位10校です。

残り10チームは予選会で9校、あと1つは全日本学連選抜というチームをつくる。予選会では、9校のうち6校は無条件に順番で決めて、残り3校を選ぶのに、新しくポイント制というのが導入されたんです。

横溝陸上競技にはトラックにもフィールドにもさまざまな種目があるにもかかわらず、ある大学は駅伝だけしかやらないという現象がある。これではスポーツの発展につながらない。どこの大学も全種目をやってもらいたいということで、関東大学選手権での得点をタイムに換算して差し引きましょうという制度なんです。

何が起こるか分からない緊張感の中で取材

篠﨑水戸さんは長年、駅伝の取材をされてますね。

水戸私は1971年に読売新聞に入って、78年に運動部に配属されてから陸上競技をずっと見ています。25年ぐらいですね。

箱根駅伝は、1979年、瀬古利彦さんが大学3年生のときが初めてで、それ以来ずっとですが、とにかく陸上競技の取材の中で一番スリルがあっておもしろいのは駅伝です。

我々は報道車に乗って後ろからついていくわけですけれど、選手の走っているのを間近に見られますから一番楽しいですね。そのかわり何が起きるか分からないので、ずうっと無線を聞きながらレースの状況をメモして、駅伝の隊列の車の中から原稿を送ったりするわけです。

今は携帯電話にパソコンをつないで原稿を送りますが、携帯のない頃、青森−東京間の駅伝では、レース中に夕刊の締切時間になると車を止めて、沿道の商店に飛び込んで電話を借りたりしました。

篠﨑なぜ駅伝がそんなにおもしろいんでしょうか。

水戸やっぱり生だからですよ。どのスポーツも生は生ですけれど、スタジアムスポーツと私は言っているんですが、野球やサッカーは、競技場へ我々が出かけるじゃないですか。ところが、駅伝とかマラソンは一般の公道でやっているから、ただで観に行ける。音楽会で言えば、コンサート会場に行くのと、野外ライブで聴くのとでは親近感が全然違うのと似ています。

篠﨑生の姿を見ると、本当に感動しますよね。

箱根の次はオリンピックを目指す

水戸たくましく鍛えた足の筋肉も見られるし、息づかいも聞こえる。あれは生の道路スポーツならではの魅力じゃないですか。あの臨場感は、ほかのスポーツにはない、非常に魅力的なところです。

横溝それに10人が走るわけですから、予想しても予想し切れない部分もあります。

水戸意外性ですね。それと、箱根に出た選手はみんな将来はオリンピックを目指すわけです。2000年のシドニーオリンピックまでに、箱根駅伝を走って、その後オリンピック代表になった人は、14大学で58人に上るんです。マラソンだけじゃなく10,000メートルや5,000メートルに出た人もいます。横溝さんも、箱根を走られた後、東京オリンピックの3,000メートル障害に出場されています。

思い出に残る選手――山下りの谷口、最終区の昼田選手ら

篠﨑思い出に残っている選手では、どんな方がいますか。

水戸日体大で活躍した谷口浩美さん。

横溝山下りですね。

水戸1992年のバルセロナオリンピックのマラソンで、途中で靴が脱げて、「こけちゃいました」と言った選手です。彼は、工藤さんと同じように山下りの専門家だった。ものすごく速くて、57分47秒で下ったんです。

横溝そうです。58分を切ったんです。

水戸あのときは区間新記録でした。彼は旭化成に行って本格的にマラソンをやったんですけれど、あんなに強くなるとは実は思わなかった。箱根の山下りは脱兎のように駆けおりてきましたね。

横溝早稲田大学に昼田哲士という選手がいました。第30回大会(昭和29年)の最終区で、失神状態でつぶれかけて、途中でやめるような状況になったんです。

そのとき監督をされていた中村清先生が伴走車から降りてきて、メガホンを使って早稲田の校歌を歌った。そこでいきなりガッと生き返り、走り切ったという歴史的な話があるんです。それを聞いて、非常に感動したんです。

抜群の強さを誇った瀬古選手

2区を走る早稲田大・瀬古利彦、日体大・中村孝生選手

2区を走る早稲田大・瀬古利彦、日体大・中村孝生選手
第55回大会(昭和54年)※

横溝強いというイメージでは瀬古選手ですね。道路走りと言いまして、彼の走りはトラックよりも道路に適しているんですよ。「華の2区」で見事記録を出しましたし、その強さは抜群でしたね。

水戸瀬古選手のスピードはすごかったですね。高校のときに、800メートル、1,500メートルで2年連続優勝していて、鳴り物入りで早稲田に入った。そこで、中距離をやめてマラソンをやれと中村清先生に言われて、駅伝を走るようになったんですけれども、やはり強かったですよ。

工藤私は、高校時代から、横溝さんに本当にあこがれていたんです。私は鶴見工業高校で、横溝さんの横浜高校は一応ライバル校でしたから。

最近ですと、ごぼう抜きした選手たちですね。たとえば順天堂の三代直樹君とか早稲田の渡辺康幸君。

篠﨑ごぼう抜きの最高は何人ですか。

横溝20チームが参加した今年の大会で、2区を走った順天堂の中川拓郎君が、19位でたすきを受けて4位で渡しました。ですから15人抜いたわけです。これが、これまでの最高ですね。

工藤それまでは、昭和49年に東京農大の服部誠君が、2区で12人抜いたのが最高でした。そして今年、関東学院の尾田君が12人抜いて服部君に並びました。ごぼう抜きは、ほとんど「華の2区」で生れています。

駅伝の醍醐味だった伴走車

篠﨑最後に、駅伝の魅力と、80回を迎えてのご感想はいかがでしょうか。

横溝駅伝には、もともと伴走車というのがあったんですが、交通事情の理由で昭和64年に廃止された。

中村先生が早稲田の校歌を歌って蘇えらせたという話をしましたが、あれは伴走車がなければできないことなんです。車に監督さんなりコーチが乗って指導するわけです。「おまえ、ちょっと速過ぎるよ。後ろから来ているけど」と。それが今は、個人個人自分のストップウォッチを押しながら勝手に走っている。携帯電話を使って同僚が沿道で指示はしていますけれど、何となく事務的で冷たいような印象があるんですね。伴走車からの采配によって、順位も個人の成績も変わってくるというのが駅伝の醍醐味、魅力だと私は思っていましたので、あれがなくなったことは寂しい。何とか復活できないかと思うんです。

工藤80回という歴史の中には、いろいろなドラマがあったと思います。最近の駅伝で私自身が感じるのは、何か商業主義みたいな雰囲気にとられがちな部分も結構出てきているんですね。純粋な学生スポーツの域を少し超えているんじゃないかなという部分があるんですよ。

子どもたちがスポーツに興味をもつきっかけに

水戸箱根駅伝のすばらしさというのは、80年間、沿道で子供たちが、そのイベントをずうっと見てきたわけです。スポーツに対する興味はそれぞれきっかけみたいなのがあると思うんですけれど、目の前で走っている選手の姿を見ることに子供たちが感動して、スポーツのすばらしさを触発されたと思うんです。そういう意味では、箱根は非常に大事なイベントだと思うんです。そのことがどれだけ子供たちを勇気づけてきたのか。スポーツに対する興味の動機づけもしてきたんじゃないかなと思うんです。

大正時代からずっとたすきをつなげてきて、80回大会という記念大会を迎えたわけですから、できれば今後も、みんなで育てて、見守ってずうっと続くようにしてほしいと思うんです。

横溝今年の予選会では、拓殖大学が4秒差で本戦出場の望みを断たれたわけで、各校の実力は伯仲しています。

篠﨑来年のレースも楽しみですね。どうもありがとうございました。

横溝三郎(よこみぞ さぶろう)

1939年横浜市生れ。

工藤伸光(くどう のぶみつ)

1942年川崎市生れ。

水戸英夫(みと ひでお)

1949年宮城県生れ。

※「有鄰」433号本紙では1~3ページに掲載されています。

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