Web版 有鄰

430平成15年9月10日発行

有鄰――かならず仲間がいるよ – 特集1

高島俊男

有隣堂さんから原稿の御注文をいただいた。

有名な本屋さんですね。小生は兵庫県の住人だが、でも「横浜の有隣堂」と言えば知ってますもの。その上、数ならぬ小生の本をとりそろえていて、よく売ってくださるのだそうな。ありがたいことです。もう日ごろから、横浜のほうへは足をむけて寝られないと思っております、ハイ。

御注文といっしょに、情報紙『有鄰』をお送りくださった。

第1面の最上段中央に、武者小路実篤先生の風格ある字で、「有鄰」という題号がドンとすわってますね。その左右に説明がついている。

きょうは、この「有鄰」ということばについてお話をいたしましょう。――なお、この「有鄰」の鄰の字と、有隣堂の隣の字とは、ちょっとちがうけれど、おなじ字です。そのことはあとでゆっくり申しましょう。

題号右がわの説明にあるように、「有鄰」というのは『論語』に見えることばです。論語のなかでも有名な一節だ。

で、その本文はと言えば、「子曰徳不孤必有鄰」と、これで全部です。「子曰」(先生がこうおっしゃった)というきまり文句をのぞけば、たったの6字。短いほうではトップクラスです。意味は、「りっぱな心がけの人が一人ぽっちということはない、かならず仲間がいる」ということですね。

むかしから、学校や本屋さんなどの名には論語からとったものが多い。というのは、学校や書店はもちろん学問と関係が深い。そして論語は学問の総本山みたいに考えられていたからです。

また論語には、校名や店名にふさわしいことばが多い。たとえば冒頭の「学而時習之」。ここからとったのが「学習院」ですね。「時習館」という学校もある。

本屋さんで一番有名なのは三省堂でしょうね。「吾日三省吾身」(毎日毎日何度もわが身を反省する)からとったものだ。

なかでも「有鄰(隣)」というのは、学校や本屋さんの名にぴったりだ。たとえば本屋さんなら、「本を読んで勉強しようとする君、君は決して一人じゃないよ、ウチのお客さんには、君とおなじ志をもつ人たちがたくさんいます」とそういう意味になりますね。

となりの意味は「おなじものがならんでいる」

高島俊男氏・著書画像

高島俊男氏・著書画像

この鄰(隣)の字には「となり」という部分があるが、この部分をもつことばは、本来みなおなじ意味です。それは「おなじものがならんでいる」という意味だ。

それが一番わかりやすいのは「鱗」つまり魚のウロコですね。おなじようなのがズラッとならんでいる。そういうようすが「となり」。このばあいは魚だから、魚へんをつけてあるわけです。

それから「燐」というのは人魂(火の玉とも言う)ですね。小生まだ人魂の実物を見たことがないのだが、あれは2つ3つ、あるいは4つ5つとつながって飛ぶものなんだそうです。色は青だそうだから、ガスコンロの火の大きいの、と思えばいいのでしょう。火だから火へんをつけて「燐」。

そういうわけで鄰・隣はおなじような家がならんでいることです。日本語で「となり」と言うと両側の2軒だけを指すみたいだが、無論そうじゃない。近くにある家はみな鄰・隣である。そういうことから意味がひろがって、家だけでなく、むかしの辞書が「近也、親也」(ちかいこと、したしいこと)と説明するように、一般に近い親しい関係にある人やものをも言うようになった。

論語の「必有鄰」の「鄰」はまさしくその意味ですね。家ではなく、「おなじ志をもつ仲間」つまり人を指している。

本紙題号の横にこの「鄰」を「村里の意」と書いてあるが、これはいけませんね。「鄰」は家がかたまってあることだから、集落の意にもちいることもあるが、しかしここは論語の「必有鄰」の説明なんですからね。「よい心がけの人が一人ぽっちということはありません。きっと村里がある」では意味をなさない。

どうしてこれまでだれも気がつかなかったのだろう。不思議ですね。

こざとの意味は「人があつまって住んでいるところ」

鄰と隣とは同じ字だと上に申しあげた。元来は鄰であったようです。漢字の御本家中国では一貫して鄰のほうをもちいることが多いし、『廣韻』や『康熙字典』などむかしの権威ある字典でも「隣は俗字」としてあるので、題号の横の説明を書いたかたは鄰を「正字」となさったのでしょう。しかし日本では、従前から「隣」のほうがよくもちいられてきました。

この「こざと」という字(というか、字の部分ですね)は、本来は、字の左がわにあるこざとと右がわにあるこざととは別の字なのです。

右がわのこざとは、もとは「邑」の字で、これが簡略化されて「こざと」になった。「人があつまって住んでいるところ」の意です。都、郡、郷、邦などはごくわかりやすいですね。一見したところでは、どうしてこれが「人のあつまっているところ」なのかわからない字――郵とか郎とか邪とか――もありますが、これらも、一つ一つの字についてしらべてみると、もとはみな人があつまっているところ――たとえば町の名だとか、宿場だとか――をあらわすことばだったのです。

だから鄰は、家がかたまっているところ、近隣の家々、ということになるわけですね。

つぎに、左がわのこざとはもとは「阜」の字(岐阜県の阜です)で、これが簡略化されて「こざと」になった。もともとちがう字が、簡略化によっておなじ形になっちゃったわけです。

この「阜」は、「地面が高くなっているところ」の意です。「陸」や「階」はわかりやすい例ですね。「防」などはちょっとわかりにくいが、「堤防」としてみればわかる。川のつつみです。高くなってますね。川のつつみは水のはんらんをふせぐから、それで「ふせぐ」という意味にもちいられるようになった。

そんなふうに、左がわにこざとのつく字は、もとをただせばみな「地面の高み」「土を盛りあげたところ」です。

むかしの中国の町や村は、そのまわりを、土を盛りあげてかこんであった。一つ一つの家もそうであった。もちろん家のまわりのかこみは、町や村のかこみにくらべると低くて簡略ですが、でも一応は土でかこみをつくるのがふつうでありました。まあつまり、日本の家の垣根にあたるものが、中国では土壁であったわけだ。そういう土壁の家がいくつもつらなっている、と解釈してこざとが左にある「隣」の字が書かれたわけだから、この隣のほうだってちゃんと由緒はあるのです。

「鄰」と「隣」は配置が移動しても同字

鄰と隣とは同じことですが、こんなふうに、字を構成する部分品の配置関係がかわっても同字である、ということはよくあります。

たとえば峰という字。この左がわの山を上にのせて峯としてもおなじことです。どちらが正しくてどちらがまちがいということはない。まったく同資格です。

あるいは音楽鑑賞の鑑という字。この左がわの金を下へ移動して鑒としてもおなじ字です。

あるいは裏と裡。衣と里のくみあわせで、裡はそれが横にならんだもの、裏は里が衣のなかにわりこんだものだが、おなじ字です。

ただし、つねにそうであるとはかぎりませんよ。

たとえば細の字。この左がわの糸を下へ移動すると累。これは累積赤字などの累で、全然別の字になっちゃう。

あるいは忙と忘。リッシンベンは心が形をかえたものだからおなじことなのですが、でも「忙」の左がわを下へもってきて「忘」としたら、別の字になります。まあ忙しいから忘れるんだ、とリクツはつくかもしれませんけど――。

鄰と隣は、移動しても同字、のほうなのでした。

高島俊男
高島俊男 (たかしま としお)

1937年生れ。兵庫県出身。中国語学・中国文学専攻。
著書『李白と杜甫』 講談社学術文庫 1,150円+税、『本が好き、悪口言うのはもっと好き』 文春文庫 543円+税、『漢字と日本人』 文春新書 820円+税、『お言葉ですが…』1~7 文藝春秋、ほか多数。

※「有鄰」430号本紙では1ページに掲載されています。

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