表題からも、「本さえあればこの世は極楽!」という帯のフレーズからも「本を紹介した本」に見えるし、そうには違いないが、その手の類書とは大きく違う点がある。
一つは、本の内容と、自らの旅や冒険旅行の体験を重ねて書いていること。だいたい以前から読みたくてたまらなかった河口慧海『チベット旅行記』(講談社学術文庫)をチベット行くまで我慢して読まず、その間、先に行った友人たちが、「いや面白かった。旅もよかったが、あの本の面白いこと」と言うのが、<地団駄踏むくらいに悔しかった>という著者である。
第二には、この本について<慧海はどのようにして仏教の経典を求めたのか? などということよりも「何を食っていたのか」というのに興味を向けてしまう>と書いているように、全編を通じた食へのこだわり。章題も「チベットとアマゾンの日常食」「大ねずみとナツメヤシ」「ヘビ食い」など、ほとんど食につながっている。
とどめは、やはり「アワビよもやまわたくし話」で能登半島輪島の朝市の、おばさんたちの激しい呼び込みを<店のおばさんと目があったら、「もうダメ!」というかんじである>と書くシーナ節の面白さだろう。
この作品は、すぐれた短編小説に贈られる川端康成文学賞を、当年90歳になった作者が受賞した異例の作品だ。アルツハイマーとなった妻との切実な日常を描いた記録である。アルツハイマーを扱った小説といえば、有吉佐和子の『恍惚の人』を想起するが、青山氏の作品は永年連れそった妻のことだけに、迫真性が強い。
作者と等身大の主人公杉圭介のもとに、女性編集者が現行受け取りに訪ねた場面から始まる。妻の杏子がお盆にお茶を用意して現われる。「つまらない物ですけど。」そう言って杏子が差し出す盆の中には、彼女の薬品が載せてある。杏子はそれを菓子と思っているのだ。
錯乱はその程度にとどまらない。玄関の下駄箱に化粧品が並んでいるかと思うと、食器棚には靴やスリッパが。排泄物もトイレの容器の中に始末されないようになる。
圭介と杏子は相思相愛の恋愛結婚だった。圭介がまだ学生のころだ。2人を結びつけたのはドルドラ作曲の「スーヴニール」という曲だった。喫茶店で数十年ぶりにその曲を耳にしたとき、杏子は異常な反応を示す。……一つの愛を責任を持って全うする作者の姿勢に感動を禁じ得ない。
主人公の来栖は、妻と離婚して独身の医師。亡母の遺産を引き継いだ銀座の料亭をこわし、その跡に高級ケアマンション「ヴィラ・エ・アロール」を建てて経営するかたわら、そこの診療所長となっている。小説は、そこに入所している高齢男女の、老いてなお衰えることのないエロチシズムの生態を描く。
最初の話柄は堀内という82、3歳のの男の老人の事故だ。「大変です……」という介護主任からの電話で駆けつけると、堀内はもうこと切れていた・心臓麻痺らしい。堀内は新橋のヘルス嬢が好きだった。その願いを入れて、部屋に招くことを、来栖は許可していた。この日、若いヘルス嬢と性戯にたわむれている最中、堀内は発作を起こしたというのである。
高級マンションだけに生活に困らない高齢者のみ入所している。そのせいか、どの男女も色事に夢中だ。夫婦で入所したものの、所内で別居して浮気を楽しんでいる老女、ポルノ映画を楽しむ老人……。もちろん主人公にも愛人がいる。
エ・アロールというのは、「それがどうしたの」というフランス語。ミッテラン大統領が愛人に子供がいることを新聞記者に聞かれて答えたセリフだ。
太平洋戦争末期、敵艦敵機に体当たり攻撃をかけるべく出撃した若き特攻隊員の、生命の痛烈な燃焼を記録した鎮魂歌。著者自身、薩南の特攻基地知覧で陸軍航空隊員として青春の日々を共にした体験をもつだけに、日記や遺書、インタビューだどによって再現される特攻隊員たちの最後は、涙なしに読むことができない。
感動させられるのは若者たちすべての至純の心である。特攻隊員たちはだれもが、愛する両親やきょうだい、恋人のため、そして手を振って出撃を見送ってくれた名も知らぬ子供たちのために国を護ろうと飛び立っていったのだ。砲煙の中、敵空母に体当たりする。B29爆撃機に馬乗りになって、これを撃墜した少年兵もいた。
一読して気づかされたのは彼らの念願はただ一つ、敵の攻撃から国を護ることであって、天皇陛下のために死ぬ、という言葉はどこにも見られない。
特攻作戦については、参謀本部内に、作戦上の見地から批判もあった。少数意見として抹殺されたが、卑怯者として処分されることはなかったというのは、唯一の救いだ。戦後、フランスの有名な作家で抵抗運動の闘士でもあったアンドレ・マルローは、特攻隊の精神と行動を「崇高な美学」と称賛したという。
(S・F)
※「有鄰」430号本紙では5ページに掲載されています。