Web版 有鄰

430平成15年9月10日発行

[座談会]中世鎌倉の発掘
仏法寺跡と由比ヶ浜南遺跡をめぐって

鎌倉考古学研究所所長/齋木秀雄
神奈川県立金沢文庫主任学芸員/西岡芳文
聖マリアンナ医科大学教授・医学博士/平田和明
鎌倉国宝館副館長/松尾宣方

左から齋木秀雄・平田和明・松尾宣方・西岡芳文の各氏

左から齋木秀雄・平田和明・松尾宣方・西岡芳文の各氏

※は鎌倉市教育委員会、※※は由比ヶ浜南遺跡発掘調査団提供

はじめに

編集部中世の鎌倉は、近年の発掘調査によって、従来の文献からだけではわかりにくかった都市のあり方や、庶民生活の実態が次第に明らかにされてきました。

本紙では、これまで鎌倉で行われた発掘調査の成果の幾つかを紹介させていただいております。本日は、平成12年度と13年度に、世界遺産登録に向けて鎌倉の山稜部で実施された調査のうち、仏法寺跡の成果と平成7年から調査が行われ、大量に出土した人骨の分析結果が明らかになった由比ヶ浜南遺跡を中心に、お話をお聞かせいただきたいと思います。

ご出席いただきました齋木秀雄さんは、鎌倉考古学研究所所長、鎌倉遺跡調査会代表でいらっしゃいます。由比ヶ浜南遺跡では発掘調査団長を務められました。

西岡芳文さんは、神奈川県立金沢文庫主任学芸員で、中世史をご専攻です。金沢文庫があります横浜市・称名寺は仏法寺と同じ真言律宗ですので、仏教史の面からのお話もお聞かせいただきたいと存じます。

平田和明さんは、聖マリアンナ医科大学解剖学教室教授でいらっしゃいます。由比ヶ浜から見つかった人骨の鑑定を担当されましたので、分析結果などをご紹介いただきたいと思います。

松尾宣方さんは鎌倉市教育委員会で長年にわたり鎌倉の各所で行われた発掘調査に携わられ、また山稜部に残る要害遺跡などの調査をされました。現在、鎌倉国宝館副館長でいらっしゃいます。

要害遺構が山稜部につくられたのは13世紀後半

松尾鎌倉では世界遺産登録を目指してさまざまな事業を行っており、文化財調査もそのひとつです。

従来、鎌倉は三方を山に囲まれ、一方が海に面し、攻めるにかたく守るにやすいという地形的条件が、源頼朝がここに幕府を開いた最大の要因だと言われておりました。

『吾妻鏡』にもそういう表現がありますが、ただ、実際にはそれについての具体的な調査例がなかった。また平成12年当時、要害に立地した城塞都市であるということを、鎌倉の大きな特性として世界遺産登録をという運動がありました。そのバックデータを得るためにも調査を行ったわけです。

調査は鎌倉を囲む山を、七切通と東勝寺、釈迦堂口の中央部の各要所を中心に8つの地区に分けまして、それぞれの周辺の山稜部の中に約百三十か所の調査区を設定して行いました。調査区の面積は、約2,300平方メートルありました。その結果、いわゆる要害遺構が多数検出され、祭祀と葬送に関する遺構も数多く見つかっております。

祭祀の遺構については、塚を中心にした遺構、葬送遺構につきましては、荼毘の跡が何か所も見つかっています。主として仮粧坂と名越坂のあたりに荼毘の跡が発見されました。

その他、岩盤を加工して石塔をつくるような生産場所も発見されております。つまり鎌倉の山は防衛的な側面だけではなくて、宗教的な側面、生産的な側面もあるということで、鎌倉市街地と一体となった場所であることが確認されたわけです。

掘割や平場など山城特有の遺構が鎌倉西部に集中

松尾要害遺構の代表的なものとして、桝形遺構があります。土塁を方形に囲んで形成する。これは元来は城門の外につくるものですが、それを山の中でもつくったことがわかりました。

同時に、山稜部を、稜線を断ち割るような掘割の跡、山腹部に形成された平場、そういう山城特有の遺構も数多く見つかっております。その多くが極楽寺坂、大仏坂、仮粧坂、巨福呂坂にかかる、主として鎌倉の西部、つまり、京都の方面を向いたあたりに集中している。それと、東勝寺を中心とする区域にも集中していた。ですから、実際に戦争があった場所に防衛遺構が多くあったという結果になるわけです。

編集部東勝寺は北条高時が最後に立て籠もった葛西ヶ谷のところですね。

松尾はい。多くの要害遺構は山の中なので、遺物は少ないんですが、それでも数十点が収集されました。その一番古いのが13世紀の後半代のものを上限とする遺物でした。

ですから、頼朝が鎌倉に入るときに、要害の地として築いたのではなくて、もっと時代が下がった13世紀の後半になって初めて鎌倉の山に人工的な手を加えて、要害遺構をつくったということが、今回わかったわけです。

仏法寺跡と忍性の雨乞い池を発見

極楽寺境内絵図(部分)

極楽寺境内絵図(部分)
極楽寺蔵

松尾最も注目すべき成果は極楽寺の切通の南側に霊山山という地域がありますが、その山中で極楽寺の支院の一つである仏法寺という寺院の跡が発見されたことです。

場所は、坂ノ下地区の海岸に面した山の中腹です。そこに人工的な平地があることがわかり調査しようということになりました。

これは東西が30メートル、南北70メートルほどの規模の平地で、鎌倉の海岸線、由比ヶ浜、和賀江嶋を眼下に見下ろす眺望が可能な場所です。

仏法寺につきましては、その後、平成13年に再度調査を行い、建物跡が発見されました。それは安山岩の礎石を伴う建物で、山が崩れた中に少し入り込んでいますので、全容はわかりませんが、東西二間で6メートル以上、南北四間で12メートル以上の規模を持つ礎石建物が発見されました。また、年代は下がりますが、二間四方の柱穴2メートルの建物跡も発見されている。

極楽寺境内絵図の一番下、南側に仏法寺と書かれています。その建物の向かって右わきに、請雨池があります。雨乞いの池だと思いますけれども、元徳元年(1329)に成立したという『極楽寺縁起』をみますと、忍性の雨乞いの場所として、田辺(鎌倉市七里ヶ浜)と江ノ島と霊山の3か所を選定している。ですから、これは忍性の雨乞池といわれています。

池の範囲は推定もありますが、東西6メートル、南北8メートル、水深は2メートルのハート形をした、ちょうど境内絵図に描かれたような形です。池の中に堆積している土層は2つに分かれまして、一番下の、池の底に堆積している層から出てくる遺物は13世紀の後半期、その上の中間に堆積している層からは14世紀の末から15世紀にかけての遺物が出土し、大きく2つの時期に分かれます。ここから約千点の柿経(薄い板に書かれたお経)が発見され、そのほとんどに法華経が書かれている。

池の底からは、箱根から採取されたと思われる、溶岩が含まれた礫岩が幾つも見つかりました。同じような礫岩は永福寺でも見つかっていますが、庭石に使ったんだろうと思われます。

14世紀末には塚や桝形遺構の土塁に石塔が収納される

松尾先ほど申しました桝形遺構の代表例としては、極楽寺の切通をはさんで両側に発見されたんですが、北側に一升桝、南側に極楽寺を見下ろす成就院の上に五合桝という名前の桝形遺構がつくられております。いずれも13世紀の後半期につくられたことが、かわらけや卸ろし皿などの出土遺物からわかります。

石塔を埋納した塚 (仏法寺跡出土)

石塔を埋納した塚 (仏法寺跡出土)※

そして、塚もその周辺から多く見つかりました。極めて大きな塚も見つかり、その中には13世紀から16世紀ぐらいにかけての石塔類がたくさん中に入っていた。五合桝の土塁も、14世紀の末ぐらいに土塁を削って、その中に石塔を収納する。五合桝の南側にも、雛壇状に造成したところに多数の石塔が集積されている。一か所に集めたりとか、塚の中に収納したりすることが今回の調査でわかったわけです。

さらに少し年代がたって、もっと具体的に言えば、元弘の乱(元弘3年=1333)が終わって、供養のためでしょうか、いろいろな石塔がそういうところに祀られていく現象がみられます。元弘3年11月の銘が入った五輪塔も見つかっていますので、仏法寺周辺は、この戦いで亡くなった人々を供養する場にもなったと思います。

極楽寺は福祉、土木、建設などの機能を持つコンビナート

極楽寺周辺の遺跡地図

極楽寺周辺の遺跡地図※(画像をクリックして拡大)

編集部極楽寺と仏法寺はどういう関係なのですか。

西岡極楽寺は、最初は極楽浄土を拝む念仏系の寺で、そこに忍性が入り込んできたと、一般的に言われていますが、ちょうど鎌倉の東の端と西の端に、称名寺と極楽寺という律宗の寺があるのは、鎌倉を見るときに重要な意味があるだろうと思うんです。

叡尊が鎌倉に入るのが弘長2年(1262)、そのころ弟子の忍性も常陸からやって来る。極楽寺に大規模な伽藍が造営されるのは忍性が来てからです。極楽寺絵図がどこまで本当にそのころの様子を示しているのかはわからないのですが、中央に大規模な七堂伽藍に当たるような堂や塔があり、その周囲をいろいろな支院が取り巻いている。

これは普通に考える大きな一つのお寺というよりは、さまざまな個別の機能を持った支院がその周りを取り囲む、一種のコンビナートというんでしょうか、そういう存在であるだろう。現代のお寺とは違って教育から福祉、土木、建設、何でもやるんです。例えば病人に対して施薬院や悲田院など病院的な設備をつくる。それから土木関係をやる人も極楽寺の中には大勢いただろう。

当時の極楽寺は、現在、極楽寺がある場所だけではなくて、かなり周囲に広がっていたと思われます。ですから今回出てきた、仏法寺と言われる遺跡も、広い意味での極楽寺の一つと考えていいのではないかと思うわけです。

極楽寺は蒙古襲来に備える西の守りのポイント

西岡この極楽寺の持つ意味ということで言いますと、鎌倉の西の守りというんでしょうか、そういう重要なポイントにあることが、まず大事なことだろうと思います。先ほど松尾さんから、遺跡はだいたい13世紀後半というお話がありましたが、まさにその時代、鎌倉を防衛する一番の目的は、やはり蒙古襲来への対応なんです。鎌倉への入り口に当たる西の外れを押さえるという意味が大変大きかったのではないかと思うんです。それを象徴するいい例が二度目の蒙古襲来(弘安4年)のときに、祈祷によって蒙古を調伏するという修法をやっていることです。

そのとき忍性の師匠の叡尊は京都の石清水八幡宮で護摩をたきますが、ほぼ同時に忍性は稲村ヶ崎でやっている。恐らく仏法寺、霊山寺と呼ばれるお寺があった稲村ヶ崎の山上辺りが一番ふさわしい場所になるだろう。そういう意味でのお寺としてのさまざまな活動、そして鎌倉を鎮護するという意味での非常に重要なポイント、その辺が極楽寺の役割なんだろうと。

中世の律宗は、ほかの宗派に比べて、ほんとうに何でもやる。それはすべて蒙古襲来に対する幕府の政策を請け負う形でやられています。

忍性と日蓮が雨乞い合戦をやったというのは伝説か

編集部忍性が幕府と強く結びついていたことに反発したのが日蓮ですが、対立の象徴が雨乞いでしょうか。

西岡日蓮の伝記には、忍性と雨乞い合戦をやったということが必ず出てくるんですが、日蓮宗側の史料を見ますと、日蓮の自筆のものにはそれは余りないようで、後世になってつくり上げられた伝説のようにも思えるんです。

ただ、忍性の伝記に、諸国干ばつで雨乞いの祈祷をしたら成功したという記事がありますから、実際にそういうことをやっていたのは確かだろう。特に当時の密教のお坊さんのパワーで一番期待されたのは、雨乞いなどの現世利益です。それに忍性が奇特をあらわしたことは、忍性在世中から信じられていたことなんだろうと思います。

編集部池から柿経が出たのは珍しいことなんですか。

西岡真言系ならば大概やりますけどね。ただ、遺物として残る例は少ないと思います。池のようなところがあると、お経を書いたものを水に浮かべて供養するとか、今でも高野山では、卒塔婆を川の中に置いて、流れ灌頂というのをやっております。それと似たような意味があったと思います。

元弘の乱の帰趨を決した稲村ヶ崎一帯

編集部仏法寺のあった場所は、元弘の乱のときに、新田軍との間で激しい攻防がありましたね。

松尾まず一つは仏法寺のある場所の通行路との関係なんです。極楽寺の切通は、忍性が極楽寺に入ってから以降につくられたものだと言われています。それ以前に西に向かう道はどこにあったかというと、『吾妻鏡』とか『海道記』その他、実際に稲村ヶ崎を通ったという記録がありますから、通行路としては存在していたんではないかと思います。

それ以降の『太平記』とか『梅松論』などでは、「稲村崎の波打ち際。石高く道細くして」という記録がありますし、極楽寺の切通ができてから以降も、なおかつ存在はしていたと考えております。

この道の問題なんですが、霊山崎と稲村ヶ崎は2つの区域に分かれると考えられます。近世の鎌倉の図にしても、それ以降の地形図にしても、霊山崎と稲村ヶ崎とは2つに区分されています。

平成12年の山稜部の調査の中で、地形調査を行ったんですが、この2つの山と山との間を通っていく細い道が今でも残っています。そこからさらに東側の海岸のほうは、山崩れや地震で崩落したようですが、推定としては霊山崎と稲村ヶ崎を分ける細い道が、仏法寺跡の下を通りながら坂ノ下のほうに抜けていたんではないかと考えています。

新田義貞軍が仏法寺に籠もっていた鎌倉方を打ち破る

松尾元弘3年(1333)に鎌倉に攻めてきた新田義貞が、稲村ヶ崎のところから黄金の太刀を竜神に捧げたら、にわかに潮が引いたという『太平記』に基づいた伝承がありますけれども、実際にはどうかということを、今回の調査の結果を踏まえて検証してみました。

実は、明治35年に歴史学者の大森金五郎先生が、実際に自分で、引き潮のときに徒渉を試みたという記録があり、海中を渡るのはそれほど困難ではないという実験結果を紹介されております。

それから、東海大学の山中一郎さんという水産海洋学の先生の論文によると、元弘3年5月22日は現在の暦では7月11日なんですが、干潮は午前2時50分と午後2時半ごろ、2回あったことが究明されております。

『梅松論』では、5月18日、新田軍の一部、大館宗氏の一軍が鎌倉に侵入したと書いてある。これは恐らく仏法寺の跡を新田軍が占拠して、稲村ヶ崎から坂ノ下に向かう道筋を通って、鎌倉に一時侵入したんだろうと思います。それが鎌倉方の反撃を受けて、「其手引退て霊山の頂に陣を取」とありますから、恐らく霊山山、つまり、今の仏法寺あたりに大館宗氏の軍勢は引き揚げて、また陣を構えた。

その後19日、20日、21日とすさまじい攻防戦があったことが、軍忠状の中でも明らかにされております。5月21日に鎌倉方が霊山寺の大門に引きこもり、稲村崎の攻撃方に散々矢を射たので、なかなか破ることはできなかったけれど、三木俊連が自ら峯を駆けおりて、多分奇襲戦法でもしたのか、それで大門を打ち破って、さらに霊山寺の峯を攻め登る。そういう中で夜中まで戦いが続いたと書かれています。

それと、先ほどの引き潮の時間を考えて分析してみますと、三木俊連の奇襲によって勢いを得た新田軍が、最後に仏法寺に籠もっていた鎌倉方を打ち破り、そして午前2時50分ごろの干潮の時期に、ちょうど潮が引いた砂浜と、稲村路を通って鎌倉に攻め込んだんだろうと思います。

そして一挙に戦いが新田方のほうに有利に展開して、最後は5月22日の東勝寺での北条一族の滅亡へと進んでいったんだろうと考えております。

『太平記』は鎌倉の内側から、『梅松論』は外から攻める側の目で

西岡軍忠状は、どこでけがをしたとか、戦死したとかいう証明書です。ですから、非常に断片的な記事しか書いていない。ただ、年月と場所はしっかり出てくる点では貴重な史料です。けれども戦局の帰趨がどうなのかということまでは、そこから読み取るのはむずかしいですね。

この戦いの場合は、『太平記』と『梅松論』という2つの史料を使わざるを得ない。

一番新しい研究ですと、磯貝富士男さんという中世史家が、実際に暦を見て潮の干満を計算した上で、学生たちを連れて稲村ヶ崎を渡ったことがあるんです。この地域は大地震のたびに隆起したり、沈降したりしてますし、大きい気候変動で、この時期は海面が下がってもいたようです。

『太平記』はどちらかというと、鎌倉の内側から戦局をながめている。ところが『梅松論』は足利方といいますか、外から攻めるほうの目で書いている。それをうまくかみ合わせれば、大体5月18日から21日ぐらいまでの戦局が復元できるだろうという研究があります。

松尾立地から考えた場合に、仏法寺の場所をとるかとらないかで、頭上の安全を確保できるかどうかといった地形的条件は備えていると思うんです。最初に破られたのが稲村ヶ崎側ということは、それが帰趨を決したと考えてもいいんじゃないでしょうか。

編集部仏法寺はいつごろまであったんでしょうか。

松尾明暦3年(1657)に仏法寺を移して極楽寺の方丈にしたという記録が残っていますから、江戸時代前半までは存在したようです。

由比ヶ浜南遺跡から大きな屋敷と大量の人骨が出土

編集部由比ヶ浜南遺跡の調査の成果はいかがでしょうか。

齋木由比ヶ浜南遺跡は鎌倉海浜公園内の遺跡です。この遺跡の発掘調査は地下駐車場建設に伴う工事に先立って行われました。

鎌倉市内では一番海に近い地域を10,000平方メートルの広さが調査できたことで大きな成果がありました。

検出されたのは大きな礎石建物を持つ屋敷を中心とした小規模な建物群とそれに前後する埋葬人骨群です。人骨は、計算方法によって多少数字が異なりますが、恐らく五千体ほどが見つかっています。埋葬方法は二通りあります。一つは単体埋葬で一体が一つの穴に埋葬されます。もう一つは集積埋葬と呼んでいます。これは、大きな穴に人間、動物等を乱雑に埋葬しています。

埋葬体の多いものでは骨が数10センチの厚さで確認されています。骨の検出状況は脊椎が繋がっているものや、そうでないものがあります。脊椎同士が入り組むように見つかっていますので、かなり乱雑に投げ込まれたようです。この他に火葬骨埋葬等もありますが、実際の埋葬体数は正確に把握できていません。

異様に防御的に造られた生活臭のない屋敷

齋木大きな礎石建物と屋敷は13世紀後半になって造られます。

この屋敷と建物の特徴は、北側が敷地外で調査されていないので判りませんが、屋敷の入り口である門が南の海に向かって造られていることです。門の両側には塀がありますが、その塀の板が造られた当初は線路の枕木みたいに太い角材を使っています。

屋敷の東と西には鎌倉石を使った大規模な土塁か築地があります。屋敷の西側土塁の外には木組み護岸の河川が流れて、その西には御成小学校の前を通る今小路に真っ直ぐに延びて行く、丁寧に造られた道路があります。

この土塁と強固な塀で囲まれた屋敷と建物は、鎌倉でこれまでに見つかっている屋敷にくらべて異様に防御的に造られていると思います。防御的な屋敷の門が海側にしか無いということも不思議な点です。

出土している遺物には生活臭がありません。かわらけという灯明皿として使う素焼きの皿は多いんですが、例えば、生活する鍋、釜とか碗、皿類や燃焼施設のかまどなどは全くありません。居住性がほとんど感じられない。それと、何回も建て直されてないこともわかりました。

集積埋葬が40基、一番多い穴には500体分の遺骨が

齋木埋葬人骨には、特殊な例が多く、分析も全部は終了していないのですが、集積埋葬だけで40基近くありまして、一番多い穴には500体ぐらい埋葬されています。だいたい200年で40基ぐらいですから、数10人から2、300人が死ぬ状況が、数年に一回、鎌倉の中であったということになります。

編集部合戦だけではないということですね。

齋木はい。刀創が残っているのは意外に少ないです。浜の大鳥居の辺りまでは集積埋葬がありますので、鎌倉全体では、200前後の集積埋葬遺構があると思います。いろんな状況で死んだ人がいたのだと思います。

住んでいたのは革なめしをしたり骨製品をつくる職人層

齋木大きな建物の東西には居住区があり、バラック的な建物と井戸も見つかっていますので、海の間近でも生活をしていたと思います。現在の海抜で2メートル前後まで生活面がありますので、かなり海の近くまで生活範囲が広がっていたと考えられます。

編集部ここには、どのような人たちが住んでいたのでしょうか。

齋木遺物からは職人が考えられます。牛馬の頭の頭頂が割られて脳髄がとられたのがいっぱい出てきますので、まず革なめし職人、それと骨を切って笄やサイコロをつくった痕跡が出てきますので、骨製品の加工職人。石をのこぎりで切って硯の形にしたものとか、大きい石を切ったのとかも結構出土しますので、石材加工職人もいます。

それと、中国製とは断定はできませんが、布袋様とか、日本の外から持ってきた人形が浜の空間から出ることが多いので、貿易関係の人もいたようです。

銭や鍋などの鋳型も出ていますので、鋳造関係の職人もいたと思います。

職人がいて、鎌倉の中に向けて生産活動をしていたと考えています。

墓域をくずし海岸線を埋め立てて生活空間をつくる

齋木建物を造るとき、一部お墓を壊しています。一時期墓域だったところに急激に遺構がつくられます。その大半が方形竪穴という半地下式の建物ですが、それが居住空間なのか、それとも倉庫なのかは、はっきりしない部分もあります。

編集部それは13世紀の後半ですね。

齋木由比ヶ浜南遺跡から100メートルほど北側の調査では、13世紀前半の火葬址が見つかっています。13世紀前半の、人骨埋葬区域は、もっと北にあったのです。

由比ヶ浜南遺跡では、埋め立て土があって、それから建物ができますので、100メートルぐらい、内陸の土で海岸線を埋め立てているということなんです。その中には一体分の骨とかが土層に入ってきますので、内陸の墓域まで壊した形で海岸線を埋めて生活空間をつくったんじゃないか。

編集部どうしてそうなったんでしょうか。

齋木町の中で、スペースが不足して、古くから残っていた空間を都市化していったのだと思います。

松尾例えば、今小路西遺跡(御成小学校)では、道路によって居住区域をつくって職種や職能によって住み分けを調整していた。空間地が管理されていたことがうかがえます。そういう点から、海岸地域も同じように管理されていた可能性が高いんです。

編集部大きな屋敷は何だったのでしょうか。

齋木屋敷の性格は三通り考えました。まず蒙古軍が襲来した時の防御施設。余りにも海に向かって防御的な構造なので考えました。

2つ目は極楽寺に関わる貿易関係施設。これは建物の礎石にカキ等の貝殻が付着している事から考えています。鎌倉で海中に沈んでいる石は貿易港の和賀江嶋に多くありますが、この和賀江嶋は極楽寺が管理していたようです。

3つ目は幕府関係の海浜管理施設。これは屋敷の土塁や道路が鎌倉石や土丹で造られていることや河川の木組みが鎌倉中心部のものに似ていることなどから考えています。報告書では広い意味での貿易関係の施設としました。

松尾付近の土壌の花粉分析の結果、寄生虫が多い。住環境は非情に悪かったようです。

単葬墓の667体のうち刀創のある頭蓋骨は1.3%

編集部出土した人骨の鑑定からは、どのようなことがわかりますか。

平田私のところで調査したのは単葬墓(単体埋葬墓)で、集積墓(集積埋葬墓)は山口県の土井が浜人類学ミュージアムで調査されています。

単葬墓の出土数は、約4,000体のうちの667体と、かなり少なく、はるかに集積墓のほうが多い。

刀創をまず調べましたが、667体のうち、刀創があったものは9例だけで1.3%です。非常に少ないのです。

1956年に調査された、有名な材木座遺跡の報告書では、刀創例は頭蓋283例のうち191例、受傷率は65.7%という高率なんです。受傷率だけを比較すると非常に違うのですが、材木座の刀創では斬創という、非常に深い、頭蓋腔内に刀が入り込んでいるような傷は1.8%しかないのです。

斬創ほど深くない切創が9.9%です。一番多いのが掻創と言って引っかいたような傷で、死後に皮膚をむいたとか、人の手が加わったのではないかと考えられる傷が54.1%、半分以上を占めています。

ところが由比ヶ浜南遺跡の人骨には、単葬墓は9例だけですが、掻創の存在する頭蓋骨はないんです。その辺が同じ鎌倉の刀創でもかなり違うところなんです。

静養館からは深い刀創や下顎骨のない頭蓋骨が出土

平田もう一つ、かなり以前の調査ですが、同じ由比ヶ浜中世集団墓地遺跡の静養館遺跡では、刀創は91例中6例、6.6%なんです。しかも、6例すべてがものすごく深い傷です。由比ヶ浜南遺跡の刀創も深いものはあるんですが、ちょっとその比ではないというか、一個体で上顎がそぎとられて耳の後ろの乳様突起という固い部分もそぎとられて、あと頭蓋がぱかっと割られているような、静養館はそういう激しい刀創が特徴なんです。静養館はすぐ隣ですね。

齋木大きな建物の裏(北)側が静養館です。

平田隣合わせの遺跡なのにちょっと違う。静養館の頭蓋の集積墓の、もう一つの特徴は下顎骨がないことです。下顎骨がないということは、軟部組織がほとんど腐ってなくなった後に頭だけを拾って集めたということです。筋肉がある状態で埋葬されていれば下顎骨はあるんです。下顎骨が全く出ていないということは、かなりの間放置されていたか、ほかに埋葬されていたかもしれませんが、頭だけを集めた首塚という状況で発見された。

受傷率も比較データとして重要なんですが、刀創の種類や深さ、その辺は人骨の鑑定結果から改めて考えなければいけないと思うんです。墓の性質ですね。由比ヶ浜南では集積墓もいろいろなんです。

齋木集積墓は、下顎がないのも、あるのもあります。

平田集積墓の40基の中でも性質はかなり違うんでしょうね。

齋木頭部のみが大多数を占める埋葬穴や、四肢骨がそろっている人骨が大多数を占める埋葬穴もあります。

ハンセン病の骨病変のある人骨が初めて確認される

編集部骨病変として、非常に珍しい例があったというお話ですが。

平田一体だけですが、ハンセン病の人骨があったんです。熟年期の女性です。ハンセン病は、非常に特徴的な骨病変を示すんです。手のひらに中手骨という細長い骨があります。正常ではこの骨の先端の部分は丸いのですが、末端(指先)に向かって鉛筆のように骨が細くなって萎縮してしまった症例が見つかりました。

あとは腓骨と言う、すねの外側の細い骨の下端が、やはり萎縮して、消失した状態です。典型的なハンセン病の症例として日本で正式に発表されたのは、この由比ヶ浜南遺跡から出土した人骨が第一例なんです。

松尾一般にハンセン病で死んだ人は相当数が多いと考えられていますけれども、実際は症例としては少ないんですか。

平田日本で典型的な古人骨の症例としては初めてですね。一目でハンセン病とわかる変形です。極楽寺はハンセン病と関りがありますね。

西岡極楽寺の悲田院がそうですね。

死後硬直を解く一種の呪術を持っていた律宗の僧侶

西岡遺跡のある場所は管轄下にあったのではないかという推定もあるようです。律宗には土砂加持というのがあるんです。最初は一種の呪術のようなものだったらしいんですけれども、死後硬直を起こした遺体に水銀まじりの砂をかけると、硬直が解けて成仏ができる。戒律で守られた律宗の僧は汚れることがないので、その人たちが光明真言という特別な呪文を唱えて砂をかけて清める。律宗の、特に民衆と直接触れ合う部分での宗教活動だったようです。

松尾死後硬直を柔軟化するんですか。

西岡もとがどうもそんなことであったらしいんです。

松尾今回の単体埋葬の中でも変わった例として、体を強引に二つ折りにして埋葬している例もあるんです。

平田ちょうど腰から足を持ってきて、足首が頭の上にくる。完全に折り曲げてあるのが何例もあります。それは中世でも見つかったことはないんです。

病変としては結核もあったようです。骨折も比較的多くありましたね。

齋木お歯黒を塗ったのが3例ありましたね。

平田女性で、年齢構成は壮年期が一体、熟年期が二体です。頬側にあたる歯の外側だけで、舌側の、歯の内側にはない。

山稜部の要害遺構も忍性が介在か

松尾13世紀の後半期には、山稜部に要害遺構もつくられ、由比ヶ浜南遺跡の大規模な建物も建てられた。

西岡さんから、蒙古襲来に対する鎌倉の防衛というお話がありましたが、合戦・抗争歴を調べますと、このころは北条時輔の乱や、霜月騒動があって鎌倉の中で政治的にかなり不安定になってくる時期でもある。そういうときに忍性が鎌倉に入ってくる。文永元年(1264)には早速貧者の救済事業も始めていますし、極楽寺に拠点を構えてからも、海岸の支配権とか、和賀江嶋の管理権といったものを得ると同時に、各種の土木工事、つまり要害遺構も鎌倉の中で進めている。

幕府からの依頼もあったんでしょうけれども、鎌倉幕府とより密接に結びついたからこそ、率先して要害遺構をつくって防備をかためる。これはもちろん軍事機密に属することでしょうから、史料には残っていませんけれど、山稜部の要害遺構が13世紀の後半以降につくられるのには、忍性の介在は大いに可能性があると考えられるんです。

編集部要害遺構をつくるためには石を切る必要がありますね。例えば、石の加工などは律宗の人たちが得意とするところであったことと関係してくるんですか。

齋木鎌倉で鎌倉石が多く使われ始めるのが13世紀後半からです。それまでは土丹を敷き詰めたりしています。13世紀後半から方形竪穴などの建物に使われ始めます。その時期から石を切る技術が普及したのだと思います。

西岡昔は石を切るとか、土をいじるのは、大変たたりがあると考えられていたんです。土木工事を始めようとしたら、よくよく土地の神様に祈りを捧げてやらなければいけない。律宗に属している人は、そういうものからは解放されている。ですから、律宗の人は大手を振って土木工事ができた。そういうバックボーンがあったんです。

松尾鎌倉の山の人工的な改変に、忍性を始めとする律宗というのが、労働力を確保しているわけです。

浜の空間は念仏や法華の僧の布教の場

西岡律宗と言うと鎌倉のことは何でも解決するように見えますが、実はこの浜の住人たちの信仰は何だったか。

日蓮の弟子で、日昭という人が、浜土の門流をつくるんです。これはまさに浜に拠点があったわけです。今は三島の玉沢妙法華寺というお寺に移っていますけれども。

浄土真宗は三浦の野比に移っている最宝寺が、もとは高御蔵最宝寺と言いまして、材木座の弁ヶ谷にありました。極楽寺に囲われた生けすのような場所なんですが、そこに住んでいる人たちの信心として、念仏であれば真宗とか時宗、一方で法華なんかも出てくる。そういう構造は見えてくるんです。

松尾元弘の乱のとき、時宗の他阿上人の『自筆仮名消息』に、同士討ちの罪をおかしたので、浜に引き出されて首を斬られる武士に念仏を唱えさせる僧侶のことが出てきますね。

西岡社会の底辺のほうで身近に死体と接している聖的な坊さんたち、そういう存在が後のいろいろな宗派につながってくる。

律宗の行法は基本的に密教ですから、大変豪華でお金がかかる。庶民がおいそれとは頼めない。それで、一般庶民の信仰を集めるものが別に育っていったんだろうと思います。

浜は商人や職人ら富裕層が集まっていた場所か

出土した古瀬戸花瓶

出土した古瀬戸花瓶※※
(由比ヶ浜南遺跡)

齋木海岸部では非常に特徴的な遺物があります。瀬戸の小型花瓶が海岸部から多く出土します。町の中ではあまり出土しない。これが宗教具だとすれば、浜地のほうが宗教との関わりが強いということにもなるかもしれません。

松尾中に火葬骨を入れている例もありますね。

西岡浜辺に住んでいた人たちは、相当裕福な人たちだったんじゃないかと思うんです。特に蒙古襲来の時期は、九州に向かっていろんなものを運ばなきゃいけない。その流通に介在する人たち、あるいは職人とかがたくさん集まっていただろう。彼らを統率する長者と言われるような人は、ものすごい金を個人的にぽんと出せて、寺を一つ二つ建てられるぐらいの人たちなんです。

そういう人たちは、鎌倉幕府の公的な官職の体系には入ってこない。下っ端の武士に見える人が、実はものすごく金を持っている。そのような人が意外とこういう場所にいたのではないかと思うので、中世の由比ヶ浜を、『地獄草紙』のようなイメージで想像してしまうと、ちょっと違うんじゃないかなという気が私はしております。

松尾冒頭に、世界遺産のことを申しましたが、元弘3年の乱によって、つまり政権の置かれた都市が戦闘によって陥落し、時の政権が交代したという例は、日本の歴史の中では鎌倉が唯一じゃないかと思うんです。

由比ヶ浜南遺跡の人骨を見ても、女性や子供の人骨もかなりたくさんあるわけで、すべてが戦争犠牲者とはかぎりませんが、現代史に通じるような側面があります。

そういう点を鎌倉が内包していることも、鎌倉の特性として世界遺産に向けて注目すべき点ではないかなと思っています。

編集部貴重なお話を、ありがとうございました。

齋木 秀雄 (さいき ひでお)

1949年前橋生れ。
共編著『中世都市鎌倉と死の世界』高志書院 2,700円+税。

西岡 芳文 (にしおか よしふみ)

1957年東京生れ。

平田 和明 (ひらた かずあき)

1954年東京生れ。

松尾 宣方 (まつお のりかた)

1945年鎌倉生れ。

※「有鄰」430号本紙では2~4ページに掲載されています。

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