Web版 有鄰

425平成15年4月10日発行

[座談会]明治の東京 写真が語る都市の成り立ち

東京大学生産技術研究所教授/藤森照信
法政大学工学部教授/陣内秀信
古写真収集家・ゆうもあくらぶ事務局長/石黒敬章

左から陣内秀信・藤森照信・石黒敬章の各氏

左から陣内秀信・藤森照信・石黒敬章の各氏

※の写真は横浜開港資料館蔵

はじめに

編集部横浜開港によって、日本に西洋文明が伝えられ、首都東京は文明開化の旗印のもとで、新しいまちづくりが行われました。その最初が明治5年の「銀座煉瓦街計画」だと言われております。

その後、東京は本格的な都市計画の取り組みが開始され、一方では江戸時代の町のあり方も引き継がれて、明治の東京がつくられていきました。本日は明治の都市計画の概要、山の手や下町といった都市の空間やその変貌をご紹介いただきたいと思います。

明治の東京の姿は、横浜でモノクロ写真に彩色を施して外国人を対象販売された「横浜写真」にも写されております。以前、当社から『明治の日本 −《横浜写真》の世界』として出版しましたが、近くその増補版を出す予定です。

ご出席いただきました藤森照信先生は、東京大学生産技術研究所教授で、日本近代建築史をご専攻です。ご著書の『明治の東京計画』では、江戸から東京への変貌を都市計画の視点から明らかにされ、また路上観察を通じての建築探偵などの活動もされています。

陣内秀信先生は法政大学工学部教授で都市史をご専攻です。イタリア政府給費留学生としてベネチア建築大学に3年間留学されました。ご著書『東京の空間人類学』では東京の都市論を展開されています。

石黒敬章さんは古写真収集家で、写真の歴史にも詳しく、ご自身が収集・編集された『明治・大正・昭和東京写真大集成』は都市東京の歴史を考える上で資料価値の高い本です。

お三方とも東京を隅々まで歩き回り、都市の成り立ちを研究しておられます。

官庁、交通、教育施設が早くヨーロッパ化

銀座4丁目 明治中頃

銀座4丁目 明治中頃※

編集部まず幕府が崩壊して江戸から明治の東京へとどう変わっていったのでしょうか。

藤森一番変わったのは、いわゆる近代的な部分でして、官庁と交通です。お役所が割と早目に変わっていきます。交通は新橋と横浜間の鉄道です。それから教育施設が割と早目に変わっていきます。それらは全部官庁のもので、民間のものは一段落おくれて、明治6年に銀座の大通りの両側に煉瓦の家が軒をそろえます。前年の大火で灰になった銀座一帯を文明開化の街に再建する計画ですが、これも基本的には役所のやった仕事で、いわゆる民間の施設のヨーロッパ化は結構おくれると僕は見ています。銀座の煉瓦街が明治10年に完成して民間のものは少なくともその後だという気がします。

実際には明治の半ばぐらいまでいって、ようやく民間で写真館とか、外国向けのしゃれた商売が始まっていく。割と早目に変わるのは写真館とお医者さんだと思います。

お医者さんが変わった理由は面白くて、西洋医学の医者は東洋医との戦いなんです。だって、それまでの主流は漢方医学で、西洋医学は幕末ぎりぎりで幕府がようやく認めてくれたわけです。種痘などは漢方医ではできません。

それで、新政府の洋風化のなかでも、町の大半の人は西洋医にはかからず、昔ながらの漢方医にかかっているのに対し、まだ少数派の西洋医たちは洋館をつくっていく。もう一つは教育機関から漢方医を除く。要するに大学の医学校は西洋医学でいく。

とにかく西洋医の人たちの漢方医への憎しみはすごかったから。だって、江戸時代は不法医的な扱いを受けていたのが、種痘でようやく許されたんですから。幕府も将軍は西洋医には絶対診せなかったのが、種痘が出てきて初めて西洋医に診せた。

日本橋が太鼓橋から平らになり陸上交通中心に

石黒交通で言えば、日本橋が火事で燃えて明治6年に架けられますが、そのときから丸い太鼓橋じゃなくて、平らになります。ここで船から鉄道馬車に代わった。

陣内江戸時代の浮世絵や錦絵には、日本橋の周辺は必ず水を描いていますが、橋がフラットになって鉄道馬車になると水面を描かなくなる。それで完全にヨーロッパの景観みたいに街路と鉄道馬車が描かれ、あとは建物で新しいものが出てくれば、それを描いて、水が消えていく。

石黒日本橋の橋の架け替えで、時代が変わったという印象がありますね。

陣内江戸東京博物館に両国橋の復元模型があります。橋のたもとには茶屋がずらっと並び、よしず張りの芝居小屋がいっぱいある。ところが明治になると交通の邪魔になるし、見通しもきかないので撤去するわけです。

下部はコロニアル風、上部は城郭建築風の第一国立銀行

日本橋兜町第一国立銀行

日本橋兜町第一国立銀行※

陣内逆に、第一国立銀行の和洋折衷のシンボリックな建物が橋のたもとに建つわけです。だから、橋の周りが近代的なイメージの檜舞台に一番なると思うんです。

編集部今の兜町ですね。建築としてどうでしょうか。

陣内これは建築史家の初田亨さんがしきりにこだわって書き続けてきた建物で、下部はコロニアルスタイル。開放的でベランダや洋風な軒の蛇腹がついている。これは長崎や神戸にもありそうなコロニアルで、東南アジアから東アジアにかけてあります。

上部は城郭建築風で接ぎ木をしたような、威風堂々とした権威の象徴。伝統のイメージはヨーロッパ風には取りかえられなかったので、日本風でいったのじゃないでしょうか。こういうことが自在に組み合わせられた。当時の棟梁は清水喜助ですか。

石黒二代目ですね。その辺りは三井の地盤で、三井は水に執着があったみたいですね。三菱のほうは陸の交通に目先がきいて、新橋の近くに土地を買って移った。

華やかな東京の名所を写した横浜写真

石黒横浜写真には東京の写真は非常に少ないんです。横浜写真というのは、もともとは船で横浜に来た外国人が自分の行った所の写真をお土産に買って行ったものです。行かない所のは買わない。ですから横浜の波止場などが一番多いわけです。それから周辺の海岸通り、弁天通り、元町。横浜は名所旧跡がないから建物の写真が残ってよかったんです。

東京にたまたま来た人に売れるのは神社仏閣、やはり観光地なんです。上野公園、浅草公園、芝増上寺、靖国神社、あとはほとんどない。結局、ビジネスで、売れる所しか撮らなくなる。

横浜写真を代表する写真家に、ベアトの弟子の日下部金兵衛がいますが、彼が写した銀座は2枚だけ。鉄道馬車のとその前のもの。あとは新しくできた第一国立銀行とか新富座などの華やかな名所で、当たり前の古い町並みはまず撮っていない。

だから東京の写真は横浜写真で見ると、非常に限定的で、むしろ明治30年代後半の絵はがきの時代になってからのほうがいっぱいあります。

編集部記録性というより観光写真ということですね。

石黒ええ。両国橋の写真はあっても、両国広小路の写真は2、3枚しかない。

銀座煉瓦街の洋館建設には中国人が参加した可能性が

藤森もう一つ面白いと思うことがある。銀座煉瓦街は日本にとって大事業だった。とにかく国家予算の4%だかを使ったんですから。にもかかわらず工事中の写真は1枚もない。それともう一つ、日本人が思った割にはヨーロッパ人は写真をあまり撮ってない。恐らく彼らにとっては珍しくもない。写真は珍しいものに向けるから。

銀座煉瓦街の洋館建設は竹足場を使った可能性がある。なぜかというと、資材帳の中に竹が大量に出てくる。杉丸太は出てこないので竹足場としか考えられない。中国は今でも竹足場です。ということは、中国人が建設に参加した可能性がある。日本は杉足場で、杉並は江戸の杉足場用の木が特産だった。杉足場に使う杉は10年ぐらいから切り出せますから、あの辺で近郊農業でやっていた。

日本人は洋館の経験が少ないから。もっと言うと、横浜に清国人の建設業者が大量にいたんです。清国人はヨーロッパ人の下で働くという形でずっとアジアを渡ってきたから。写真が1枚あれば解けるんですが。

鋸山が今の形になったのは横浜居留地で房州石を使ったせいか

石黒石橋なんかは中国式ですものね。万世橋、常磐橋にしてもアーチ型で石を組んだのは最初長崎から入った。日本人はつくれない。日本人が習ってやったんですか。

藤森江戸時代、すでに熊本や長崎や鹿児島の石工たちは石橋をつくっていましたから、彼らが来てつくった。

陣内日本には石の文化はないと言われるけれど、九州に行くとものすごい。古墳も石を積んでいるけど、石橋、石垣、基礎の部分はほんとにすごいですものね。

石黒今、新橋ステーションを復元していますけど、あの石は房州石ですか。

藤森房州石も伊豆の石もいろいろまざっているようです。発掘で今まで出てきているのを見ると、やっぱりいろいろです。

僕の知る限り、横浜は大体房州石です。伊豆のも多い。僕が聞いたのでは、鋸山があんな形になってしまったのは横浜居留地のせいですって。伊豆に行くより房総半島のほうが近いですからね。今は切るのを禁じていますが。房州石は横浜でいっぱい見ています。その横浜で使ったのが明治以降、東京に入ってきた。

新橋側を背にした銀座の写真が多いのは皇居への意識か

高輪大木戸の石垣

高輪大木戸の石垣
(石黒コレクション)

石黒銀座なんか見ても、新橋側から日本橋側を見た写真がほとんどなんです。それは一つは、光線のぐあいで撮りにくかったせいなのか。

陣内でもやっぱり新橋ステーションから日本橋、あるいは皇居のほうに行くという晴れがましい向きは強く意識されたんじゃないですかね。

石黒古いせいもあるんでしょうけど、新橋の橋が架かっていて、芝のほうに向いて撮った写真はほとんどない。そっちは古い町並みや家並みだったんですね。

藤森言われてみると、どんなものか想像を絶するね。銀座煉瓦街が終わって向こうはどうなっていたのか。結局、大木戸までは最低町並みはあった。

石黒大木戸でさえ明治の写真はない。高輪大木戸がなくなった後の石垣だけ残った写真を、今度初めて小さいのから伸ばしたんです。明治40年ぐらいですけど。

木戸で空間が仕切られていた江戸の町

陣内先日、江戸東京博物館でベルリン東洋美術館の「熈代勝覧」を見ましたが、江戸の中心部のすばらしいパノラミックな絵があり、それにも木戸がたくさん描かれていましたね。

江戸時代、町と町の間には必ず木戸あるいは番小屋があって夜は早く家に帰らないと閉じられてしまう。緩やかな管理でしょうが、一応、都市の治安とコミュニティの成員メンバーの、ある種の束縛のために木戸があり、それが町の風景も形づくっていた。

だから、江戸の町は広い道路でつながっているのじゃなくて、木戸で空間を仕切っていた。でも、それは中国にもあったでしょうし。

藤森ヨーロッパは?

陣内ありません。ヨーロッパは城壁で、あとは教会の周りのコミュニティですが、そんなに空間で仕切っているわけじゃない。

藤森中国には大通りからは門で仕切られた長屋形式の里弄(リーロン)がありますね。

陣内そうですね。それと絵図などでも、交差点にちょっとしたゲートが描かれていますね。北京でもあった。

小木新造さんが言ってますが、日本では明治10年ぐらいまで町内社会が重要だった。だから一気に江戸がつぶれ、近代になったのではなく、そういうある種の日本風自治があって、大きな都市が成立していた。木戸はそれの管理であり、同時に守ってもいた。

藤森しかし、明治になると消滅します。例えば馬車なんかが走ってきたら木戸があったら頭がつかえる。それと一つは、夜から朝まで閉まっていれば、夜の遊びにもね。

キャベツが葉を巻くように閉じる江戸の町

陣内藤森さんが江戸の町を「キャベツが葉を巻くように閉じる」と言ったのは、名言ですね。

藤森キャベツのようにと言ったのは、江戸の町が木戸から濠まで大小さまざまな自閉の装置を何重にも重ねて、外から内に進むに従ってより固く守られていくという仕組みを象徴的に言ったわけで、大陸のように、高い城壁をめぐらしているのとは違う。

陣内だから、掘割を越える所とか橋は開いていく場所で、都市の管理とか、新しい時代の都市計画の一番重要な要だと思いますね。だから木戸はなくなってはいけない。大木戸なんか特に。

銀座も最初は人気がないゴーストタウン

銀座煉瓦街 明治7年か

銀座煉瓦街 明治7年か
(石黒コレクション)

藤森銀座もちょっとびっくりしたのは、町並みに全然人が写ってない。

石黒いないんだと思う。最初は人気(ひとけ)がなかったから。僕の集めた写真でも銀座で立ちしょんをしているのがあります。ほかは誰もいない。もちろんやらせですよ。

藤森だけど、これじゃゴーストタウンですよね。

石黒これは日本人のカメラマンだとすれば、国家予算の何分の一かの金を使って、こんなくだらないのをつくって、べらんめえというので、「立ちしょん」という演出をしたのかもわからないし、西洋人のカメラマンなら、日本人は西洋と同じ家を建てたのに、マナーは変わらない。まだこんなものなんだという皮肉なのかもわからないです。

藤森これは初期の銀座の写真ですね。まだ松と桜と桐が生えています。

石黒ガス灯が明治7年に建つ前です。

武士や出入りの商人は田舎に帰って東京の人口は激減

編集部江戸幕府が崩壊して、東京はともかく人口が減ったわけですね。

藤森はい。150万が60万ぐらいまで減った。

陣内山の手はがらがらになったけれど、下町は減らないでしょう。

藤森もう一つは武士と商売をしていた出入りの商人が田舎に帰った。武士は領地があって帰れる。しかし、普通の商売をしている人は行き場がない。

陣内だから、小学校なんかもどんどんできていくわけです。寺子屋と併存だけど。明治の早い時期の資料を調べていくと、やっぱり町人地がどんどんできていくし、都心の武家地にもできていく。

だから山の手、例えば原宿や代官山あたりは明治の終わりごろから人口が少しずつ増えてきた。

藤森原宿は、穏田とか言ったんですね。

陣内そう、穏田です。完全に農村だったんですが、日露戦争の後ぐらいからだんだんと市街地が郊外に無秩序に広がっていくスプロール化が始まる。

石黒山の手の写真もないですね。東大の前の本郷とか全く家並みがないですね。赤坂は溜池とか、赤坂の御門がありますね。

陣内明治以後、東京は山の手でも北、東のほうと、南とではイメージが変わってきますね。

北は、それこそ東大もでき、漱石も鷗外も北のほうで、川添登さんが『東京の原風景』で書いているように文学空間になっていく。上野には東京美術学校もあり、文化や、伝統的なものも割と残る。

南は、政治や新しい外国とのつながり。今、ほとんどの大使館も港区あたりに移っていますね。

官庁集中計画と市区改正計画が近代化を競う

鹿鳴館 明治16年完成

鹿鳴館 明治16年完成※

編集部官庁集中計画と市区改正計画という東京の改造案がありますね。

藤森明治の半ばに、東京をとにかく近代化しなければいけない、というのはみんなわかっていた。どういう順序で近代化するか、全体のイメージみたいなので、はっきり争ったのがわかるのは、明治19年から始まる外務省の官庁集中計画と内務省の市区改正計画です。外務省は井上馨、内務省は一番上は山県有朋で、その下が東京府知事の芳川顕正ですね。この二つが争った。

最初は内務省が優先していた。内務省は基本的には、交通計画です。東京府の原口要という土木技師が、アメリカで勉強して、とにかく新しい交通体系をつくろうということで最初の案を出した。

今のように地方自治制度じゃないから、つまり、東京府は内務省の下部組織で、内務大臣の下にいるのが、内務次官と警視総監と東京府知事なんです。

それに対して、外務大臣井上馨は鹿鳴館を一生懸命やった時期ですから、とにかく、見た目をヨーロッパと同じようにしなきゃいかんと。日本の政治家では、見た目重視の人は珍しいんです(笑)。ヨーロッパにはいっぱいいますけど。

パリのような東京をつくろうとしたエンデとベックマン

日比谷司法省庁舎 明治28年完成

日比谷司法省庁舎 明治28年完成※

藤森それでエンデとベックマンという一流のドイツ人建築家を呼んだ。パリのような東京をつくろうと、官庁街の計画ができたんです。一応外務省の中じゃなくて、内閣直属の臨時建築局をつくったんです。

明治20年の不平等条約改正の交渉の失敗で井上馨が失脚し、結局官庁集中計画も縮小される。内務省の市区改正計画が勝って、都市計画の権限は内務省に移る。だけど外務省が都市計画をしてどうするというのか。

官庁集中計画で実際につくられたのは霞が関に今保存されている司法省(法務省)、外務省、海軍省、帝国ホテルぐらいですね。国会は結局仮議事堂のままでつくられ、最終的には今の国会のもとになります。

陣内道路で実現したのは何かあるのですか。道幅も含めて。

藤森道幅も含めて国会に上がる坂、今の中央官庁街の大通りと桜田門がそうです。それ以外は全滅です。縮小計画もエンデ、ベックマンのを引き継いでやったから、今の霞が関はあの計画が採り入れられている。

陣内桜田門のことが出てきたので言いますと、横浜写真を見ていても、カペレッチ設計の参謀本部はたいへん印象的ですね。皇居のお堀の水面と木々の緑の上にそびえ立っている。

藤森カペレッチがイタリア人だったからという気がしています。つまり、あの建物は相当意識的に目立つようにしたと思う。

九段遊就館 カペレッチ設計・明治15年完成

九段遊就館 カペレッチ設計・明治15年完成※

というのは、カペレッチでもう一つ有名なのは九段の遊就館ですが、あれは、明らかにファサード(正面)の建築で、ものすごくファサードを意識している。横から見るとへらっとしている。これはイタリア建築の特徴なんです。とにかく、正面から見たのを考えなさいと。通りに対して美しく見せなさいと、横はいいから。

逆に言うと、イタリアでは全体が見えるようにつくる機会はそうはないわけです。だって、横からは建物は見えないんですから。

陣内むき出しの建物はあまりないですからね。

藤森陣内さんに言われて気がついたけど、日本の役所は門があってみんな引きがある。僕は「えっ?」と思った。役所はそういうもんだろうと思っていた。確かに中央官庁でも町の中で知らない人が見ると、官庁とはわからない。

最初のビジネス街となった兜町の建物には門と塀が

石黒丸の内に一丁ロンドンができますが、ヨーロッパ風のロンドンの建物には門がなかったので、びっくりされて、「門無しは文無し」に通じるとからかわれ、最初いやがられたらしいですね。

藤森丸の内に三菱一号館ができるのは明治28年です。それ以前のオフィスビルは、兜町の海運橋際に建てられた第一国立銀行が最初ですが、確かに、それには門がある。渋沢栄一が考えて兜町に日本最初のビジネス街をつくった。そこには株式取引所や銀行集会所、東京海上もあります。日本橋の海寄りにあって、東京で一番水運の便はいいけれど、敷地が狭い。それでも日本の郊外住宅みたいに一応せこい塀をつくった。

門から建物の正面が見えないのが日本の伝統

石黒カペレッチは日本人に合った建築ですよね。日本は門を立派にして、中はどうでもいいけど、見かけだけよくする。そんな感じがいまだにありますものね。

藤森ただ、それもちょっと違って、日本は伝統的には、江戸時代には、門から建物の正面が見えるというのは絶対なかった。門は立派だけど、入ると斜めにするか、視線はまっすぐ通さないんですよ。

陣内近代になってもアプローチのところを樹木でぐるっと隠す。車寄せの所まで回っていくみたいな。視覚的に関係性がはっきり示されては行けないんですね。だから図屏風などの景観画でも、重要なものはしっかりと描かれているけど、間の関係は雲で隠したり、ぼかす。人間の心理を実によく読んで街ができている。建築の配置も演出も考えられていると思います。だけど、こういう九段の遊就館のような建物が出てくると非常に新鮮で衝撃的です。

藤森お城が、周りに門も石垣もなくて突然建っているような。それをイタリア人がやったというところで、イタリアはファサードの国だと。

市区改正計画で誕生した丸の内「一丁ロンドン」

丸の内オフィス街「一丁ロンドン」 明治43年か

丸の内オフィス街「一丁ロンドン」 明治43年か
(石黒コレクション)

編集部今お話に出た丸の内の一丁ロンドンも市区改正計画の一環なんですね。

藤森そうですね。内務省側が交通計画をやりまして、内務省の関心は、外務省と違って内実が大事なんですよ。地方自治を押さえている。結局、交通計画と一緒に配置計画を決める。要するに、どこを官庁にするか。専門用語で用途地域と言いますが、用途地域の一つとして丸の内をビジネス街にするということで。それは別に三菱が決めたわけじゃなく、市区改正委員会が決定し、それで売りに出して三菱が買う。そして三菱が街を開発していく。計画はないよりあったほうがいいという感じがする。今の汐留は僕はミニ開発の超高層と言っていますが、巨大なものを無計画にやっちゃいけない。だからそういう点では丸の内の計画とか、戦後は新宿の西口とか、ちゃんとした計画でつくられた所は当時としてはよかった。

江戸の「地」の上に点として置かれた洋風建築

編集部東京に港を築いて横浜の繁栄を移そうという企業家の築港論が説かれたりしますが、いろいろな人の夢があって明治の東京がつくられていく。

藤森あくまでも上からの計画ですから。今でも上からの計画はなかなか下までは行かないんです。伝統的な世界がまだ生きていた。

陣内よくぞ行ったなと思いますね。マクロに見ると、明治のころは洋風に変わった所のほうが点的に少ないわけです。点と点というか。だから、図と地とよく言いますね。面的な背景としての地があって、その上に点として置かれる図柄が出てきたというふうに見ると、明治のころは地のほうは江戸なんです。そのメインストリートに土蔵づくりの華やかなのが出てくるけれど、伝統的。そこに洋風建築の官庁とかがぽんぽんとあって。

藤森図としてね。

陣内だけど、そこが名所になって、写真の被写体になる。地は被写体にならない。

藤森それで残念なのは、地がいつまでもあると思っていたけれど、気づいたときにはもう消えていた。

陣内それで関東大震災がその逆転現象を生む大きなきっかけになったわけです。だから、関東大震災で区画整理をやらざるを得なかった。

藤森図の小型化したのがずっと。看板建築なんかそうですね。

陣内文明開化が庶民まで広がっていったのが看板建築なわけで、そうすると、図と地がひっくり返る。それでもまだ地は生きていたんです。

麻布十番は山の手の下町

陣内コミュニティだって神田とか中心部で育った人たちは、いつも縁日があって、どこかでお祭りをやっているのを渡り歩いて楽しんでいたとかね。

これは不思議なんですが、東京の場合、山の手にも下町的な性格がある。どこまでもお金持ちの屋敷が並んでいるなんてことは東京はあり得ない。そこが面白いところで、50メートルも歩くと必ず商店街があったり。

藤森麻布もそうだね。

陣内ご用聞きも職人さんも出入りする。麻布十番はまさにそうなんですね。

「原っぱ」は木造都市日本のキーワード

陣内文芸評論家の奥野健男さんが1970年代初めに書かれた『文学における原風景』は建築の世界に非常に大きな影響を与えたんです。川添登さんの『東京の原風景』も出てきましたが、あそこで彼は「原っぱ」ということが重要だと言っている。ヨーロッパの都市で原っぱなんて絶対ないんですよ。

藤森あるとしたら公園。

石黒広場はいっぱいあっても、原っぱはないですね。

陣内石造、煉瓦造の建物が持続すれば、廃墟にはなっても、原っぱにはならない。日本は建てかえたりで、しばらく原っぱ状態で残っていると、そこに草が生えてきてみんな遊ぶ。原っぱは木造都市日本のキーワードかなと思うんです。丸の内の三菱カ原もそうです。

明治のころは軍用地とかで都心部にも原っぱはたくさんあったけど、だんだん外へ外へと追い出されてくる。

藤森「おばけのQ太郎」なんか見ると、大体みんな原っぱでね。

石黒原っぱなんて、誰が土地を持っているなんて知らなかったですものね。公共のものだと思って遊んでいた。

藤森公共のものもあったかもしれないけど。僕が田舎で育っててわからなかったのは原っぱなんですよ。いろいろな本に原っぱが出てくるわけです。だけど、田舎の信州は家の外はみんな原っぱだったから。

融通無碍な空間がある日本、隠れる所がないヨーロッパ

陣内以前、パリのテレビ局の人と、パリと東京とどっちの空間が自由か議論したことがあった。つまり、パリだったら自分の家の前の公共道路に不審な人が寝ていても追い出さない。追い出せない。それは公共道路だから。日本は追い出しますよね。

藤森追い出しますね。

陣内だけど、日本は融通無碍な、人が入り込める自由な空間がいっぱいある。だから、さっきの銀座煉瓦街で立ち小便をしていたのは、立ち小便をする場所がいっぱいあるんですよ、すき間が。

藤森初めてパリに行ったとき、パリのネコはどこを散歩しているんだと思った。出たら最後、街区を一周して自分ちに戻ってくるしかない。

石黒砂もないですしね。土の場所もね。

陣内そう。日本だったら木の塀とか、屋根の傾斜とか縁の下とか隠れる場所がいっぱいある。ヨーロッパの都市には、人間も隠れる場所がないから疲れる。

石黒新橋駅のガード下の焼鳥屋の空間なんかいいですよね。

藤森それともう一つ、路上観察をやって思ったけど、ヨーロッパはポスターはあっても張り紙はごく少ない。あともう一つ、日本の謎はごみを置いてあること。一体何なのか。あんなものはないですね。

陣内パリでもローマでも朝、清掃局が隅々まできれいに掃き清め、水もまいてくれる。道路は公共空間だから。

藤森それと、ヨーロッパで考えられないのは、日本の路上の植木鉢ね。絶対許されない。だって公共の所に。

陣内路上に洗濯物が翻っていることは、ナポリとかベネチアであるんだけど、家の下に植木鉢は絶対ない。

石黒日本では店なんか商品を路上に出している。それは当たり前ですものね。

下町はベネチア、山の手はローマのような東京

編集部東京は、今ではなかなか想像できませんが、ベネチアに劣らない水辺の空間があるそうですね。

陣内本当に東京って町は不思議な町だと思うんです。世界の水の都市と言われる所は、大体真っ平らな所にあるんです。アムステルダムもベネチアも、蘇州もバンコクも、クリークや掘割はいっぱいあるけれど坂道は絶対ないんですね。

石黒ベネチアにしてもそうですね。

陣内それから御茶ノ水駅の聖橋あたりを船で通って思ったのですが、こんなに緑の渓谷で、川があってというのは世界的に見ても大都市にはない。あれは人工的に掘ったということもありますが。土木技術と風景が成熟して相まってできた、あんなに見事な水辺空間は世界的にない。

下町はベネチアみたいな水の町で、山の手は7つの丘からなり、まさにローマなんです。イスタンブールなんですよ。そんな町も、世界的にあまりないんですね。

山の手の丘といっても均一な台地ではなく、上野台地とか本郷台地、赤坂・麻布台地とかがあって、河川が谷を刻み、台地に登る坂がある。

藤森ベニスとローマが合わさっている。

陣内そうです。合わさっているすごい町なんです。

藤森陣内さんのための町みたいね。

陣内ほんとに。真ん中に江戸城、皇居があって、これがまた実にうまくできていますよね。太田道灌の濠をコアにして、水が循環するようにできています。

藤森道灌堀も一緒に見に行ったけど、深いよね。信じられないくらい深い。

陣内自然のままですね。水鳥が飛んでいて深山幽谷。これ、どこ? という感じでしたね。

台地や掘割など地形が見える明治の写真

陣内明治の写真で面白いのは、地形が見えるんです。台地とか掘割とかがあり、そこに格好いい建築がぽんぽんと置かれている。

それから意外に面白いのは高架の鉄道の施設。この風景は新鮮で、鉄道施設をつくった人たちもデザインを考えていたと思うんです。

だから、橋だって地形と相まって目立つ。そういうところにデザイナーのセンスが生かされ、昭和の初期までにほんとにいい近代の風景ができていた。

それがどんどん大地が見えなくなり、水も緑も見えなくなってくる。そのかわりニョキニョキと無機的な建物が出てきて、だんだん感性がみんな鈍くなっていって、楽しめる空間も原っぱもなくなってきて、人工的なものばかりに覆われるという感じで……。

「古写真は東京が一番面白い、何ったって変わるから」

編集部石黒さんがコレクションをする面白さというのは何でしょうか。

石黒そうですね。一般的に言われていることじゃないつまらないことが写真で発見できたりすることですね。

陣内川本三郎さんが、東京が一番ノスタルジーを感じさせる町だって逆説的に言っている。京都は古いものがいっぱいあるから、あまりノスタルジーを感じさせない。東京は30年前のものでもなつかしいわけですね。

石黒『ビックリ東京変遷案内』のあとがきに写真を載せたんですが、100年前のパリと、去年、エトワールの凱旋門の上から撮ったのを見ると同じ建物が同じ所にある。全然面白くないんです。車とファッションだけが変わっている。そういう意味では古写真は東京が一番面白い。何たって、関東大震災で変わって、第二次大戦で変わって、オリンピックで変わった。

鳥瞰写真で見るともっと広かった浜離宮

浜離宮から新橋ステーションを眺めた鳥瞰写真 明治37年

浜離宮から新橋ステーションを眺めた鳥瞰写真 明治37年
(石黒コレクション)

石黒それと、明治37年に築地の海軍大学校から揚げた気球から撮った鳥瞰写真があります。それで見ると、今の浜離宮が昔はもっと広かった。今度ヘリで見ましたが、昔は庭園が海側まであったのが、今はないんですよ。それで竹芝桟橋が出来ているんです。地図で調べると、震災まで庭園はあるんです。

陣内ここの石垣は江戸の古そうな石垣ですよね。

石黒でも、地図で見ても短くなっている。3分の1減っています。勝手に想像すると、庭園の土を削ってきて竹芝桟橋を造るとき埋めた。

陣内埋めることはあるけど、削ることは…。

石黒削ったなんてどこにも書いてないんですね。それで何か面白いなと思っているんです。

藤森池が一つ減ってる。

陣内面白いですね。ここが近代港のはしりだと言いながらオリジナルの港の施設は全然ない。埋めに埋めて再開発したから、これをつくる前は手前に古そうなコンクリートの埠頭があったけど、それも無視して埋めてしまった。

屋敷町だった六本木盛り場の裏手には静かな生活の町

麻布凱旋門 明治38年

麻布凱旋門 明治38年
(石黒コレクション)

編集部有隣堂は今月、六本木ヒルズに出店しますが、生産技術研究所は3年ほど前まで六本木にありましたね。

藤森昔の歩兵第三連隊があった所にうちの研究所がありましたが、昭和46年ころは、まだ結構のんびりした所でした。日本人はあまり来てなくて、外国人の遊び場だった。大使館があったから。乃木坂とかもほとんど店はなかった。その後ぐらいから、がんがんにぎやかになって。

陣内ディスコが最初にできたころですね。イタリア・レストランが多い町です。

石黒六本木は昔は麻布区で、日露戦争のときの凱旋門を撮った写真があります。

藤森歩兵第三連隊が丸の内から引っ越して、その跡地が三菱に払い下げられた。赤坂や青山は明治の中頃に軍隊の町に変わっていくんです。

そこにいた麻布連隊が二・二六事件を起こすわけで、将校たちが皇居に行くまで誰にも気づかれなかった。なぜかというと、大名が住んでいたお屋敷町だから、行くまでの間に一般住居も店も少ない。

陣内軍事施設も多くアメリカ軍もいた。それがまたバタ臭い文化を生んだ。他の日本の盛り場とちょっと違う。カタカナ商売の人たちの集まる場所だと前から言われてます。でも盛り場のすぐ裏手にはひっそりとした住宅地が残っていて、江戸時代にルーツを持つ静かな生活の町が今も生きているんです。

編集部どうもありがとうございました。

藤森照信(ふじもり てるのぶ)

1946年長野県生れ。
著書『日本の近代建築』上・下 岩波新書 各880~900円+税。

陣内秀信(じんない ひでのぶ)

1947年福岡県生れ。
著書『東京の空間人類学』ちくま学芸文庫 900円+税。

石黒敬章(いしぐろ けいしょう)

1941年東京生まれ。
著書『ビックリ東京変遷案内』平凡社 1,600円+税。

※「有鄰」425号本紙では1~3ページに掲載されています。

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