Web版 有鄰

425平成15年4月10日発行

吉村 昭と『大黒屋光太夫』 – 人と作品

江戸中期、ロシア領に漂着した体験録を新史料を加えて描く

吉村 昭
吉村 昭

人間臭く生々しい陳述記録

「先日、ロシアの作家が訪ねてきましてね。“史実しか書かないのは、日本の作家であなただけだ、と聞いたがなぜなのか”と言うんです。私は、史実そのものがドラマなんだ、と答えましたよ」

江戸中期に遭難、ロシア領に漂着して10年間滞在。女帝エカテリーナにも謁見した大黒屋光太夫の体験録は、たしかに凄まじいドラマである。

その記録は、帰国後聞き取りをした洋学者桂川甫周の『北槎聞略』に残されているが、これをもとにした小説には、すでに井上靖氏の『おろしや国酔夢譚』がある。

かねて光太夫に関心をもっていた著者は、一緒に帰国した水夫(船員)磯吉にも、同じような記録があるのではないかと思い、2人の生地である三重県鈴鹿市を訪ねた。

「『北槎聞略』だけに頼れば井上さんと同じことになっちゃう。それで、磯吉の記録がなければ、書かない、と心に決めていたんです。ところが期待どおりありましてね。それも、幕命によるいわば官製記録である『北槎聞略』と違い、磯吉の記録は人間臭くて生々しいんですよ」

その陳述記録『魯西亜国漂舶聞書』のほかにも、地元史家の新史料を加えてまとめたのがこの長編である。

1782年、乗組員17名で伊勢国白子浦(三重県鈴鹿市白子町)を発ち、江戸へ向かった乗組員17名の廻船が暴風雨に遭い、漂流7か月後孤島アムチトカに漂着。この地に来ていたロシア商人の保護を受けるが、劣悪な食物と寒気で7名が次々と死亡。

翌年8月ロシア人たちとともにシベリア本土のカムチャツカに渡るが、ここでも3名が病死。漂流中も1人が死亡しており、生き残りは6名となる。南進政策を取っていた政府の役人は、光太夫たちを利用すべく、カムチャツカからオホーツク、ヤクーツクを経てイルクーツクへ送る。

「磯吉の方は、光太夫より若かったせいもあるのでしょうが、実によくいろんなものを観察して話していますね」

〈光太夫の眼に突然、奇妙なものが映り、馬の背に揺られながらそれを見つめた。水主たちも驚きで大きく眼をみはり、見上げている。その地一帯は樹木が多かったが、太い幹の樹木の上方の枝に馬の死骸が白骨化した脚をひろげてひっかかっている(中略)。樹木の梢からなぜ馬の死骸が垂れているのか。想像を絶した情景に、光太夫は頭が錯乱するのをおぼえた〉

少し進むとまた同じ死骸がある。なぜと聞く光太夫に馬方は淡々と説明した。〈降雪期に斃れた馬の雪の下にたまたま樹木が埋もれていて、雪がとけて消えると、馬の死骸がそのまま樹木にひっかかって垂れているのだという〉。

光太夫が見た話になっており、見たには違いないが、実は、磯吉が語った記憶なのである。実際、『おろしや国酔夢譚』に、この話は出てこない。

カムチャツカに滞在中、1744年に漂流してこの地に住み着いた日本漂流民の遺児が訪ねて来て、光太夫らを驚かす。その1人、美しい混血児と磯吉の恋や哀切な別れも新しい話である。

10年ぶりに帰国した光太夫は、通説と違い自由に行動

イルクーツクの地で出会ったキリロという人物が、光太夫の話に深く同情、首都ペテルブルグへ光太夫を連れて行き、ここで出した嘆願書が、女帝の目に止まり、帰国の道が開ける。しかし、この間にも1人が死亡、長引く滞在に帰国は不可能と思った2人は日本では禁教だったロシア正教に改宗、自ら帰国の道を閉ざしてしまう。

残った3人がロシア船で10年ぶりに帰国するのだが、1人は蝦夷(北海道)に着いてすぐ死亡。光太夫と磯吉の2人だけが取り調べのため江戸に送られるのである。

「江戸に来てからの光太夫は幽閉状態におかれていた(『おろしや国―』でもそうなっている)と、いわれていたんですが、そんなことはないんです。光太夫が蘭学者たちの集まりに呼ばれたときなど、床の間の最上席に座ってます。ほかにも湯屋に行ったり、商人と会った記録などがあり、自由に歩き回っていたのが分かります」

一時帰国を許されて、故郷若松村に帰ってきた磯吉と違い、光太夫は生涯帰郷できなかったというのも、そうではなく、帰って物を貰ったりした記録が残っている、という。

「あんまり(通説と)違うんでね。書く気になったんです。光太夫は誘われてペテルブルグの遊女屋へ上がっていますが、これもないことになってます」

吉村さんが書いた漂流記はこれで6作。

「新潮新書で、『漂流記の魅力』という本を頼まれて書きましたが、これで漂流ものは打ち上げです」

(金田浩一呂)

 

大黒屋光太夫・表紙

大黒屋光太夫
吉村 昭/毎日新聞出版/上下各1,500円+税

※「有鄰」425号本紙では5ページに掲載されています。

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