Web版 有鄰

420平成14年11月10日発行

[座談会]小田原合戦 −北条氏と豊臣秀吉−

小田原市史編さん専門委員・一橋大学名誉教授/永原慶二
小田原市史編さん専門委員・正眼寺住職/岩崎宗純
小田原市立図書館図書担当/山口 博
有隣堂会長/篠﨑孝子

右から山口博・永原慶二・岩崎宗純の各氏と篠﨑孝子

右から山口博・永原慶二・岩崎宗純の各氏と篠﨑孝子

はじめに

北条氏政像(部分)

北条氏政像(部分)
早雲寺蔵

篠﨑戦国時代、小田原を本拠に関東を支配していた北条氏(後北条氏)は、天正18年(1590)7月、豊臣秀吉の大軍に敗れ、5代100年にわたる支配に終止符が打たれました。後に小田原合戦と呼ばれる、この戦いによって秀吉の全国統一が完成し、同時に戦国時代は終焉を迎えました。

そこで本日は、小田原合戦に至った状況、秀吉・徳川家康と北条氏の関係や、小田原合戦の様子、近世へと続く歴史的意義・文化的な変化などについてお伺いしたいと思います。

本日ご出席いただきました永原慶二先生は日本経済史、とくに中世を研究されております。現在は一橋大学、和光大学名誉教授でいらっしゃいます。ご著書は『戦国時代』(小学館ライブラリー)など多数ございます。また、小田原市史編さん専門委員も務められ、そのご研究の成果をもとに、今年の1月に『富士山宝永大爆発』(集英社新書)を出版されました。

岩崎宗純先生は、箱根町湯本の正眼寺のご住職で、小田原市史編さん専門委員としてご活躍されました。ご専攻は中近世文化史です。

山口博先生は小田原市史編さん事務局の主査を務められ、『小田原市史』の戦国時代を分担して執筆されました。現在は、小田原市立図書館に勤務されております。

北条攻めは秀吉の全国統一の総仕上げ

豊臣秀吉像(部分)

豊臣秀吉像(部分)
高台寺蔵

篠﨑小田原合戦に至る経過ということで、北条氏が領国に隣接する駿河や甲斐ではなく、中央の織田信長などの情勢に気を使い始めたのはいつごろからですか。

山口初代の北条早雲自身が室町幕府の役人の出ということもあり、中央の動向には初代以来かなり関心は持っていたと思います。

史料的に言うと、2代の北条氏綱、3代の北条氏康ぐらいまでは、かなり関心を寄せていて中央の関係者といろいろ連絡をとったりしている事実があります。

したがって、織田政権が成立すると、当然、政治的・軍事的な関心を寄せることになり、天正10年には信長の武田攻めにも協力しています。

永原軍事的な関心には2つの面があります。一つは、北条氏が関東に独立の国家をつくろうとしましたが、天皇や将軍のいる意味での京都を意識していたかどうかという点です。近年の研究では、大いに意識していたと見ています。

また、北条も歴代、左京大夫という官職をもらい、相模守を称して自分を位置づけていますから、中央を認めている。確かに秀吉に対抗して、関東で独立国家をつくろうという動きはあっても、全く独立独歩でいくというわけでもなかった。

北条氏略系図(数字は歴代当主)

北条氏略系図(数字は歴代当主)

もう一つの面は、越後の上杉、甲斐の武田、徳川、織田、豊臣、それら大勢力との外交関係なしに、北条領国を自分だけで維持するわけにはいかない。とりわけ上杉との関係が緊張しているから、徳川と北条は手を結ぼうとする。

そして徳川を介して信長、あるいは秀吉との関係をつくっていく全国戦略みたいなものを持っていたので、国政の面からも、あるいは軍事情勢の面から、戦略的に、やはり中央を強く意識していたと思います。

ただ、早く秀吉に服属するか、それとも頑張ったかは、各大名によってかなり違うわけです。

秀吉は関白となり全国の大名に号令できる地位に

永原秀吉についていえば本能寺の変(天正10年)の後でやっと従五位下になる。これは中央貴族の官職の一番下ですが、天正13年までの、たった3年間で従一位まで駆け上がる。信じられないような超スピードです。

それは何が目的かというと秀吉は天正13年に関白になったんです。それが重要な意味を持っていて、関白は天皇に意見を申し上げる地位なので、天皇と一体化している。それによって自分は、全国に号令できる地位を得たという形をつくった。

篠﨑そのとき秀吉は何歳ぐらいだったんですか。

永原49歳です。そのときは、中国地方の毛利とはすでに連携ができてますが、それ以外の大名は、まだ秀吉の支配には入っていない。

その第一が紀伊の根来、雑賀です。これらは高野山の分かれだったんですが、一向宗になっていて、一向一揆の大勢力です。鉄砲を持っていて軍事力が強い。それを征服した。続いて四国で長宗我部を従え、天正15年に九州の島津を征服する。それは関白になったからできたことです。それで最後に残ったのが関東の北条。だから、北条攻めは秀吉にとって、最後の仕上げなんです。

その起点は、関白になって全国統治者としての形を整えたから、関東に対しても、すでに天正14年に「関東惣無事令」で関東の大名同士の私戦は一切禁止すると命じた。今後は一切、自分が国境を確定するというので、上野の沼田領(群馬県沼田市)での北条と真田との問題では、秀吉が二人使者を下して国境確定をやる。それが惣無事令の内容です。これは関白でなければできない。

攻撃を予測しながら和戦両様のかまえで対応

永原そういう意味での全国統一の仕上げが北条ですから、秀吉が必ず攻めてくるということは北条は予測がついていた。とくに天正14年末から15年にかけて攻めてくるという予測を立てる。小田原の本城も、城郭整備に領内の農民までを動員するし、各地にいる家臣の侍たちに軍役の準備、兵員・鉄砲の数を強化させたり、農民たちを農兵として動員する。

岩崎根こそぎ動員というものですね。豊臣軍は兵農分離ができていたのに対して、北条は農民も駆り出した。

永原そう。根こそぎ動員を天正15年早々にやる。それ以降、一直線に戦争になるわけではなくて、天正18年3月までは時間があった。でも、情勢としてはいつ攻撃されてもおかしくないという構えを北条も持っていた。

山口天正15年暮れから16年にかけても臨戦態勢がとられており、かなりの数の陣触などが残されています。それで家康は、北条一族から誰か出仕しなさいと勧める。それが16年5月。それで同年8月、4代氏政の弟で韮山城(静岡県韮山町)にいた氏規が上洛する。惣無事令が出されて以降、北条は和戦両様できましたが、16年8月の段階で、北条は一応服属の意思表明をしたとみてよいのではないかと思います。

女、子供や兵糧も城に入れ、臨戦態勢を強化

北条氏の主な関東支城(ゴチック)と諸将分布

北条氏の主な関東支城(ゴチック)と諸将分布
(『小田原市史』から)

篠﨑攻撃に備える具体的な史料がいくつかありますね。

山口興味深い史料は、天正15年7月の人改め令で、ほぼ同文の文書が十数点出ているんです。北条氏の領国の中核は伊豆・相模・武蔵ですが、このうち相模・武蔵の郷村に宛てられた人改め令がかなり残っています。これは各郷の貫高(土地を貫文に秤量した高)に対して何人出しなさいというのを決めて農民を兵力として集めた。

岩崎旗差しものの「ひらひら武者めくように」とか出てきますね。遠くから見たら侍のような格好をしてこいという有名な史料があります。

山口「武者めくように」ということは、本来武者じゃないから、そういう格好をしろと。これは昔から非常によく知られた史料で、北条氏の軍勢は農兵だと言われるところの根拠にもなっています。

永原北条の直轄領は、小田原周辺だけでなく、関東の各地にあり、地方の土着の侍たちを小田原に直接呼び寄せる。同時に農民も動員する。

それから、氏政の弟の氏照がいた八王子城(東京都八王子市)を始めとして、重要な支城が関東一帯に幾つもありますが、そういう支城は、とくに天正15年のときは非常に緊張したので、兵糧も女、子供も全部城に入れている。

その当時の侍は、明治時代の軍人と違い、情勢を見てどちらにつくか決めるので、兵糧を村に置いておくと、家来たちはそれを持って逃げてしまうかもしれない。村には一つも兵糧を残すな、すべて城にいれよ、という形で、臨戦態勢を強化する。

実際に小田原合戦のときの秀吉の軍隊は20万とか22万と、史料のどれを見ても書いてある。そのほかに家康が2万5千、織田信雄(信長の息子)が1万5千、前田利家と上杉景勝の北国軍が何万かいる。それに対して北条は全部合わせても4万ぐらい。

山口豊臣のほうでつくった覚書には、北条方は3万4千程と出ていますね。

東海道からの防衛ラインは山中、韮山、足柄城

北条氏直像(部分)

北条氏直像(部分)
早雲寺蔵

篠﨑秀吉が攻めてくるときの防衛ラインというのは?

山口防衛の面から言えば北条側は箱根の山と、上野の碓氷峠を一番重視している。北国勢は上野のほうから来ますし、東海道のほうからは家康を含む本隊が来ますから。小田原防衛のために、箱根山の西側に防衛ラインを引きます。その中核が山中(静岡県三島市)と韮山。あとは足柄峠に位置する足柄城ですね。

中でも山中が、東海道を進んでくる軍勢に対する押さえとして一番重視される。その後方に箱根山、さらに小田原城がある。

足柄城は北条氏光、韮山城は氏規、山中城は重臣の松田康長が守っていた。箱根の山の中には二子山・屏風山などの砦があって、これらは恐らく小田原の氏直の指揮下にあったと思います。上野のほうは松井田城(群馬県松井田町)が中核で、大道寺政繁という重臣が入ります。ちなみに小田原から上野方面の指揮は不可能なので、それについては北条氏邦に任せました。

永原八王子城は攻められて女、子供まで皆、滝に飛び込んで死んだという悲話があるけど、肝心の城主の氏照が小田原に来てしまっている。

山口八王子は余り重視していなかったとしか言いようがないですね。

家康をどちらが味方にするかが決め手

山口この時期の秀吉と北条との交渉を具体的に示す史料はほとんどないんです。後で出る天正17年の宣戦布告状が直接的には唯一の史料です。

永原関東の大名は北条も武田も滅びましたから、家に残った文書はないけれども、中国地方の毛利文書、九州の島津文書などを見ると、これは全部そのまま近世に続いている。それらの史料では、大名間は連絡を相互にやっている。政略、戦術にかかわる大名間のやりとりや秀吉とのやりとりなどはたくさんあったに相違ないんです。史料として有名な『太閤記』はそれなりに役には立つけれども大ざっぱなんです。『信長公記』は書き方が非常にきちんとしている。

ですから、今問題になっている天正15年ぐらいから18年にいたる時期の政治的駆け引きは、徳川をどちらがとるかということが決め手だったので、秀吉は、母親の大政所まで岡崎の家康に人質に出して、とにかく大坂に来てくれ、とにかく臣礼をとった形にしてもらいたいと申し入れる。これは秀吉の並々ならぬ決意ですね。

北条は秀吉に対して、徳川を盾にして戦略をたてていますから、客観的には、家康が大坂に行ったらもうだめなんです。北条だけではなくて、東北の伊達政宗までを含む連合構想が一挙に全部崩れるのです。

山口天正14年10月の家康の上洛は、徳川、北条、伊達も含め、外交の面からいうと画期的なことですね。

家康を通じて北条氏を統制しようとした秀吉

永原秀吉は、そこからはいけると思ったでしょうね。

篠﨑分岐点になったということですね。

山口それまで同盟していた北条と徳川ですが、14年以降は、徳川を通じて北条を統制しようという動きが秀吉に出てきますからね。

永原秀吉は11月に惣無事令を出し、12月には太政大臣になって羽柴姓から豊臣姓を名乗る。これはものすごく重要な画期です。そこから先は、徳川がなびいたから東の心配がなくなり、九州に行って島津を討つ。九州を押さえれば、あとは関東と東北だけ。非常に合理的なんです。

秀吉のやり方は、すごい安全運転です。それから、直接血を流す戦争をやらない。その点では、ものすごい政略家だし、合戦がうまかったというのとは違う。血を流す戦争はあまりしないんです。四国で少しやったようなものだけれど、ほとんどやらないうちに長宗我部は降伏した。九州の島津も、ちょっとやったけれど、激突はしなかった。

小田原攻めの直接の理由は出仕しなかったこと

永原だから、北条も同じ方式でやるつもりだった。滅ぼす気はなかった。けれど、秀吉が口をきいて、真田と北条の取り合いの沼田領について、線を引くことをやった。秀吉も北条の存在を一たん認め、北条も出仕すると言ったのに、約束どおりに出仕しなかった。

沼田領の真田名胡桃城(群馬県月夜野町)を北条方が横取りして、小田原もそれをサポートしたんです。せめてそれを小田原が抑えつければよかったのだけれど、やらなかった。だから二重に違約をやった。つまり、出仕はしない、しかも秀吉の沼田領の仲裁を踏みにじった。

岩崎それは一種の口実ですね。

山口要するに、最終的に秀吉が小田原を攻める決心をした直接の理由は、出仕しないということなんです。沼田を渡すという約束を前提に、氏直は、妙音院・一鷗軒という秀吉の使者に、6月5日の段階で12月上旬に上洛しますという証文を出すんです。それをもとに7月下旬の段階で、今言われた沼田領の3分の2を北条方に渡して、残る3分の1は真田に据え置くという裁定を実施するんです。

当時の記録の『鹿苑日録』に、氏政自身が来ないで使いを寄こしたから、秀吉がかなり怒ったということが出てくるんです。だから、上洛の約束は確かに12月の上旬だけれど、秀吉としては、沼田領の措置が終わったから、なるべく早くお礼に上がってこいと当然伝えていたと思う。でも上洛しなかった。それが一番大きな原因なんです。

それに加えて、11月初めに、先ほどの名胡桃城の奪取事件があったということですね。

軍役の動員と兵糧の配置を指示した秀吉の軍事動員令

永原名胡桃城を奪取したのは11月24日です。

ところが、秀吉の軍事動員令があるでしょう。『小田原市史』の資料編に載っている2つの秀吉の条書です(豊臣秀吉条書写)。一つは兵糧、一つは軍役の数に関するものです。九州を除いて四国から中国、山陰、北陸、すべての大名に一定の軍役を動員している。割り当ては地域によって遠いほど兵隊を出す数が軽いんです。徳川の東海には一番多く出させている。そういう軍役の割り付けが10月10日に出されている。

同時にそのときに長束正家を兵糧奉行に任命して、黄金1万枚を出して兵糧の買い付けをやり、それを伊勢(三重県)のほうから東海道にかけて、行く先々に送っておく。20万以上の軍隊が行くと、通った所はイナゴの大軍が食い荒らしたみたいになってしまう。それをやったら人民は逃げてしまう。人がいなくなったら労役に使えない。兵糧はそれぞれの所に配置するわけで、港ごとに蔵をつくって配置せよと言うわけです。秀吉は戦地での略奪や人身売買などを極力行わなかった。

そういうことを言いだしたのはどちらも10月10日です。

氏政の上洛が秀吉と北条の交渉の主眼

永原名胡桃城事件が起こり、出仕もしない。11月になって秀吉がついに癇癪を起こして宣戦布告状を出したと言いますが、私は、その前から秀吉はとっくに腹を決めていて、10月には基礎的な動員の準備をやっていた。そこにさらに上洛しなかったという口実ができたので、宣戦布告状になったと思うんです。ですから戦争に入る状況が確定的になってくるのは、10月より早かったと思うんです。

山口通常では、秀吉が北条を攻めた直接の動機は名胡桃城奪取だと言われていますが、あれは主じゃなくて従です。当時の古文書を見ると、名胡桃奪取後もしばらくの間は、とにかく上洛が豊臣と北条の交渉の主眼なんです。

永原秀吉は箇条書に書いています。一つに出仕のことがあって、その次の一つに、沼田要害のことで「即ち罷り上るべきと思し召被れ候ところ、真田相拘え候なくるミの城を取り、表裏仕り候」とある。

過剰な自信を持つ氏政と臣従派の氏直、氏規

永原北条は外交下手だったという面もありますが、出仕・臣従することに躊躇していたことは間違いないと思います。東北の伊達政宗がやはりそうだった。北条と伊達は対秀吉で連合していたから、伊達もなかなか出てこない。それを浅野長政が伊達に、出仕したほうがいいと忠告している。最後になって秀吉が小田原の一夜城に入って、小田原城を見ているところで、伊達は来たんです。政宗は腹を切らされる覚悟をして来たんですが、秀吉は政略家だから許した。

だから、氏直か氏政が早く秀吉のもとへ行けば、多分、大名の中で北条だけをつぶすはずはないと思います。北条は関東一円を握っていたから過剰な自信を持っていた。

外交の駆け引きの読みを誤ったと見るか。さらには、北条も日本国の中の一定の地位を持っていますから、天皇は認めても秀吉という成り上がりの男を、そのまま天下人としては認めないということだったのか。

山口家康の娘を妻にしている氏直や、秀吉との取次ぎをやってきた氏規は、どちらかというと、家康と一緒に臣従してしまおうという立場だったと思います。だけど氏政は、いや、臣従はできないぞという気持ちがあったような感じなんですね。

ですから、当初の天正16年の段階で氏規が一応京都に行って、臣礼したときには、氏直、氏規派のほうが主導的になったんですが、17年の段階の後になって、それがちょっと破綻してきたみたいな感じですね。

北条氏は必ず自分も救われると判断すべきだった

永原どちらも総力戦をやったけれども、金の力にしても、立場にしても差がついていましたからね。だから北条は、秀吉のやってきたことを見ていれば、情勢判断としては必ず自分も救われると判断すべきだったと思うんです。島津ですら助けられたんですからね。家康が一生懸命北条のために口をきいてくれていたんだから。自爆したようなものです。

山口当時のいろいろな記録を見ると、11月末までに上洛すれば、秀吉は北条を攻めないというようなニュアンスがあります。秀吉は、宣戦布告状を出した同じ日に、家康に対しても書状を出して、北条の返事が来たら、急いで送れということを言っているのも注目されます。秀吉も使いも、とにかく早く上洛すれば大丈夫だみたいな話をしている節があるんです。

ところが、12月に入った途端にそういう動きがなくなり、実際に陣触も出て、決戦が決定的になってしまう。

永原『小田原市史』の史料編に載っている豊臣秀吉朱印状、これはすごいんです。

「北条のこと、近年公儀をないがしろにし、上洛あたわず」、「あたわず(不能)」は、読みとしては上洛をよくせず(上洛しようとしない)だと思うんです。

「ことに関東において雅意に任せて狼藉の条、是非に及ばず」。だから、関東において、わがまま勝手に狼藉をやり続けているので是非に及ばず。続けて、本当はそこでつぶすはずだったけれど、氏規が来たので許した。

山口家康の娘が氏直の妻なので、氏直から見ると家康は義父になるわけです。その時は家康の執り成しで氏規の上洛が実現した。

永原その後、いかに背信行為をやったかということを挙げていて、これは天道にそむくものだというのが最後の決めつけになるわけです。

数奇な運命をたどって生き残った宣戦布告状

秀吉の宣戦布告状(部分)

秀吉の宣戦布告状(部分)
北條治巳氏蔵・北條寿一氏提供

永原北条の子孫といわれる北條龍彦さんは2、3年前に亡くなられましたが、彼はご自分のうちにあって、今も岡山県の預け先にある宣戦布告状の文書が秀吉が氏直に送ったものだと確信しておいででした。

写しは上杉、毛利、伊達とかの大名に送っていますから、7つ、8つ同文のものでわかっているのがあるんです。その中で龍彦さんは、秀吉の出した文書で5人の右筆を調べていき、筆跡を全部つき合わせた。すると、右筆楠正虎の手だということが分かった。ただ、そこから先、どうしてこの資料が岡山県に残ったかということを言わなくてはならないのですが、これは難しい。それ以上は龍彦さんの推理になるわけですが、私は推理は当たっていると思う。

北条は小田原が落城したときに、氏直が助命されて300人ぐらい連れて高野山に行ったといいますから、一定の物を持っていったと考えてもおかしくない。だけど氏直は天正19年、負けた翌年に疱瘡になって死ぬ。そうすると、氏直のおじさんに当たる氏規の流れに、秀吉は北条の名跡を残してやろうと1万石やって、河内狭山(大阪府大阪狭山市)の大名にした。

ですから、恐らく小田原本城から持ち出されてきたものが、何らかの形で北条の本領の備中(岡山県)に移った。そこまで龍彦さんは調べた。秀吉が北条に出した宣戦布告状は数奇な運命をたどって、本物は生き残ってきていると思います。

籠城戦略――秀吉側の内部崩壊を期待

岩崎最後に秀吉と対決していくときどんなに秀吉が来ても、大外郭に囲まれた小田原は落ちないぞという自信はなかったんですかね。

永原こういうふうに考えたらしいんです。天正18年いっぱいを頑張り抜けば、必ず秀吉側では兵糧不足問題とか起こると。大軍を集めて長陣の包囲なんかしていると、やることがなくて、みんな女房を呼んだり、商人が物を売り込みに来たりで内部崩壊が起こると見ていたと思う。だから、何も永遠に守り抜かなくて、今年いっぱいだと。

岩崎要するに長期戦に持ち込めば勝てると。それと氏政には、永禄4年と12年の2回、上杉謙信と武田信玄が小田原城の城下まで攻めてきたとき、町は焼かれますが、最後まで守りぬいたという自信もあったでしょう。

篠﨑北条の支城は関東に幾つあったんですか。

山口俗に100とか言われていますが、正確には把握されていませんね。

永原毛利が「関東八州諸城覚書」に書いている。玉縄(鎌倉市)、三浦、下田、河越、鉢形(埼玉県寄居町)、八王子、岩付(埼玉県岩槻市)とか、100に近い数ですね。

北条領国の本城は小田原でその主な支城には、一族、重臣が入って一定の抵抗力を持っている。そして小田原は大外郭という総まわり9キロぐらいのお城のお堀、大土塁をつくって、町ごとぐるりと囲むわけです。

だから、町人もすべてその中に入ってしまう。関東地方全体から呼び寄せた家来、それから背反をおさえるための証人(人質)も全部抱え込んでしまう。兵糧もすべて持ち込みで、自分の分を確保してなお余りがあったら小田原に全部売れと。ですから氏政、氏直のほうは兵糧も人も可能な限り、これは侍だけじゃない形で、小田原という、いわば運命共同体の世界をつくってしまったわけです。

けた違いの秀吉の資金力

氏規に投降等を勧めた家康の書状

氏規に投降等を勧めた家康の書状
神奈川県立歴史博物館蔵・小田原市史編さん室提供

篠﨑北条氏にもかなりの財力があったんでしょうね。

永原だけど、それは秀吉に比べたら……。

篠﨑けたが違いますか。

永原秀吉のほうは、史料がありますが、兵糧買い付けなどにあてただけで黄金1万枚。黄金1枚というのは純金に近い90何%で、44匁ぐらいです。1枚で10両、それを1万枚使っている。

そのほかに奉行が管理していた20万石の米があった。秀吉のほうは遠くから来るわけでしょう。20万人以上の軍隊がいて、伊勢・淡路島・伊予のほうから秀吉の家来になっている加藤嘉明、九鬼嘉隆の水軍も来るわけです。

石垣山一夜城址

石垣山一夜城址
小田原市早川

それで、秀吉は3月の末に小田原城を眼前にする所まで来て、すぐに城を攻めず、悠々と包囲する。鳥1羽、アリ1匹出られないほど、海上、陸上、つまり大外郭のまた外を全部封鎖してしまう。

秀吉の小田原の本城は一夜城と言いますが、最近の発掘で見たら、一夜どころか、石垣は本格的なもので、ごまかしに、ちょっと城らしくしたなんていうものではない。本物の城です。後に、朝鮮出兵をやるときも、名護屋でも、みんな本格的な城をつくている。出先でもそれをやることが秀吉の特徴ですが、それをやるお金ですね。

幾ら大軍と言っても築城の人夫が要るでしょう。北条は地元だから、自分の領国から小田原城強化のために人夫をたくさん集めてやったわけですが、秀吉は金でやるしかないわけです。地元の人たちは金をもらえば秀吉方の仕事でもやるでしょう。それでやったわけです。

このお金を考えると北条とはけた違いの財力です。秀吉がそれまでの大名とどこが違うかというと、金をいかにたくさん備蓄したかということです。「きん」は秀吉自筆文書で「きがね」といっています。時々、金配りといって、お花見をやって大名たちに配ったり、公家にやったりするわけですが、それはものすごいです。秀吉は、金の有効性を一番知っていて、大量に持っていた。

上杉謙信は死んだときの財産調べで2千数百枚しかなかったけど、秀吉は今度の戦争だけで1万枚です。関東でも金はたくさん出たらしいけれども、秀吉のところに集中するメカニズムは、どういうものか解かなければならない。

山口結局、小田原城の包囲が徹底される一方で、講和の動きが出てくる。最終的には、氏直が秀吉に投降して、5か月に及ぶ合戦の幕を閉じることになります。

小田原は京文化と東国文化との接点

早雲寺境内

早雲寺境内
箱根町湯本

篠﨑北条氏の文化ということでは。

岩崎北条氏が滅びた段階で北条氏が収集した絵画、文物はかなりのものがあった。

例えば、足利将軍家が収集した南宋の画僧玉磵が描いた「遠浦帰帆図」などの東山御物中というものや、鎌倉の建長寺、円覚寺にあった仏画類が早雲寺や本城にはかなりあった。それを秀吉はみんな召し上げて京都に持っていき、大徳寺に寄付したり家康に与えたりしている。

北条氏の収集絵画はかなりレベルの高いもので、雪村周継という室町期の、雪舟に次ぐ最大の画家が会津からわざわざ見に来た。それで、いろいろな刺激を受けながら、室町のトップの絵師になっていくという経過もある。かなり重要な絵画類なんですね。

現在でも国の重文になっている「五百羅漢図」とか、臨済宗の「三祖師画像」は全部京都の大徳寺にありますが、それは全部早雲寺から持っていったことは確かです。

それから中には、秀吉が千利休に与えたのを、利休自身が、こんな大切なものをもらってもというので、大徳寺に寄付したものもある。

永原早雲寺にあったものと、本城にあったものと両方考えなければなりませんが、北条の歴代当主たちが、山科家などの京都の公家たちに、宗長のような連歌師を通して例えば『源氏物語絵巻』の写しをつくってもらうとか、あるいは、自分の持っている物に奥書を書いてもらうとか、そういう形で文化的な交流をやっていて、その都度、金10枚などという形であげるんです。鑑定ですね。

これは大変なことなんですね。そうすると、公家のほうは大喜びで、「手舞い、足地につかず」とか史料に書いてある。

今川氏経由でも京文化を取り入れる

岩崎北条のコレクションのうち、いわゆる京文化、中央文化を小田原の地に持ってくるルートとして、一つは、初代早雲自身は、申次衆という室町幕府のかなり重要なところにいた。それで、幕府に出入りする公家は、特に外郎などと接触があったと思います。それでいち早く外郎を小田原に呼んで、その外郎が文化のお使い人として、例えば2代氏綱が「酒伝童子絵巻」を狩野元信に注文して描かせ、それができ上がるまでは外郎が全部使いに出ているんです。

永原京都の文化の高さを北条はよく知っていて、氏綱は鶴岡八幡宮の大造営を生涯の事業としてやりましたが、興福寺が抱えていた京都と奈良の番匠、瓦職人等々、建築に必要な人を呼ぶ。歴代、そういう京都の文化を取り入れた。

岩崎一つは、駿河の今川経由で来ているものもあります。例えば連歌師の宗長、刀鍛冶の島田義助とか。冷泉為和なんかも今川の居候で逗留していて、それで小田原へ。

永原今川の所へは、公家がたびたび来ている。

岩崎そうなんです。それが小田原に歌の指導なんかに来ていますね。

永原だから、今川は公家風で、北条は早雲以来武辺だというのは間違っていると思う。大名は戦争屋だけではなくて、地方国家の君主ですから、文化というものは支配のための一要素として絶対欠かせないんです。つまり領内のさまざまな階層に対して秀でた地位というのは、いかに文化を目に見える形で持っているかということなんです。

山上宗二が「小田原天命」の誕生に関わる

岩崎小田原の場合、天正18年で北条文化は完全に崩壊してしまうんですが、それ以前に初代早雲、2代氏綱から始まって、5代氏直まで、中央文化の導入があって、いろいろな人びとがやって来たので、それなりの文化ができ上がってくるわけです。

小田原の場合は鎌倉文化との接点があったから、鎌倉の水墨画系の画人や会津の雪村も来る。一方、京都から狩野玉楽や番匠も来る。西の中央文化と東国文化が接触する場が小田原だと思うんです。

後世、小田原物とよばれている小田原狩野の絵画とか、「小田原天命」とよばれる茶湯の釜が生まれてきたと思うんです。室町時代から関東のよい釜は天命と呼ばれ、小田原天命は河内狭山から来住したといわれる鋳物師山田二郎左衛門によって鋳られたものです。

小田原天命ができたのは、千利休の弟子で茶道者の山上宗二が小田原に来遊していたこととも深くかかわっていたといわれてます。宗二は小田原合戦中、早雲寺の茶会で秀吉の怒りをかって自害させられてしまいます。

『吾妻鏡』の有力な写本も北条氏が所有

岩崎北条氏のコレクションは、天正18年の小田原攻めで一挙になくなった。だから加賀みたいに近世社会の中に残らなかったわけです。

篠﨑中世の『吾妻鏡』を3代氏康が読んだと。金沢文庫にあったんでしょうね。

永原『吾妻鏡』の有力な写本の一つは小田原にあった。それが家康の手に入った。だから、城が全部燃えてしまったのではなく、氏政が出てきて腹を切ったから文化財は残った。城にあったいいものは秀吉も手に入れたけれども、大部分は家康の文庫にしたわけです。

岩崎2代氏綱の弟、北条幻庵などは結構いろんな古典籍を残している。

篠﨑小田原の町自体はどうなったんですか。

永原家康は小田原城を落とすと、すぐに秀吉から江戸に行けと言われる。そのとき江戸は、小田原に比べたらまだ漠たるもので、家康に商人がついていったかどうかわからないんです。

外郎は小田原にそのままいるわけです。冨山という伊勢から来た有力商人は、城が落ちたときに小田原を離れて練馬に移り、江戸でまた大きな商人になった。伊勢商人の一番の舞台は小田原です。

氏直は謹慎した後、秀吉の旗本に

篠﨑合戦が終わって、氏直は高野山に追放され謹慎することになりますね。

山口8月に高野山に着きますが、翌年の2月には家康を通じて赦免の意が伝えられます。家康の縁者ですから。そして、8月に大坂城に入り、正式に赦免になる。このとき1万石の知行を与えられたようですね。

永原それを、氏直とともに切腹をさせられずにすんだ氏規が継承する。

山口実際には氏規の子供の氏盛が継承しました。秀吉に旗本として取り立てられたのは氏直と氏規なんですが、氏直はすぐ亡くなるので、その名跡は氏盛に継承され、遺領は氏規とその子供の氏盛に与えられます。氏規に与えられた分も、最終的には氏規が死んだ段階で、氏盛に継承されたと見てよいでしょう。それからずっと幕末まで続くんです。

北条氏の家臣たちは登用されずに土着

篠﨑北条氏が近世に与えた影響は何かありますか。

山口家康が、北条氏の政策をかなり継承している。

岩崎江戸幕府の東海道の伝馬制度は引き継がれていったと言われています。

永原地方にいた北条の家臣たちは意外に登用されず、土着したのではないかと思います。これほど北条の発給文書が村々の旧家に残っているのはほかに例がない。小代官とか名主といった村の一番中心になる主だった家の人は北条の下級の家臣で、大体30貫文以下だけれど、侍にみんな編成させていた。だけど、家康は彼らを登用しなかったから、百姓になって村の旧家として文書を持っている。

山口小田原方面の例を見ると、名主とか組頭とか江戸時代に村役人をつとめた旧家の最も古い文書は秀吉の禁制である場合が多いんです。北条時代の古文書を伝えている旧家はありますが、北条時代に小代官とかをやっていたこれらの旧家の文書は、そこで切れていて、秀吉の禁制以降の文書がない家も多い。こういう面からも、戦国末から近世初頭にかけて、村の指導者の系統にある程度の断絶があるのではないかと思います。

篠﨑きょうは本当にありがとうございました。

永原慶二(ながはら けいじ)

1922年中国大連市生まれ。
著書『戦国期の政治経済構造』岩波書店 7,000円+税、ほか。

岩崎宗純(いわさき そうじゅん)

1933年箱根町生まれ。
著書『浮世絵が語る小田原』夢工房 2,000円+税、ほか。

山口 博(やまぐち ひろし)

1959年秦野市生まれ。
共著『小田原市史通史編 原始 古代 中世』 6,000円(税込)。

※「有鄰」420号本紙では1~3ページに掲載されています。

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