Web版 有鄰

420平成14年11月10日発行

吉住侑子と『旅にしあれば』 – 人と作品

観照眼の深さが醍醐味の現代のシニア文学

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吉住侑子

女性が主人公の現代版『方丈記』

吉住侑子の『旅にしあれば』(作品社)は、現代版『方丈記』である。ただ、作者も主人公も女性だ。

さわ子は東京で30年ほど教員生活を送った後、生まれ故郷の房総の山村に戻り、山すそに小さな家を建てて暮らし始める。若いころ、一度結婚に失敗してから、ずっと独身だ。

小屋の周囲は、村の人びとがさまざまな木を植えてくれて、うっそうとした繁みになっている。もともと農家の出身だったさわ子も、畑仕事が嫌いでない。豊かな自然に囲まれて、静かな独身生活を送る日々に、土地の昔なじみが立ち寄ったり、あるいは、都会生活のころの旧友がたずねて来たりする。

都塵を払った主人公さわ子の、それらさまざまな人と人生に対する観照眼の深さが、この作品の醍醐味となっている。

「さわ子は、ある程度、私の分身です。教員生活をやめて田舎に戻り、山すそに小さな家を建てて住んでいます。そこに住んで、いろいろな人間を描こうと考えました。登場人物は実在の人もいますし、噂に聞いた人もいます。全く私がつくった虚構の人物もいます」

読んでいて気がついたことは、都会生活ではとてもこのような人間観照はできないということだ。田舎ぐらしは、人間性丸出しである。長所も欠点も隠しようがない。その点、都会ぐらしは、マンションのドア一つ閉めればどこからも見えない。見えるのは、限られた時間の、限られた一面だけだ。

とりわけ、この作品で目立つのは、妻に逃げられた男の多いことである。――この地方では、妻が家を出ることを「家出」とはいわないらしい。「出かける」というのだそうだ。ちょっと近くのコンビニへ買い物にでも出かけるような語感だ。そして、「出かけた」妻がしばらくして、ふらりと戻ってきて、何くわぬ顔でまた元の生活に入るのも現代的だ。

〈山の生活が真に辛いものであったなら、女たちはむやみに駆け戻ったりはしなかったのではなかろうか。源氏物語の髭黒の大将が心やさしい男だったように、山人たちは優にやさしい心の持ち主なのかも知れない。そんな山人が通りかかったら、連れていってよ、と言ってみたい。〉

山里のくらしの中で越し方行く末を考える

山里のくらしはのどかである。新聞の朝刊は昼ごろ、ときによっては昼過ぎに配達される。それが当然のことなのだ。村人は自分の畑で穫れた新鮮な野菜などをどっさり持ってきて、上がり込んで話していく。歌の上手な、少し脳のゆるい男も常連のように登場する。

さわ子は昔おぼえた絵筆をとって、ときどき写生に出かける。そこには、昔ながらの自然と人生がある。さわ子はそうした環境のなかで、自分の越し方行く末を考えるのである。

〈――わたしは罪をおかしました。人の夫を盗み、夫人の心を傷つけ、それなのにその人を呪いました。自分の非を承知しながら、その時の隔てられた無念、逝かせてしまった人への懐いに胸が痛むのです。未練と嘲られ、不逞と罵られようとも、わたしにとっては、一人の男と女のまことの交わりだったのです。道徳も、法律も、慣習もそんな二人を裁くことはできないと考えていました。その意味では、わたくしももの狂いでした。
――……
――そんなわたしにも、時が慰めの手をのばしてくれました。山の小屋で息をしずめ、傷口をつくろい、それなりの平安を得ました。けれどもまたぞろ、何かが動くのです。性懲りのない何かが、胸の底にうごめき、こうしていてはいけない、という声が、どこかでわたしを呼ぶのです。どうしたらいいのでしょう。〉

幼少のころ神童といわれながら、長じてさまざまな曲折の果てにもの狂いとなってしまった男の面影に心情を吐露する場面が、たいへん印象的である。

吉住さんは、今、都内のマンションにも仕事場をもち、山小屋と1週間ずつ往来する生活をしている。文学歴は長く、文芸誌『文芸首都』や『きゃらばん』で習作を重ね、丹羽文雄主宰の「文学者」で修練を積んだ。『三田文学』に発表した「真葛が原」は北日本文学賞、小島信夫賞を受賞しており、作品社から単行本として出版されている。

どの作品も、ドラマ性を抑制し、静かなたたずまいのなかに、深い人間洞察をめぐらせているのが特質だ。これこそ、現代のシニア文学といえるだろう。

(藤田昌司)

『旅にしあれば』・表紙

旅にしあれば
吉住侑子/作品社/1,600円+税

※「有鄰」420号本紙では5ページに掲載されています。

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