Web版 有鄰

415平成14年6月10日発行

[座談会]横浜 下町・落語・にぎわい座

落語家/桂 歌丸
横浜にぎわい座館長/玉置 宏
有隣堂会長/篠﨑孝子

左から桂歌丸氏、玉置宏氏と篠﨑孝子

左から桂歌丸氏、玉置宏氏と篠﨑孝子

はじめに

篠﨑江戸は三代住んで初めて江戸っ子、横浜は3日住めばハマっ子だと言われています。横浜は安政6年(1859)に開港して、ことしで143年になります。全国各地から多くの人たちがやってきて発展した、歴史の新しい町です。

幕末のころ、関所がちょうど今の伊勢佐木町の入り口の吉田橋にあり、その北側は、いわゆるお役所や貿易商などが集まる関内地区、吉田橋から南側が関外と呼ばれる伊勢佐木町に代表される下町が形成されました。

そして明治13年に伊勢佐木町が「観世物興行場」に指定され、数多くの芝居小屋や寄席など、大衆の娯楽場が開業しました。

きょうは、横浜の下町の生活や横浜と落語の関わり、そして4月に、野毛にオープンしました「横浜にぎわい座」について、ご紹介をいただきたいと思います。

ご出席いただきました桂歌丸師匠は、横浜市南区真金町のお生まれです。テレビ番組の「笑点」でもおなじみで、落語芸術協会副会長もお務めです。地元横浜のことになると、本気で一肌もふた肌も脱いでくださる方とうかがっております。また、横浜市ふるさと歴史財団の評議員としてもご活躍です。

玉置宏先生は、昭和31年に文化放送に入社され、その後、歌謡番組などの司会者として活躍、日本司会芸能協会の会長をお務めです。NHKの「ラジオ名人寄席」などにも出演され、「横浜にぎわい座」の初代館長に就任されました。川崎市にお生まれになり、横浜市青葉区にお住まいです。

真金町の遊郭に生まれ育つ

篠﨑横浜の下町はどの辺りをさすかについては、諸説あるそうですが、横浜市が誕生した明治22年当時、関外の中でも浪花町(現在の羽衣町)などの34ケ町を下町と呼んでいいそうです。言い換えれば旧吉田新田の辺りになります。野毛や元町も低い所は下町ですが、野毛の丘には、原善三郎や茂木惣兵衛といった横浜を代表する貿易商の別荘がありましたし、元町は裕福な商店が多いということもあって、少し性格が違うようです。ですから、伊勢佐木町より南側、江戸時代に吉田勘兵衛が完成させた新田の一帯に商人や職人が多く住んでいたので、その辺りを下町と呼んでいるようです。

歌丸横浜の地図を見ますと、釣り鐘の形をした所が吉田新田の埋立地ですね。すると、私が住んでる真金町は横浜の下町のど真ん中ですね。

篠﨑そうですね。古い写真を見ますと、真金町あたりは明治30年頃まではまだ水田なども多く残っている感じですが、震災前の伊勢佐木町は真金町・永楽町の遊廓(永真遊廓街)や賑町の芝居小屋があって繁栄したようです。

賑町と呼ばれていた現在の伊勢佐木町3・4丁目

大正時代の伊勢佐木町周辺

大正時代の伊勢佐木町周辺 ※画像をクリックすると拡大画像が見られます
(『横浜三街物語』 有隣堂刊から)

歌丸あたしたちは子供のころも、戦後も、たまに今でもハッと出ちゃうんですが、伊勢佐木町を賑町、賑町と言っていて、伊勢佐木町とはあんまり言わなかったんです。

篠﨑そう呼ばれていた時期が長くあったからでしょうね。吉田橋のほうから言いますと、今の伊勢佐木町の1丁目の所が、もともとの伊勢佐木町で、今の2丁目は松ヶ枝町、3・4丁目は賑町だったんです。それが昭和3年の町名整理で、その先の長島町なども含めて、通り全体を伊勢佐木町と呼ぶようになったんです。もとは違う町名があったんです。東京でもそういうことがあるようですね。

歌丸これは噺の中に出てくるんですが、人形町から江戸橋のほうへ抜ける所に親父橋という所があった。そこはもとの町名がわからない。通称で照降町。照っても降っても役に立つ、げた屋と傘屋が並んでいた。これ髪結新三という噺に出てくるんです。回り髪結の新三といって大変な悪人です。楽太郎みたいなやつで。(笑)

玉置長い噺なんですが、歌丸さんが人情噺という形で復活させて。

歌丸はい。でも、地名って面白いですね。

真金町で女郎屋を営んでいた祖母

大鷲神社(明治後期)

大鷲神社(明治後期)

篠﨑歌丸師匠は、真金町のお生まれなんですね。

歌丸そうです。今も、ずっと住んでるんです。

篠﨑お酉さま(大鷲神社)のすぐそばですか。

歌丸はい。昔、あの中で女郎屋をやっていたから、ど真ん中にいたんです。祖母がやっていたんですが、もう面倒も見切れないというので、廃止になる前に人に譲って、手を引いたんです。それで2丁目から1丁目の今の所へ引っ越したんです。

篠﨑昭和33年に、売春防止法によって遊廓はなくなりますが、その前に廃業されたんですね。

終戦後間もなく、お酉さまのときに通ったことがありますが、格子の窓のような所にきれいな女性が何人もポーズをとって並んでいるんです。きれいだなあと思ったのを覚えてます。

歌丸戦前は古風に、大店だと、張り店もありました。

篠﨑張り店というのは?

玉置今言われた、女性が並んでいる所、つまり、ショーウィンドウですよ。お女郎さんが、お客さんから見える所にずうっと並んでる。

歌丸うちを例にとりますと、入って左手に、仕切りみたいな朱の欄干が張りめぐらしてあって、抱えの女の子が5人、6人とそこで店を張っているわけです。

で、初回のお客さまは、それをごらんになってから上がるんです。なじみの客はもう相方が決まっているから、正面から上がる。

真金町の中でもそういううちは何軒もありました。で、和風と洋風とに分かれてましたね。「イロハ」なんていううちは洋風でした。

“真金町の三大ばばあ”と言われた女傑

篠﨑何という屋号だったのですか。

歌丸うちの店は、「冨士楼」と言った。祖母は“真金町の三大ばばあ”って言われていた。(笑)

玉置牛耳ってたんだ。

歌丸冨士楼、ローマ、イロハ、この“三大ばばあ”はやくざもよけて通ったと。

篠﨑女傑ですね。お店を始められたのはいつごろからなのですか。

歌丸多分、大正の初めだと思います。途中から来た人なんですよ。伊勢(三重県)の出身で、一時、有楽町で食堂をやっていたそうです。その時分に、蒋介石をお世話したことがあるんですって。蒋介石の色紙みたいのが残っていたんですが、空襲で全部焼けちゃって。これが残念だと祖母は随分言ってましたね。

それから二・二六事件のときに何かの用で横浜から出かけて行って、ひどい目に遭ったというのを随分ぼやいて、あたしたちに聞かせてくれたことがありましたね。

疎開先から空襲を見て「横浜に帰れないか」と

篠﨑玉置先生は昭和9年のお生まれですね。

玉置9年の早生まれで、旧制の最後です。夏休みに終戦になって、それまで使っていた教科書を2学期が始まった途端に、「何ページの何行目から何行目まで、墨で消せ」というのを唯一やった学年です。あれとっときゃねえ。終戦は6年生です。5年生の1年間は茅ヶ崎に疎開していました。

篠﨑それでは、空襲は体験されてないのですね。

玉置ただ、東の方が真っ赤になっているの。そしたら、電話がかかってきて「空襲で燃えた」って。

歌丸あたしは千葉の誉田という所がおふくろの実家でして、裏にちょっと高い山があって、そこから横浜の空襲を海を隔てて見てました。黒い煙がボーッと上がって。今でも覚えてますね。もう横浜へ帰れないんじゃないかと。後に祖母が迎えに来てくれたときはうれしかったですね。たしか小学校3年生ぐらい、南吉田小学校です。

横浜に帰って来たときは子供心にもほっとしましたよ。祖母は、すぐに焼けトタンを自分で集めてバラックを建てて、あたしと自分の部屋をこしらえて、お客さまがとれるように、一部屋またこしらえていたんです。それですぐに商売をやってましたから。

真金町、永楽町は外国人は一切だめ

篠﨑そのころ来ていたお客さまはアメリカ人ですか。

歌丸いえいえ、アメリカ人は一切入れませんでした。

玉置占領軍専用の慰安施設が、各地にできていましたね。川崎近辺だと大森海岸に料亭みたいなのが幾つもありました。競艇場へかかる第一京浜沿いの少し入った所。

篠﨑三宗楼という真金町の遊廓では、占領初期に、1か月ぐらいは外国人向けに営業をしたと、以前にお聞きしたことがありますが。

歌丸やったんですが、おふれが出て、すぐにだめになった。だから真金町と永楽町は外国人は一切だめ。本牧の方へ持っていったんじゃないですか。

玉置チャブヤ。

歌丸ですから、三宗楼はローマ字の看板を掲げたけれど、また取り外さなきゃならなくなった。

真金町に、7、8年前ぐらいまでは1軒か2軒は昔の面影を残した家並みがありましたね。それで映画とかの撮影のときにはよくそこを使ってましたよ。もう全部なくなりました。

玉置建築法規にかなわないようなものは全部残せないでしょうね。お客さん同士が顔を合わせないようにとか、面倒なつくりになっているのね。

歌丸一種の迷路です。

終戦直後の食糧難の時代でもいつも米のご飯

真金町のかつての富士楼(左が桂歌丸氏の祖母のタネさん・昭和3年頃)

真金町のかつての富士楼(左が桂歌丸氏の祖母のタネさん・昭和3年頃)
桂歌丸氏提供

篠﨑日本人だけにお客さまを限定して、終戦後は結構繁盛したんですか。

玉置大はやり。

歌丸港町ですから日本人の船員が入ります。戦後すぐはお金じゃなく品物だった。お米、砂糖などを持ってくれば、お金よりも高価ですからね。あたしのうちは戦後のどさくさにまぎれて米のご飯を切らしたことがなかった。

それで、学校へお弁当を持っていくと、体操の先生が、椎名、本名は椎名っていうんですが、「椎名、いいな。おまえの所は飯が食えて」って(笑)それをおばあちゃんに言ったら、みんなと同じようにイモだの、パンを持って行かされた。そのかわり、おばあちゃんがその先生によく外国のたばこをやっていたらしい。

玉置ぼくのところは米屋だったから、そうじゃなくても、米屋は配給以外にきっと米があるに違いないと周りが思うから、おふくろが友達より混ぜ物を多くした弁当にした。

歌丸ですから、あのころ栄養不足で、友だちは疥癬ができ、皮膚病でかゆい。あたしだけできなかった。商売のおかげですかね、食糧には困らなかったですね。

とにかく戦後、バラックで商売をし始めて、何年ぐらいの間にだろう、たった一人の女の子のおかげで、うちは3回、建て直しをしました。

玉置何です、それは。

歌丸売れて売れて。きれいだったですねえ。たとえに言っては失礼なんですが、高峰三枝子さんに似ている。表にお客さんが2、3人待っていたのを覚えてますよ。

玉置だから、お部屋の数があれば、お客さまにはそこに入っててもらって、女性がかけ持ちをする。

歌丸それで最後に、泊まりがあれば泊まりをとる。だからおばあちゃんは、その子を随分大事にしてました。

そんな所に育ったから、今廓噺をやるのは大変楽なんですよ。全部そういうのはまくらにそろいますのでね。

お女郎さんは配給手帳がなく、闇米を購入

玉置川崎には大きい遊廓が2つあった。堀之内という一画と、南町という一画と。それで、おやじの米屋が南町の遊廓の入り口にあったから南町遊廓がほとんどお得意さんでした。米の配給をもらうのに通帳の要る時代です。

周りにお女郎さんが大勢いましたが、彼女たちは、帳面がないから配給がとれないわけです。それで彼女たちが闇米を食ってくれた。闇米だと米屋の利潤もあるわけです。

歌丸川崎では南町と堀之内とどっちが上だったんですか。

玉置お値段は堀之内の方が高かったです。店のつくりやなんかも、やはり値が違ってもしようがねえなというような感じでした。昔からそうなんですって。六郷の渡しに近かったから堀之内のほうが栄えたんです。

横浜に出るのが楽しみだった寄席の芸人たち

玉置宏氏

玉置宏氏

玉置横浜へ出るのは楽しみだったという芸人さんの記録がいっぱい残ってますね。

篠﨑6代目圓生さんの『寄席切絵図』にもいろいろ書かれていますね。震災前は、横浜に来るには東京から泊まりだそうで、面白いと思ったのは、泊りのときは貸し布団屋から布団を借りて、新富亭とかの楽屋とか客席で寝るそうですね。その間にちょっと遊びに行くと。

玉置看板はきちっと宿があったそうですがそれ以外は大体楽屋泊まり。それで看板は、大体神奈川と二軒バネしたらしいね。つまり、横浜に来てかけ持ち。

歌丸それで、ある程度交通の便がよくなってから、トリだけ東京へ帰れた。あとほかは全部泊まり。で、昔は興行は15日だったらしいんですね。それで夜ハネて、そういう客席や楽屋で寝る。寝やしませんよね。それで博打をやって、伊勢佐木警察へ挙げられて、もらいに行ったという話もありますよ。

横浜のごひいきに買ってもらった金の懐中時計

玉置それと、とても自分の身銭じゃ目いっぱいは遊べないけど、いい旦那をいかにつかむかなんです。

歌丸横浜には貿易やなんかで大変もうけた人がいたんで、ごひいきになると、ものすごいごひいきで、先代の柳橋師匠は、寄席の芸人のなかで初めて金の懐中時計を持った。横浜のごひいきに買ってもらったんですって。これはものすごくあった。

篠﨑横浜には成り金がいっぱいいたんでしょうね。

玉置と思います。だって貿易の東の拠点ですもの。

歌丸だから、そういう人が何人、今度のにぎわい座に来るかですよ。(笑)

玉置8代目の彦六になった正蔵さんが、ご自分でつくった「年枝(ねんし)の怪談」という一席があるんです。あれは舞台が横浜なんです。代数からいくと、3代目か4代目の春風亭柳枝さんがメインの噺なんです。そのお弟子さんの春風亭年枝が、横浜と神奈川とかけ持ちで、幽霊に案内されたりする。

落語家よりも落語に詳しい玉置師匠

歌丸とにかく、玉置師匠は我々落語家よりも落語に詳しい方ですから。あたしが何か新しいネタで、これは資料がないけどどうしようというと師匠の所へ、どのぐらいダビングをしていただいたか。

玉置NHKでやっている「ラジオ名人寄席」は今7年目なんですが、まだNHKのテープは1本も使っていません。ずうっと放送の世界にいたものですから、おかげさんで、放送できる音で残してきてましたんでね。だから、今問題は、著作権問題だけクリアできていれば。

歌丸それを全部お持ちになっているんですから、これはすごいです。本来は玉置師匠は落語家になる方じゃなかったかと思う。

玉置マジで噺家になりたいと思った時期がありましたが、当時は、中卒で内弟子に入らないと、というのが一般常識でしたね。もう高校生でしたから。しゃべる仕事、でうまいぐあいに文化放送のアナウンサーになれたという段取りです。

歌丸噺家をやっていれば今、会長ですよ。(笑)

玉置ありがたいことにおやじが深川生まれ、深川育ちでしたから、おやじとの会話がいわゆる江戸の下町言葉。これがそのまんま身についているから、今、逆にそういう言葉をさらってます。そうすると、2日続きになるようなときだと、前の日の粗筋をというときにそれを意識して使う。

新作を捨て、古典落語に力を入れる

桂歌丸氏

桂歌丸氏

歌丸逆に、あたしは横浜ですので、いまだに横浜のなまり「じゃん」が、ぽろっと出てくる。やっぱり古典をやるとまずいです。ですから、あたしはいまだに、タンカを切る噺が苦手なんです。

玉置新三をやりたくなるわけだ。

歌丸やってみたくなるんですが。やった後で、よしゃよかったなと思うんです。ですから、今回10日間、新三をやり3つタンカを切るところがあるんです。ほんとにタンカの稽古は随分しましたね。これはやらないことにはどうにもしようがないんです。新三がタンカを切って、弥太五郎源七がタンカを切って。

玉置この大家が難しい。

歌丸難しい。どうにもしようがない。それで平成7年ごろ、あたしが初めて新三を手がけたとき、歌舞伎の河原崎権十郎さんとずうっとおつき合いさせていただいていた。で、新三をやると言ったら、「じゃ、弥太五郎源七と大家について、歌丸さんにお教えしてあげますよ」と言われ、「師匠、すみませんがお願いします」と言っていたんですが、まもなく亡くなられた。

玉置あの方はわきで、あらゆる狂言へ出ておられる。で、主役のせりふから何から全部入ってて、例えば新三なら、尾上松緑さんの新三はこうだと、もう全部、息も共演してわかっていらっしゃる。

歌丸それで、例えば松緑さんの新三のときは、弥太五郎源七はこうやろうとか、誰々のときはこうやろうって、大家でも何でも大体幾らかずつ違うんだそうですね。それを全部ご存じの方。

玉置これは大事な、ほんとに生き字引。

篠﨑噺家さんの練習というのは、大変なものなのですね。

玉置稽古を一番しているのが噺家さんじゃないかな。

歌丸いやいや、一番稽古をしていないのが噺家なんですよ。何か大ネタをやらなきゃならないときは、必死になってやってますけど。

三吉演芸場で古典の独演会を始めてほぼ30年

玉置ですから、歌丸師匠の場合だと新作で始まりながら、きちっと古今亭今輔さんから古典の入り口は稽古をしていらっしゃるわけ。それで新作でずうっときて、ある日思いつかれて新作を全部捨てて、古典の大ネタにかかってから、もう30年ぐらい?

歌丸昭和49年からです。三吉演芸場で独演会を持たせてもらったんです。

玉置余一会。31日の会なんです。

歌丸8月と12月を除く年5回。うちの落語芸術協会は大体新作畑ですから、古典をきっちりやる方が、あまりいなかった。

玉置大師匠が亡くなって途絶えちゃった。

歌丸これは誰かがやらなくちゃいけない。自分も独演会を持ったと。それじゃここでいっぺん新作を捨てて、古典に力を入れてみようと思って変えたんですよ。だから、最初のうちは困ったことがありましたよ。「殿」と言うのを、「社長」って(笑)。どうにもごまかしようがない。

玉置第1回に「火焔太鼓」を出したんです。そのときにあっ、歌丸さん、本気だなというのがわかりました。

「火焔太鼓」って言えば志ん生っていうぐらい、とことん普通の落語ファンには体じゅうに入っている。あえてその「火焔太鼓」を、古典をやる最初の一席にする。

歌丸おっしゃる通り、第1回目は「火焔太鼓」と、圓楽さんの所に行って「紺屋高尾」です。そのかわり、次の日から胃が痛くなりました。

玉置それがいまだに続いて。それこそほんとに国立演芸場で大ネタっていうのは、今、歌丸さんだけですから。

歌丸いや、やらしてくださるのがあそこだけなんですよ。ほかの寄席でトリとってもできませんので。

対話で進めていくのが落語の本筋

歌丸平成8年から5年がかりで、圓朝師匠の「真景累ケ淵」を全部やりまして、どなたもやってないとこを、やっぱり下げをつけなきゃいけないというので、速記本をもとにやりました。これ、国立だからこそできたんです。それが終わりましたので、ことしはまた圓朝師匠の「牡丹灯籠」を発端からやってみようと。

これはどなたも下げがついてないんです。発端からやると、どうしても下げをつけなきゃならなくなる。これは何年かかるかわかりませんが。

篠﨑真面目なお方なんですね。

歌丸だって、噺をやるよりほかに、能がないんですもの。落語家なんですから。

篠﨑新作をやっておられたら、もっと気楽におできになるんでしょうね。

歌丸いえいえ。

玉置逆に新作は新作で大変なんです。これはある種使い捨ての料簡でいかないと、世の中、めまぐるしく変わりますから。綿密な計算をして笑いの構築をしていきませんとね。だから、見方によっちゃ、古典をきちっと身につけるのと同じか、もしかしたらそれ以上に苦労が。

歌丸難しいかもわからないです。だから、あたしの師匠の米丸なんか新作一辺倒ですから、ずっと長年聞いていると得るものも多いですが、捨てるもんも多いですね。

玉置多い。それでウケたものほど、やっぱりその時流で、その時点でウケたわけです。そうすると、繰り返す部分はごく少ない。もうどんどん新しいものへ。例えば流行語だけだってえらい違いが出てくるわけですから、新作は新作で大変ですよ。だから、みんな漫談になっちゃう。

歌丸地噺ですね。

玉置対話で進めていくのが、落語の本筋です。ですから、対話で進めていくように構成するのが落語なんです。

歌丸それでほんとの落語というのは一対一で、八ッつァんと隠居さん、あるいは八ッつァんと熊さんだけの会話がほんとの落語、これが原点なんです。そんなのはほんとにもう数えるほどしかない。

玉置結局、その中でどんどん自分を出していくと、登場人物が多くなっていく。すると、人物の描写を使い分けなきゃならない。でも、落語の基本は対話なんですね。

横浜にぎわい座-大衆芸能の拠点に

篠﨑4月に横浜にぎわい座が、歌丸師匠の熱意もあって開館し、横浜の大衆芸能の拠点がようやくできたということですが、何年越しになりますか。

歌丸一番先は昭和59年の12月、細郷市長さんのときです。「みなとみらいにかかったんでちょっと待っててくれ」というご返事だったんです。その後、高秀市長さんになって、高秀さんに最初にお会いしたとき、「細郷さんからよく伺ってますから、歌丸さん、安心してください。ただし、みなとみらいがまだ落ちつかないんで」と。それで全部落ちついて、こういうふうになったんです。

玉置口火を切ってくれたのは歌丸さん。東京に国立の演芸場ができたんだから、横浜に市立の寄席ができないもんだろうかという発想から、動き出してくだすった。

歌丸なぜそんなことをしたかといいますと、落語を残すのは落語家の責任、落語のお客さまを残すのも落語家の責任、しかし、場所がなかったらどうにもしようがない。

みなとみらいに来る若者をいかに野毛へ引っ張ってくるか

篠﨑伊勢佐木町一帯には震災前は新富亭など何軒も寄席があったそうですからね。

歌丸大昔は、それこそ1町内に1軒も2軒も寄席があったのが、もう全部なくなってしまって、我々がしゃべる所がない。そんな思いが頭の中を駆けめぐってお願いをしたんです。

玉置経過をうかがうと、みなとみらいも結構だけど、野毛地域も忘れないでもらいたいという地元の強力なアピールがあったみたいね。

歌丸野毛の活性化につなげるために、寄席も必要じゃないかと。にぎわい座ができて、これからの課題は、みなとみらいに来るたくさんの若い人たちをいかに野毛の方へ引っ張ってくるかということです。

玉置それで恐らく、立地条件からいって、今までの常識でない雰囲気がここで生まれそうです。というのは、今までの演芸、寄席物というと昼間、お年寄り向きにみたいなイメージができている。若い人たちの独演会や企画物は夜と。しかし、にぎわい座に関しては普通の寄席形式も、夜席の方がお客さんが来るというデータをつかみたいんですよ。

でも、落語協会、落語芸術協会の両協会が金・土以外は昼席でいきたいというんで、とにかく立ち上げました。でも、やっているうちに、夜、にぎわい座にお客さまが来るという実績ができれば、また検討してもらえる材料になりますからね。

東京の寄席では見られない両協会の合同

賑町にあった賑座(明治後期)

賑町にあった賑座(明治後期)

歌丸それで、両協会といわれましたが、にぎわい座は東京の寄席では、絶対に見られない合同なんです。

玉置東京の場合、落語芸術協会の方はそこだけのメンバーで10日間ないし5日間。落語協会は落語協会だけで。

歌丸いつからかそういうふうに分かれたそうですが、うちのほうの落語芸術協会は昭和5年に発足したという記録があります。それでうちの協会をこしらえた一番のもとは、柳家金語楼先生ですから新作畑が多かったんです。

玉置金語楼さんは、子供のころから噺家で始まり、昭和5年に初代会長の柳橋さんと金語楼さんが新しい会をつくって始まった。ところが、金語楼さんが間もなく抜け、その時点で別の会派を持っていた小文治さんが合同して、今の芸協のもとができる。

歌丸とにかく今のところは、理屈抜きにお客様に来ていただきたいというのが館側の要望でもあり、我々出演者側の要望でもある。

篠﨑にぎわい座の名前は大正初期まであった賑座に由来しているんですか。

玉置これは歌丸さんたちとも話し合って、公募という形で候補を上げて。で、賑町という町があり、賑座という芝居小屋もあったから、委員会の中ではもうこれだと。

歌丸随分全国から来たそうですね。

玉置横浜市民よりも県のほうが多かったし、それこそ全国から約5,000件来ました。

横浜の寄席の客はおっかない

横浜にぎわい座

横浜にぎわい座

玉置お客さんは待っててくれたんです。笑いたいけれども、心底笑う場がなかった、というのはわかりますね。

この間、桂三枝さんに出てもらった日も、新幹線の帰りの時間が決まっているのに、前に出る方がウケるもんだから、どんどん押してきて、出る前に、三枝さんは、「30分のつもりで組んでいたけど、30分できねえな」と言いながら、35分やった。そして2分前に新幹線に飛び込んだ。出しなに三枝さんが、「客がおろさせてくれない」と。座側としてはこれはうれしい言葉でしたね。

篠﨑横浜の人の気質もあるんでしょか。すごく素直で変に目が肥えてないというのか……。

歌丸いや、横浜はおっかないですよ。三吉で独演会をやっててわかったんです。下手をすれば、東京の寄席の客よりおっかない。

玉置これと思うものをみっちりけいこして、初めて高座でやるのをネタおろしと言うんですが、歌丸さんは、ほとんどネタおろしのつもりで三吉の独演会はやっておられるから。

歌丸これはもう一つわけがあるんです。あれだけ売れた先代の柳橋師匠が、年に1、2回は横浜に来て、「横浜はやりいいけど、怖いな」とおっしゃった。手を抜くと、スーッとそれていく。だから、その覚悟で上がらないと。

ごまかしと言っちゃ大変失礼な言い方なんですが、みんなもうやらないような落語を変えて、下げを変え、あるいは中身を変え、あるいはばらばらに一遍しておいて、ないまぜにして発表した落語も随分あるんですよ。

それは三吉の「おすわどん」とか、「後生うなぎ」なんていうのも。短い噺なんです。ところが下げができないんです。赤ん坊を川の中に放り込むという噺で、そんなことは今はとんでもない話です。じゃ、赤ん坊ではなく、うなぎ屋のかみさんを放り込めばいいじゃないか、とふと思ってそういうふうに下げた。

そういうネタが随分あります。人はやっているネタでもおれだったらこうやるな、こうしよう、といってやったネタも随分あります。

玉置つまり落語は、それこそさっきも言った対話が基本で、必ず最後に下げ、落ちがある。

人情噺に関しては、とりあえず下げはつけなくても、それが許される。そのかわり連続「今夜はここまで」と、もう、ウッというところで切る。この続きはまた明晩、というね。これで15日引っ張るわけです。

古典復活をやるのは残したいため

玉置それと、無理を承知で、それは15日間、続き読みするために出す。そうすると、今、自分は仮に10日間でやろうとすれば、ここは要らない。でも、こういう今風の自分流のこれを入れたいとかそういう工夫をやりながら古典復活を歌丸さんはやっているわけですよ。

歌丸なぜやるかというと残したいためなんですよね。もしも、あたしがいなくなったら、誰かがやってくれるだろうという、その望みを。だって誰もやらなかったら、絶対できないという噺もあります。

玉置今の人たちに説明ばっかりになっちゃう。人情噺であれ、落語であれ、さっき言った対話が基本ですから。

古いものの復活の中で、なぜ今まで、速記でもこの部分が残ってないのかというと、ウケないからです。でも、ウケないのを承知でどう復活するかだから、歌丸さんのご苦労は大変だと思う。ウケないからカットになっていたんですから。

歌丸あるいは今で言うとそれ全体が禁止用語とか差別用語のもの。これはもうできないと、捨てなきゃならない噺も随分あります。今やったって絶対だめだという。だから、それをやらなきゃならないんですよ。

若い人から「にぎわい座でやらせて」と

終戦直後の野毛

終戦直後の野毛

篠﨑野毛地区の持っている何かが、にぎわい座とうまく結び付くと、魅力がふえますね。

玉置先程も出たみなとみらいへ来る若い人たちの足を野毛のほうに向ける出し物を。夜ですね。昼間は学校があったりでだめ。

この世代にリサーチしてみると、本来は1,500円というクラスらしいですね、ライブハウスなんかではね。それをもうぎりぎり2,000両。開演も7時という格好で。

若い人たちのファンクラブみたいなものも、小さいながらできているんです。ビラ配りも、自分たちでコピーでつくって配るから、印刷していただかなくて結構ですと。

ここで配ったものは、まず1割は来てくれるとか、そういう場所をぼくらは知っていますから、と言うんですね。

とにかくにぎわい座でやらせてほしいという声が出たんで、待ってました、ということでいきました。

歌丸いいことですね。

極端に言えば横浜全部が下町

篠﨑ご年輩の方はご承知のように、野毛は戦後は闇市で大繁盛でした。

玉置その闇市がそっくり都橋の川のほとりへ、そのまんま、げたばき長屋で残っているわけ。

篠﨑ご記憶かもしれませんが、有隣堂も伊勢佐木町が占領軍に接収されたので、昭和31年まで野毛で店をやっていました。横浜市の中心部が接収されている間に、お客さまはほとんど野毛のあたりに集まったんです。

歌丸当時、野毛の闇市へ買いに来た覚えがあります。何を買ったか忘れましたが。

篠﨑あそこに行くと、いろいろな食べ物がたくさん並んでいるんで、びっくりしましたね。

歌丸あの当時、お金さえ出せば何でもあったのが、野毛と今の中華街の裏口です。表から行くと何もないんですね。裏の通りにある。

篠﨑近ごろの横浜は全体が都市化されてしまった感じですね。そういう中で、にぎわい座は、市民がホッとひと息つく所というか、本来の元気を取り戻すオアシスというか、とても大切な役割を果たす拠点になるんじゃないかと思います。まさに新しい下町の誕生ですね。

歌丸極端に言えば、あたしは横浜全部が下町だと思っていますもんね。

篠﨑実は私もそう思っています。ハイカラなんていうのはほんのちょこっとで、ほとんどが下町の顔だと思っています。

歌丸だから、よく言うんですけど、横浜に奥様は住めない。かみさんであり、おっかあであり、山のかみでありね(笑)。そういう人でないと横浜は無理じゃないかと、よく言うんですけどね。

あたしがすごい言葉になるのは、かかあとけんかしたときです(笑)。すげえから、もうねえ。かみさんも横浜、もとは黄金町の駅前の人間ですから、荒いのなんのって。空襲で焼け出されて、うちのはす向かいへ越してきたんです。だから、あたしが越してきたときよりも先輩は先輩なんです。

玉置冨士楼のせがれの奥さんが冨士子さん。しょうがねえ、これは。

歌丸どういう因縁なんだか。(笑)

にぎわい座の場所にあった中税務署から2人の総理が誕生

歌丸それで最後にお願いしておきたいことは、にぎわい座は上は寄席ですが、地下には、大道芸の方が練習したり、若い方々のちょっとした芝居をやる所もできていますので、大いに利用していただきたいと思っています。

玉置今回、にぎわい座の館長を引き受けるにあたって町のことも知らなきゃいけないと思い、自分流にいろんな取材をしたんですが、つまらないことを発見しました。

にぎわい座は中税務署の跡でしょ。あそこで署長を務めた方の中から2人総理が出ているんです。大平正芳さんと福田赳夫さん。中税務署の署長を、大変若いときにやられた。これはちょっとした話になりますよ。

歌丸じゃ、にぎわい座から大看板が出ますよ。(笑)

篠﨑どうもありがとうございました。

桂 歌丸(かつら うたまる)

1936年横浜生まれ。

玉置 宏(たまおき ひろし)

1934年川崎生まれ。

※「有鄰」415号本紙では1~3ページに掲載されています。

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