Web版 有鄰

415平成14年6月10日発行

三宅孝太郎と『開港ゲーム』 – 人と作品

明治初期のマリア・ルス号事件を描いた文芸作品

三宅孝太郎
三宅孝太郎

日本と列強各国とのパワーゲーム

三宅孝太郎氏の書下ろし文芸作品『開港ゲーム』(小学館文庫)は、明治初期の横浜におけるマリア・ルス号事件を描いた傑作である。明治5年、開港間もない横浜港に、主檣を折損したペルー国籍船マリア・ルス号が、修理のため入港してくる。だが、同船から脱出した一人の清国人の訴えによって同船は奴隷船であることが判明。マカオから二百数十人の清国人奴隷を乗せて、ペルーに運ぶ途中だったのだ。

折しも新政府の首脳は大挙して遣米特使として外遊中とあって、外務卿副島種臣の指示を受けた神奈川県権令大江卓が、法整備の未成熟な状況下にもかかわらず、鮮やかな裁きによって清国人奴隷を全員解放する。

わが国初のこの国際裁判を中心に、作者は日英混血の新聞記者ショーこと、安藤章一郎を主人公に設定、虚実を交えて当時の横浜の複雑な情勢を映像的に再現してみせる。

「きっかけは横浜開港資料館で、明治8年から10年頃の新聞の復刻版を見たことです。横浜の歴史には、前から興味を持っていたのですが、そのなかにマリア・ルス号事件のことが詳しく出てきまして、関心をかきたてられました。新聞記者を主人公にして、この事件のことを書こうという構想は、そのときに思い立ったのです」

ちなみに言えば、そのときから13年たっている。その間、作者は、史実についてはもちろん、フィクションを支えるエピソードについても調べに調べている。それだけにディテール(細部)に至るまで、事実の裏付けで描かれ、生彩を放っている。

たとえばプロローグとして展開される根岸競馬場での競馬の場面。競馬と併行して人力車競争が行われ、観客の興奮を誘うが、これは実際に行われたレースだという。しかも人力車そのものは、欧米の馬車にヒントを得てつくられたものだとも、書いている。

競馬シーンがプロローグとなっていることからも暗示されるように、この作品は、開港間もない横浜で展開される悲喜こもごもの事件を、日本と列強各国との“パワーゲーム”だとする視点でとらえている。作者は、ショーの友人でイギリス領事館員のフランクに、開港地における日常生活は、商業活動はもちろんのこと、すべてがゲームだといわせるのだ。

「負ケルハ勝ツ」の戦略で清国人奴隷を全員開放した大江卓

マリア・ルス号事件の周辺で、さまざまな事件が相次いで発生する。根岸競馬場で一人のイギリスの貴婦人が何者かに殺害されたのを始め、河口での身元不明清国人水死体の発見、幼児誘拐事件などなど……。これらの事件が、当時の横浜の雰囲気を生々しくかもし出していく。

交錯する横浜の国際社会にあって、何といっても白眉は神奈川県権令大江卓だ。マリア・ルス号船長ヘレイラは、法廷において弁護人として、イギリス人で横浜きっての腕きき弁護士ディキンズを登場させる。ディキンズは外交条約未済国のペルー国籍船に対して日本政府は裁判権をもたないと主張したうえで、さらに国内において公然と人身売買を認めている日本が、他国の奴隷売買を裁く権利はないと指摘したのである。日本での人身売買とは娼妓の存在のことだ。

まさにグウの音も出ない頂門の一針と見られたが――日本では明治4年に施行された新法により娼妓略売を禁じていたのだ。しかし、それにもかかわらず、判事大江卓は、この裁判で負けることを選んだ。

「大江は、負ケルハ勝ツ、という戦略を考えついたのです」

すなわち大江は、マリア・ルス号船長ヘレイラの罪を免じ、自由に出港してもよいと判決したうえで、ただし、裁判の間上陸している清国人奴隷たちが乗船を拒否した場合は、その件について再吟味すると付け加えたのだ。もちろん清国人たちは全員乗船を拒否。大江はヘレイラに対し、「貴殿の出願のみを容れて、彼らの自由を妨げてまで帰船せよと命じる権利なし」と判決したのだ。

「負ケルハ勝ツ、と大江に言わせたのは、僕のフィクションですが、多分、大江はそう考えたに相違ありません」

作者はさらに、この名判決を、シェイクスピアの「ベニスの商人」にたとえている。高利貸しから借りた金が払えない若者に対し、約定通り胸の肉1ポンドを取ると高利貸しは主張する。裁判長はそれを許す。ただし、肉1ポンド以外、一滴の血も奪ってはならないと命じて若者を救った名判決だ。

「この作品を書くために、明治開化期の横浜の史料が膨大に集まりました。それらを使って、これから明治の横浜シリーズを書いてこうと考えています」

(藤田昌司)

『開港ゲーム』・表紙

開港ゲーム
三宅孝太郎/小学館/800円+税

※「有鄰」415号本紙では5ページに掲載されています。

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