Web版 有鄰

415平成14年6月10日発行

新発見の大磯町高来神社の木造神像群 – 特集2

薄井和夫

古建築悉皆調査で偶然発見された鎌倉時代の神像群

東海道の平塚と大磯を分ける花水川の西岸に、形のよい山容を見せて聳える高麗山は、その姿が相模平野や相模湾からも一目で確認され、今も人々に親しまれている。その南麓に鎮座するのが、この山をご神体とする高来神社である。

高来神社の名称は明治30年3月以降に称されたもので、それ以前は、明治初年の神仏分離令により高麗神社とよばれていた。また江戸期には高麗権現と称して別当、鶏足山雲上院高麗寺と渾然一体となった神仏混淆の形態をとっていた。

平成12年11月、この高来神社の社殿(旧高麗寺本堂)の東隣に立つ御輿堂から、十余体にのぼる神像群が見つかった。大磯町が実施していた古建築悉皆調査の折、偶然、この堂内奥に多数の木像があることが確認されたのがきっかけである。この連絡を受けて筆者が調査にあたることとなり、早速、うかがった。

正直なところ、古い像の存在は全く予測していなかった。が、堂内神殿扉を開けて息を呑んだ。そこには一見して鎌倉期の作風と判断される多数の神像が、無造作に納められていた。その興奮を押さえ、日を改めて神殿内より取り出し実査したところ、当初の印象に違わぬ、鎌倉時代の神像群であることを再確認し、さらに調査を進めるうち、一部の像から弘安5年(1282)の年紀銘まで見出された。類い稀なる鎌倉期の神像群の出現であった。

この神像群は、現在、同社御輿堂におさめられているが、もとは背後の高麗寺山中にあり、今は廃絶、跡地をのこしている高麗権現社に祀られていた。現在の御輿堂に移ったのは、山上の社が風雨により潰滅の危機に陥った折、現宮司により移座されたためである。

男神・女神・僧形の立像が11体

像はすべて木彫の立像で法量や構造、作風などから残片に近いものも含め3つのグループに括ることができる。第1群は、像高1メートル前後の一木造り、彫眼になる1群で、男神像2体・女神像2体・僧形像2体の6体。第2群は、より法量が大きく、完形であれば1・4メートル前後と思われる寄木造り、玉眼の男神像と女神像頭部残欠・僧形像体部の3体。第3群は、完形であれば1メートル余、前述の諸像とは形姿の異なる、随身形の寄木造りの体部、2体分。全部合わせると11体である。

像の形姿は、第3群の随身形の2体を除くと、男神・女神・僧形の3種に分類できる。

男神立像(高来神社蔵)

男神立像(高来神社蔵)

男神像は、各像とも頭部に冠を被り、面相は顎鬚をのばして威厳のある表情をあらわし、袍を着け、その上からさらに袈裟を懸けている。袍衣の上に袈裟を懸ける服制は紛れもなく神仏習合の濃厚な表現といえるが、全国的にみても極めて稀で、この神像群でも最も注目される特徴である。

女神立像(高来神社蔵)

女神立像(高来神社蔵)

女神像は、宮中女官風の形姿で、真中で分けた髪を肩に垂らし、着衣は単、衵を着け、その上に膝丈の短い唐衣風の表着を着る。下半身に緋色の袴を着け、裾を後方に引く。注意されるのは通肩に懸かり背面で結ぶ帯の表現がある点で、一見、宮女の服制のうち、鎌倉時代以降にその風習のみられる懸帯にみえるが、形式から懸帯ではなく、それに似せた神装束としての特殊な表現かとも思われる。やはり、類例のない特徴的な姿といえる。

僧形立像は、男神・女神像とは趣をかえた、純仏教的な僧侶の形姿のものである。剃髪して、単の下衣に法衣を着けるが、衿は後頭部で立て上げる僧綱衿としている。その上に袈裟を懸け、下半身に裳を着け、沓をはく高僧の姿である。

神像群としては、全部立像であることも珍しいが、形姿、服制はさらに類例のない稀少なものといえる。

像の作風は、多少のばらつきがあるが、第1群が最も優れ、中でも男神像は写実性、彫刻性を高度にきわめた作例といえる。その印象は省略表現の多い通例の神像とは異なり、鎌倉時代の現実的な肖像彫刻にもみえる。その洗練された作域から本格仏師による制作とみることができる。

制作時期については、さいわい第2群の男神像と女神像頭部残欠に、「弘安五年二月」の年記と「勧進聖玄西」の墨書銘があり、その造像年代が判明する。しかし第1群6体は作域が第2群よりも優れるところから、さらに年代を遡るともみられ、とすれば13世紀半ばの制作と推定できる。

大磯高麗山・箱根山・伊豆山の三社の濃密な関係を示す縁起

この神像群を祀った高麗(権現)社の歴史は古く、高麗山中には古墳時代末の横穴墓が点在する。また、『続日本紀』の霊亀2年(716)に、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野七国の高麗人を武蔵国に移し、高麗郡を置いたという記載があり、高麗氏の祖若光が大宝3年(703)に、まずこの相模国大磯高麗を開拓し、霊亀2年に武蔵国に移ったというのがひとつの定説になっている。

このように、当社と朝鮮半島高麗との関連はいたるところで説かれ、渡来神としての様々な伝説をも生み出している。その一つ『箱根山縁起』には、「神功皇后三韓を討ち、後に武内大臣奏して云ふ、異朝の大神を請い奉り、令して天下長く安寧なることを祈願す。即ち百済明神を日州に奉遷し、新羅明神を江州に奉遷し、高麗大神和光を当州大磯に奉遷し、聳峰に因りて、高麗寺と名づく」とある。

しかし、高麗権現の縁起類として注目すべきは、当社と箱根権現、走湯(伊豆山)権現の3社に関わる深い結びつきである。現在も箱根神社に伝わる「箱根権現縁起絵巻」(重要文化財)は、鎌倉時代の成立で、高麗権現別当、高麗寺と箱根権現・伊豆山権現を一つの物語で結びつけたものである。その縁起の大略は以下のようなものである。

昔、天竺の斯羅奈国の大臣源中将には、姫の常在御前と、その義妹、霊鷲御前の異母の二娘があったが、継母は性悪で常在を無きものにしようとした。そうした義姉を妹霊鷲が事あるごとに気遣っていたが、中将が不在中に危難に遭った2人は波羅奈国の王子、太郎と二郎に救われ、おのおのその妃となる。その後、帰宅した中将は、人生をはかなみ入道して2人を捜し、波羅奈国で二娘と再会、やがて後世の願いのため5人で日本に渡海することを決心、5人が海を渡り到着したのは相模国大磯の浜であった。上陸した5人は高麗寺にいったん止まったが、箱根山という霊験あらたかな場所のあると聞き、そこに至った。父中将入道と霊鷲・二郎夫妻が箱根に永く止まることとなり、一方、常在・太郎夫妻は伊豆山に入ることとなった。中将ら3人が神となったのが箱根三社権現、常在・太郎夫妻が神となったのが伊豆山二所権現である、と。

この縁起は、大磯高麗山・箱根山・伊豆山の3社の濃密な関係を示すものといえる。また、箱根権現・伊豆山権現を高麗権現の分霊とする説も生まれる。

箱根権現・伊豆山権現といえば、二所詣が想起される。箱根・伊豆(走湯)の両権現に参詣するもので、二所の信仰自体は平安時代に遡るようである。しかし、その信仰が本格化するのは源頼朝以降で、頼朝は流人として蟄居中より伊豆山を深く崇敬し、平家を滅亡させ政権を樹立すると、奉幣寄進をおこなった。また治承4年(1180)に頼朝は箱根権現に早川荘を寄進、文治4年(1188)正月には伊豆山・箱根・三嶋社にみずから参詣し、以後、幕府歴代将軍はその遺志を継ぎ崇敬、参詣を通例とし、ことに箱根・伊豆山には毎年社参するのを恒例とした。

一方、高麗権現も源頼朝や鎌倉幕府により崇敬されていたようで、『吾妻鏡』に記す建久3年(1192)8月、北条政子の安産祈願のための相模国二十七社寺に対する神馬奉納にも高麗寺が登場している。3社の重要性と関連はこうしたことにも看て取れる。

神道彫刻史上稀にみる重要な遺作

立ち返って、高来神社神像群のうち主神と推測される男神像の服制が稀であることは先に述べたが、伊豆山神社とその別当寺であった般若院に現存する伊豆山権現立像(3体ある)も、烏帽子を被り袍を着け、その上から袈裟を懸けている。これは偶然とは思われず、前記のとおり権現間の深い関連が、男神像と権現像に形勢や服制上の共通性を生み出したものと推測される。

さらに想像を膨らませれば、万巻上人像として現在箱根神社に伝存する平安初期の木像は、襟を立て(僧綱衿ではないが)、袈裟を懸けた僧形像であり、これを箱根権現の神像ととらえたとき、高来神社僧形立像の間にも何らかの関連があるように思われる。袈裟を懸けた1群の神像を、高麗山・箱根山・伊豆山をめぐる神像の図像形式として括ることが可能ではないだろうか。

また、これらの神像群には、各像の本来の名称、造像の意図や願主など、秘められた謎や問題が山積しているといってよい。弘安5年の年紀銘も、時期的に蒙古襲来との関係が気になるところである。

いずれにしても、この神像群は鎌倉時代制作の本格的な神像彫刻であり、神奈川県内は無論、わが国の神道彫刻史上においても稀にみる重要な遺作といえ、歴史、文化史に与える影響も大きいと思われる。ただし、現在、像は傷みがひどく、文化財としての保護、修復が急務である。

大磯町郷土資料館で文化財特別公開として一般公開

この神像群は、大磯町郷土資料館で、文化財特別公開として6月23日(日)まで一般公開されている。この展示には、現在、大磯町慶覚院が所蔵する旧高麗寺の木造仁王像(像高約2メートル)も出陳されている。この仁王像は神仏分離以前、今の高来神社参道途中にあった仁王門に安置されていたもので、中世の遺風を引く、近世初頭の秀作である。長らく破損が著しいままであったが、解体修復がおこなわれた。その完成を機に、神像群と合わせて公開され、神仏混淆であった高麗権現の宗教的空間の一端が再現されている。

薄井和夫
薄井和夫(うすい かずお)

1952年神奈川県生まれ。神奈川県立歴史博物館専門学芸員。

※「有鄰」415号本紙では4ページに掲載されています。

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