Web版 有鄰

575令和3年7月10日発行

有鄰らいぶらりい

この場所であなたの名前を呼んだ
加藤千恵:著/講談社:刊/1,485円(税込)

赤ちゃんの泣き声、大人たちの話し声、空調音、何かの装置の作動音。いつも音で満ちている「この場所」に来た友里恵は、赤ちゃんと対面する。〈一昨日までお腹の中にいた存在と、目の前で眠る存在が、まだうまく結びつかない〉。友里恵の赤ちゃんは仮死状態で生まれ、NICU(新生児集中治療室)で低体温療法を受けることになったのだ(騒がしい場所)

看護師の麻美は、自分が泌尿器科からNICUに異動したその日に生まれた赤ちゃんに、特別な思いを抱いた。実のお母さんがなかなか姿を見せないこともあって、ひそかに「なっちゃん」と名付けて気にかけていたのだが(名付ける場所)

“赤ちゃんが可愛い”と言う後輩看護師の麻美に、NICUでの体験談を伝えようか迷う朋子は、3年前に亡くなった赤ちゃんのことをずっと覚えている。看護師として懸命に働いてきたが、息子にとって自分はどんな母親だったのか(働く場所)

働く、願う、守る、笑う。生まれてすぐの赤ちゃんを治療するNICUを舞台に、母親、看護師、医師、清掃作業員ら、小さな命をめぐって支えあう人々を描いた7編。生きる喜びと悲しみをまっすぐに見つめ、命の尊さを物語にして紡いだ筆致が見事で、胸打たれる。必読の短編集。

曲亭の家』 西條奈加:著/角川春樹事務所:刊/1,760円(税込)

『曲亭の家』・表紙

『曲亭の家』
角川春樹事務所:刊

医師の家の末娘として生まれたお路は、江戸一番の売れっ子作家、曲亭(滝沢)馬琴の嫡男に嫁ぐ。義父は文筆家で、夫の宗伯は藩医。武家の血筋の滝沢家との縁談に両親は喜んだが、嫁いですぐにお路は後悔する。姑のお百、夫の宗伯は怒りっぽく、家には陰気な空気が流れて怒号が響き、中でも不気味な存在が舅の馬琴だった。

〈もとより大らかに欠け、些細なことも四角四面に始末をつけなければ納得しない。その一方で繊細で傷つきやすく、自らは人と争うことを厭う〉〈武家を自負しながら、その社会には馴染みきれず、受け入れてくれる下々には、あえて背を向ける〉。舅が醸し出す重苦しい空気に戸惑い、一時は家出を試みたお路だったが、子どもが生まれて小さな幸せを見つけるようになる。とはいえ、曲亭の家は波乱の連続だった――。

夫の死、愛する子どもとの別れ、文筆と家の存続に執着する舅への反発。老いて目を病んだ舅に頼まれ、未完の大作『南総里見八犬伝』の口述筆記をお路は引き受けることになる。すると、見えてきたものとは。今年、『心淋し川』で第164回直木賞を受賞した著者による、書き下ろし長編小説。妥協せず、貪欲に創作に邁進した江戸の大作家の業を、嫁の目を通して描き切った傑作だ。

エレジーは流れない
三浦しをん:著/双葉社:刊/1,650円(税込)

温暖で海も山も温泉もあるリゾート地、餅湯町で生まれ育った怜は高校2年生。母と2人暮らしの家でもある土産物店は、餅湯温泉駅前商店街のアーケードに覆われている。町は2つのエリアに分かれ、餅湯駅北側は豪華な別荘が点在する屋敷町「桜台」、南側は商店街と住宅街だ。

高校には、隣の元湯町から通う生徒もいる。江戸時代から湯治場として栄えた元湯町と、新幹線の駅ができて発展した餅湯町は仲が悪い。境界の高台にある高校は軋轢の最前線だったが、最近は平和だ。干物店の息子・竜人、喫茶店の息子・丸山は商店街の幼なじみ、住宅街の心平は小学校からの友人。元湯町の旅館の跡取り息子、藤島とも仲がいい。餅湯博物館から縄文式土器が盗まれたニュースがある日の話題で、寂れた町で穏やかに暮らす怜だったが、そろそろ進路の選択を迫られることに。さらに“父らしき人物”が現れて――?

実は怜には、母が2人いる。商店街の寿絵と屋敷町の伊都子が女手ふたつで育ててくれ、父を知らない。悩みも騒動もあるけれど、エレジー(哀しい歌)がどうにも似合わない町で、今生きている怜を軸にした青春群像小説。実力派作家が描いた小説空間にゆったり浸れる、居心地のよさ抜群の1冊である。

悪魔には悪魔を
大沢在昌:著/毎日新聞出版:刊/1,980円(税込)

両親の死後、叔父に引き取られた双子の加納兄弟は、顔は似ていても対照的な性格だった。慎重で成績がよく、人気者の兄・良と違い、問題児だった将は、高校を中退して渡米し、陸軍に入った。帰国した将は、良の失踪を知らされる。18年前に連絡を取ったきりだった兄は、麻薬取締官になっていた。潜入捜査中に連絡が途絶えてひと月経つという。良の上司、菅下に依頼され、将は良になりすまして密売組織と接触し、スパイと兄を捜すことになる。

将は東京に行き、良の恋人が働くベトナム料理店に向かう。そこで会う人々が口々に呼ぶ「西田」とは、良の偽名だった。暴力団、警察官、ベトナム人のマイ。彼女をめぐり、良は組織の大物と三角関係だったらしい。良のアパートで暮らし始めた将は、良が『クィー』について話していたとマイから聞く。ベトナム語で「悪魔」の話を、なぜしていたのか?

兄はなぜ消えたのか、スパイの正体は? 将にとり20年ぶりの日本は大きく変貌し、なりすまし捜査は五里霧中で「真相」はどこまでも見えない。連鎖する「謎」に引き込まれる、長編ハードボイルド・ミステリー。捜査過程がつぶさに描かれ、離れ離れだった兄との過去を振り返る熱い作品だ。著者ならではの世界を堪能できる。

(C・A)

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