Web版 有鄰

575令和3年7月10日発行

内田百閒の生きた時代と『阿房列車』 – 1面

酒井順子

宮脇俊三の鉄道紀行から百閒ブームが

『鉄道無常』KADOKAWA

『鉄道無常』
KADOKAWA

私が高校生の頃、家にやってきた子猫には、「クルツ」という名前が付けられました。当時、我が家には内田百閒ブームが到来中。『ノラや』では、ノラ失踪後、後釜となった猫の尻尾が短かかったので、ドイツ語で「短い」という意の「クルツ」と名がつけられます。我が家にきた子猫もまた、短い尻尾だったのであり、百閒にあやかって同じ名をつけることになったのです。

我が家に百閒ブームが到来した理由は、鉄道と関係しています。私が中学生の時に父が買ってきたのが、当時ベストセラーとなっていた、宮脇俊三『時刻表2万キロ』。それを読んだ父は鉄道紀行の魅力に目覚めたようで、やがて百閒の『阿房列車』のシリーズも購入し、ブームが始まりました。

そして私も、父の本を読むことによって、鉄道紀行好きに。内田百閒と宮脇俊三の鉄道紀行は、「鉄道に乗りさえすれば、日本のあちこちへと行くことができるのか」という夢をもたらしてくれました。

『ノラや』は日本のペットロス文学の嚆矢となりましたが、『阿房列車』シリーズは、日本の乗り鉄文学の嚆矢。シリーズ第1作の「特別阿房列車」に書かれた、

「なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へ行って来ようと思う」

という文は有名であり、目的地に行く「目的」は無いのに、ただ列車に乗るために移動するという新種の旅を、百閒は世に知らしめました。移動手段である鉄道を、手段ではなく目的としたのが、百閒なのです。

鉄道ネイティブ第1世代の百閒

内田百閒は、明治22年(1889)、岡山の造り酒屋に生まれました。日本の鉄道は、明治5年(1872)に新橋-横浜間で開業しましたが、百閒が生まれた年には、新橋-神戸間が全通しています。

百閒が生まれた2年後には、岡山に山陽鉄道(現・山陽本線)が開通しました。百閒は物心ついた頃から鉄道を目にしている、いわば鉄道ネイティブ第1世代なのです。

物心ついた後に鉄道という文明の利器に出会った、百閒よりも上の世代の人々にとっては、鉄道登場のインパクトはあまりにも強かったのであり、その便利さに感動したり、反対に戸惑ったりしています。

対して、幼い頃から鉄道を目にしていた百閒は、煙を吐きながら疾走する巨大な鉄のかたまりを、素直に英雄視しました。

「子供の時から汽車が好きで好きで、それから長じて、次に年を取ったが、汽車を崇拝する気持は子供の時から少しも変らない」(「れるへ」)

ともあるように、百閒は鉄道への愛を、大人になっても抱き続けています。

岡山第六高等学校を卒業し、東京帝国大学に入学のために上京する時は、大叔父が5円という大金を「はなむけに」と、出してくれました。それも、「本家の栄(百閒の本名は栄造)は汽車が好きじゃから」ということで、

「お前、栄はこれで二等に乗って行け」

と。

当時の二等車は、今の飛行機で言ったらビジネスクラスくらいの感じでしょうか。大学入学のために上京する青年が二等車に乗るとは、かなりの贅沢です。

神戸から、当時最も速い「最急行」の二等車に乗った百閒は、新橋までのほとんどの時間を、窓から半分顔を出し、景色を眺めて過ごします。新橋に着いた時は、顔の半分が煤煙などで真っ黒になっていました。

こうして百閒の人生は本格的にスタートしたのですが、では東京において百閒が鉄道に乗りまくっていたのかといえば、そうではなさそうです。もちろん、仕事等で地方へ行く時は生き生きと鉄道に乗ったものの、鉄道について本格的に書くようになるまでには、あと40年余を待たなくてはなりません。

それというのも上京後の百閒は、何かと大変な人生を送りました。21歳で上京して東京帝国大学に入学すると、23歳で結婚。子供は計5人生まれ、故郷の岡山から母と祖母も呼び寄せて共に住むという暮らしがスタートします。故郷の造り酒屋はすでに廃業していましたが、百閒は東京において、長男の役割を果たしていたのです。

ドイツ語の教員として軍の学校や大学等で教壇に立ちつつ執筆活動を行い、『百鬼園随筆』といったベストセラーも出したものの、百閒は常にお金に困ってもいました。造り酒屋の坊ちゃんとして育った百閒は、自由にお金を使うことに躊躇しない人。「錬金術」と称した金策にいつも苦労していたことは、随筆にもしばしば記されています。

やがて日本は、太平洋戦争に突入しました。

鉄道においては、燃料も人員も不足する中で軍需輸送を優先するため、旅客用列車の削減やスピードダウンといった「決戦ダイヤ」が組まれます。「不急旅行の全廃」が呼びかけられ、旅行どころではなくなるのでした。

麹町にあった百閒の家は、空襲で全焼。隣の男爵家にあった3畳の掘っ建て小屋での仮住まいをしている時に、百閒は敗戦の日を迎えました。

敗戦後の一等車の復活と阿房列車

『第一阿房列車』、『第二阿房列車』、『第三阿呆列車』新潮文庫

『第一阿房列車』、『第二阿房列車』、『第三阿呆列車』
新潮文庫

その後、掘っ建て小屋暮らしは3年続きます。ようやく新しい家に移った時に、百閒は59歳になっていました。

百閒が、「なんにも用事がないけれど、汽車に乗って大阪へいって来よう」と思って旅立ったのは、新しい家に移ってから2年後、そして敗戦から5年後の、昭和25年(1950)のことでした。上京以降、家族の問題やお金の問題、そして戦争などによって、鉄道にかまけることが難しい状況だったけれど、列車のダイヤも戦前並みに復活してきたことだし……と、鉄の虫がむずむずと蠢きだしたのではないか。

さらに百閒をその気にさせたのは、一等車の復活です。元お坊っちゃまの百閒は、大の一等車好き。戦時中から戦後にかけても、地方からの招聘はあったけれど、「当時はどの線にも一等車を聯結しなかったから、皆ことわった」(「特別阿房列車」)。しかし鉄道事情が復旧してきたことによって、

「今度は用事がないし、一等車はあるし、だから一等車で出かけようと思う」

となったのです。

国鉄職員の、「ヒマラヤ山系」こと平山三郎氏をお供にしての阿房列車の旅は、こうして始まりました。戦争の傷も次第に癒え、自身も還暦を迎えた時に、百閒の中では、鉄道を崇拝する気持ちがもう一度、大きく膨らんできたのかもしれません。

阿房列車の旅は、昭和30年(1955)まで、14回にわたって行われました。食べ物であれ土地であれ、一度好きになるとひたすら愛を注ぎ続ける百閒は、熊本・八代にある「松浜軒」という旅館をおおいに気に入り、繰り返し通ったりしています。

百閒の鉄道旅行には、変わってしまった日本に対する惜別の意も込められていたように私は思います。たとえば阿房列車シリーズ2回目の旅である「区間阿房列車」は、御殿場線に乗ることを主目的としていますが、それというのも御殿場線は、そもそも東海道本線の一部だったから。

当初はトンネル掘削技術が発達していなかったため、箱根外輪山をぐるりと迂回する御殿場経由のルートをとったのですが、丹那トンネルが昭和9年(1934)に開通したことにより、東海道本線はショートカットされたルートを走ることに。御殿場まわりのルートは、御殿場線というローカル線に格下げとなったのです。

自身が初めて上京した時は御殿場経由のルートを通った百閒としては、御殿場線がどうなっているか、ずっと気になっていたのでしょう。御殿場線から見る景色に、百閒は自身の若い頃を重ね合わせます。

しかしかつて複線だった御殿場線は、戦時中にレールが供出されて、単線に。「いつからこんなみじめなことになったのか」という寂寥にも包まれるのでした。

また、九州通いをする時はしばしば故郷の岡山をも通るのですが、百閒は決して改札からは出ず、ただホームに降りるのみ。岡山をこよなく愛していたけれど、と言うよりはこよなく愛していたからこそ、空襲で焼け、自分が知っている姿をとどめない岡山を、見たくなかったのです。

鉄道は、簡単には変わらないイメージを帯びています。しかし鉄道は、国のあり方と深く関わる乗り物であるが故に、時に静かに、時に乱暴に変化を続けるのでした。電車は嫌いで汽車が好きな、変化を好まない百閒は、鉄道と日本という国、そして自分自身の存在に無常を観じながら、阿房列車の旅を続けていたのではないか。

百閒が亡くなってから、50年。亡くなった時、既に日本に新幹線は走っていましたが、百閒は新幹線には乗ることなく、世を去りました。

生前、ある対談において、新幹線について「そんなに速く走ってもしょうがない」といったことを語っていた百閒。子供の頃に見た、煙を吐きつつ疾走する巨大な鉄の塊こそが百閒にとっては崇拝の対象なのであり、もしも生存中にリニアモーターカーが走るようになっていたとしても、百閒は決して乗車しなかったような気がしてなりません。

酒井順子
酒井順子(さかい じゅんこ)

1966年東京都生まれ。エッセイスト。
著書『負け犬の遠吠え』 講談社文庫 671円(税込)、『鉄道無常』 KADOKAWA 1,650円(税込)ほか多数。

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