Web版 有鄰

578令和4年1月1日発行

鎌倉殿の13人と横浜 – 1面

盛本昌広

13人の合議制の実際

2022年のNHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の題名は『吾妻鏡』の記述に基づいている。建久10年(1199)正月に源頼朝が死去し、子頼家が跡を継いだ。だが、直後の4月12日に頼家が直々に訴訟を裁断することを停止し、北条時政・義時父子、大江(当時の姓は中原)広元、三善善信(康信)、中原親能、三浦義澄、八田知家、和田義盛、比企能員、安達盛長、足立遠元、梶原景時、藤原(二階堂)行政の13人が談合して訴訟を成敗することになった。これを従来は頼家の権力を制限し、御家人間の合議制で政権を遂行する目的があったとされてきた。『吾妻鏡』には頼家は独断的な裁許・政治・行動をしたエピソードが多く記され、悪いイメージがある。こうした記述もあいまって、13人の合議制は高く評価されてきた。

だが、近年は実際には13人全員ではなく、限られた人数で談合していたと推測されている。また、頼家も最終的な裁断を行なっており、実際には訴訟に関与していた。跡を継いだばかりの頼家は政治・裁判の経験が未熟であり、この合議制は頼家を補佐する目的があったと考えられる。また、幕府には多くの訴訟が持ち込まれており、原告・被告の主張や証拠の調査などをするには人数と時間が必要であった。この後、執権北条泰時は嘉禄元年(1225)に裁判・政治を合議する組織として評定衆を定めたが、この合議制はその前身と位置づけられる。このように13人の合議制の評価は近年変化している。

人選の理由

では、13人はどのような人物で、人選の理由は何であったのだろうか。合議制が定められた二箇月前に頼家は左近衛中将に任じられ、政所の吉書始が行なわれた。これには時政・広元・義澄・善信・知家・義盛・能員・景時・行光の13人中9人が出席している。吉書は改元・年始・代替わりなど事が改まった時に出す儀礼的な文書で、頼家が頼朝の跡を継いだことを示す行事であった。既に頼朝の末期からこの9人は重臣で、引き続き頼家を支える立場にあったので、13人に選ばれたと考えられる。

この吉書には「武蔵国海月郡」と書かれていた。海月は「くらげ」と読むが、「くらき」と音が似ているので、久良岐郡(横浜市南部一帯)を海月郡と記したのであろう。鎌倉後期の足利貞氏(尊氏の父)の吉書は文書の右側に貞氏の花押、その左に「下 相模国宮瀬村」、その左に①神社の繁栄、②勧農、③年貢納入の三箇条が記されていたが、頼家の吉書も同様の形式であったと思われる。久良岐郡は鎌倉の隣なので、吉書を下すべき場所とされたのだろう。

実務に長けた人々

訴訟の処理には法律の知識・文書の作成などの実務能力が必要である。大江広元は朝廷の官人であり、実務能力を頼朝から買われて、鎌倉に招聘され、公文所の別当を務めた。その後、頼朝が右近衛大将に補任されたことで開設された政所の別当となり、頼朝の死後も政所別当を務め、様々な事を処理していた。公文所の職員には中原親能・二階堂行政・足立遠元がいた。行政は政所別当に次ぐ地位の令、後に政所別当となった。また、三善善信は頼朝が開設した問注所の執事を務めた。このように13人中5人は公文所・政所・問注所の職員であり、実務能力に長けていたので、選ばれたのである。

大江・中原・三善氏は代々朝廷の官人を務めていた。広元は挙兵時には京にいたが、寿永3年(1184)前半頃に鎌倉に下っていた。広元の本姓は大江だが、中原氏の養子に入り、中原親能と義兄弟であった。親能は朝廷や公家との折衝を行なっていた。三善善信は母が頼朝の乳母の妹であった関係から、元から頼朝と親しく、頼朝挙兵時には京の情勢を頼朝に知らせていたが、しばらくして鎌倉に下向した。

二階堂氏は藤原氏の一族で、父祖は国司を務めていた。『吾妻鏡』では行政は主計允行政と記されている。主計允は朝廷の財政を扱う主計寮の三等官である。行政は大工への禄の下賜、藤原秀衡からの朝廷への馬や金の献上の仲介など多様な職務を行なっている。これは主計寮の職務と同様であり、計数能力が必要であった。行政の母は熱田大宮司季範の妹、季範の娘が頼朝の母であり、両者は血縁関係にあったので、その縁により頼朝は行政を招聘したと考えられる。行政の屋敷は鎌倉の永福寺(二階堂)の近くにあったことから行政の子孫は二階堂の名字を名乗り、政所執事や評定衆を務め、鎌倉幕府の官僚として活動した。広元・親能・善信・行政は頼朝から実務能力を買われて、鎌倉に下ったのである。

足立遠元は武蔵国足立郡を本拠とした武士で、保元・平治の乱では源義朝に属して戦い、平治の乱の最中に右馬允に補任されており、義朝の配下では高い地位にあった。また、『吾妻鏡』では遠元は京に馴れた人物とあるが、京で実務の経験を身に付けていたので、公文所の職員になったと考えられる。

有力な武士たち

北条氏邸跡(円成寺跡)中央の山麓部分が低跡 右下が狩野川

北条氏邸跡(円成寺跡) 中央の山麓部分が邸跡 右下が狩野川
写真提供:伊豆の国市

北条氏は桓武平氏の一族で、伊豆国北条(静岡県伊豆の国市)を本拠としていた。『平家物語』には頼朝は蛭ケ小島に流罪されていたとあるが、実際には時政の屋敷の近くに住んでいた。時政は娘政子が頼朝の正室となったことで、頼朝に重用され、守護・地頭の設置に関して朝廷との折衝に当たった。時政の嫡子は宗時だったが、石橋山合戦の翌日に平井(静岡県函南町)で討たれたため、義時が嫡子となった。義時は『吾妻鏡』では江間四郎と呼ばれており、北条の隣の江間を本拠としていた。義時も頼朝に重用された。頼家の死後、時政は平賀朝雅を将軍に立てようとしたが、失敗して北条に隠居し、義時が執権となった。義時は和田義盛の乱後に山内庄(横浜市栄区など)や六浦庄(横浜市金沢区)の地頭職を獲得している。また、北条氏は両庄以外に久良岐郡など横浜市内のかなりの地域の地頭職を持っていた。

三浦義澄は三浦氏の惣領である。義澄の祖父義継と父義明は源義朝の家人であった。義明は頼朝挙兵時に衣笠城を攻撃され討ちとられたが、義澄は脱出し安房に渡り、頼朝と合流した。平家追討や奥州藤原氏攻撃に従軍し、軍功を挙げた。三浦氏は相模国の国衙行政に関与していた。文治4年(1188)6月に義澄は藤原泰衡が朝廷に献上した金や馬などが大磯駅(大磯町)に到着したが、差し押さえるべきかを頼朝に尋ねている。相模国府は大磯の近くにあり、義澄は国府にいて、この情報を伝えたと考えられる。三浦氏の一族には秋庭(秋葉)・舞岡(横浜市戸塚区)という山内庄内の郷名を名字とした者がおり、同郷の地頭職を持っていたと思われる。

八田知家は藤原氏の一族で、父宗綱は宇都宮神社の座主で八田を名乗り、知家の兄の朝綱は宇都宮氏の祖である。保元の乱で源義朝配下として戦っている。治承4年(1180)11月に頼朝から下野国茂木郡(栃木県茂木町)の地頭職を与えられており、元々は下野国が本拠であった。奥州藤原氏攻撃の際には東海道大将軍となり、常陸から浜通り(福島県の太平洋側)を北上し、奥州に入っている。幕府成立後に常陸国守護となった。

和田義盛は三浦氏の一族で、武芸に優れ、頼朝の信頼が厚く、侍所別当に任命されたが、梶原景時に奪われ、次席の所司になった。その後、景時が御家人の不満を受けて、幕府から追放されて上洛途中で討たれると、侍所別当に復帰した。侍所の職務に処刑があるが、義盛は六浦(横浜市金沢区)で処刑をしている。処刑は穢れを生むので、鎌倉内部ではなく東の境界である六浦で行なったのである。その後、義盛は建暦元年(1213)に義時打倒のため挙兵したが、激戦の末討死した。

比企能員は頼朝の乳母である比企尼の甥で、比企尼が頼朝に影響力を持っていたので、信濃守護を務めるなど頼朝から重用された。能員の娘は頼家の正室であり、頼家は能員の館を訪れるなど、比企氏と頼家は関係が深かった。こうした点から実朝と関係が深い北条氏と対立し、時政の策謀により能員は討たれ、比企氏は滅亡した。

安達盛長は藤原氏の一族で、比企尼の娘聟として、挙兵以前から頼朝の側近であった。挙兵時には頼朝の使者として派遣され、各地の武士を招聘した。平家追討には加わらず鎌倉に残り、元暦元年(1184)には上野国奉行人として、国衙行政に携わっていた。『尊卑分脈』では盛長を小野田兼盛(広)の子、盛長の弟遠兼の子を足立遠基(元)とする。頼朝のもとで鎮西惣奉行を務めた天野遠景は足立遠元の養子で、遠元の父の所領上総国小野田郷(千葉県長南町)を受け継いだという。この点からすれば、足立・安達氏は同地出身となる。盛長の子景盛は武蔵国鶴見郷(横浜市鶴見区)を所領としていたが、頼朝が盛長に与えたものを継承したと考えられる。鶴見は鎌倉下道が鶴見川を渡る交通の要衝として重要な場所であった。

梶原景時は鎌倉権五郎景政などを祖とする桓武平氏の一族で、鎌倉郡梶原(鎌倉市)を本拠とした。侍所所司として源義経の軍監的な役割を果たし、源義仲・平家の追討を行い、『平家物語』では義経と対立した話が有名である。その後、義盛から侍所別当の地位を奪い、頼朝の寵臣として御家人を統制したが、その恨みを買って、合議制が決定した年の12月に追放され、翌年正月に駿河国清見関(静岡市)で討たれた。

『鎌倉武士と横浜』・表紙

『鎌倉武士と横浜』
有隣堂刊

以上、13人の人選理由と略歴を述べたが、鎌倉時代の横浜市域と周辺の歴史については、この度有隣堂から出版された『鎌倉武士と横浜』を参照していただきたい。

盛本昌広
盛本昌広(もりもと まさひろ)

1958年横浜市生まれ。日本史学者。
著書『境界争いと戦国諜報戦』吉川弘文館 2,420円(税込)。『本能寺の変』東京堂出版 2,640円(税込)他。

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