Web版 有鄰

578令和4年1月1日発行

電鉄と社寺参詣 – 2面

鈴木勇一郎

20世紀型大都市と電鉄

2020(令和2)年に入ってから新型コロナウィルスの流行、いわゆるコロナ禍が断続的に続いてきました。その中で通勤通学客をはじめとする大都市の鉄道利用客は、前例のないほどの落ち込みを見せました。今後の行方はまだ見えてはいませんが、郊外に住んで都心部へと通勤通学するという、これまで私たちがある意味所与の前提としてきた20世紀型の大都市生活のあり方が大きな転換点に立っていることはまちがいないでしょう。

顧みますと、日本でこうした20世紀型の大都市形成に大きな役割を果たしたのが鉄道です。もちろん、鉄道が都市形成を促進してきたのは、世界的に共通した現象でした。都心部にオフィスがあり、郊外の住宅地から通うという生活様式と対になる形で、郊外へ向かう鉄道が発達してきたのです。

日本の場合、小林一三の阪急に代表されるような電鉄が、住宅地だけでなく、デパート、遊園地といった生活文化のモデルを提示する形で、20世紀型大都市の形成が進んだことが大きな特徴です。

川崎大師と大師電気鉄道

ところが、冷静になって考えてみると、こうした日本の電鉄は、当初から通勤・通学輸送を主目的として建設されたわけではないということに気づかされます。

特に明治時代の後半に創業した初期の電鉄は、社寺参詣輸送を主な目的として建設されたものが少なくありません。近世の江戸や大坂では、近郊の寺社に行楽がてら参詣するという習慣が盛んになっていきました。

例えば、川崎大師平間寺は、平安時代に創建されたともされる古い歴史を持つお寺ですが、近世後期には、江戸市中から比較的気軽に訪れることができる参詣地として多くの人々を集めるようになりました。

こうした傾向は明治時代になっても廃れるどころか、より盛んとなっていきます。現在からおよそ150年前、1872(明治5)年に日本最初となる新橋・横浜間の鉄道が開業しました。政府が自ら建設したこの鉄道は、首都である東京と開港場である横浜を結ぶという国家的な観点に立ったプロジェクトでした。当然、沿線の発展とか、ましてや社寺参詣とかは眼中にはありません。

ところが実際に開業してみると、沿線にある川崎大師に参詣する人びとが数多く利用するようになります。鉄道当局も縁日に臨時列車を運転するなど、参詣客の取り込みに努めました。このように日本では鉄道と社寺参詣が早くから深く結びついていたのです。

現在、私たちが毎年正月、新暦の元旦にお参りする「初詣」という風習も、明治20年ごろに川崎大師参詣を巡って生まれてきたものということが近年の研究で明らかにされてきました。

川崎大師駅前の京浜急行発祥の地

川崎大師駅前の京浜急行発祥の地記念碑
(筆者撮影)

明治30年ごろになると、従来の蒸気鉄道に加えて電気鉄道が登場するようになりますが、さっそく社寺参詣に目をつけて計画されたのが川崎の街と大師を結ぶ大師電気鉄道、現在の京浜急行電鉄でした。京急はこの大師電鉄のことを「関東で初めての電車」を謳っています。もちろんこれ自体はその通りなのですが、私に言わせれば、ずいぶんと慎ましい表現です。現在の大手私鉄のうち京急より古い創業の南海電鉄などは、もともと蒸気鉄道だったものが、その後電鉄に転換したものです。最初から電鉄として開業したものとしては、実は京急が日本で一番古い歴史を持っているのです。

京浜電鉄と穴守稲荷

初期の京浜電鉄の路線網

初期の京浜電鉄の路線網
『京浜電気鉄道株式会社沿革』に加筆。

1899(明治32)年に開業した大師電気鉄道は、その後まもなく京浜電気鉄道と名前を変えました。名前からすると、東京と横浜を結ぶ都市間輸送に重点をシフトしたように見えます。ところが、事は単純には進んでいきません。

次に京浜電鉄がめざしたのは、川崎大師から見て多摩川の対岸、河口に位置する羽田の穴守稲荷神社への路線でした。穴守稲荷は、もともとこの地域に新田を開いた際に勧請された祠で、明治20年ごろから東京や横浜などから多くの参詣者を集める「はやり神」となり、急成長してきた神社でした。京浜電鉄は、ここに目をつけ1902(明治35)年に蒲田から穴守までの路線を開業させたのです。このころの京浜電鉄は、川崎大師と穴守稲荷という多摩川をはさんで立地する二大参詣名所を中心に路線が構成されていたのです。

当時はまだ、郊外に住んで都心部に通勤通学するという生活スタイル自体が確立していませんでした。ですから、こうした社寺参詣への輸送は手堅い需要があるとみなされていたのです。

成田山新勝寺への参詣者輸送を正面に掲げて誕生した京成電気軌道(現・京成電鉄)がその典型ですが、この時期に成立した電鉄の多くが社寺参詣や遊覧輸送に深く関わっていました。

日本型電鉄の特質

郊外住宅地に住んで都心部に通勤通学し、ターミナルデパートで買い物し、郊外の遊園地で遊ぶといった20世紀型の大都市生活ビジネスを確立したとされる日本の電鉄のモデルを作り上げたとされる小林一三の阪急電鉄ですらも、箕面有馬電気軌道と称していたその初期には、社寺参詣や名所巡りといった従来型の郊外行楽を強く意識していました。

考えてみれば、社寺参詣目的の鉄道が都市鉄道へと転化していったという構造は、日本独特です。アメリカはもちろんのこと、ロンドンやパリといった欧米の大都市で、郊外鉄道が教会への参詣のために作られたという例は、ほぼ皆無かと思います。

だとすると、小林一三モデルが確立する以前の、電鉄のあり方を追求していくことが、日本の20世紀大都市の特質を考える取っ掛かりのひとつになるのではないでしょうか。「衛生的で健全な田園都市」という生活モデルが成立する以前の日本の電鉄では、都市全体のあり方なんかは眼中にない人々の、無軌道ともいえるさまざまな欲望が、社寺と都市との関係を結びつけていったのです。そのあたりの詳細については、拙著『電鉄は聖地をめざす』(講談社選書メチエ 2019年)をお読みいただければと思います。

1920年代には、住宅地を中心とする郊外生活のモデルが次第に確立し、最初から通勤通学を目的に掲げた電鉄も登場するようになると、社寺と鉄道の結合関係は次第に薄くなっていきます。

新たな都市像の模索と電鉄の行方

その後20世紀を通じて、日本の電鉄は通勤・通学客に力を注いできました。それは、大都市が人口だけでなく、空間的にも拡大を続けるという状況を背景としていていました。しかし、21世紀に入る前後からこうした前提は大きく崩れていくことになりました。就業者や通学生が減少していく中で、新たな都市のあり方が模索されるようになっています。

とはいえ、20世紀型大都市に代わる新たな都市のあり方がはっきりと確立しているわけではありません。実際のところ、21世紀に入っても、東京では満員電車での通勤通学を余儀なくされる状況が、相変わらず続いてきたのです。

ところが、2020年に入り新型コロナウィルスで多くの人々が家にこもり、テレワークなどが推進されることで、初めて満員電車が消えていきました。本稿執筆時点では、コロナの感染状況はひとまず落ち着き、利用客も戻り始めていますが、コロナ禍以前に戻ることはないかもしれません。結局は生活のあり方が変わらないと、都市のあり方も変わらないということをあらためて痛感した次第です。

鈴木勇一郎(すずき ゆういちろう)

1972年和歌山県生まれ。川崎市市民ミュージアム学芸員。博士(歴史学)。

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