Web版 有鄰

578令和4年1月1日発行

心の拠り所が昇華して – 海辺の創造力

内藤由起子

「趣味を持たなきゃ」と考える父は、3歳の私に囲碁と将棋のルールを教えた。そして「どっちでも、好きな方をやればいいんだよ」。私はそんなに深く考えず、感じたまま「碁がいい」と即答した。

私の故郷、平塚市は現在、「囲碁のまちひらつか」として文化活動している。昭和初期から木谷實九段が自宅で常時10人から20人内弟子をとり、プロ棋士を70人以上育てた「木谷道場」が平塚市にあった。その弟子たちが昭和から平成にかけて囲碁界のタイトルを独占するなど碁界を席巻。平塚は囲碁のメッカといえよう。実家から徒歩数分のところにある木谷家にたびたび訪れていた父は、私が囲碁を選んだことを喜んだ。

碁は嫌いではなかったが、さほど好きではなかった。幼稚園のころは平仮名や数字を覚える時期で、同じように囲碁(か将棋)を人として(?!)やらなくてはいけないと受け止めていた。小学校に入り、囲碁も将棋もできなくていいことがわかって驚いた。

昭和40年代はまだ「こども囲碁教室」のようなものはなく、碁の上達には碁会所に行くしかなかった。いい師範がいるときけば、父はその碁会所に私を連れて行く。しかしどこも年配のおじさんばかり。楽しくはなかった。

小学5年生のとき連れていかれた、茅ヶ崎の囲碁道場は、碁を打つ子どもが4人もいた。私にとって初めて碁を打つ同年代の子どもとの出会いだった。それからすぐ、平塚から茅ヶ崎まで定期券を買って、一人で毎日通うようになる。自然にどんどん上達していった。

中学生になると、東京の日本棋院で開かれていた「木谷会」に通うようになる。プロアマ交流の木谷会には大棋士もいたが、同世代のプロやプロの卵がいて友達もできた。学校のほかに居場所があることは、心の拠り所になった。

そこに来ていた小学生のほとんどはプロを目指していたが、私はプロになりたいと思ったことは一度もなかった。プロ修業の厳しさを目の当たりにして、自分にはとてもできないと感じたし、なによりそこまで碁が好きではなかった。

業界紙の記者として働いていた20代後半のとき、朝日新聞社の囲碁担当者から囲碁欄で名人戦の観戦記を書いてみないかと声をかけられた。

野球や体操が実際できないスポーツライターはいるだろう。楽器ができなくても音楽の記事を書く人もいるだろう。しかし、囲碁(や将棋)はある程度強くないと書けない。朝日新聞が新しく観戦記者を、それも初めて女性を抜擢したいと考えてくれたことがラッキーだった。

私は碁がそれほど好きではないと思っていたが、ちょっと違っていた。碁を「打つこと」は好きではなく、「観ること」は大好きだったことに気がついた。

一流プロの碁を間近に見られ、話を聞いて書くことが職業になるなんて。最高峰の対局がわかるほど碁が強くなっていてよかった。

木谷会での「碁縁」は、有り難いことに今も仕事の場でも続いている。趣味を持たせたいという父の願いが、思いがけず仕事につながった。囲碁の魅力を伝えていく日々は本当に幸せだ。

(囲碁観戦記者・ライター)

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