Web版 有鄰

586令和5年5月10日発行

野毛と私と大道芸 – 2面

森 直実

野毛の発展

かなりの人出の野毛大道芸(2017年筆者撮影)

かなりの人出の野毛大道芸
(2017年筆者撮影)

1872年(明治5)初代横浜駅が開業しました。これによって、野毛地区は、初代横浜駅(その後の現・桜木町駅)前の街となりました。

明治中期に、海側(現在のみなとみらい地区)に横浜船渠(のちの三菱重工業横浜造船所)ができると、線路を隔てた反対側に位置する野毛は、その工員さん達が通う飲食店街としての顔も持つこととなりました。(1983年に造船所が移転するまで工員さん達に親しまれたようです)。

終戦後は、闇市の街として大いに賑わい、その後しばらくは物販店の名残か、野毛本通りには露天商が並び、活気がありましたが、1964年の東京オリンピック開催に関連して大岡川沿いに「都橋商店街」としてまとめられ、露天商は消滅しました。

初代横浜駅だった桜木町駅は、横浜駅の移転、根岸線延伸や市電の廃止、地下鉄駅の設置などにより次第に姿を変えていきます。2004年には、東急線みなとみらい線乗り入れにともない、東急桜木町駅は廃止されました。

これらの複合的な状況の変化で、私にとっての野毛の街の持つ魅力は、次第に失われていっているように思います。

野毛で呑んで

私は1960年頃からの野毛界隈の変化を見てきました。闇市時代はさすがに分かりませんが、野毛坂の上にある横浜市立老松中学校の生徒でしたから、中学生の時に、朝から楽しそうに呑む大人達の様子を見て、「大人になったらこの街で過ごそう」などと思っていたものです。このとんでもない勘違いから、私は野毛で呑んで55年になりました。

勘違いにせよ、半世紀以上も野毛で呑んできたのは何故だろうか? 時々その魅力を考えることがあります。

その当時(1970年代から80年代前半頃)の野毛の街には、個人経営の店や、面積の小さい飲食店が多く、オーナーさん自らが店頭に立ち、責任を持って切り回していたように思います。したがって、接客の態度もしっかりしていて、マナーが悪い客を断って出入り禁止にするなど、店の仕切りがきちんとできていたわけです。客側にとっても、店のルールを守り、呑んべえとしてのマナーさえ良ければ居心地の良い店が多かった。そうした中で、学校教育では知らなかった、人の世の生き方の多くを野毛で学びました。私にとっては“野毛大学”といったものでした。ただ、その頃の野毛は、落ち込みがひどく、閉じたままの店も多かった時代ではありました。

野毛大道芸が始まった

「なに見ているの」さん

「なに見ているの」さん
彫刻のように動かない芸“スタチュー”

私はこの街に馴染み、よろしく呑んでいたのですが、1985年のある夜のこと、馴染みの呑み屋でよく出会う野毛の中華「萬里」の経営者福田豊さんから声をかけられました。「町おこしの一環で、今度大道芸をやります。森さん、遊びに来ませんか?」というものでした。意外なお誘いなので驚きました。

というのも、私は1975年に1年間、フィレンツェの美術学校で基礎絵画を学んでいましたが、ヨーロッパで大道芸を見る機会が多くあり、その魅力に惹かれておりました。そのため、自分の地元でもある野毛で大道芸が開催されるというのには、ビックリしたわけです。カメラ片手に第1回目の「野毛大道芸ふぇすてぃばる」を見物に行ったのですが、完全にヨーロッパ型の大道芸でしたので、さらに驚かされました。

日本の大道芸は何か演じて人を集め、物を売る形をとります。物売りの為人集めをするのが日本型大道芸であったわけです。物売りではなく、「門付け」と言うのが日本にもありますが、ご存知の通りこれは伝統的に少し違います。

しかし、ヨーロッパの大道芸は、演じた芸に対して純粋に対価(投げ銭・ハットマネー)を投じる形なのです。

1986年、第1回目の「野毛大道芸ふぇすてぃばる」を面白く観た私は、写真を公募するとの実行委員会の要請で、写真をA4サイズに近い8×10インチに引き伸ばし、100枚を提出しました。ところが、これに困った実行委員会に「(このままでは)用意した10の賞を全て森さんに出すことになるので、応募は止めていただき、写真の審査員をしてください」と言われ、そのまま野毛大道芸実行委員になってしまいました。

その後は野毛大道芸のポスター制作と記録撮影、写真公募の審査員等などをしてきました。初代野毛大道芸のプロデューサー、イクオ三橋さんから「森さんのやっていることは、アートディレクターですよ」と言われ、野毛大道芸アートディレクターという立場となりました。

ところで、私が野毛大道芸はヨーロッパ型と見なしたのは、当たっていました。イクオ三橋さんは、ヨーロッパのサーカス学校等で10年もパントマイムの指導をしてきた人で、その人がプロデューサーですから、文字通りヨーロッパ直輸入の大道芸であったわけです。野毛は、近年日本のアチラコチラで行われている大道芸の先駆けとなりました。

多くの芸人さんが出演しましたが、野毛大道芸黎明期には、帽子芸で有名だった「早野凡平」、その師匠の「パン猪狩」、コミックバイオリンの「福岡詩二」、パントマイムの「ヘルシー松田」と「ケチャップリンたび彦」、一輪車曲芸の「サイクル松林」、人間ポンプ「園部志郎」、道化師の「亀田雪人」、人間美術館「雪竹太郎」、現代民謡歌手の「伊藤多喜雄」さん達を、私は忘れる事ができません。寄席芸人・舞台芸人・サーカス芸人さん達が、初めて舞台から降りて本格的に大道で芸を披露したわけです。その後、伊藤多喜雄さんは、「タキオのソーラン節」等で大ブレイクしてNHK紅白歌合戦に出演することとなり、野毛大道芸実行委員会のメンバーは喜びました。

日本側の芸人さんと同時に、フランスのサーカス「シルク・バロック」の団長クリスチャン・タゲさんを始め、本格的な芸人さんもヨーロッパから来日して出演しました。この頃の楽屋ではフランス語が外人さん達の公用語でしたから、一般的な野毛のイメージとは懸け離れた状況でした。

バルト・バンダイクさん

バルト・バンダイクさん
ベルギー出身。野毛大道芸に何度も出演したサーカス芸人。

仮に物事にピークというモノがあるとすれば、1990年代台後半から2000年代前半に、外国からの出演者は最高水準になりました。フランス文化省が派遣した集団「イロトピー」を始め、芸人さんと言うよりは芸術家が野毛大道芸に出演しました。小さな街に過ぎない野毛が行っているイベントとしては考えられない事です。

これは、フランス外務省直属の横浜日仏学院館長フランシス・メジェールさんの理解とご協力によるものでした。横浜日仏学院(現・アンスティチュ・フランセ横浜)は、単なるフランス語学校ではなく文化使節団です。野毛大道芸に出演したフランスの芸人さん達の写真を集めて、私の写真展をそこで一度開催させていただきましたが、名誉な事だと思っています。

新型コロナ禍になってからは、屋外での開催が困難となりましたが、「横浜にぎわい座」及びその地下の「のげシャーレ」で野毛大道芸は開催してきました。今年4月の48回目の開催にあたっては、野毛本通りを中心にした屋外開催が復活しました。

その後の野毛

さて、野毛の街に話を戻しましょう。近年は、半世紀以前、私が野毛で呑み始めた頃には考えられないほどの状況で、週末ともなると野毛は沢山の人出になります。もとはどちらかというと、仕事に疲れたお父さんが、一人で渋く焼き鳥か何かで呑んでいる街でしたが、今は圧倒的に若い人が多くなりました。

若い人達に聞いてみますと、どうやらSNSでの情報を頼りに野毛に集まってきているようです。「みなとみらい地区」には複数の大学や専門学校があるようですが、新しい街は洒落ているけれども店は高くて若い人は利用しにくい。駅を越えて野毛に来てみると、気楽で安いし、格好をつけなくて良いのが魅力なのだそうです。これがSNSで拡散されているのが、野毛人気の要因の一つと、私は分析しました。気楽に安く呑める街「野毛」というのは、半世紀前と変わりません。

野毛で半世紀以上呑んできた私もそれなりの年齢となり、この賑わいの行き着く先がどう変化していくか、野毛大道芸がどうなるか見届ける事ができないのが誠に残念です。時代は流れていきます。

森 直実(もり なおみ)

1948年栃木県生まれ。横浜育ち。美術家・写真家。野毛大道芸アートディレクター。東京都ヘブン・アーチスト審査員。

『書名』や表紙画像は、日本出版販売 ( 株 ) の運営する「Honya Club.com」にリンクしております。
「Honya Club 有隣堂」での会員登録等につきましては、当社ではなく日本出版販売 ( 株 ) が管理しております。
ご利用の際は、Honya Club.com の【利用規約】や【ご利用ガイド】( ともに外部リンク・新しいウインドウで表示 ) を必ずご一読ください。
  • ※ 無断転用を禁じます。
  • ※ 画像の無断転用を禁じます。 画像の著作権は所蔵者・提供者あるいは撮影者にあります。
ページの先頭に戻る

Copyright © Yurindo All rights reserved.