タブレット純
♪一冊の本があれば
地球の裏側へ
旅することもできる
知らない世界に
向かって
旅立とう
今…
子供の頃、この歌が流れるテレビCMが好きでした。おそらくはテレビ神奈川限定であったかと。夕方の時間帯、小坂忠さんによる青春色の歌声を、マリンタワーから山を越えたさがみっぱらで傍受し、オトナへの色香をふんわり感じていたあの頃。
そう、書きながら思い出したのが、フジサワ名店ビル。法華クラブ内にあった「レコード社」さんへ盤を掘りに行くたび、有隣堂さんの本たちにも必ず流し目をそよがせてから帰宅の途についたものでした。今もあるあの建物などは、古き良き昭和の見本市ではないかと。テナントビルとはいえ、近年郊外を続々と侵食するショッピングモールとは一線を画する、もはや歴史的建造物。
♪大きな花さん聞いとくれ
たとえ独りぼっちでも
ぼくには心の太陽が
いつも輝いてる…
ダークダックスの歌う「花のメルヘン」のそんな一節がこだまするような、牧歌的なけなげさを称えた“庶民の味方”であります。白茶けた文庫本がぎゅうぎゅうに棚をうずめる古本屋さんとか、手づくりホームメイドなメルヘン雑貨屋さんとか、ひょっとしたら「実用性のないもの」たちが日常にポルカを奏で、踊らせてくれるあの感じ。我楽多なお花畑とでもいいましょうか。昭和には、自分で歩いて自分で見つける、そんな宝島が街に溢れておりました。今はだいぶ数を減らしてしまった中古レコード屋さんもしかり。見つけるのは何も欲しいものばかりではなく、「ずっと売れないもの」に対しても奇妙な友情を育んでしまったり。同じようなチェーン店ばかりがお約束のように設えられた大型店舗には、たとえ便利でも“冒険感“が薄いように思えます。
“不便の中にこそドラマがあった。”
ぼくが生きた昭和のしっぽを集約すると、いまそんな言の葉が導かれました。メールひとつで海外までも意思疏通が出来てしまう現代では、残念ながら歌謡曲は生まれません。テレビだってそう。見たい番組も、一台しかないその茶の間に、その時間にいなければ見る事ができなかったからこそ、悲喜こもごものアンチ巨人な家族ゲームが思い出に刻まれているのです。パソコンひとつであらゆる情報が得られてしまうこともしかり。街の陽の憂いを感じ、紙の匂いを嗅いでこそ、得たいもの以上のドラマが生まれる。立ち読み中、老店主にピンク色のハタキをパタパタとされる、あの風だって人生の一ページでした。
最近ぼくは、お休みの日に地方の古き良き遊園地を巡ることを趣味にしているのですが、遠足、家族連れ、そのお子さんたちのきゃぴきゃぴと楽しそうなこと。彼らが携帯で日がな一日ゲームに没頭してしまうのは「与えてしまったから」ではないでしょうか?小さな画面からは、“地球の裏側”は見えない気がします。ポニーの背に揺られるだけで、果てしない旅情はきっと広がるはず。
形あるものに触れることが感動の第一歩!ぼくの枕元にはいつも、綴られた夢たちが積まれています。あゝ、“本は心の旅路”。
(歌手・芸人)