Web版 有鄰

588令和5年9月10日発行

あの路地裏のベイブリッジ – 2面

鈴木涼美

くるくる変わる横浜の顔

『浮き身』・表紙

『浮き身』
新潮社刊

カウンターの店に勤める娘は隣に座るような飲み屋の娘よりも大抵は売り上げも時給も低いのだけど、マリは横浜駅西口のカウンターの店で、同じビルに入る他の店の娘よりも高い時給をもらっていた。出会ったときは自動車の試験場近くにある看護の学校に通っていたが、いつの間にか卒業せずに退学していて、東戸塚の実家にもあまり帰らず、私の借りていたマンションに入り浸るようになった。

19で鎌倉の実家を出た私が暮らしていたのは、桜木町の駅を出てみなとみらいに向かう遊歩道を左に見ながら南東に進んだ細い通りにあるマンションで、新築に近いピカピカの造りではあったけど、建物の給湯設備の都合で無理やり作ったような間取りの私の部屋だけは、廊下やバスルームを除くと細長い部屋が5畳しかなかった。そんな場所に約半年とはいえ二人で暮らせたのは、一つには若かったからとしか言いようがないが、もう一つ、マリが一番暇な時間帯に私が大学に行っていることが増えたからでもある。二人とも飲み屋で働く若い女に違いなかったが、ちょうどその前年にナースになる夢をあきらめたマリと、前年までかなり行かなくなっていた大学にちょうどその頃戻り始めた私は、昼と夜の交差するその瞬間のような一時期、5畳のワンルームに暮らした。

家族で鎌倉に越したのは1989年の4月で、私の遊び場が長屋とマンションの間に整備された児童公園から野山や史跡になっただけでなく、親に連れられて行く百貨店や食事処は横浜になった。中学に上がると休日に横浜ビブレ前で友人らと待ち合わせて、まだ滅多に買えないギャル服をくまなくチェックした後、ムービルで映画を観たりミスタードーナツや五番街のシェーキーズでおしゃべりしたりして遅くまでそこにいた。実家から出て最初に住む家を桜木町に決めたのは、小学生の時に開業したランドマークタワーと、当時はまだあった東横線の駅の壁に延々と連なるグラフィティの印象が強かったからかもしれない。

住んでみると小学生や中学生だった頃にはひたすら眩いだけだった横浜の、また別の顔を見ることになる。親と観劇の帰りに必ず寄った中華街の食堂は今でもあるが、そのすぐそばのゲームセンターに行くと、大抵私の店かマリの店のボーイたちが若さを持て余して屯していたし、お互い店が休みの日に福富町まで焼肉を食べに行って、雑居ビルに無数に入った飲み屋から、泣きながら出てくるホステスを眺めていたこともあった。道を間違えて整備される前の黄金町の裏に入り込むと、当時はまだ黒澤明監督『天国と地獄』の世界に通じる顔が見え隠れして、良心的な不良のおじいさんが、あっち行った方がいい、と駅前へのたどり着き方を教えてくれた。大学に戻ってからは、映画サークルにいた先輩たちに関内の小さな映画館や野毛のジャズ喫茶に連れて行ってもらったのだが、その帰りには桜木町の地下通路で人生初めての露出狂に会った。横浜美術館にミレーの絵が来ているから、と誘われてお客さんと同伴したら、店の前に寄った伊勢佐木町のバーでロシア人ホステスを口説く実の父親と出くわしたこともあった。伊勢佐木町の書店で読書の楽しみと再会しなければ、大学に戻ることもなかったけれど、夜にはその書店の前で知っている女が潰れて寝ているのを間近に見たこともあった。

マリが仲良くしていた運送業者の若い男が、飲み屋の引けた後の真夜中に大きな車を出してくれて、大さん橋の埠頭へ、夜景を観に行ったことがあった。近づくと結構汚い夜の歓楽街は午前2時に遠くから眺めると、あらゆる労働の現場の汚れや面倒が消えて眩いほど煌めいていた。横浜の顔はくるくる変わる。そのあとに関内駅近くの、複数人で泊まらせてくれるラブホテルにコンビニの缶酎ハイを持ちきれないほど買い込んでみんなで入り、朝まで音の割れる部屋のカラオケで盛り上がった、その場に煌めきなんてひとつも残っていなかった。幼い私が憧れたランドマークが見える私の住む通りは、夜10時にもなれば必ず酔っ払いがいて、酷いときにはただ歩いているだけでブラジャーのホックを外される。毎晩帰りに寄るコンビニの前ではインターナショナル・クラブのホステスがよくおでんをつついていた。夜にはそんな風である街も、さらに深い夜中にこの世のものとは思えないほど煌めくこともあるのは、なんだか不思議だ。それは毎秒気分の変わる若い私の気分を映し出すようでもあった。

マリと行った「ベイブリッジ」

『グレイスレス』・表紙

『グレイスレス』
文藝春秋刊

西口に勤めるマリと関内の店にいた私は飲み屋の仕事が終わる時間にシーサイドというキャバクラの前で待ち合わせて飲み歩き、最後に居酒屋の長八かジョナサンに寄って帰ることが多かった。徐々に私が授業に備えて飲みに行くのを我慢するようになっていた頃、マリは30を過ぎた福富町のホストと付き合いだしていた。私も何度か行った地下のそのホスト店は若い優しそうな男もたくさんいたのに、マリがどうして頭髪が若干薄くなりかけた背の低い男を好きなのか、なぜ言われるがまま高いシャンパンを注文しているのか、よくわからなかった。席で平気でマリを殴るようなやつだった。私はその男が嫌いだったけど、マリにどうしてもと頼まれて、駐車違反をした彼の身代わりになって、関内近くの保管場所まで黒のセルシオをとりにいったこともあった。彼があと一回でも違反をすれば免許停止になってしまうから、という理由で、お礼に2万円くれた。

そういうあやうい暮らしの終わりは結構突然なものなので、マリともそのホストとも特にお別れをしたわけではない。せっかく店で一番の売上をたたき出す人気者だったのに、ホストに支払う売掛金がたまったマリは川崎の風俗で働くようになった。私は私で、二日酔いで大学に行くのも大変で、土日のAV撮影に仕事を変えつつあった。一緒に遊ぶ時間はほとんどなくなり、マリはうちよりもホストの家に泊まることが増えて、捜索願を出していた親が何度も引き連れて帰っても、磁石のように福富町に戻っているようだった。

あまり会うことがなくなった秋口に、一度だけ二人そろって暇な日曜の夜があった。その日私は男友達の車を一日借りていて、明日返すまでにどっかドライブでも行こうという話になった。使い慣れないナビをいじって、ベイブリッジ見に行こうか、となんとか行先を設定し、走り出した。馬車道を走り、関内の駅を超えて阪東橋の方へ向かっていく。毎日のように通った道も、夕方の車の中からは少し違って見えた。

おかしなことに気づいたのは、もうすぐ目的地です、という案内が聞こえた後だった。どう考えてもベイブリッジでも、ベイブリッジが見える丘でもない。たどり着いたのは伊勢佐木町からあまり離れていない歓楽街の真裏、雑居ビルと雑居ビルの間の、暗い通りだった。え、何ここ、とマリがきょろきょろと周辺を見渡すと、電球がいくつかとれている電飾の看板に「ベイブリッジ」という文字があった。カラオケパブのようなところだったと思うのだけど、現在調べても出てこないので、きっとなくなってしまったお店なのだろう。私たちは大笑いして、結局こういうところがお似合いってことかなぁと言って、近くのカラオケに行って、牛丼を食べて帰った。マリと連絡がつかなくなったのはその一週間後くらいだったと思う。

あれから20年近く経ち、いま私が行く横浜はKAATや美術館や中華街が多く、雑多な夜の街に足を踏み入れることはとても少なくなった。それでも時折映画を見た帰りなどに時間があくと、少し伊勢佐木町を歩いて、マリはどうしているかな、なんて考えたりする。

鈴木涼美(すずき すずみ)

1983年東京都生まれ。作家。エッセイスト。著書『浮き身』 新潮社 1,650円(税込)。『グレイスレス』 文藝春秋 1,760円(税込)。『8cmヒールのニュースショー』 扶桑社 1,540円(税込)他多数。

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