Web版 有鄰

589令和5年11月10日発行

馬車道からはじまる、落語の楽しみ – 1面

立川談慶

『古典落語 面白キャラの味わい方』表紙

『古典落語 面白キャラの味わい方』
有隣堂刊

横浜から始まった落研の日々

横浜には感謝しかない。私にとって横浜は血のつながる落語の故郷なのだ。今振り返ると、大学に合格し、まず下宿をと考えた時から、横浜だった。慶應義塾大学の教養課程は日吉校舎で行われるため、長野から上京してきた私としては、「極力電車で近いところがいい」という一点だけで、当時あった「日吉台学生ハイツ」を迷うことなく選んだ。「慶應まで徒歩5分」という立地はとても魅力的で、これなら授業に遅れることもなかろうと安心した。そして「横浜市港北区」というからには横浜だけあってしかも「港北区」という「港」の文字も入っているから、「横浜、たそがれ、ホテルの小部屋」みたいなイメージで「港の見える丘」のようなところで2年間過ごせるんだと思いを馳せたものだった。が、初めて日吉駅に降り立った時にその思いは一気に消え去った。

今からおよそ40年近く前の日吉には、銀杏並木しかなかった。

とはいいつつも、横浜市立大学に合格した高校時代の友人もいたりして、彼の下宿が関内にあり、日吉からも30分ほどで行ける距離だったので、休日の度に泊まりに出かけて、「港の匂い」を嗅いでたりもした。やはり人間は「ないものねだり」をするもので海なし県で育ったものだから、海への憧れをずっと持ち続けていたのだろう。

落語との出会いは大学の落語研究会に所属して以来だから、日吉をベースにして落語と向かい合ったような感じだ。あの頃の落研はどこも体育会系的な上下関係が前提で、先輩に厳しく指導を受けながら落語と接したものだった。ハイツから落研の部室まで走って数分、初めて覚えたのが「道具屋」という落語だった。プロの落語家の口演テープを擦り切れるまで聞いて、そっくりに演じているつもりなのだが、実際はただ早口で処理しているだけでとても上手くできやしなかった。当時は元住吉にある会館で毎週1回1年生の稽古日が設けられ、その前の週にチェックを受けた箇所が直せるように2年生が中心となってレクチャーしたものだった。まだ2年生は落研では下級生といういわば1年生と同じ境遇ゆえ、物腰も柔らかいのだが、ここに3年生が入るといきなり空気が変わったものだった。そしてとりわけ怖い3年のSさんは遅めに会館にやってくるのが普通だったので、そのSさんが来る前に2年生の指導を終えられているかが、あの頃の自分にとっての一番の目標だった。

Sさんは談志に傾倒していて、その口調も談志を真似ているかの感じで、小言もそっくりでとにかく怖かった。普段は優しいのだが、こと練習会になると目を合わせようともしないで普段とは真逆の一気に冷淡になる様が今考えても怖さを増幅させたものだった。

そして2年生になった。相も変わらずハイツに住むままだったが、落研の2年生は三田祭という学園祭でトリを務める学年だった。2年生の指導は3年生が行うのだが、求める内容は1年生以上のものが要求され、それに呼応するかのように躾ける4年生も異常に怖くなってゆく。

そして当の私はというと、落語をやり始めてまだ2年も経っていないというのに、「藪入り」という人情噺を選択した。今のプロの立場でいうならばそんな浅いキャリアの者にそんな大ネタなんかできるわけがない。それでも継続は力なりで、稽古を重ねてゆくとしっかりと自分のものにはなるようで、上級生に怒鳴られた甲斐もあり、そこそこの出来で当日の高座を務めることができた。振り返ってみたら、日吉の2年間は「落語との出会いと怖い先輩」の思い出しかない。

3年になったら、校舎が三田になるので、都内に引っ越そうと思っていたのだが、長野の弟が厚木にキャンパスのあった現在の神奈川工科大学に進学することが決まった。「じゃあ二人で住もうか」という流れで、相鉄線とJRの中間地点ということで、横浜からも地下鉄で一駅だった「三ッ沢下町」のアパートに一緒に暮らすことになった。港北区から神奈川区に変わっただけで、相変わらず横浜市民のままだった。また横浜との縁がつながったのだ。

落研の3年ともなると、上級生扱いということで、怖い先輩もいなくなり、自由に闊達に落語も許される立場となり、「三年の会」では「源平盛衰記」と「お血脈」という地噺を時事ネタたくさんで演じた。地噺とは、「簡単なあらすじだけの落語で、好き勝手にギャグなどを入れ放題できる」もので、学生時代のバイトや合コンでのしくじり話を盛り込んで口演したものだった。そして、大学4年になると、「慶應名人会」という4年生主体の会を運営することになり、当時渋谷にあった「東邦生命ホール」を借り切っての落語会を開催した。落研の副代表だった私は夏の名人会でトリを取ることになり、「寝床」という古典落語のパロディで「ヤッちゃんの寝床」と題して大幅にストーリーを書き直して挑むことにした。従来の古典落語の「寝床」は「大店の主が義太夫語りに凝ってしまう騒動記」だが、これに対して自分は「暴力団の組長が、当時NHKで成人の日にやっていた『青年の主張』に凝ってしまう話」に作り替えてみたのだ。「店子の提灯屋や豆腐屋など誰もが主の義太夫を拒否している」というのと「ヤクザの組の傘下の総会屋やテキ屋も親分の『青年の主張』をとても嫌がっている」というのは等式で結ばれた形にもなり、満席となった会場はどっと沸いたものだった。

就職、その後談志の弟子へ

そして――それに勘違いした当時の私は、そのライブ録音テープを当時談志の事務所だった立川企画に送るという暴挙に出たのだった。大学4年の夏。ワコールに内定が出ていたころだった。「自分の才能や可能性が認められなかったら、諦めてサラリーマンになろう」。

秋風が吹く頃、立川企画の松岡由雄社長から電話があった。

「面白いセンスを感じます。一度会いませんか」

ここで、持ち前の勘違いがさらに爆発、増幅してしまったのだ。「松岡社長は談志の実弟、そんな人に褒められたのだから、談志に褒めてもらったのと同じだ」。即座にスケジュールを調整し、貧乏学生など全く縁のなかった六本木の焼き肉屋に連れて行ってもらえた。その頃焼肉というと家庭教師のバイト代が入った時に弟と食べに行くラーメン屋の焼肉定食の焼肉ぐらいしか知らなかった。食べるのも初めてならば、松岡社長の口から出る「談志」という言葉の先には峻嶮なる岩場のような響きしか感じられなかった。

怖い――。やはり落語は怖いものだ。

憧れの先には北極点のような今自分の住む世界とはかけ離れた環境のようなイメージしかなかった。そのせいか、勿論高級カルビの味なぞもわからず、普段食べていた焼肉定食のマヨネーズで和えた味のほうがしっくり来たものだった。

絞り出すように「いまワコールに内定も決まっています。3年辛抱してから改めて考えさせていただきたい」とだけ伝えることしかできなかった。そして、その半年後、ワコールに入社したのだが、「あわよくば落語家になりたい」と考えていることが人事部にも知られることになり、こんな甘いガキには天罰のような仕打ちが待っていた。

入社後3か月の本社研修の後、なんと福岡店に配属となってしまったのだ。ただ、当時の自分も負けてはいなかった。「ならば3年で辞めてやる」とばかりに、こちらも松岡社長との往復書簡の中で、「福岡を席捲してみろ」みたいなアドバイスをもらい、一本独鈷で「福岡吉本」に乗り込み、押しかけ女房のようにして無理やりピン芸人としてデビューもさせてもらったりもしたのだ。

そして、そこから3年後――。晴れて談志の弟子となり、その後の顚末はこれまでもいろんな本に著してきた通りだ。

今もつながる横浜との縁

今振り返ってみると、横浜との出会いは落語との出会いそのもので、当時の落研の上級生のイメージが「怖い」というだけで、落語も面白いというより、「怖くて面倒くさいもの」というイメージしかなかった。

そんな横浜にまつわる印象をがらりと変えてくれたのが、馬車道だった。落研の先輩が馬車道にもご縁のある方で、真打昇進が決まった時に、「関内ホール」での独演会を企画してくれた。この落語会はいまだに継続しているほどの長寿イベントになった。談志を招いての真打ち昇進披露公演は「横浜にぎわい座」で企画していただき、そこで演じた「らくだ」は初めて談志にも褒めてもらえる内容となった。

その後談志が亡くなり、落語だけで家族をきちんと養えるという本当の意味で独り立ちした自分に、襲ってきたのがこの新型コロナだ。そして、落語の仕事が壊滅的なレベルにまで陥った時、救ってくれたのが出版の世界だ。おかげさまでこの4年弱の間に十数冊もの本を出すことができた。

今回の新刊は、横浜・神奈川にご縁のある有隣堂から出すことになった。「落語の登場人物」をリアルな存在としてとらえて、同じ息をする「仲間」としてとことん対話を重ねてみたら、気が付くと一冊の本になっていた。有隣堂が横浜の地に足のついた版元さんならば、これまで述べてきたように私も落研の先輩や、その後の談志に怒られながらも不器用ながら地に足のついた形で踏みしめてここまでやってきた。着地していた地面から伝わる大地の鼓動が、私の経験となって今の私を支えてくれている。私が武骨なら、そんな私をときめかせ続けてきた落語も武骨そのものだ。テレビの主流になることなく、地に足のついたお客様に支えられて今日まで至っているのが何より武骨な証拠だ。

そして今――なんと次男が慶應に入り、落研の2年生として活動中なのだ。歴史はやはり繰り返されるのか、彼も私と同じ日吉の地で落語を始めた。彼が日吉の地から見る落語の景色はどんな感じなのだろう。横浜から始まる落語の歴史は継続することになった。

立川談慶
立川談慶(たてかわ だんけい)

1965年長野県生まれ。落語立川流真打で著述家。著書『落語で資本論』日本実業出版社 1,980円(税込)。『天才論立川談志の凄み』PHP研究所 1,045円(税込)他。

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