Web版 有鄰

589令和5年11月10日発行

三商の同人誌 – 2面

上野勇治

北村太郎、田村隆一、佐々木萬晋の出会い

2011年(平成23)秋、熱海にお住まいだった佐々木萬晋さんを紹介くださったのは、詩人北村太郎さんの長女榎木融理子さんだった。佐々木さんがこれまでの来し方の記をまとめたいと、私が呼ばれたのだ。「日が暮れて 鐘が鳴る/月日は流れ わたしは残る」とアポリネェル(堀口大學訳)の詩の一節が添えられた随筆集『夕暮れの鐘』(2012年 私家版)は家族のこと、少年から青年への日々、そして戦後のことを昭和の東京下町の風情を伝えながらぬくもりのある筆致で綴っているが、頁の多くは多感な10代から一緒に過ごした仲間たちとの親交について、「東京府立三商」「浅草徘徊」「明治大学文芸科」といった章でさいている。(以下、敬称を略する)

1923年(大正12)東京深川生まれの佐々木萬晋は6歳の時に大塚に引っ越して、仰高西尋常小学校に通った。ここで、大塚生まれの詩人の田村隆一と同じ小学校の同学年だったという巡り合わせがあるが、二人が親しくなっていくのは1935年(昭和10)、深川にあった東京府立第三商業学校(以下、三商と略称)に入学してからだ。

一方、浅草のそば屋に育った松村文雄(北村太郎の本名)も同じ年に三商に入学(つまり、彼ら三人は同学年)、詩歌や小説を熱心に読み短歌や俳句、詩などをつくりはじめた。やがて松村は文芸誌に作品を投稿する傍ら、1937年(昭和12)4月ごろ同級生の文学仲間と謄写版印刷の同人誌「帆かげ」を創刊した。今私の手元には、この年の10月に発行した「帆かげ」がある。松村と同級生で同人仲間の島田清さん、そしてご遺族の方が長く大切に保管されていたのである。多謝。15・3×22センチ、表紙がくるみの本文28頁の針金綴じ。残念ながらおもて表紙と本文はじめの一丁が欠けて、何輯目か不詳。同人の俳句、短歌、詩などが掲載され、「萬葉集の解釋(四)」という頁がある。ここに(四)とふってあるので、本誌は四輯か。作品には必ず寸評が側に置かれているが、創作と同時に批評眼を養うという優れた狙いが見えてくる。ことに詩は、三商の国語教諭だった佐藤義美(詩人、戦後「犬のおまわりさん」などで知られる童謡作家)に寸評を依頼し、「対象がはつきりしてゐない」、「観念的でつまらない、もつと自分で考へ直し感じ直してかゝらなければならない」など、佐藤が厳しい言葉を投げかけている。先生の教示を受けながらも同人誌を高めようとする15歳の松村たちの文学への意気込みに圧倒される。

ぼくらの同人誌は“収穫物の祝典”だ

文学に目覚めた田村隆一と佐々木萬晋も三商2年生のころ、二人ではじめて謄写版印刷の詩誌「エルム」を発行したが、同人クラブは「リリ・クラブ」と名づけた。リリとは佐々木の家業芸者屋に勤めていた「ダンス芸者リリ子の芸名を借用した」(『夕暮れの鐘』より)という。その後、松村文雄らと知り合うようになり、「帆かげ」と合流し、詩誌「スネーク」を発行したと佐々木は述べている。その後継誌が、1939年(昭和14)夏ごろ、西脇順三郎の詩集『AMBARVALIA(アンバルワリア)』に烈しく感銘を受けて創刊した詩誌「AMBARVALIA」である。奇跡のようだけども、同年10月に発行した「AMBARVALIA」第四輯がのこされている。発行所は「EMI CLUB(エミ・クラブ)」となっているが、「リリ・クラブ」から改称したものか、第四輯には「EMI CLUB」というコーナーが設けられ、田村隆一も短文を寄せている。佐々木は「AMBARVALIA」について熱くこう語っている。

「西脇順三郎氏が近代詩の正統的な播種者であつたことはぼくが言を費す迄もない。ぼくらが氏へ絶えざる敬意と感謝をはらふこともその意味で正当な態度であらう。(中略)(AMBARVALIA)はぼくらの個々の光度の思考やエスプリがつちかつた収獲物の祝典である。穀物祭のアトモスフイアは秩序の上に立つヴァリエラである。ぼくらはぼくらの団結をより完全にするために(えみ・くらぶ)といふ愛称をぼくらのクラブに与えた」(「後記」「AMBARVALIA」第四輯より)

佐々木は自分たちの文学を力強く高らかに宣言している。青春の輝ける美しい言葉だ。彼らは文学を戦わし、古典の勉強会やSPレコードの音楽鑑賞会を盛んに開くなど文学芸術に親しみ励んだ。当時、浅草にあった純喫茶「ベルリン」は、エミ・クラブの同人たちのたまり場だったようだ。

話は現代に戻るが、2021年(令和3)秋、佐々木萬晋さんが亡くなった。享年98。佐々木さんは戦後、税理士という文学とは別の道を歩まれつづけた。その遺品のなかから、佐々木萬晋さんが筐底に秘せられていたある冊子が発見された。昭和16年発行の同人誌「批評」第二輯である。

「批評」第二輯

「批評」第二輯

浅聞ながら、この「批評」第二輯を言及した文章は、北村太郎にも、田村隆一にも、ご当人の佐々木萬晋にも、どこにも見当たらない。けれども、とうに長い時間を委ねてきた青春の同人誌が忽然と姿を現した。戦時下の大塚空襲、敗戦後の動乱、復興を経て、高度経済成長、バブル、平成、令和と戦後日本の歴史を生きながら、佐々木萬晋が密かに死守してきたのである。いやいや、現存する「帆かげ」も、「AMBARVALIA」も、然りなのである。この事実に驚嘆するも、心から祝う。

「批評」第二輯。15×11センチ、謄写版印刷で針金綴じ、表紙(二色刷り)と本文28頁。発行年1941年、発行月不詳。評論「手紙 佐々木章男の場合」田村隆一、「覺書」松村文雄の二篇、小説「初夏」谷田一郎、「煙草」國井晃雄、「表情」堀越秀夫の三篇。他に藤原義江歌劇団公演のオペラ「夜明け」観劇の短評(松原恒吉、井上啄美、尾崎裕、佐々木章男)、短文「佐々木章男について」谷田一郎、「後書」(松村文雄、佐々木章男)。編輯兼発行人、佐々木萬晋、発行所、エミ・クラブ。なお佐々木章男とは、佐々木萬晋のペンネーム。

この「批評」第二輯は、詩誌「エルム」「帆かげ」「スネーク」、そして「AMBARVALIA」の系譜にあたり、その後継誌といえる。「スネーク」は未だこの地上に眠っているのか、あるいは灰に帰しているのか定かではないが、当事者の佐々木が言う通り発行されたことは確かだと思う。こう確信しなければ、この「批評」第二輯は幻になってしまうではないか。そしてだれも語らぬ、沈黙する。

約80年という時を経て、「批評」第二輯がはじめてその存在を知られることになった。佐々木、田村、松村らが中心になり三商の文学同士と自分たちの文学をつくろうとリリ・クラブに継いでエミ・クラブというクラブをまとめ、数々の同人誌を発行した。若い三商の文学同士の文学への熱情と志が壊れないように佐々木は奥深く筐底に秘したのか。戦争へと時代が狂いのめり込んでいくなか、かけがえのない青春の時を分かち合った田村、松村、三商の同人仲間への佐々木萬晋の深い友情を覚える。

10代の松村文雄、田村隆一は三商の仲間たちと同人誌を発刊し習作を発表しながらも、中桐雅夫の詩誌「LE BAL(ル・バル)」に加わり鮎川信夫らと繁く交流するようになり、彼らの文学の世界を広げていった。

だが、1943年(昭和18)12月、学徒出陣。二人は横須賀第二海兵団(武山)にともに入団。松村は、田村は、戦場で何を目撃し、何を体験したのか。

戦後、復員した松村文雄こと北村太郎、田村隆一は、鮎川信夫、中桐雅夫、三好豊一郎らと詩誌「荒地」に集まり、詩と文学によるラディカルな戦いがはじまるのである。

北村太郎『港の人』 港の人 刊

北村太郎『港の人』 港の人 刊

上野勇治(うえの ゆうじ)

1956年広島県生まれ。鎌倉の出版社「港の人」代表取締役。社名は北村太郎の詩集にちなむ。97年に創業し、主に詩歌やエッセイなどの文芸書や学術書を刊行。個性の光る出版社を集めたイベント「かまくらブックフェスタ」を主催した。

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